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ベーブ・ルースとは?

ベーブ・ルース
Babe Ruth
1920年

【基本情報】

【国籍】
アメリカ合衆国
【出身地】
メリーランド州ボルチモア
【生年月日】
(1895-02-06) 1895年2月6日
【没年月日】
(1948-08-16) 1948年8月16日(53歳没)
【身長
体重】
6' 2" =約188 cm
215 lb =約97.5 kg
【選手情報】

【投球・打席】
左投左打
【ポジション】
投手外野手
【初出場】
1914年7月11日
【最終出場】
1935年5月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


コーチ歴


アメリカ野球殿堂
殿堂表彰者

【選出年】
1936年
【得票率】
95.13%
【選出方法】
BBWAA選出
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


“ベーブ”ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア(George Herman "Babe" Ruth, Jr., 1895年2月6日* - 1948年8月16日)は、アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア出身のプロ野球選手。愛称は「バンビーノ(The Bambino)」。

最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人の中の1人であり、本塁打50本以上のシーズン記録を初めて達成した。1927年に記録したシーズン60本塁打は、1961年ロジャー・マリスによって破られるまでの34年間、MLB最多記録であった。また、生涯通算本塁打数714本も1974年ハンク・アーロンに破られるまで39年間MLB最多であった。

ブラックソックス事件による当時の球界への不信感を、豪快な本塁打の連発により払拭するにとどまらず、さらに野球人気を高めることに成功した。アメリカ国内において、数多いプロスポーツの一つに過ぎなくなっていた野球を、最大の人気スポーツにした事で「アメリカ球界最大の巨人の1人」と評されている。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 プロ入り
    • 1.3 レッドソックス時代
      • 1.3.1 打者としての台頭
    • 1.4 ヤンキース時代
      • 1.4.1 ヤンキース第1期黄金期・本塁打記録
      • 1.4.2 予告ホームラン・極東遠征・移籍
    • 1.5 ブレーブス時代
    • 1.6 引退後
      • 1.6.1 晩年
    • 1.7 死去
  • 2 人物
    • 2.1 家庭生活
    • 2.2 映画などへの出演
    • 2.3 子供好きのルース
    • 2.4 後世の評価
  • 3 逸話
    • 3.1 人物
    • 3.2 野球
    • 3.3 日本遠征
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別打撃成績
    • 4.2 年度別投手成績
    • 4.3 タイトル
    • 4.4 表彰
    • 4.5 記録
    • 4.6 背番号
  • 5 出典
  • 6 関連項目
  • 7 出典・外部リンク

経歴

プロ入り前

メリーランド州ボルチモア南部のピッグタウン、エモリー通り216番地に生まれた。ドイツ系移民であった両親のケイト(Kate)とジョージ・ハーマン・シニア(George Herman Sr.)は、カムデン通り沿いで酒場を自営しており、家族はその2階で暮らしていた。ケイトはルースを含めて生涯に9人の子供を産んだが、成人期を迎えることができたのはルースと5歳年下の妹マミー(Mamie)の2人だけであった。

ルースは後年、自らの幼年期を振り返って「大変だった」と語っている。母は病弱であり(母はルースが15歳の時に結核で亡くなっている)、父は酒場の仕事で忙しく、息子の世話に関わっている余裕はほとんどなかった。そのため、両親から適切な教育を受ける機会のなかったルースは大人の手にも余る腕白坊主へと成長し、勉強も完全に疎かになってからは、学校をサボっては通りをうろつき、町の不良たちと喧嘩に明け暮れ、商店の品物を万引きしたり、酒を飲んだり煙草を吸ったりするなど、様々な非行に手を染めた悪童であった。

7歳になった頃には既に両親の手には負えなくなり、「セント・メアリー少年工業学校」という全寮制の矯正学校兼孤児院に送られた。ルースはその後の12年間をセント・メアリーで過ごすことになる。そこで少年たちの教官を務めていたローマ・カトリック神父、ブラザー・マシアス・バウトラー(Brother Matthias Boutlier)と出逢い、野球を教わったことが、ルースの人生に決定的な影響をもたらすことになった。以後、ルースは生涯にわたってマシアスを恩師と仰いだ。

