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ボストン・レッドソックスとは?

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ボストン・レッドソックス
Boston Red Sox

1901創設


所属リーグ

チーム名
  • ボストン・レッドソックス (1908年 - )
    • ボストン・アメリカンズ (1901年-1907年)
    • ボストン・レッドソックス (1908年 - )

本拠地
1901-現在

永久欠番

獲得タイトル(獲得年)
ワールドシリーズ優勝(8回)

リーグ優勝 (13回)

地区優勝 (9回)
  • 1975
  • 1986
  • 1988
  • 1990
  • 1995
  • 2007
  • 2013
  • 2016
  • 2017

ワイルドカード (7回)
  • 1998
  • 1999
  • 2003
  • 2004
  • 2005
  • 2008
  • 2009

球団組織
オーナー | ジョン・ヘンリー
GM | なし
監督 | アレックス・コーラ

ボストン・レッドソックス(英語: Boston Red Sox、略称:BOS)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ東地区所属のプロ野球チーム。本拠地はマサチューセッツ州ボストンにあるフェンウェイ・パーク

目次

  • 1 概要
  • 2 球団の歴史
    • 2.1 1893年-1900年
    • 2.2 1901年-1910年代
    • 2.3 1920年代
    • 2.4 1930年代-1950年代
    • 2.5 1960年代-1970年代
    • 2.6 1980年代-1990年代
    • 2.7 2000年代-
      • 2.7.1 2004年:呪いが解けた年
      • 2.7.2 2005年 - 2006年
      • 2.7.3 2007年:3年ぶりのワールドチャンピオン
      • 2.7.4 2008年 - 2012年
      • 2.7.5 2013年:6年ぶりのワールドチャンピオンとBoston Strong
      • 2.7.6 2014年 -
  • 3 ヤンキースとレッドソックス
    • 3.1 レッドソックスからヤンキースに移籍した主な選手
  • 4 選手名鑑
    • 4.1 現役選手・監督・コーチ
    • 4.2 アメリカ野球殿堂表彰者
      • 4.2.1 選手
      • 4.2.2 球団経営者他
    • 4.3 永久欠番
    • 4.4 キャプテン
  • 5 ボストン・レッドソックス殿堂
    • 5.1 殿堂入り表彰者
  • 6 傘下マイナーチーム
  • 7 公式応援歌
  • 8 脚注
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

概要

シーズン成績の詳細については年度別成績一覧を参照

アメリカン・リーグ創設時からの球団で、一度もボストンから本拠を移したことが無いチームである。ワールドシリーズ8回優勝、アメリカンリーグ13回優勝を誇る。伝統的に長打力を重視した野球を志向し典型的なビッグボール派のチームと見られている。

愛称は1901年の球団創立当初はアメリカンズ、1902年~1903年がソマーセッツ(オーナーのチャールズ・ソマーズからとった)、1904年~1906年がピルグリムスと変わったとされ、他にもピューリタンズやプリモスロックスなどの愛称があったとされるが、実際には1901年からの7シーズンは単にホームタウンのボストン、もしくはナショナルリーグの「ボストン・ビーンイーターズ」(現:アトランタ・ブレーブス)に対し、「アメリカンリーグのボストン」を示すボストン・アメリカンズで通っており、その他の愛称は当時の新聞記者が自由につけていたもので、1908年シーズンから現在のレッドソックスが正式なものとなった。

1903年にアメリカン・リーグで初優勝し、しかもナショナル・リーグ優勝チーム(この年はピッツバーグ・パイレーツ)と初のワールド・シリーズで優勝して、その後1910年代には4回リーグ優勝を果たし、かつワールド・シリーズも4回優勝するなど、1901年から1919年までにリーグ優勝6回、ワールド・シリーズ優勝5回のアメリカン・リーグ屈指の名門チームである。その後は、台頭したライバルのニューヨーク・ヤンキースの後塵を拝し、戦後は1946年、1967年、1975年、1986年にリーグ優勝したが、ワールド・シリーズではいずれも第7戦で惜しくも敗れて敗退を繰り返した。しかし21世紀に入ってから、2004年、2007年、2013年にリーグ優勝を果たしワールド・シリーズも3回優勝するなど、ヤンキースと並ぶ人気球団である。

ユニフォームカラーは紺・赤で、ロゴデザインは赤い靴下1足である。本拠地のフェンウェイ・パークは現在メジャー・リーグ球団の本拠地球場では最も古い歴史を持つ。市街地の中心に建設されたため、球場自体はそれほど広くなく観客席も少ない。そのためレッドソックスの人気と相まってチケットは入手困難な状況が続いており、特に対ヤンキース戦といった人気カードではプラチナチケットと化す。

