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ペストとは?

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【ペスト】

ペストによって死屍累々となった街を描いたヨーロッパの絵画

【分類および外部参照情報】

ICD-10 A20.a
ICD-9-CM 020
MedlinePlus
000596
eMedicine
med/3381
Patient UK
ペスト
MeSH
D010930
ペストで黒くなってしまった手

ペスト(ドイツ語: Pest, 英語: plague )とは、ペスト菌の感染によって起きる感染症である。英語で伝染病を意味するplagueはペストを指すように伝染病を代表し、別名黒死病(英語: Black Death, ドイツ語: Schwarzer Tod)は感染者の皮膚が内出血によって紫黒色になることに由来する。致命率は非常に高く、抗菌薬による治療が行われなかった場合、60%から90%に達する(これはエボラ出血熱の40〜70%よりも高い。)。感染ルートや臨床像によって腺ペスト、肺ペスト、敗血症型ペストに分けられる。人獣共通感染症・動物由来感染症である。ネズミなどげっ歯類宿主とし、主にノミによって伝播されるほか、野生動物ペットからの直接感染や、ヒトーヒト間での飛沫感染の場合もある。

古来複数回の世界的大流行が記録されており、14世紀に起きた大流行では、当時の世界人口4億5000万人の22%にあたる1億人が死亡したと推計されている。ヨーロッパでは、1348年から1420年にかけて断続的に流行し。ヨーロッパで猛威をふるったペストは、放置すると肺炎などの合併症によりほぼ全員が死亡し、たとえ治療を試みたとしても、当時の未熟な医療技術では十分な効果は得られず、致命率は30%から60%に及んだ。イングランドやイタリアでは人口の8割が死亡し、全滅した街や村もあった。ペストによってもたらされた人口減は、それまでの社会構造の変化を強いられる大きな打撃を与えた。19世紀末にアレクサンドル・イェルサン北里柴三郎によって原因菌が突き止められ、有効な感染防止対策がなされ流行は減ったが、近年でもペストの感染は続いており、2004-2015年で世界で56,734名が感染し、死亡者数は4,651名(死亡率 8.2%)である。

日本感染症法では一類感染症に指定されている。なお、一類感染症では唯一の細菌感染症である。

近年の発生

1990年代

CDCによる汚染地域を示す地図 (1998)

WHO(世界保健機関)の報告によれば、1991年以降ヒトペストは増加し 1996年の患者3017人(うち死亡205人)、1997年には患者5419人(うち死亡274人)であった。ただし、WHOに報告された人のペスト患者数は、概して、実際の患者数よりも少なく、実態はさらに深刻であった。

汚染地域とされるのは、

  1. アフリカの山岳地帯および密林地帯
  2. 東南アジアヒマラヤ山脈周辺ならびに熱帯森林地帯
  3. 中国モンゴルの亜熱帯草原地域
  4. アラビアからカスピ海北西部
  5. 北米南西部ロッキー山脈周辺
  6. 南米北西部のアンデス山脈周辺ならびに密林地帯

などである。

1992-1995年にペルーで流行があった。

2000年代

WHOによれば 2004-2015年の感染者は56,734名で、死亡者数は4,651名(死亡率 8.2%)であった。このうち86%(48,699名)は、マダガスカル(19,122名)、コンゴ民主共和国(14,175名)、タンザニア(6,448名)などのアフリカ諸国である。マダガスカルでは2017年にも流行し、患者2,348名、死亡202例であった。

2000年代ではアジアでも流行し、ベトナム(3,425名),インド(900名),ミャンマー(774名),中国(584名)が報告されている。2011-2015年では中国5名、モンゴル5名、キルギスタン1名、ロシア1名。

全世界での平均発生数は、依然として発生する地域的なアウトブレイクによる増減は見られるものの、1998年以降、大きな変化はない。

発生源

ネズミイヌネコなどを宿主とし、ノミが媒介しヒトに伝染する。ペストというのは元々齧歯類(特にクマネズミ)に流行した病気であるので、まずネズミなどの間に流行が見られた後に、イヌ、ネコ、ノミなどを介して、ヒトに伝染して人社会で感染が拡大する、という経緯をたどることが特に多い、と考えられている。

感染経路

ヒトへの感染経路はノミによる感染が78%、ペットを含む小動物からの感染が20%となっている。

ノミ→ヒト感染

ペスト菌はネズミなど主に野性ゲッ歯類を感染動物とし、これを吸血するノミを媒介節足動物とする伝播サイクルにより自然界において維持されている。ヒトがこのサイクルに入り込むことによってペスト菌への感染が成立する。