マシアスはルースに勉強や洋服の仕立て方を教え(セント・メアリーでは、少年たちの将来のために様々な職業訓練を行っており、ルースは仕立屋になるための訓練を受けていた)、休みの時間には野球のルールや打撃・守備のやり方などを教えた。ルースはその他に学校の吹奏楽部と演劇部にも所属していた。ルースの自伝によると、マシアスは大変な美男で外の世界に出ればすぐに俳優として活躍できるのではないかと思えるほど見た目が良かった上に、身長6フィート6インチ(約198cm)、体重250ポンド(約113kg)という堂々たる体格の大男であり、ルースは初めてマシアスと対面した瞬間から、それまでに体験したことのない威圧感と畏敬の念を覚えたという。また、マシアスはバットを片手で振るだけで、ボロ布で作った粗末なボールを100m以上も飛ばせるほどの腕力の持ち主であった。

当時、セント・メアリーには800人ほどの少年が収容されており、20〜30人ほどのブラザー(神父)が少年たちの教官を務めていたが、その中でもマシアスほど少年たちから慕われていた教官は他にいなかったとルースは語っており、実際にもマシアスはルースの卒業後にセント・メアリーの校長に昇格している。また、ルースがマシアスを尊敬していたエピソードとして、ルースは歩く時に内股にして足を引きずる癖があったが、これはマシアスの癖を真似たものであり、その癖は生涯治らなかった。

なお、ルースが23歳の時、ルースの父は自身が経営していた酒場で客同士の喧嘩に巻き込まれて命を落としている。しかし、ルースは母が亡くなった時には非常に悲しんだものの、父とは疎遠であり、父が亡くなった時にはそれほど悲しんだ様子はなかったという。もともと酒場で年中働き詰めだった父とは顔を合わせることも少なく、7歳の時からセント・メアリーで実の父よりも長い期間をマシアスと共に過ごしたルースにとっては、マシアスこそが「育ての父」であった。

プロ入り

1913年、野球部のエースとして君臨していたルースの活躍は、偶然試合を見に来ていたジョー・エンジェルの目に留まる。ワシントン・セネターズの投手であったエンジェルは、すぐにボルチモア・オリオールズ(現在のオリオールズ球団とは無関係であり、当時はマイナーリーグチーム)のオーナー兼監督のジャック・ダンにルースを紹介した。その場でルースの練習風景を30分ほど見たダンは、即座に年給600ドル(現在の金銭価値に換算すると約6万6000ドル)の契約を結ぶ。これは1914年2月14日、ルースが19歳の時のことであった。ルースはこの時のことについて、「もともと仕立て屋として就職する予定であり、手先が大事な仕事だから、(手を痛めることが大いにありえる)野球はもう辞めようと決意していただけに、感極まりないうれしさがあった」と語っている。

外部から隔離された全寮制の矯正学校での生活が長かったためか、世間知らずで子供じみた所のあったルースは、早速チームメイト達から「ジャック(・ダン)の新しいベーブ(赤ちゃん)」と揶揄されるようになる。この時の「ベーブ」というあだ名は、生涯残る事になり、以後「ベーブ・ルース」として周りから呼ばれるようになった。なお、オリオールズ時代以降のチームメイトは「ベーブ」を意図的に避け、「ジョージ」「ジッヂ」「バム」などと呼んでいたりした。

1914年7月7日、ダンはルースを他の2名の選手とセットにして、金銭トレードに出す計画を立てていた。相手チームはフィラデルフィア・アスレチックスであった。しかし、ダンが要求していた1万ドル(現在の金銭価値に換算すると22万ドル)という額により、交渉は決裂。オリオールズが業務提携を結んでいたシンシナティ・レッズとも決裂した。

