このキーワード
友達に教える
URLをコピー

ホロコーストとは?

ホロコースト関連地図。■は強制収容所、黒背景髑髏は絶滅収容所の位置を指す。ダビデの星はドイツによって建設されたゲットー、赤線の髑髏は著名な虐殺事件があった場所を指す。

ホロコースト(ドイツ語: Holocaust英語: The Holocaust: フランス語: La Shoah、イディッシュ語: חורבן אייראפע‎、ヘブライ語: השואה‎)は、第二次世界大戦中の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)率いるナチス・ドイツユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺を指す。

概要

概要

1933年の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の権力掌握以降、反ユダヤ主義国是となったドイツにおいては様々なユダヤ人、共産主義者に対する迫害が行われていた。第二次世界大戦の勃発後、ナチス内部には「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決」を行おうとする動きが強まり、ドイツ国内や占領地のユダヤ人を拘束し、強制収容所に送った。

収容所では強制労働を課すことで労働を通じた絶滅を行い、また、占領地に設置された絶滅収容所においては銃殺、人体実験、ガス室などの直接的な殺害も行われ、1943年以降は絶滅収容所の導入など、殺害の手段を次第にエスカレートさせていったとされる。親衛隊は強制収容所の管理を担うとともに各地でユダヤ人狩りを行い、東部戦線ではアインザッツグルッペンが活動した。

ドイツ国防軍は、親衛隊や中央官庁の要請に従ってユダヤ人狩りへの協力を行った。軍需省や四カ年計画庁、一部の企業は工場において強制労働を行わせた。また、ヴィシー政権下のフランスをはじめとする占領地での「ユダヤ人狩り」は現地の治安機関によっても実施された。

「ユダヤ人絶滅」が戦前からの計画の目的であったのか、戦争突入後の状況変化によって発生したものであったのかは研究者によって意見が分かれる。ホロコースト研究家の一人ラウル・ヒルバーグは「公式な法令としてユダヤ人殺害が命令されたことはなく、担当閣僚や特定の官庁も存在せず、特定の予算が割かれたこともなかった」と、計画性や統合性のなさを指摘している。

政権獲得後、ナチスはドイツ国内にいるユダヤ人への迫害を開始するとともに、ドイツの勢力圏外へ大量の強制移住によって追放するという計画(マダガスカル計画など)を立案していた。しかしドイツの勢力が拡大すると、ドイツ国内に居住するユダヤ人の数はさらに増大し、ポーランドの占領によってさらに200万人のユダヤ人を抱え込むことになった。ドイツは占領地やドイツ国内のユダヤ人をゲットーに移送し、独ソ戦の開始後はロシアの東方への移送をも考えていた。しかし独ソ戦の戦況によってそれが不可能になると、1942年7月から開始された強制収容所における強制労働を通した絶滅および、毒ガス一酸化炭素排気ガス等を用いた労働に適さない者への「間引き」、そして組織的殺戮へと計画は変更されていったと見られている。

ドイツが敗勢に陥ると、ヘウムノ強制収容所などでは収容所を解体し、収容者を殺害して証拠の隠滅を図ることも行われた。多くの文書史料はナチ政権が隠滅を行ったために失われているが、コルヘア報告書アインザッツグルッペン報告書などの親衛隊による報告書や強制収容所の管理文書、1942年9月17日のヨーゼフ・ゲッベルスによる強制労働によるユダヤ人殺害を提言した文書など、いくつかの重要な資料は残存している。

大戦後期には連合国が、ドイツ政府によるユダヤ人組織的殺害が行われていると声明し、占領によって強制収容所が解放されていくことで全世界に広まった。ニュルンベルク裁判では「ユダヤ人の大量虐殺」計画が罪状の一つとして取り上げられ、ルドルフ・フェルディナント・ヘスヴィルヘルム・へトゥルなどの関係者の証言が行われ、認定された。戦後にはジェラルド・ライトリンガーラウル・ヒルバーグウィリアム・シャイラー等の歴史家によってこの時代のユダヤ人の運命についての通説が確立した。