2003年5月15日から2013年4月10日まで、フェンウェイ・パークでは820試合連続チケット完売を記録した。

全米一熱狂的なファンを持つといわれ、同じアメリカン・リーグ東地区のニューヨーク・ヤンキースとは深い因縁がある。ベーブ・ルースの移籍以来、ア・リーグの盟主として君臨するヤンキースに対して、「バンビーノの呪い」とともにレッドソックスファンは強い敵愾心を持っている。

球団の歴史

1893年-1900年

1893年、ウエスタンリーグ (Western League) のオハイオ州トレド市に誕生した球団が前身とされている。1900年にアメリカンリーグが発足すると、当初の予定では本拠地をバッファローに置く予定だったが、結局ボストンに本拠地を置くこととなった。

1901年-1910年代

1901年のボストン・アメリカンズのメンバー

1901年、リーグ加盟と同時にセントルイス・カージナルスからサイ・ヤングを獲得。サイ・ヤングや選手兼監督のジミー・コリンズを中心に1903年には91勝47敗という成績でリーグ初優勝を遂げた。この年には第1回となるワールドシリーズが開催され、ピッツバーグ・パイレーツと対戦、5勝3敗で初代ワールドチャンピオンに輝く。翌1904年もリーグ優勝を果たすが、対戦相手であるはずだったニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)が対戦を拒否し、ワールドシリーズは開催されなかった。

1912年にはフェンウェイ・パークが開場。この頃のレッドソックスでは、スライディングキャッチを得意としたハリー・フーパー、抜群の打球の読みで極端な前進守備をひき、いくつもの「センターゴロ」を捌いたというトリス・スピーカー、当時レフト後方にあった約3メートル(10フィート)の高さの土手を自由に上り下りしたというダフィー・ルイスの3人からなる、『100万ドルの外野陣』が知られていた。ニューヨーク・ジャイアンツとの対戦となったワールドシリーズでは、スモーキー・ジョー・ウッド投手の活躍もあり4勝3敗1分という僅差でこれを下し、2度目のワールドチャンピオンに輝く。

1914年ベーブ・ルースを獲得。ルースは1915年に投手として18勝、打っては打率.314、4本塁打という活躍でチームのワールドシリーズ制覇に貢献。1916年も変わらぬ活躍で23勝、防御率1.75で最優秀防御率を獲得し、チームも2年連続でワールドシリーズ制覇を成し遂げる。1917年シカゴ・ホワイトソックスにリーグ優勝を奪われるが、1918年に5度目のワールドシリーズ制覇を果たす。ベーブ・ルースもこの頃から打者に専念するようになり、この年には11本塁打、翌1919年にはそれまでの本塁打記録を大幅に塗り替える29本塁打を放ち、本塁打王に輝いている。

1920年代

レッドソックス時代のベーブ・ルース

1920年1月3日、当時経営難にあえいでいたレッドソックスは、12万5千ドルの金銭と30万ドル以上の負債の肩代わりをすることを条件に、ベーブ・ルースをニューヨーク・ヤンキースにトレードした。この当時オーナーのハリー・フレジーが球団の資金難の解消のため、有力選手を次々と金銭トレードで放出し、主にヤンキースが買い取っていた。

当時のヤンキースは最下位が定位置の弱小球団だったが、彼のヤンキース移籍を期にヤンキースの成績が伸び始め、ベーブ・ルースが在籍した1920年代から1930年代にかけて8回のワールドシリーズ優勝、11回のリーグ優勝を成し遂げた。そしてそれに反比例してレッドソックスの成績は伸び悩み、1925年から6年連続最下位を記録するなど、優勝から大きく遠のいたシーズンが続いた。1921年から1927年までにヤンキースがワールド・シリーズで挙げた18勝のうち15勝は元レッドソックスの投手が勝利投手で、1920年代のヤンキースの黄金時代は『元レッドソックス選手の黄金時代』であったと言われる。

アメリカン・リーグ初期の名門チームの衰退は、ベーブ・ルースに呪いをかけられたようだとして、いつしかベーブ・ルースの愛称「バンビーノ」から「バンビーノの呪い」と呼ばれるようになった。