レッドソックス時代

ボストン・レッドソックス時代

1914年7月9日にはボストン・レッドソックスのオーナー、ジョー・ランニン(Joe Lannin)と交渉を成立させる。金額については諸説あり、不明である。

メジャーリーグデビューとなった1914年、ルースは5試合に出場し、そのうちの4試合は投手としてマウンドに登った。デビュー戦となった7月11日には、初登板初勝利を記録する。しかし、当時のレッドソックスはスター選手を多く抱えており、登板機会がさほど与えられないままマイナーへ降格された。ルースが「登板できないなら打撃で貢献しよう」とバッティング練習をすれば、自身のバットを折られる等の嫌がらせにも遭ったというが、ルースはどこからか古いバットを見つけてきてバッティング練習を続けたという。また、ルースに代打が送られることもあるなど、後に本塁打王と呼ばれる選手に相応しくない処遇であった。ルースが送られたインターナショナル・リーグ所属のプロヴィデンス・グレイズは、後の200勝投手カール・メイズも所属しており、見事にリーグ優勝を果たす。シーズン後の1914年10月17日に、ルースはボストンで知り合ったウェイトレスのヘレン・ウッドフォードと結婚した。

1915年、シーズン前の春季キャンプにて、レッドソックスの先発ローテーション入りを果たす。同年、ルースは18勝8敗の好成績を挙げ、レッドソックスはアメリカンリーグペナントを制した。また、バッティングでもチームに貢献しており、打率.315に加えて本塁打を4本打っている。レッドソックスは4勝1敗でワールドシリーズを制したが、ルースに登板の機会はなく、唯一の打席でも内野ゴロに終わっている。

1916年、若干春季キャンプで苦しむものの、23勝12敗・防御率1.75、9完封を挙げる。防御率完封数はリーグ1位であり、完封数は1978年ロン・ギドリーが並ぶまで左投手としてはリーグ記録であった。同年6月27日のフィラデルフィア・アスレチックス戦では自己最多の10奪三振を奪ったり、大投手ウォルター・ジョンソンに投げ勝ったりするなど、ルースは投手としての実績を着々と積んでいった。一方でチームの攻撃力は、主力のトリス・スピーカークリーブランド・インディアンスへ移籍したことでだいぶ弱まっていた。それでもレッドソックスは投手陣の踏ん張りで再度ワールドシリーズに進出。ルースは14イニング1失点の成績で、ブルックリン・ロビンスを4勝1敗の成績で破った。

1917年もルースは大活躍を見せ、24勝13敗・防御率2.01、6完封に打率.325の成績を残す。しかしチームは100勝をあげたシカゴ・ホワイトソックスの快進撃に及ばず、9ゲーム差の2位に終わった。6月23日のワシントン・セネターズ戦では、先頭打者に四球を与えたあと怒りに狂い、審判を殴ってしまう。これによりルースには10試合の出場停止処分が下された。その後7月11日の試合は、デトロイト・タイガースに対して1-0の1安打完封勝利を挙げる。ルースはこの試合を「現役生活で一番興奮した試合」と後年に振り返っている。

1918年は20試合に投げ、13勝7敗・防御率2.22を挙げる。また、11本塁打を放って生涯初となる本塁打王のタイトルを獲得した。これは現在メジャー唯一となる「同一年度での10勝かつ10本塁打」でもあった。この年以降ルースは主に外野手として起用された。同年は7月に監督と口論になり、一時期チームの帯同から外れていたため、若干成績に落ち込みが見られるシーズンであった。チームはワールドシリーズに出場し、ルースは第1戦と第4戦の先発投手を任された。両試合ともに勝ち星を挙げ、17回を投げ自責点2、防御率は1.06を残す。ワールドシリーズでの連続無失点イニング数は29回と3分の2を記録し、これはホワイティ・フォード1961年に破るまでMLB記録であった。なお、この年の右翼席へ打ち返した打球が当時のルールでサヨナラ三塁打と認定されたので、ルースは現行ルールでは通算715本の本塁打を放っていることになる。

打者としての台頭

1915年から1917年にかけてルースが投手以外で起用されたのは、たったの44試合であった。1917年のシーズン終了後、チームメイトであったハリー・フーパーは、「ルースは野手として毎日試合に出場した方が価値は上がる」と提言をしている。

ルースが外野を守る回数が増え、登板する機会が減っていったのは1918年からである。かつてのチームメートであるトリス・スピーカーは、「投手でありながら登板のない日に野手として試合に出るのは馬鹿げたことだ」と話し、この転向がルースの選手生命を縮めるかもしれないと見ていたが、ルース自身は打撃の方に関心が移っていき、本格的に野手に転向することになる。この年、ルースは打率.300に11本塁打をレギュラー野手としては圧倒的に少ない317打数で達成している。