ホロコーストで犠牲となったユダヤ人は当初少なくとも600万人以上とされていた。また、同時期にナチス・ドイツの人種政策によって行われたロマ人に対するポライモス、成人の精神障害者へのT4作戦、反社会分子とされた人々(労働忌避者、浮浪者、シンティ・ロマ人など)や障害者、同性愛者(ナチス・ドイツとホロコーストによる同性愛者迫害)、エホバの証人スラヴ人に対する迫害などもホロコーストに含んで語られることもある。主に独ソ戦における戦争捕虜、現地住民が飢餓や強制労働による死亡者に対しても「ホロコースト」の語が使用されることもあり、こうした広い概念でとらえた場合の犠牲者数は、900万から1,100万人にのぼるとする説がある。この語をユダヤ人以外にも拡大して使用することに反発する個人・団体がある

一方で、「ナチスがユダヤ人を差別し、迫害したこと」自体は認めながら、ホロコーストの規模、犠牲者数、殺害手段に関する通説的見解を批判的に検証したり、ソ連シオニストの流したプロパガンダもあったとして批判する「ホロコースト否認」と呼ばれる動きもある。これはイスラム世界に属しイスラエルと対立関係にある地域などでも論じられている。ヨーロッパ及びイスラエルではホロコースト否認に対する法律が制定された地域もある。

語源および語の使用の変遷

語源

ホロコーストは「全部 (ὅλος)」、「焼く (καυστός)」に由来するギリシア語ὁλόκαυστον」を語源とし、ラテン語「holocaustum」からフランス語「holocauste」を経由して英語に入った語であり、元来は、古代ユダヤ教の祭事で獣を丸焼きにして神前に供える犠牲、「丸焼きの供物」、すなわち元来はユダヤ教の宗教用語にあたる 燔祭を意味していた。こうしたことから殉教のための犠牲をも意味するようになり、転じて火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになった。英語では、ユダヤ人虐殺に対しては定冠詞をつけて固有名詞 (The Holocaust) とし、その他の用法を普通名詞 (holocaust) として区別している。例えばアルフレッド・ヒッチコックの映画『北北西に進路を取れ』では劇中タンクローリーの炎上事故を伝える新聞の見出しで「Holocaust」という言葉が使われていた。日本では永井隆が長崎への原爆投下を「神の大きな御摂理によってもたらされた」とし、原爆投下を「大いなる燔祭(ホロコースト)」と解釈したことが論評されている(浦上燔祭説参照)。

ジェノサイドからホロコーストへ

この言葉がナチスによるユダヤ人大量殺害を意味するようになったのは、大戦中から大戦後しばらくの間、ユダヤ人の間で、「ドイツはユダヤ人を生きたまま火の中に投げ入れて焼き殺している」との言説が広く信じられたことを起源に持ち、エリ・ヴィーゼルが使い始めたと言われるが、ヴィーゼルはのちに撤回したがっていたと言われる。英語圏では「ジェノサイド」などが用語として一般的であったが、1978年アメリカで放映されたテレビドラマ『ホロコースト』によって流行語となり、「ユダヤ人大虐殺」を表す言葉として普及した。また、この作品がドイツを含む多くの国々で放送された結果、第二次世界大戦中のドイツによるユダヤ人迫害、特に民族絶滅政策の実行の過程を「ホロコースト」と呼ぶことが定着した。『夜と霧』などの戦争直後に出版された書籍に「ホロコースト」という語が見られないのは、こうした事情による。

「ホロコースト」という言葉の使用に対する批判

ただしユダヤ教徒の中には、神聖な儀式である「ホロコースト」の語をドイツのユダヤ人迫害を指す言葉として使用することを批判する声もあり、プリーモ・レーヴィは「虐殺行為を預言者ぶって解釈してみせる過激な宗教家」には怒りを感じると語り、また、ジョルジョ・アガンベンジェノサイドでもなくポグロムでもなくホロコーストという語を使用することはユダヤ人犠牲者を神への犠牲、ナチスを祭司、焼却炉を祭壇として扱うことにむすびつき、結果としてナチによるユダヤ人殲滅政策を正当化することになると批判し、「この語(ホロコースト)をあいかわらず使う者は無知か無神経(あるいはその両方)」と批判している。

ショア(ショアー)