アメリカでは野生のリスウサギプレイリードッグも感染宿主である。

動物→ヒト感染

ネコはネズミ等を捕食するため、保菌ノミに曝露され感染する。 2014年にペットの犬を感染源とするヒト肺ペスト流行が報告された。モンゴルや中国では、野生マーモットの猟師でペスト集団感染が報告されている。このように動物との接触感染が報告されているため、野生動物およびペット等の愛玩動物との過度の接触にも留意すべきである。

感染ネコからの飛沫感染で肺ペストを発症した例も5例の報告がある。

なお、ジビエ食ではラクダの肝臓を生食してペスト菌による咽頭炎を発症したサウジアラビアの例がある。

ヒト→ヒト感染

一旦ヒトに感染した後の、「ヒト→ヒト感染」の経路は、ペストの種類によってやや傾向が異なる。

肺ペスト患者からのペスト菌を含んだ血痰などは、1〜2メートルは飛散する。

症状と病型

多くの場合の潜伏期間は 2 - 7日で、全身の倦怠感に始まって寒気がし、39から40℃の高熱が出る。

その後の、ペスト菌の感染の仕方と症状の出方によって「腺ペスト」「肺ペスト」などに分類されている。

次のような病型に分類されている。

腺ペスト bubonic plague

腺ペストの症状の例

リンパ節が冒されるのでこの名がある。ペストの中で最も頻度の高い病型。ペストに感染したネズミから吸血したノミに刺された場合、まず刺された付近のリンパ節が腫れ、ついで腋下や鼠頸部のリンパ節が腫れて痛む。リンパ節はしばしばこぶし大にまで腫れ上がる。ペスト菌が肝臓脾臓でも繁殖して毒素を生産するので、その毒素によって意識が混濁し心臓が衰弱して、治療しなければ数日で死亡する。

皮膚ペスト・眼ペスト

ノミに刺された皮膚や眼にペスト菌が感染し、膿疱潰瘍をつくる。

敗血症(性)ペスト septicemic plague

敗血症性ペストで皮膚が黒くなってしまった足

1割がこのタイプとされ、局所症状を呈しないままペスト菌が血液によって全身にまわり敗血症を起こすと、急激なショック症状、昏睡、皮膚のあちこちに出血斑ができて、手足の壊死を起こし全身が黒いあざだらけになって死亡する。

ペストの別名である“黒死病”は、この敗血症(性)ペストの症状から生まれた呼称である。

肺ペスト pneumonic plague

腺ペストの流行が続いた後に起こりやすいが、時に単独発生することもある。腺ペストを発症している人が二次的にに菌が回って発病する。
肺ペスト患者の咳やくしゃみによって飛散したペスト菌を吸い込んで発病する。
頭痛や40℃程度の発熱、下痢気管支炎肺炎により呼吸困難、血痰を伴う肺炎となる。呼吸困難となり治療しなければ数日で死亡する。

死亡率

適切な抗菌薬による治療が行われなかった場合、現在でも30%以上の患者が死亡し、腺ペストでの死亡率は30〜60%、肺ペストの場合はさらに死亡率は高まる。これはエボラ出血熱に匹敵する。ただしペストは早期に適切な抗菌薬を投与すれば20%以下に抑えることが可能。

診断

血液、痰、リンパ節からの膿などをサンプルとして採取し検査する。

治療

感染症指定医療機関隔離され、株ごとに異なる感受性のある抗生物質による治療が行われる(テトラサイクリンクロラムフェニコールストレプトマイシンドキシサイクリンシプロフロキサシン等)。