そして1919年には、130試合に出場するもわずか17試合にしか登板しなかった。同年に放った29本塁打は当時のMLB記録である。当時ホームランはシーズンで二桁打てば相当なスラッガーであり、最初期の「飛球をワンバウンドで取ってもアウト」というルールの影響から本塁打自体の評価も低かった。そのため29という本数は驚異的で、本数を重ねるうちに過去のMLBの本塁打数記録が調べ直され、本塁打記録が1884年ネッド・ウィリアムソンの27本(ライトが約60mなど本拠地が異常に狭かった球場での記録)に修正されるなど、それだけ当時としても脅威の本数だった。ルースの登場により、飛ばないボールのデッドボール時代が終わり、本塁打が量産されるライブボール時代が始まった。

タイ・カッブ(右)と 1920年

ルースの猛打の噂は瞬く間に広がって、プレーを一目見たさに大観衆が詰めかけた。第一次世界大戦終戦による解放感、更には未曾有の好景気から、大衆は華やかで、派手で、爽快なパフォーマンスを求めており、ルースの特大ホームランはその望みにぴったりだった。ルースの名声が高まるとともに、その胴回りも広がっていき、オリオールズ時代のチームメイトは、ルースの胃袋の大きさに驚いたという。1919年には、ルースの肉体は1916年当時の背の高いアスリートらしい姿から、丸々と太った体型に変化していた。こうした酒樽のような上半身に対し、筋肉質の下半身はおかしなほど細く見えたが、2桁盗塁を5回記録するなど、走者としても野手としても問題はなかった。ルースのライバルといえる大打者のタイ・カッブも、後年にルースを「太っている割には走るのが速かった」と述べている。

またタイ・カッブは、もしルースが最初から野手として起用されていたらもっと本塁打数は伸びていたのではないか、という意見に対し、「ルースは投手だったからあの大振りが許されたんだ。もし野手だったらもっと粘ったり、当てにいく打ち方が求められただろう。大振りして無様な三振をしようものなら、それも奴は若造だったから、大目玉を食らっていただろうよ。だけど奴は投手だったから誰も気にしなかった。だから奴は自分なりの打ち方をいろいろ試すことが出来て、打者転向の頃には、確固たるものに仕上がっていたんだよ」と分析している。

ヤンキース時代

1919年12月26日、レッドソックスのオーナーであったハリー・フレイジーは、ルースをニューヨーク・ヤンキースへと金銭トレードで放出する。有名な定説によれば、当時劇場を経営していたフレイジーは、「No, No, Nanette」というブロードウェイ劇の予算を賄うためにルースを始めとした有力選手を他球団に売却したとされている。しかし、この売却には、ルース自身の高騰する年俸も大きく関わっていた。

1919年シーズン終了後、ルースは前年の給料の2倍である2万ドル(現在の金銭価値に換算すると22万ドル)を要求した。これを拒否したフレイザーに対し、ルースは引退をちらつかせるなどの強硬行為に出た。我慢がならなくなったフレイザーは、結局ルースをトレードに出す事にする。当時、ルースのトレードの交渉相手となってくれたのはシカゴ・ホワイトソックスとヤンキースの2球団のみであった。他の5球団は、フレイザーをレッドソックスの経営陣から追い出そうとしていたリーグ会長のバン・ジョンソンによる差し金により、そもそも交渉のテーブルに着いてさえくれなかった。ホワイトソックスはシューレス・ジョー・ジャクソンに加えて6万ドル(現在の金銭価値に換算すると65万ドル)を提示するも、ヤンキースのジャイコブ・ルパートとティリンゴースト・ヒューストン両オーナーは金銭のみで10万ドル(現在の金銭価値に換算すると109万ドル)を提示。12月26日にはヤンキースとの交渉がまとまり、その10日後には正式に発表された。

レッドソックスにとってはこれが長らく言われる「失敗トレード」となり、長くワールドシリーズを勝てないジンクスが生まれ、「バンビーノの呪い」と揶揄される原因となった。


ニューヨーク・ヤンキース時代(1920年)