燔祭に相当するヘブライ語は「オラー (ヘブライ語: עלה‎、英語: olah)」であり、「焼き尽くす捧げもの」を意味した。一方で特に「ナチスによるユダヤ人大虐殺」を指す場合は“惨事”を意味するショア (השואה) が用いられる。フランスのユダヤ系映像作家クロード・ランズマンによるドキュメント映画『ショア』が制作され、日本では1995年に上映されて以降、「ショア」という用語も用いられるようなった。

ランズマンは『リベラシオン』のインタビューで「クロード・ランズマンは『ショア』の作者であり、アドルフ・ヒトラーはショアの作者(=張本人)である」と答えた。これに対し、フランスの詩人で聖書翻訳者でもあるアンリ・メショニックは、ショアという語が聖書の中では主に気象に関わる災害として用いられていると指摘した上で、先述したホロコーストという言葉同様、このヘブライ語を用いた時点で宗教化は免れ得ないとした。さらに、ショアの実行者がヒトラーであったとしても、この問題をナチスのみに還元すべきではないと主張し、現在まで続くキリスト教対ユダヤ教の対立、すなわちキリスト教文化圏における反ユダヤ主義の問題として広く捉えられなければならないと主張した。彼によれば、ナチスの出した「最終的解決」は、2000年以上続く反ユダヤ主義を内包するキリスト教の論理における必然的な帰結であり、こうした行為に対抗してユダヤ教的な語彙を用いても、この対立を継続することにしかならないと主張する。これに対しランズマンは、自身はヘブライ語の専門家ではないため「ショア」という語に特定の宗教的含意はないと部分的に反論している。

経緯

ユダヤ人問題と反セム主義

反セム主義」も参照

キリスト教が普及したヨーロッパにおいて、ユダヤ人は(歴史的事実であるか否かはともかく)キリストの磔刑に関与したとされたため、キリスト教徒から「神殺し」とみなされ、キリスト教への改宗を拒んで追放されるなど、中世以来たびたび迫害を受けてきた。11世紀まではユダヤ人はシリア人と呼ばれた近東の民とともに通商の担い手であったが、中世後半期には次第に土地所有も交易に従事することも制限されるようになった。11世紀以降にギルド制が発達すると、ユダヤ人の職業選択の幅は著しく狭まった。第4ラテラノ公会議(1215年)ではユダヤ人の隔離や公職追放の方針が決められた。こうしたことからユダヤ人は職工や農業といった生産的な職業に就くことができず、質屋などの消費貸借専門の金融業や両替商がユダヤ人の主な職業となった。このため、ユダヤ人を堕落した人間と見る風潮があった。ユダヤ人はキリスト教社会から疎外され、ゲットーと呼ばれる場所に隔離されるなどしたが、かえってそれぞれのコミュニティを強化し続けていった。

18世紀以降、啓蒙主義の浸透によって、ユダヤ人の解放と社会的地位向上が唱えられるようになった。1848年革命ではユダヤ人の解放も唱えられたが、一方でこれは自由主義に反発する者の間に、「ユダヤ人は体制の破壊者である」という見方が醸成されるようになった。また、ユダヤ人が新聞などのメディアを支配しているという見解もこの頃からあらわれるようになった。西欧社会への同化が進むにつれて、反ユダヤ主義は宗教的なものから人種主義的な「反セム主義」へと変質した。19世紀後半になると、ユダヤ人の同化と地位向上によって引き起こされた「ユダヤ人問題」の根本的解決を訴える論調が盛んになり、社会ダーウィニズムに基づく疑似科学的な人種主義によって組織的なユダヤ人迫害への理論的な基礎が置かれた。すでにユダヤ人は血統的・言語的に居住国に同化している場合がほとんどであることから、あくまで“疑似”人種・民族論である。こういった運動を行った者としては、ゲオルク・フォン・シェーネラーカール・ルエーガーがいる。

また、ロシア帝国においてはアレクサンドル2世の暗殺以降、保守化が進行し、ユダヤ人迫害である「ポグロム」が激化するようになった。20世紀初頭には「シオン賢者の議定書」と呼ばれる反ユダヤ主義パンフレットが流布された。これはバルト・ドイツ人であったアルフレート・ローゼンベルクによってナチ党に紹介されることになる。