治療薬としてフルオロキノロン系、アミノグリコシド系もしくはテトラサイクリン系の抗菌薬が使用される。

予防

予防策として、

が挙げられる。

なお、有効なワクチンは存在しない。

ペストの歴史

ペストはこれまでに3度にわたる世界的流行をみている。

古代ギリシャ

アテナイ全盛時代の政治家ペリクレス
詳細は「en:Plague of Athens」を参照

紀元前429年ペロポネソス戦争の最中、篭城戦術を用いてスパルタ軍と対峙していたギリシャ最大のポリスアテナイを感染症の流行が襲い、多数の犠牲者を出した。古代ギリシャ最大の民主政治家として知られ、アテナイにおいてペロポネソス戦争を主導したペリクレスもこの疫病で死亡しており、この戦争でのアテナイの敗北およびデロス同盟の解体を招いた。トゥキディデス著『戦史』によれば、アテナイでは敵のスパルタ側が貯水池を投げ込んだというがながれた。この疫病は、かつて「アテナイのペスト」と呼ばれていたが、記録に残る症状の分析により、今日では痘瘡(天然痘)または発疹チフス(あるいはそれらの同時流行)と考えられ、ペスト説は完全に否定されていると言ってよい。これは有名な歴史家トゥキディデス自身がかかり回復した記録から判明した(激しい頭痛、目の炎症、喀血、咳、くしゃみ、胸痛、胃けいれん、嘔吐、下痢、高度の発熱)。

紀元前3世紀、マケドニアアレクサンドロス大王が、フェニキア人が建設し地中海での商業活動での覇権を競っていたティルスへ攻め入ったとき、長期にわたって抵抗され陥落しそうもなかった。たまたまペストで死んだマケドニア兵の着衣を敵の飲水用泉に投げ入れたところ、数日のうちに敵兵数千名が倒れ勝利したと伝えられ、生物兵器としてペストが使用された。

ローマ帝国の疫病

詳細は「en:Antonine Plague」を参照

165年から180年に流行が起こり、感染した人の25%から33%が死亡し、350万から700万人ほどの人々が死んだ 。「アントニヌス帝(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)のペスト」とも呼ばれる。

西ローマ帝国

542年には旧西ローマ帝国の領域に侵入し、ブリテン島周辺には547年に、フランスへは567年に広がって、ヨーロッパ近東アジアにおいて最初の発生から約60年にわたって流行し続けたと記録されている。

「ユスティニアヌスのペスト」(東ローマ帝国での流行)

ユスティニアヌス1世(483-565)
詳細は「en:Plague of Justinian」を参照

ヨーロッパの歴史記録のうち、ペストと同じ症状と推定される感染症の最初の流行は、541年から542年あるいは542年から543年にかけてユスティニアヌス1世(在位527年-565年)治下の東ローマ帝国で発生した。現代の病態分類では腺ペストと推定されている。コンスタンチノープルで流行し、東ローマ帝国の全人口の40%が死亡。「コンスタンチノープル市内では毎日1万人が死んだ」ともいわれ、流行の最盛期には毎日5,000人から10,000人もの死亡者が出て、製粉所とパン屋が農業生産の不振により操業停止に陥った。「ユスティニアヌスのペスト(Plague of Justinian)」「ユスティニアヌスの斑点」と呼ばれている。当時帝国は、かつての西ローマ帝国の領地の再征服を目指して大規模な戦争(ゴート戦争)を継続して行っていたが、ペストの流行により大混乱に陥った。ユスティニアヌス自身も感染したが快復した。

なお、東ローマ帝国は8世紀14世紀にもペストの流行に襲われた。1340年代からの流行は、最後の攻勢に出ていた帝国に大打撃を与えた。 流行はアジア、北アフリカ中東、ヨーロッパに広がり、当時の人口の半分に当たる3000万人から5000万人(またはそれ以上)が死亡したと言われる。

一説によれば、ペスト流行による東地中海沿岸地域の人口の急減のために「東ローマ帝国による統一ローマの再建」というユスティニアヌスの理想は挫折を余儀なくされたのに対し、アルプス山脈以北の西ヨーロッパ世界はいまだ交通網が未発達で、ゲルマン民族大移動以後の荒廃もあって自給自足経済の要素が強く、ペストの流行が相対的に軽くすんだために、それ以降の発展が可能になったともいわれている。

14世紀のパンデミック「黒死病」

詳細は「en:Second plague pandemic」および「en:Black Death」を参照
中世ヨーロッパにおけるペストの伝播。
ポーランドでは被害が発生しなかった。

14世紀には世界規模でペストが大流行し、およそ8000万人から1億人ほどが死亡したと推計されている。

アジアからヨーロッパへ

472年以降、ペストは西ヨーロッパから姿を消していたが、アジアで発生し、シルクロードや海路を経由してヨーロッパに伝播し、世界規模のパンデミックとなった。全世界でおよそ8500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2に当たる、約2000万から3000万人が死亡したと推定されている。 伝播したヨーロッパでは1348年から1420年に大流行した。ヨーロッパの全人口の30%から60%が死亡したイギリスイタリアのいくつかの(都市)やにおいては、1348年から1400年の間に人口の70%から80%が死亡した。