ヤンキースに移籍後のルースは、投手から打者へと完全に移行していた。ヤンキースでの15年間で2000試合以上に出場したが、投手としてマウンドに上がったのはそのうちのわずか5回である。その全てで勝ち投手となっており、登板は元投手であるベーブ・ルースのデモンストレーションやファンサービスの意味合いが強かった。

ヤンキースでのデビュー年となった1920年には、「もうこれ以上の本塁打記録は生まれないだろう。去年が異常だっただけであれほどの本塁打数は期待できない。20本打てれば上出来だろう」と言われながら、ルースは打率.376、54本塁打を記録し、周囲を驚嘆させる。同年に記録した長打率.847は、2001年までMLB記録であった。この年にルースが放った54本塁打というのは異常な数値であり、2位はセントルイス・ブラウンズの強打者、ジョージ・シスラーの19本と、約3倍の差で突き放す圧倒的な数だった。また、ルースよりも多く本塁打を打ったチームフィラデルフィア・フィリーズのみであった(64本)。

ヤンキース第1期黄金期・本塁打記録

1921年から1928年まで、ヤンキースは第1期黄金時代を迎え、アメリカンリーグで6回優勝し、ワールドシリーズで3回優勝した。その中でルースは、1921年、もうこれ以上の本塁打記録は生まれないと言われた本塁打記録をさらに更新する活躍を見せた。打率.378、59本塁打を記録し、ヤンキースをチーム史上初のリーグ優勝に導く。7月18日には、現役通算139本目の本塁打を放ち、それまでの通算本塁打王だったロジャー・コナーの記録をたった8年のプロ生活で更新する。ルースの名前はもはや本塁打の同義語として扱われ、野球というスポーツ自体に新しくパワーの概念を導入した。ルースが打った中で一番大きな本塁打は1921年7月18日デトロイトネビン・フィールドでの一本と言われている。センター場外に消えていった打球は、175メートルの特大弾であった。

1921年当時は今と多少ホームランに関するルールが異なっていたため、もし現行のルールでルースがシーズンを送っていたら、彼はこの年に104本の本塁打を記録していただろうという研究もある。ビル・ジェンキンソン2006年に執筆した本「The Year Babe Ruth Hit 104 Home Runs」によれば、1931年までアメリカンリーグではファウルポールに直撃した打球はエンタイトル・ツーベース扱いであった。また、フェアゾーンでフェンスを越え、ファウルポールを巻いてファウルゾーンに落ちた打球は、今では当然のごとく本塁打扱いであるが、当時はファウルであった。これらデータを全て集計すると、ジェンキンソンによればルースは104本塁打を記録していたとしている。それでも、ルースがこの年に記録した総塁打数(457)、長打数(119)、出塁数(379)は未だにMLB記録である。

ヤンキースは1921年にワールドシリーズまで進出した際、非常に高い期待を背負っていた。相手チームのニューヨーク・ジャイアンツに対して最初の2試合を勝利したが、ルースが第2戦で盗塁をした際に肘を故障。結果的にルースは残りの試合を欠場(最終戦のみ代打出場)し、ヤンキースもジャイアンツに敗れた。このワールドシリーズでは、ルースは打率.316、1本塁打、5打点を記録している。

この直後にルースはまた不祥事に巻き込まれることになる。ワールドシリーズ終了後、ルースは地方巡業に参加したのだが、当時はシリーズ出場選手がオフに商業試合への出場が禁止されていた。選手が勝手に「ワールドシリーズの再戦」と題した試合をオフに組むことで、シリーズ自体の商品価値を下げないようにするのがルールの目的であった。これを受け、当時のコミッショナー、ケネソー・ランディスはルースを1922年シーズンの最初の6週間を出場停止とした。

なお、この年にルースはコロンビア大学に打撃に関する研究のため招かれた。その結果、研究者はルースが最も強打できるコースは外角ひざ上の高さであることを発見した。さらに、完璧な打撃をした場合のスイングスピードは秒速34メートルで、ボールの飛距離は140から150メートルにまで達するということがわかった。また、異なるサイズの小さな穴に棒を差し込んでいくことで根気を調べる臨床試験では、ルースは500人の被験者中最高位を示した。他にも、ルースの目は暗室で点灯する電球に対して常人よりも20ミリ秒早く反応するなど、いずれも超人的な計測結果を記録した。このことをチームメートのジョー・デュガンは「ルースは普通に生まれたんじゃない。奴は木から落っこちて来たのさ」と表現している。