1930年代-1950年代

1933年トム・ヨーキーが球団を買収しオーナーとなると、ヨーキーは球団の再建に着手した。ヨーキーは球団が利益本位のものであることを批判し、人々に敬愛されるチームを作ることを目指して、かつての名内野手で、当時フィラデルフィア・アスレティックスの名監督コニー・マックのもとで監督補佐をしていたエディ・コリンズをゼネラルマネージャーとして招聘し、コリンズに球団再建を託した。ヨーキーがオーナーとなって潤沢な資金提供を受けたコリンズは、アスレティックスから後の300勝投手レフティ・グローブ、1932年に本塁打58本(この記録は1998年にマグワイアとソーサに破られるまで右打者の最高本塁打数であった)を打ち2度MVPになった右の強打者ジミー・フォックス、セントルイス・ブラウンズから名捕手リック・フェレル、ワシントン・セネタースから遊撃手で後にレッドソックスの選手兼監督となったジョー・クローニンらの有力選手を獲得し、次に若手新人の発掘に努め当時パシフィック・コースト・リーグで二塁手として活躍し後にレッドソックス主将を務め殿堂入りを果たしたボビー・ドーア、そして後に打撃の神様と呼ばれたテッド・ウィリアムズを育てるなど、チームは徐々に力をつけていく。この中で特にテッド・ウィリアムズは生涯打率3割4分4厘、通算本塁打数521本、三冠王を2度達成し、1941年には打率4割6厘で今日まで「最後の4割打者」として輝いている。

これらのメンバーが揃ってついに1946年にレッドソックスは2位タイガースに12ゲーム差をつけて28年ぶりにリーグ優勝を飾った。しかしセントルイス・カージナルスと対戦した1946年のワールドシリーズでは第7戦で、3対3の同点で迎えた8回裏にカージナルスの1塁走者の暴走気味の本塁突入を遊撃手ジョニー・ペスキーの一瞬の迷いで生還を許して惜しくも敗れ、ワールドシリーズ制覇は成らなかった。1948年には、アメリカン・リーグのペナントレースでインディアンスと最終首位を分け合い、クリーブランド・インディアンスワンゲームプレイオフとのプレーオフに持ち込んだが敗れた。続く1949年では最終の2試合を残してあと1勝でペナント獲得までいったが、ヤンキースに2連敗して逆転優勝を許してしまった。

この時期のレッドソックスはチームとしての実力は高かったのだが、1948年・1949年と2年続けて最終戦でペナントを逃し、やがて下降線を辿って1966年まで長い低迷期に入った。

1959年に球団初の黒人選手パンプシー・グリーンがメジャーデビューを果たした。これは、MLB球団の中で最も遅かった。1945年4月16日にニグロリーグから(ジャッキー・ロビンソンマービン・ウィリアムズサム・ジェスロー)などが入団テストを受けたが、球団には契約の意思はなかった。1949年にウィリー・メイズの獲得の機会があったが、これをみすみす逃している。この黒人選手の登用が最も遅れたことが長期の低迷の原因の一つとされている。

1960年代-1970年代

カール・ヤストレムスキー

1960年代にはカール・ヤストレムスキーが中心となってリーグの優勝争いにも加わった。しかしレッドソックスは、何故かあと一歩のところで優勝に手が届かないという悲劇を繰り返すこととなる。

1967年カール・ヤストレムスキーが打率3割2分6厘、本塁打44本、打点112で三冠王(この後に半世紀近くこれが最後の三冠王と言われたが2012年にデトロイト・タイガースのミゲル・カブレラが45年ぶりに三冠王を達成した)に輝きこの年にリーグMVPとなり、投手のジム・ロンバーグが22勝でサイ・ヤング賞を獲得して、レッドソックスは前年の9位からこの年は快進撃を続けて21年ぶりにペナントを獲得した(この時のナインには後に来日して巨人でプレーしたレジー・スミスがいた)。しかしワールドシリーズでは、セントルイス・カージナルスと再び対戦となり1勝3敗から盛り返して3勝3敗となって、最終第7戦に中2日でエースのロンバーグ投手を登板させ、一方カージナルスも中3日でエースのボブ・ギブソン投手がマウンドに立ち、このエース対決はカージナルスに勝利の女神は微笑み、またしても涙を呑む結果となった。