14世紀の黒死病は、今日まで腺ペストとみなされ、ネズミが媒介するペスト菌により起きたものと考えられてきたが、リヴァプール大学クリストファー・ダンカン(動物学)とスーザン・スコット(社会歴史学)は、キリスト教会の古記録や遺言、当時の日記などを詳細に調べて検討し、2004年に『黒死病の再来』("Return of the Black Death")を著し、黒死病は腺ペストではなく動物由来感染症による出血熱ではなかったかとの異論を唱えており、反響を呼んでいる。しかし、ケリーはDNA鑑定の結果などをもとにダンカンらの見解を退け、黒死病はペストの大流行であったと結んでいる。

歴史家マクニールによれば、「黒死病」は中国雲南省地方に侵攻したモンゴル軍が、ペスト菌を媒介するノミと感染したネズミを通じてヨーロッパまでもたらした。当時ユーラシアの一大勢力を築いていたモンゴル帝国ではチンギス・ハーン末裔の諸家どうしの権力抗争が続いていたところへ流行が襲い、諸家の断絶を招いて帝国を衰亡させる要因となった。マクニールに師事したジョン・ケリーは、黒死病の拡大に重要な役割を果たしたのは、13世紀にモンゴル人がユーラシア大陸に巨大な帝国(モンゴル帝国)をつくりあげたことであると述べ、これにより広範囲での貿易旅行が可能になってジャムチ(駅伝制度)など通信網の発達が格段に進んだとしている。なお、科学史家村上陽一郎によって中東起源説も提起されている。

ペストは1347年10月に(1346年とも)、中央アジアからイタリアシチリア島メッシーナに上陸した。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされる。流行の中心地だったイタリア北部では住民がほとんど全滅した。疫病の原因が「神の怒り」と信じたキリスト教会では、ユダヤ人が雑居しているからとして1万人以上のユダヤ人を虐殺した。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。

1377年ヴェネツィアで海上検疫が始まった。当初30日間だったが、後に40日に変更された。イタリア語の「40」を表す語「quaranta」から「quarantine(検疫)」という言葉ができた。

イギリスでは労働者の不足に対処するため、エドワード3世がペスト流行以前の賃金を固定することなどを勅令で定めた(1349年)ほか、リチャード2世の頃までに、労働集約的な穀物の栽培から人手の要らないヒツジ放牧への転換が進むことになった。イングランドの総人口400万人の3分の1が死んだと言われ、当時イングランドで使用されていたフランス語聖職者が使用していたラテン語の話者が減り、英語が生き延びた。

この疫病がヨーロッパに到達した数か月後、ローマ教皇クレメンス6世は当時のカトリック教会の総本山のあったアヴィニョンより逃亡したが、そのいっぽうで教皇の侍医長であった外科医ギー・ド・ショーリアックはアヴィニョンに留まる勇気を示している。また、ユダヤ教徒の犠牲者が少なかったことから、「ユダヤ教徒が井戸へ毒を投げ込んだ」等のデマが広まり、迫害虐殺が行われた(ペストと反ユダヤ主義)。ユダヤ教徒に被害が少なかったのは「ミツワー(戒律)に則った生活のためにキリスト教徒より衛生的であった」という考えがある一方、「実際にはキリスト教徒と隔離されたゲットーでの生活もそれほど衛生的ではなかった」との見解がある。

ポーランドでは、アルコール(蒸留酒)で食器や家具を消毒したり腋や足などを消臭する習慣が国民に広く定着していたほか、原生林が残り、ネズミを食べるオオカミ猛禽類などが多くいたため、ペストの発生が抑えられていた。

黒死病と文化

当時は、黒死病の蔓延を、が下したととらえ贖罪のため身体にをあてて各地を遍歴する行者も多数あらわれ、医師のなかには、腫れ物を切開したり、毒蛇と称して与えたり、また、予防として香草酒精を用いることを勧める者も少なくなかった。便所や下水にかがみこんで悪臭を吸い込もうとする人びとまであらわれた。黒死病の流行は、「死の舞踏」はじめ絵画文学のテーマにも大きな影響をあたえた。「メメント・モリ(memento mori, 死を思え)」という標語が流布し、どのような態度や振る舞いをとったら無事に天に召されるかを説いた「往生術」についてもさかんに著作がなされた。