1922年5月20日に処分が解けたルースは、ヤンキースのキャプテンに就任する。しかし、その5日後に、審判に泥を投げて退場処分を受け、更には観客と乱闘をするという醜態を晒したために、キャプテン職は剥奪された。同年、ルースは110試合に出場し、打率.315、35本塁打、99打点を記録する。この年もヤンキースはワールドシリーズに出場し、再度ニューヨーク・ジャイアンツと戦うが、またもチームは敗退。ジャイアンツの監督ジョン・マグローは自チームの投手に「ルースにはカーブしか投げるな」と伝え、これが功を奏してルースは17打席でわずか2安打という大スランプでシリーズを終えた。

1923年に、ヤンキースは本拠地をそれまでジャイアンツから間借りしていたにすぎないポロ・グラウンズから、ヤンキー・スタジアムへと移転する。「ルースが建てた家」と呼ばれたこの球場が開場した試合で第一号本塁打を記録したのはルースであった。この時のバットは2004年12月2日に1,265,000ドルで落札され、最も高価で販売された野球バットとしてギネス世界記録に認定された。1923年シーズンをルースは自己最高打率.393、41本塁打を記録。この年も3年連続でワールドシリーズの組み合わせがヤンキース対ジャイアンツになったが、ルースは過去2年間の鬱憤を晴らすかのように猛打が爆発、打率.368、3本塁打に長打率は1.000を記録した。ヤンキースはチーム初のワールドチャンピオンに輝いた。

左からジョージ・シスラー、ベーブ・ルース、タイ・カッブ(1924年)

ルースは1924年三冠王級の活躍を成し遂げる。打率.378で自身唯一の首位打者に輝くと、MLB1位の46本塁打を記録。121打点はグース・ゴスリンの129にわずかに届かない2位であった。この年、ヤンキースはワシントン・セネターズに2ゲーム差で2位に終わった。

ここまで好成績を残してきたルースではあったが、1925年にはプロ入り後初めての挫折に見舞われる。試合前にホットドッグやソーダ水を飲み続けるなどの不摂生、性病、そしてアルコール過多などにより、高熱や腹痛に悩まされるようになった。正確な病因は現在でも不明ではあるが、この年のルースはヤンキースでの生活の中で最低のシーズン(打率.290、25本塁打)を送る。ヤンキースも69勝85敗と大きく負け越した。

1926年は一念発起し、打率.372、47本塁打、146打点と成績を回復させた。ヤンキースはリーグ優勝を果たしワールドシリーズへと駒を進めるが、ロジャース・ホーンスビー擁するセントルイス・カージナルスに3勝4敗で敗れた。ルース自身は第4戦に3本の本塁打を放つなどバットでは貢献するものの、走塁ミスを犯す。2対3とヤンキースが1点差を追っていた第7戦、9回裏2アウトで一塁走者だったルースは果敢にも二塁盗塁を狙うも、呆気なく刺されてしまい、チームは敗退。これはワールドシリーズ史上唯一、シリーズが盗塁死で終わったケースとなっている。なお、この1926年のワールドシリーズでは、ルースは病の床にあった11歳の少年ジョニー・シルベスター(英語版1915年4月5日1990年1月8日)にホームランを打つことを約束し、実際に打っている。

1927年のヤンキースは歴史的なチームであり、その打線はあまりの強烈ぶりから「殺人打線」と呼ばれていた。チームはリーグ記録となる110勝を達成し(154試合制での記録。後に2001年シアトル・マリナーズが162試合で116勝を達成)、19ゲーム差でリーグ制覇。ワールドシリーズでもピッツバーグ・パイレーツ相手に4連勝でワールドチャンピオンに輝き、見事な形でシーズンを終えた。