ナチズムのユダヤ人観

第一次世界大戦時、ドイツ帝国においては中央協会などのユダヤ人団体もドイツ政府に協力したが、反ユダヤ主義者たちによってユダヤ人が戦争に非協力的であるというプロパガンダが行われた。ドイツ帝国軍はこれを承けて軍部内のユダヤ人の統計を取り、反ユダヤ主義者の言い分が正当であると証明しようとしたが、結果はその逆であったために公表されなかった。ドイツが敗北すると、敗戦はユダヤ人や社会主義者による「背後からの一突き」が原因であるという見方が広まった。こうしたドイツの風潮の中で生まれてきたのが国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)である。

ナチ党はその創設時から反セム主義としての反ユダヤ主義を唱えていた。ヒトラーの著書『我が闘争』では「ユダヤ人問題の認識と解決なしには、ドイツ民族体再興の企ては無意味であり、不可能である」と書かれている。ヒトラーは入党前に記した最初の政治的書簡で「ユダヤ人とは即ち、無条件に人種であり、決して宗教団体などではない」という認識を示していた。

ナチズムではユダヤ人は、「すべての反ドイツ的なものの創造者」であるとされた。つまり第一次世界大戦の張本人であり、民主主義議会主義マルクス主義ボルシェヴィズム自由主義平等主義などを生み出し、ドイツに敵対する国家の背後で糸を引きながら、ドイツ人を含むすべての民族の破滅を狙っているとされた。世界支配の権利を持っているのは疑いなくドイツ民族であるが、その最大の障害がユダヤ人であり、「アーリア人の勝利か、しからずんばその絶滅とユダヤ人の勝利か」の二つの可能性しかあり得ないとしていた。

また、ナチズムは、ドイツ民族の血によって結びつけられる「民族共同体」が自らの存立する世界観であると定義しており、ナチズムの人種学では、ハンス・ギュンターらの提唱する、白人、中でも北方人種の要素を多く持つ民族が優れた民族であると考えられていた。ナチズムにおいてはドイツ民族の血統改良(ドイツ語: Aufartung)が重要であるとされ、北方人種化(ドイツ語: Aufnordung)の一方で、遺伝病や精神病などの「質的欠格者」や、「劣等人種」との混血を回避する必要があるとされた。

ヒトラーは演説でこう述べている。「我々の社会は危機に瀕している。徒に弱者や病気の者に助けの手を差し伸べて、適者生存の原理に背いてしまったためだ。」この考えに基づいて推進された政策の一つが、身体障害者や精神障害者の断種や、「生きるに値しない命」 (Lebensunwertes Leben) と見られた成人障害者を安楽死させるT4作戦であった。T4作戦で安楽死を担当した技術者たちは、のちにホロコーストにおける絶滅収容所でその技術を用いることになる。

ナチズムにおけるユダヤ人の定義

ナチズムにおいてはユダヤ人は人種として扱われたが、時期によって扱いはやや異なる。1933年4月11日の『職業官吏再建法暫定施行令』では、両親・祖父母のうち一人でもユダヤ教を信仰したことがある者がユダヤ人と規定され、先の『職業官吏再建法』の「アーリア条項」でいう「非アーリア人」に該当するとされた。9月29日の『ライヒ世襲農場法』では先祖にユダヤ人がいたというだけで「アーリア人」から外された。

ニュルンベルク法の一つである「帝国市民法」は「ドイツ人あるいはこれと同種の血」を持つ帝国市民にユダヤ人は含まれないとしている。さらに「帝国市民法第一次施行令」では、祖父母のうち3人以上が「人種上の全ユダヤ人」であれば、当人の信仰によらず「完全ユダヤ人」として扱われた。また、この施行令では、ユダヤ人と婚姻していた者もユダヤ人となり、「非ユダヤ教徒ユダヤ人」という扱いも存在した。さらに血統上は疑いなくドイツ人であっても、何らかの都合によってユダヤ教会に属した者も「ユダヤ教会への所属は、通例、ユダヤ的なるもののへの確固たる信仰告白」であり、「その者の子孫もかかるユダヤ的態度を受け継ぐことが当然予想される」ため、ユダヤ人として扱われた。また、二人の祖父母がユダヤ人であった場合には「第一級混血児」、一人の場合は「第二級混血児」として扱われた。混血ユダヤ人は帝国市民として扱われたものの、混血児同士の結婚や、第一級混血児がドイツ人と結婚することは原則として認められなかった。