ルネサンス初期の著名な文学者ジョヴァンニ・ボッカッチョ1349年から1353年にかけて著した『デカメロン』(十日物語) は、

さて神の子の降誕から、歳月が、1348年目に達したころ、イタリアのすべての都市の中ですぐれて最も美しい有名なフィレンツェの町に、恐ろしい悪疫が流行しました。ことの起こりは、数年前東方諸国に始まって無数の生霊を滅ぼしたのち、休止することなく次から次へと蔓延して、禍災(わざわい)なことには西方の国へも伝染して来たものでございました。

で書き出されており、ペストの流行についてふれている。『デカメロン』は、ペストを逃れて郊外に住んだフィレンツェの富裕な市民男女10人が、10日間にわたり、1日1話ずつ語り合うという設定で著されており、社交機知ユーモアエロスに富む人文主義の傑作とされているが、ペストの恐怖からの心理的逃避が背景となっている。また、フィレンツェの詩人で人文主義者ペトラルカが思いを寄せた少女ラウラもペストのために命を失っている。

イスラム世界

地中海の商業網に沿って、ペストはヨーロッパへ上陸する前後にイスラム世界にも広がった。当時のエジプトを支配し、紅海地中海を結ぶ交易をおさえて繁栄していたマムルーク朝では、このペストの大流行が衰退へと向かう一因となった。

その後の流行

その後も、ペストは17世紀頃から18世紀頃まで何度か流行した。

1629年10月にはミラノ検疫の重要性が明らかになった。すなわち、1630年3月のカーニバルのためにミラノでの検疫条件を緩めたところ、ペストが再発したのである(en)。ピーク時の死亡者数は1日当たり約3500人であった。

清教徒革命を経て王政復古後のロンドンでは、1665年に流行し(ロンドンの大疫病)、およそ7万人が亡くなった。1666年にロンドン大火が起こり、全市が焦土と化したことでノミやネズミがいなくなり、流行は終息した。(後にダニエル・デフォーは『疫病の年』(A Journal of the Plague Year、1722年刊)という小説で当時の状況を克明に描いた)。ロンドンでは人が多く集まる大学が閉鎖され、学生はペスト禍を避けるために疎開させられた。(なお、当時ケンブリッジ大学で学位を得たばかりのアイザック・ニュートンも故郷に疎開することになり、それまで大学で小間使い的な仕事をして生活費を稼いでいた彼は、疎開により雑事から完全に解放されて、思索に充てる時間を得たことで、微積分法の証明や、プリズムでの分光の実験(『光学』)、万有引力の着想(距離の逆2乗の法則の導出)などを行うことができた。「ニュートンの三大業績」とされるものはいずれもこのペスト回避の疎開の時に生まれたものであり、イギリスにとって歴史的な災厄が続いた月日にイギリスの誇る宝が誕生することになったわけである。)

フランスでは1720年にマルセイユで大流行 (Great Plague of Marseille) した。しかし、集権化にともなう防疫体制の整備 と衛生状態の改善から、これ以降の大流行はみられなかった。こうして先進諸国では19世紀までにほとんど根絶されたが、発展途上国ではなお大小の流行があり、インドでは1994年に発生、パニックが起きた。

19世紀の中国とインドで1200万人が死んだ世界的流行 (en:Third plague pandemic) は、中世のペストが、香港から世界中に広がったとされる。

主な大流行(リスト)

【年代】
【場所】
【推定死者数】
備考
1347–51 | 欧州・アジア・中東 | 2500万~7500万 | 
1360–63 | イギリス | 700,000~800,000 | 
1464–66 | パリ | 40,000 | 
1471 | イギリス | 300,000~400,000 | 
1479–80 | イギリス | 400,000~500,000 | 
1576–77 | ヴェネツィア | 50,000 | 
1596–99 | スペイン・カスティリア地方 | 500,000 | 
1603–11 | ロンドン | 43,000 | 
1620–21 | アルジェリア | 30,000~50,000 | 
1628–31 | フランス | 1,000,000 | 
1629–31 | イタリア | 280,000 | 
1647–52 | スペイン南部 | 500,000 | 
1654–55 | ロシア | 700,000 | 
1656–57 | ナポリ・ローマ | 150,000 | 
1665–66 | ロンドン | 70,000~100,000 | 
1675–76 | マルタ | 11,300&nb
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2020/05/25 21:20

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