チームの順位は早々と決してしまっていたので、国民全体の期待はルースが何本の本塁打を打つのか、というところに注がれた。それまでの記録はルース自身が持つ「59本」であったが、それには幾つもの高いハードルがあった。59本を達成した1921年当時と比べ、投手はまともにルースと勝負しなくなっており、長年の不摂生から来る故障なども抱えていた。だが、60号を達成するにはプラスの要素もあった。強力な打線ゆえに打席がたくさん回ること、そして、チームメイトである自ら打撃を指導するなどしていたルー・ゲーリッグの台頭である。実際、シーズンの途中まではゲーリッグはルースの本塁打数を上回るなど活躍。9月の1ヶ月間でルースが17本塁打を放つなどして追い抜いて、9月30日には60号を達成するが、後年、ルースはゲーリッグの存在が大きく、彼がいたから相手投手もルースと勝負せざるを得なくなっていたと述べている。なお、この60号本塁打の有名な記録映画があるが、ヤンキースは1928年まで背番号を採用していなかったにも関わらず、背中にくっきりと背番号「3」がある。のちに撮影したものを、脚色や編集したものと見られている。151試合の出場で60本塁打に加え、ルースは打率.356、164打点、長打率.772を記録。実に4度目の本塁打記録更新であった。

1928年もヤンキースにとっては良いスタートとなり、7月の時点で2位のチームを13ゲーム差で突き放す事に成功していたが、その後はけが人の増加に投手陣の崩壊なども重なり、チームは停滞。その間、フィラデルフィア・アスレチックスが快進撃を遂げ、9月に一瞬だけ1位を奪還することに成功。しかし同月のヤンキース対アスレチックス4連戦でヤンキースが3勝し、首位の座を再奪還することになる。ルースの成績もチームのパフォーマンスと比例していた。自身もチーム同様ロケットスタートに成功し、8月1日の時点では42本塁打を放っていた。これは前年の60本ペースをさらに上回るものであった。ところがシーズン後半には踵の痛みに悩まされ、最後の2カ月ではたったの12本しか本塁打を打つことが出来なかった。それでも最終的にシーズン54本塁打を残し、自身4回目の50本塁打を記録することとなった。

1928年のワールドシリーズは、1926年シリーズの再戦となった。対戦相手のカージナルスはホーンスビーがトレードで退団していた以外は2年前のチームとは変わっていなかった。このシリーズでは、ルースが打率.625(ワールドシリーズ史上2位の記録)を記録し、第4戦では再度3本の本塁打を放つ。更にゲーリッグも打率.545を記録し、ヤンキースはカージナルス相手に3連勝を記録。ヤンキースはワールドシリーズでの4連勝(スウィープ)を2年連続で達成した初のチームとなった。

予告ホームラン・極東遠征・移籍

フロリダ保養地でアル・スミス前ニューヨーク州知事と(1930年)

1929年にはヤンキースは4年振りにワールドシリーズ進出を逃した。一方でルースは1929年から1931年にかけて3年連続で本塁打王を獲得した。1930年シーズンの途中には、1921年以来初めてマウンドに上がり、完投勝利を挙げている(それまでもオープン試合などでマウンドに上がることは度々あった)。また、同年にヤンキースは日常的に背番号制を導入した初めての球団となった。当時の背番号は打順を表し、ルースは日頃3番打者を務めていたため、「3」が与えられた。

1932年には、ヤンキースはジョー・マッカーシー監督の下で107勝47敗とリーグ優勝を成し遂げ、ルースも打率.341、41本塁打、137打点を記録。ワールドシリーズではギャビー・ハートネット率いるシカゴ・カブスと対戦し、4連勝でカブスを下した。

このシリーズの第3戦で、ルースは球史に残る有名な「予告ホームラン」を放つ。打席に立ったルースは外野フェンスを指さし、その後に放った打球は実際にバックスクリーン一直線の本塁打となった。37歳になっていたルースだが、ボールは490フィートも飛んだのでは、と言われている。長年に渡って論争の的となってきたのは、本当にルースはスタンドを指差したのか? という疑問である。対戦相手のカブスの投手チャーリー・ルートは、ルースの予告ホームランを真っ向から否定しており、第3球目のモーションにうつる前に「この野郎、俺を三振させるには、もう1つストライクを投げなければダメなんだぞ」と怒鳴って人差し指を突き出してきた。その後にたまたま、センターのスタンドに飛び込んだので、あんな話が出来上がってしまったのだと述べている。しかしながら、ルートには投球時にわずかに振り向くという癖があり、他の出場選手は、ルートは単にルースの動作を見逃しただけではないかと証言した。ホームランに関する公式のフィルムはない。スタンドで観戦していた観客の撮影した家庭用フィルムを見ても、真偽は不明である。ただし投手方向に向かって指をさしている姿は確認できる。この予告ホームランについてルースは自伝の中で、ブラッシュボールが来て頭にきていたのでよく覚えていないが、スタンドを指差すのはこの時以外にも時々やって実際に本塁打を打ったと記している。なお、この本塁打はルースがワールドシリーズで放った最後のヒットとなった。