ヒトラーはこれら「ユダヤ人」が人類学的には「単一人種としての特徴を示す共通の標識をもっていない」という認識を示しながらも、「にもかかわらず、疑いもなく、どのユダヤ人も、我々が特にユダヤ人の血と呼ぶところの数滴の血液を血管の中に隠し持っている」としている。当時は左耳の形でユダヤ人であるかどうかわかるとされており、身分証明書では左耳がはっきりと分かる形の写真が掲載された。ヒトラーもこの方法を信じており、後にヨシフ・スターリンの耳を撮影させて、ユダヤ人ではないと判定している。

ナチス・ドイツ時代戦前期の反ユダヤ政策

ヒトラーは1919年の段階で「ユダヤ人全体を断固除去することが最終目標」であるという書簡を記しており、その後もしばしばこれに類した演説を行っている。ヒトラー内閣成立後の1933年3月28日には党組織に対してユダヤ人に対する大規模なボイコット命令『反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令』を発し、4月1日から三日間にかけて行われたこのボイコットでは、私服のナチ党員がユダヤ人の経営する会社や商店の営業を妨害し、店舗の破壊やユダヤ人経営者への暴行を行った。警察はあらかじめその場をパトロールしないように措置されていた。この全国的な運動は、それまでユダヤ人がほとんど住んでおらず、反ユダヤ主義と無縁であった地域にまで反ユダヤ主義が国家の基本方針となったことを知らしめるようになり、ユダヤ人たちは徐々に地域社会から疎外され始めた。4月7日には『職業官吏団再建法』が制定され、共産主義者等の左翼と併せて、ユダヤ人を含む非アーリア人とされた人々が公職追放された。その後、弁護士や大学教授、医師、徴兵対象者など、官吏以外の職にも次々と適用された。一部のユダヤ人は国外に逃れるようになり、毎年2万人から4万人のユダヤ人がドイツ国外に脱出していた。

1935年9月に制定された一連の『ニュルンベルク法』によって、ドイツ国民であったユダヤ人は「国籍を保持するが、帝国市民(ライヒ市民)ではない」という存在となり、ドイツ人および類縁の血を持つ者との婚姻と婚外交渉が禁じられた。1937年12月からは経済・商工業分野における「アーリア化」が開始され、ユダヤ人資本の企業や工場は解散や譲渡を余儀なくされた。1939年9月1日以降には独立した経営を行ったり、責任者になることすら禁じられた。また、1938年8月17日からは、国民およびドイツ国内に滞在するユダヤ人は、姓を「ユダヤ人らしくない」姓に変更することができなくなり、また、名前も「イサク」や「ラケル」など当局が指定した「ユダヤ人らしい」名前を名乗るよう義務づけられ、それ以外の名前を持つ者には「イスラエル」や「サラ」といったミドルネームをつけることが義務づけられた。12月31日からは身分証明書にユダヤ人であることを示す「J」の文字が記入されるようになり、1939年4月にはユダヤ人が持つ旅券がすべて無効となり、「J」の字が刻印された旅券が新たに交付された。

しかし、ヒトラーやヘルマン・ゲーリングヨーゼフ・ゲッベルスらといったナチ党幹部にとって、これらの措置はまだ生ぬるく感じられた。それらが解き放たれるきっかけは、1938年11月7日に発生した、駐フランスドイツ大使館員エルンスト・フォム・ラートがユダヤ人青年に殺害された事件であった。11月9日、ユダヤ商店・百貨店、シナゴーグなどが突撃隊員たちによって破壊・略奪された。この事件は「水晶の夜」とよばれる。11月10日には親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーが兵器および武具を持ったユダヤ人を拘束する命令を出し、11月11日にはユダヤ人の兵器所有が禁じられた。