1972年は開幕直後のストライキとデトロイト・タイガースの最終直接対決に敗れたことが響いて0.5ゲーム差で地区優勝を逃してしまった。

1975年は2人の新人フレッド・リンジム・ライスの驚異的な活躍もあって8年ぶりにペナントを獲得した。フレッド・リンは打率3割3分1厘、本塁打21本、打点105で新人王・リーグMVP・ゴールドグラブ賞に輝き(この3つのタイトルを同時に獲得したのはメジャーリーグ史上2人だけでこの年のリンと2001年のイチローのみ)、ジム・ライスも打率3割9厘、本塁打22本、打点102であった。しかし続くワールドシリーズではまたもや第7戦で敗れた。球史に残るシリーズとなったこの年のワールドシリーズは、ピート・ローズ、ジョニー・ベンチ、ケン・グリフィー、ジョー・モーガン、ジョージ・フォスターなどのビッグレッドマシンと呼ばれた強打者揃いのシンシナチ・レッズを相手に7戦のうち5試合が1点差ゲームで6試合が逆転勝利であった。そしてとりわけ第6戦は延長12回裏にレッドソックスの4番打者カールトン・フィスクがレフトポールに当たる劇的なサヨナラホームランで3勝3敗のタイに持ち込んだが結局第7戦で逆転負けを喫し、またもや涙を呑んだ。

1978年は一時2位ヤンキースに14ゲームもの大差をつけたが、故障者続出等で9月の直接対決4連戦に全敗したことも響いて、シーズン最終日に追いつかれ、ワンゲーム・プレーオフに敗れて地区優勝を逃してしまった。

1980年代-1990年代

1984年に「ロケット」ことロジャー・クレメンスがメジャーデビューを果たした。そして1986年には、4月29日にMLB新記録となる1試合20奪三振を達成し、この年に、クレメンスはサイヤング賞とリーグMVPを同時受賞し、他に安打製造機ウェイド・ボッグス三塁手が首位打者をとり、ビル・バックナー一塁手が102打点を挙げる活躍で11年ぶりにリーグ優勝を遂げた。そしてニューヨーク・メッツとのワールドシリーズでは、3勝2敗で迎えた第6戦を延長10回表にデーブ・ヘンダーソンの本塁打などで2点をリードし、その裏も2人が凡退して2死走者無しであと1人で優勝という場面まで来たものの、そこからカーターとケビン・ミッチェル(後に来日してダイエー・ホークスでプレーした)がヒットで出塁し、ナイトがタイムリーヒットでカーターを返し、ここでレッドソックスは投手交代でスタンリーがマウンドへ。そのスタンリーが打者ムーキー・ウイルソンに投げた球がワイルドピッチでミッチェルが生還して同点となった。そしてカウント3-2から投げた低めの変化球でウイルソンの打った打球は一塁へボテボテの一塁ゴロ。これで延長戦と思われた瞬間、ビル・バックナー一塁手が「史上最悪のトンネル」とも呼ばれるエラーでまさかのサヨナラ負けを喫してしまった。そして第7戦も逆転負けで、「奇跡のシリーズ」と呼ばれたこの年も手に届くところまで来ていたワールドチャンピオンを逃してしまった。

その後、1988年1990年1995年に地区優勝を果たしたが、ワールドシリーズに進出できなかった。

2000年代-

2002年セオ・エプスタインが史上最年少となる28歳でGMに就任し、2003年のアメリカンリーグチャンピオンシップ敗退後、積極的な戦力補強を進めた。ヤンキースとのチャンピオンシップ第7戦における継投ミスを問われ、グレイディ・リトル監督が解雇され、元フィラデルフィア・フィリーズ監督のテリー・フランコーナ監督が就任する。アリゾナ・ダイヤモンドバックスからトレードでカート・シリング投手を獲得し、フリーエージェントオークランド・アスレチックスのクローザーだったキース・フォーク投手を獲得する。また、マニー・ラミレス外野手を放出し、テキサス・レンジャーズアレックス・ロドリゲス遊撃手を獲得する計画も進んでいたが、このトレードは選手会の反発を受け、不成立に終わる(その後ヤンキースがロドリゲスをアルフォンソ・ソリアーノ二塁手らとの交換で獲得した。)。

2004年:呪いが解けた年

そして86年もの長きに及んだこの「バンビーノの呪い」も2004年のワールドシリーズ制覇により解かれることとなった。

2004年のペナントレースは4月はヤンキースとの直接対決を6勝1敗で乗り切り、アリーグ東地区を4ゲーム差をつけて首位に立つ。しかしその後チーム全体が低調となり、7月末の時点でヤンキースに10ゲーム差をつけられていた。7月末に長年チームの顔であったが、シーズン後にFAによってチームを去ることを確実視されていたノマー・ガルシアパーラ遊撃手をシカゴ・カブスに放出し、モントリオール・エクスポズからオーランド・カブレラ遊撃手、ミネソタ・ツインズからダグ・ミントケイビッチ一塁手ロサンゼルス・ドジャースからデーブ・ロバーツ外野手らを獲得する。人気者のガルシアパーラを放出したことに非難が集中したが、のちにこれらの選手が重要な役割を果たすことになる。