1933年にもルースは好成績を残し、打率.301、34本塁打、103打点を記録するとともに、リーグ最多の114四球を記録。この年、初めてのオールスターゲームシカゴコミスキー・パークにて開催され、ルースはオールスター史上第1号本塁打を放つ。この時に打った2ランホームランにより、アメリカンリーグはナショナルリーグを4-2で下した。

1933年シーズン終盤には投手として1試合だけマウンドに上がり、完投勝利を挙げる。投手としての最後の登板となった。ヤンキース時代における投手としての出場は5試合であり、主にファンサービスのためではあったが、その全てで勝ち投手となっている。ルースは現役通算で投手としては94勝46敗という数字を残している。

1934年、打率.288、22本塁打を記録し、2年連続でオールスターに選出される。オールスターゲームではカール・ハッベルが5連続奪三振を成し遂げ、ルースは不名誉にもその一人目の打者であった。1934年シーズンはルースがヤンキースの一員としてプレーした最後の一年であったが、ヤンキー・スタジアムでの最終戦ではたったの2000人しか観客がいなかった。ルースはこの時点で個人的な目標だった700本塁打を達成しており、いつでも引退する用意は出来ていた。

この後、ルースはメジャーリーグ選抜軍として極東遠征に出る。22試合のうち、ほとんどは日本開催であった。選抜軍にはルースの他にも、ゲーリッグ、ジミー・フォックスレフティ・ゴメスアール・アベリルチャーリー・ゲーリンジャーなどが参加していた。野球はすでに日本でも人気であり、ルースも各地で歓迎を受けた。この極東遠征は日本における野球人気の形成に大きく寄与したと考えられており、1936年には日本は初のプロ野球リーグを形成する。

この頃になると、ルースは自身の選手としての終わりが近づいていることは悟っていた。既に心はヤンキースの監督になる事を目指しており、マッカーシー監督の後任になる希望を隠しきれずにいた。しかしオーナーのルパートはマッカーシーを辞めさせる気は無く、逆にこれはルースとマッカーシーの間に大きな軋轢を残した。

ルパートはルースにヤンキース傘下のマイナーリーグチーム、ニューアーク・ベアーズ(現在の独立リーグチームとは別)の監督にならないか、というオファーを出し、ヤンキースの監督になるならマイナーで監督経験を積んでくるよう言った。その場合はマイナーの指揮をとるため、選手としては引退しなければならなかったが、ちょうど引退を考えていたルースは検討することにした。しかし、ルースの妻であったクレール・メリット・ホッジソンと彼のマネージャーはオファーを蹴るようにとのアドバイスを出す。そのため、選手としてもう1年ヤンキースでプレーするつもりでいたが、ヤンキースの年俸提示はわずか1ドルというものであり、これを受けてヤンキースを出ることを決めた。

ルースを雇うことを真剣に考えているチームは、フィラデルフィア・アスレチックスとデトロイト・タイガースの2チームのみであった。アスレチックスのオーナー兼監督のコニー・マックは、ルースのために監督の座を降りることを検討していたが、後にルースが監督になったら実質の覇権を握るのは彼の妻になると考え、撤退した。同時期にはタイガースも撤退し、ルパートは真剣にルースの引き取り手を探す事になる。

ブレーブス時代

そこで名乗りが挙がったのがボストン・ブレーブスのオーナー、エミル・フッシュで、ようやくルースを引き取ることに合意した。ブレーブスはそれなりのチームとして結果を残していたが、フッシュは負債に悩んでおり、本拠地ブレーブス・フィールドの家賃を払えない状態でいた。そのため、集客力のあるルースはちょうどよい補強であった。

電話に文書に会議を重ね、ヤンキースはようやく1935年 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/12/13 15:06

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