11月12日には事件の後始末についての会議が行われ、その結果を踏まえてゲーリングによって三つの命令が下された。その内容は事件によってドイツ国が被った総額10億ライヒスマルクの損害を「ユダヤ人」に賠償させるというものであった。1939年4月にはドイツ国籍および無国籍のユダヤ人はその全財産の20%を賠償として国に支払うこととなり、さらに破損した店舗や施設の修復も義務づけられただけでなく、損害を申請して保険金を受け取る権利すら奪われた。この決定が行われた同日、ゲッベルスはライヒ文化協会会長の権限でユダヤ人の文化・娯楽施設への入場を禁じ、ミュンヘンでは一週間あたり引き出し可能額が100ライヒスマルクに限定された。11月13日の冬季援助活動の集会で、ゲッベルスは「ユダヤ人問題は今後ごく短期間のうちにドイツ民族の感情を満足させる解決策を見いだすことであろう」と演説した。翌日の「フェルキッシャー・ベオバハター」は「ユダヤ人問題の最終解決」という見出しの記事でゲッベルスの演説を掲載し、次のように警告した。「すべてのユダヤ人は今後一切の慈悲無しに取り扱われることになるだろう。そのことを欲したのは彼ら自身なのだ。」この後もドイツ人学校からのユダヤ人生徒の排除、運転免許の剥奪、毛皮・宝石類・伝書鳩・自動車の保持禁止、第一次世界大戦の恩給停止、ベルリン市内の大規模なユダヤ人立ち入り禁止区域の設定、寝台車や食堂車の使用禁止などの措置が矢継ぎ早に行われた。 しかしこれらの措置も、新たなユダヤ人迫害のための準備作業にすぎなかった。

ユダヤ人国外移住政策

1939年1月24日には四カ年計画全権としてのゲーリングが、内務大臣ヴィルヘルム・フリックに対し、「ドイツ国内からのユダヤ人の国外移住を全力をもって促進すべき」として、保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒの指揮下に「ユダヤ人国外移住のためのライヒ中央本部」を設置することを命じた。ユダヤ人の財産の剥奪や移動手段の制限はこうした「移住」を効率的に実行するための措置でもあった。しかしこのころから、ユダヤ人を受け入れてきた南米諸国など各国が難色を示すようになり、第二次世界大戦の勃発はさらにこうした移住を困難なものとした。

追放政策の実行と頓挫

ユダヤ人をドイツ国外へ追放するという考え方は古くからあり、ヒトラーも結党間もないころの演説では「ユダヤ人にとっとと(ドイツから)出て行ってもらう」とたびたび語っている。ナチ党の幹部でもあるアルフレート・ローゼンベルクは1937年の著書『Die Spur des Juden im Wandel der Zeiten』の中で、「ドイツのユダヤ人の集団が毎年パレスチナに移送されるであろう、そのためにシオニズムは強力に支援されねばならない」 (p. 153) と述べている。

しかし一方で、ヒトラーおよびナチ党員は、ユダヤ人問題の解決策としての大量殺戮をほのめかす発言をたびたび行っている。「シュテュルマー」の編集主幹であったユリウス・シュトライヒャーはこう述べている。「最後のユダヤ人がドイツから去ったとしても、(ユダヤ人問題は)解決されたことにならない。世界中のユダヤ人が殲滅された、その時初めて解決されたと言えるのである。」『我が闘争』の中には「これらヘブライ人の民族破壊者連中を、一度毒ガスの中に放り込んでやったらとしたら、前線での数百万の犠牲も決して無駄ではなかったであろう」という記述があり、ナチ党の地方幹部であったヘルマン・ラウシュニングは、ヒトラーが「(ユダヤ人の)人種単位の除去が私の使命である」「望ましくない人種を、体系的に、比較的苦痛もなく、ともかく流血の惨事もなく、死滅させる多くの方法がある」と語ったとしており、1939年1月30日の国会演説は、さらにそれを直接的にしたものであり、ヒトラーがたびたびこの演説を引用したこともあって、時に大量殺戮によるホロコーストを予告したものとされる。

今日私は再び予言者となろう。即ち、もし国際主義的ユダヤ人金融資本家どもが、ヨーロッパの内外で、再び諸民族を世界戦争に引き込むことに成功したとしても、その結果は地球のボルシェヴィキ化、ユダヤ人の勝利ではなく、ヨーロッパにおけるユダヤ人種の殲滅となるであろう。
1939年1月30日のヒトラー国会演説、(南 1995b, p. 187)