8月に入るとチームは投打がかみ合い好調を維持する。結果8月は21勝7敗の好成績をあげ首位ヤンキースとのゲーム差を縮めることとなった。9月に入ってもヤンキースに追いつくことはなくアメリカンリーグ東地区2位で終わったが、勝率でワイルドカードを獲得した。

ディビジョンシリーズではアナハイム・エンゼルスを3連勝で下し、リーグチャンピオンシップシリーズは前年と同じヤンキースとレッドソックスの組み合わせとなる。カート・シリングが先発した第1戦を落とし、その上、シリングは足首の腱を断裂する怪我のため降板し、もはやシリングの再登板は絶望的とみられた。第2戦はペドロ・マルティネスが先発するが、1-3で2連敗を喫する。第3戦も落とし、0勝3敗と追い詰められる。しかし第4戦、9回裏に3-4と負けていながら、代走のデーブ・ロバーツの盗塁をきっかけにヤンキースの守護神であるマリアノ・リベラからビル・ミラーが同点打を放ち、延長戦の末にデビッド・オルティーズのサヨナラ本塁打でヤンキースを降す。第5戦も8回裏にリベラからジェイソン・バリテックの犠牲フライで同点に追いつくと、延長14回にまたもデビッド・オルティーズがサヨナラ安打。第6戦では負傷したかかとを応急手術で縫い合わせたカート・シリングが復帰し、「レッドソックス」の名前通り靴下を血で赤く染めながらの投球でヤンキース打線を封じ、最終的にレッドソックスは、MLB史上初となる3連敗から4連勝の大逆転を達成する。3連敗から4連勝しての勝ち上がりは、北米の他のプロスポーツ史上でも1942年トロント・メープルリーフス1975年ニューヨーク・アイランダーズ2010年フィラデルフィア・フライヤーズ(いずれもNHL)の3例のみである。プレーオフ後、ヤンキースの監督であるジョー・トーリは、「第5戦の6回2死満塁の場面で守備がそれほど評価されていない選手(トロット・ニクソン)に好捕されたのがシリーズ(敗退)のポイントだった」と振り返った。

この年のワールドシリーズではセントルイス・カージナルスと対戦。緻密な野球を標榜するカージナルスと、細かい野球が苦手な自分達を『イディオッツ (idiots)』と呼んでいたレッドソックスとの好対照の顔合わせだったが、結果は4勝0敗でレッドソックスが1918年以来のシリーズ制覇を達成した。ポストシーズン8連勝はMLB史上初、4勝0敗でのシリーズ制覇は球団史上初であった。

2005年 - 2006年

2005年ヤンキースタジアムでシーズン開幕を迎えた。2005年はヤンキースやオリオールズと優勝争いを繰り広げて、オリオールズはオールスター明け後脱落(最終的には負け越しの4位に終わった。)、レッドソックスとヤンキースとの争いに絞られたが、終盤に追いつかれてしまい、勝率は同じだったが、前年東地区では2位だったためにワイルドカード扱いとなる。プレーオフはシカゴ・ホワイトソックスの前に敗退した。

2006年も前半は貯金20で折り返したが、その後は失速、8月上旬にヤンキースに首位を奪われると、同月18日からの本拠地での直接対決5連戦に全敗して脱落し、終盤にはトロント・ブルージェイズにも抜かれて11ゲーム差の3位だった。オフにはポスティングシステムを利用して、松坂大輔投手に対して5,111万1,111ドル11セントを提示(かつてレッドソックスにも在籍した大投手サイ・ヤングの通算勝利数511にちなむ)。独占交渉権を獲得し、松坂の入団が決まった。

2007年:3年ぶりのワールドチャンピオン

2007年は、シーズン当初から首位を独走し、一時は同地区との差を10ゲーム以上引き離していた。その背景には、 抑えとなったジョナサン・パペルボンやこの年の新人王を受賞する二塁手ダスティン・ペドロイアなどの生え抜きが台頭してきたことや長年の懸念材料であったブルペンが岡島秀樹の獲得やマニー・デルカーメンなどの活躍によってMLB屈指のブルペンになったこと、三塁手マイク・ローウェルや一塁手ケビン・ユーキリスなど守備も強化されたことが挙げられる。また、クレイ・バックホルツがデビュー2戦目でノーヒットノーランを達成したという明るい話題もあった。その結果、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/05/21 10:29

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