1939年9月のポーランド侵攻に先立つ9月21日、ハイドリヒはユダヤ人問題の「最終目標」として、ドイツ領となるべきポーランド占領地域に住むユダヤ人をできるだけ追放し、ごく少数の都市に集中収容するべきであるという報告書を作成した。ポーランドが占領されると、12月から移送が開始され、ユダヤ人とポーランド人あわせて87,000人が、占領地域からワルシャワなどの各都市のゲットー(ユダヤ人街)へ送致された。翌1940年11月には、400,000 人が住むワルシャワ・ゲットーが壁と有刺鉄線で囲まれて交通が遮断された。これはワルシャワ市の全人口の30%に相当するが、ゲットーそのものの敷地はたった2.4%であった。各部屋に平均9.2人が住んでいたという。ゲットーへの囲い込みから収容所移送までの間に、移住計画や収容所建設など親衛隊当局による絶滅の準備が行われたが、劣悪な衛生状態と食糧事情からすでにこの期間に多くの犠牲者が出ている。1941年だけでも、ワルシャワ・ゲットー住人の10人に1人(4万3千人)が腸チフスなどで死亡した。また、シンティ・ロマ人(ジプシー)の放浪が禁止されて登録とゲットーへの囲い込みが行われたのもこの期間であった。

マダガスカル計画

マダガスカル計画」も参照

1940年5月頃には外務省参事官フランツ・ラーデマッハーが西方ユダヤ人をマダガスカル島に送ることを提案した。この案は同年6月18日のヒトラーとムッソリーニとの会談で「マダガスカルにイスラエル国家を作ることも可能である」ということを述べているように、ヒトラーを含む上層部でも検討された。国家保安本部ゲシュタポでユダヤ人問題を担当するB4課長を務めたアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は戦争終結後に5年をかけて、ドイツ占領地域に住む600万人のユダヤ人をマダガスカルに送る計画に従事していた。

しかし6月24日になって、ハイドリヒは国外移送は不可能であり「最終的領域的解決」が必要であるという報告を行った。ラーデマッハーは8月になって計画が正式に中止されたという報告を行っているが、少なくとも1941年2月までヒトラーが破棄していなかったとする見解もある。いずれにしても計画の断念後、「ユダヤ人問題」解決策は海外への移住から東方占領地域への移送、さらには移送先での強制労働を通じた絶滅へと進展した。この決定に従って、ユダヤ人の中で生産活動にとって無価値な老人・女子・子供は移送の後に殺害し、労働に耐える者はなるべく過酷な労働環境で軍需産業に従事させ、死亡させるという方針がとられることになった。

ポーランド総督府はこれ以上のユダヤ人受け入れは不可能であると苦情を申し出たが、ヒトラーは「(総督領は)巨大なポーランド強制収容所でしかない」と拒絶した。しかし1941年3月15日、ポーランドの親衛隊及び警察指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーは、これ以上総督領に対するユダヤ人の移送を行わないと伝達し、6月19日にはヒトラーは総督ハンス・フランクに対して「ユダヤ人は近いうちに総督領からいなくなる」と伝えている。これは3日後に勃発する独ソ戦の勝利によって、東方にユダヤ人を送る余地ができたということを示すものであった。

独ソ戦初期における組織的殺戮

アインザッツグルッペン報告書の一つ、イェーガー報告書の一部。

このような計画とは別に、独ソ戦の開始の翌日1941年6月23日以降、進撃するドイツ軍に追随してハイドリヒの国家保安本部の移動特別部隊(アインザッツグルッペン)が戦線後方の占領地域に展開し、時には現地のラトヴィア人・リトアニア人・ベラルーシ人の協力を得て、ユダヤ人住民を組織的に殺戮した。この一連の作戦において最も悲惨な例が、1941年9月29日・30日に起きたキエフ近郊のバビ・ヤールでのユダヤ人の大量殺害である。ユダヤ人は移住させるから集合せよとの布告で無警戒に集められ、入り組んだ地形を利用して先頭で行われる殺害を隠蔽し、長い列になったユダヤ人37,000人をアインザッツグルッペンが2日間で次々に射殺した。それ以降も同地は1943年8月まで使用されている。また、8月1日にはヒムラーから武装親衛隊第二騎兵連隊に対して「すべてのユダヤ人を射殺し、ユダヤ人女性は沼へ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2020/04/05 22:45

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「ホロコースト」の意味を投稿しよう
「ホロコースト」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

ホロコーストスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ホロコースト」のスレッドを作成する
ホロコーストの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail