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ボストンとは?

ボストン市
City of Boston

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市旗 | 市章

愛称 : ビーンタウン、世界のハブ(中心)、自由の揺りかご、現代アメリカの揺りかご、アメリカのアテネ、歩く街
【位置】


ボストン市の位置(マサチューセッツ州)
座標 : 北緯42度21分28秒 西経71度03分42秒 / 北緯42.35778度 西経71.06167度 / 42.35778; -71.06167
【行政】


アメリカ合衆国
マサチューセッツ州
サフォーク郡
【市】
ボストン市
【市長】
マーティ・ウォルシュ
(民主党)
【地理】

面積 | 
【市域】
232.1 km (89.6 mi)
【陸上】
125.4 km (48.4 mi)
【水面】
106.7 km (41.2 mi)
【水面面積比率】
45.98%
【都市圏】
11,684.7 km (4,511.5 mi)
標高
43 m (141 ft)
【人口】

人口
(2015年推計現在)
【市域】
667,137人
人口密度 5,344人/km(13,841人/mi)
【市街地】
4,180,000人
【都市圏】
4,628,910人
【備考】

【その他】

等時帯
東部標準時 (UTC-5)
夏時間
東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト : www.cityofboston.gov

ボストン(英語: Boston英語発音:[ˈbɒstən] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州北東部サフォーク郡にある世界都市。同州最大の都市かつ州都であり、同郡の郡庁所在地でもある。アメリカで最も歴史の古い街の一つであり、「ニューイングランドの首都」と言われることもある。2017年の調査によると、世界9位の金融センターであり、かつてのボストン金融街の名を冠するステート・ストリート、それからミューチュアル・ファンド大手のフィデリティ・インベストメンツの本社が立地する。

目次

  • 1 概要
  • 2 歴史
    • 2.1 開拓・独立後の製造業
    • 2.2 投資家の130年にわたる大航海
    • 2.3 投資環境としての開発
  • 3 地理
    • 3.1 エメラルド・ネックレス
  • 4 気候
  • 5 人口動勢
  • 6 治安
  • 7 経済
  • 8 交通
    • 8.1 空港
    • 8.2 鉄道
    • 8.3 道路
  • 9 文化
    • 9.1 芸術
    • 9.2 観光
    • 9.3 ボストン英語
    • 9.4 食文化
  • 10 マスメディア
  • 11 スポーツ
  • 12 政府機関
  • 13 市民生活
    • 13.1 教育
    • 13.2 医療
    • 13.3 生活サービス
  • 14 出身者
  • 15 姉妹都市
  • 16 脚注
  • 17 参考文献
  • 18 外部リンク

概要

アメリカ独立後、ボストンは主要な海港、そして製造業の中心地となり、その長く豊かな歴史に呼び寄せられて、現在年間1630万人の観光客がこの地を訪れている。ボストンでは、アメリカ最初の公立学校であるボストン・ラテン・スクール(1635年)、アメリカ最初の大学であるハーバード大学(1636年、ただし隣接するケンブリッジ市に位置する)、アメリカ最初の地下鉄網などが生まれた。

市内および周辺地域には多くの総合・単科大学があり、高等教育の中心地であるとともに、医療の中心地でもある。それ以外に市の経済を支えるのは研究、エレクトロニクス、エンジニアリング、金融、テクノロジー(主にバイオテクノロジー)などである。面積当たりの職の数では、ニューヨークワシントンD.C.に次ぐ。

かつてマサチューセッツ銀行(現クレディ・スイス)は、当時の法的に従属する関係に関わらず、第一合衆国銀行に対等で競争的な経営を展開したといわれる。

1847年にステート・ストリートがオールド・コロニー鉄道でミルトン(Milton)と結ばれてからボストンは頭角を現した。マサチューセッツ州のミルトンはそれまでボストン旧家(Boston Brahmin)の避暑地であったが、鉄道開通により閨閥の集住地となった。

それから一世紀にわたり、ボストンからは数々の有名な投資家が世に出て、アメリカ投資信託の清算制度をめぐりニューヨークの同業と競い、また一般投資家の世論を相手に戦った。結果として20世紀の後半にジェントリフィケーション(高級住宅地化と低所得者の排除)が進み、家賃・地価は1990年代から急激に上昇している。生活費も上昇しており、アメリカの中でも生活費の最も高い都市の一つである。

世界の143主要都市を対象とした2008年の調査では、ボストンは生活費の高さで99位にランクされている。他方で、世界の215主要都市を対象とした2009年の調査では、ボストンは住みやすさで35位にランクされている。治安も良く、アメリカ国内でも最も安全な都市の一つとされている。2014年世界都市ランキングにおいて世界第21位の都市と評価されており、アメリカではニューヨークロサンゼルスシカゴワシントンD.C.に次ぐ第5位であった。

歴史

詳細は「ボストンの歴史」を参照

開拓・独立後の製造業

植民地時代のボストン。昔のショーマット半島は、狭い地峡だけで本土へつながり、マサチューセッツ湾とチャールズ川河口のバックベイに囲まれていた。市内でネイティブ・アメリカンらの遺跡が発掘されており、それによれば紀元前5000年から人が居住していた。

ボストンは、1630年9月17日にイングランドから来た清教徒たちの手によって、ショーマット半島に築かれた。マサチューセッツ湾植民地の清教徒は、1620年にプリマス植民地(現在のマサチューセッツ州ブリストル郡プリマス郡バーンスタブル郡)を建設した入植者(ピルグリム)と混同されることがある。しかし、両者は異なる宗教的実践を有しており、歴史的に見て別々のグループである。ボストンはオリバー・クロムウェルの台頭から当分、ロイヤリストであるアンソニー・アービー一族の地盤だった。1652年造幣局が設立されたが、まだ鉱山開発の余裕も技術もない時代であったのでずっと銀貨を悪鋳しており、1684年に本国が植民地の特許状を取り消し閉鎖してしまった。1691年10月7日、プリマス植民地をメイン植民地などと共にマサチューセッツ湾植民地に付属するという公式宣言がなされ、マサチューセッツ湾岸県が設立された。この宣言は翌年5月14日に有効になった。

ボストンは17世紀にアカディアと交易し繁栄した。カナダは麦・魚・毛皮を産した。しかし通貨供給量が足りなかった。原住民の貝殻玉を1670年まで法貨とするほどであったが、サンゴバン等のガラス製レプリカにより価値を喪失した。そこでアカディアの商人は、特産物の倉荷証券と引き換えにボストンから生活物資を調達した。ポート・ロワイヤルの要塞を守る軍靴等がボストンから調達された。ボストン商人もアカディアへ出張した。ポート・ロワイヤルに倉庫をもって、砂糖・蜜・酒・服・食器、その他日用雑貨を売った。結果としてフランスからカナダへ送られた正貨は慢性的に流出した。英仏間のアカディアは独仏間のアルザスと似て、国益より地縁と商売をとった。

地元教会と懇ろであったボストン商人Hugh Hall Jr. は、ジョン・レバレットの孫(祖父に同名、ハーバード大学7代目学長)に南海会社重役へ紹介してくれるよう頼んでいた。1720年、南海泡沫事件が起こった。 1721年から翌年にかけて、ボストンに天然痘が大流行した。接種技術は輸入された。フリーメーソンを含む人、そして物・金・郵便・病原体がボストン港で往来した。1721年と1728年には土地を担保に発券する公立銀行が設立された。市場経済に巻き込まれた農民・職人勢力の一部からも支持されて、反体制派の中産階級が通貨不足を打開するという目的で設立を推進した。1739年から1740年代初頭にかけて植民地では、銀行券を土地兌換とするか、または厳格に銀兌換とするかで、前者を支持する中産階級以下と、後者を支持する大商人・大地主との間に、深刻な対立・抗争が起こった。1741年に銀行規制法ができて、これら土地兌換銀行と銀兌換銀行の両方を解散させてしまった。ジョージ王戦争の戦費を調達するため政府証券が増発されて、銀行・通貨をめぐる改革運動は立ち消えとなった。

1774年1月、関税官吏ジョン・マルコムを襲うボストン市民。左手ではその数週間前に起きたボストン茶会事件で茶が投げ捨てられる場面が描かれている。

七年戦争が起こるころにはイングランド銀行の金融力が大英帝国を支配した。

1770年代、イギリスは主に課税面で13植民地に対する支配を強めようとした。このことが、ボストン市民をアメリカ独立戦争の開戦へ駆り立てることとなった。ボストン虐殺事件ボストン茶会事件に加え、レキシントン・コンコードの戦いバンカーヒルの戦いボストン包囲戦などの初期のいくつかの戦闘もボストンまたはその近郊で起こった。この時、ポール・リビアが英国軍の進撃を伝えるために徹夜で馬を飛ばしたのは有名な出来事である。

パリ条約が結ばれて、ロイヤリストがなじみのアカディアへ逃亡した。1784年7月5日、ジェイムズ・ボーディンジョン・ハンコックといった名望家がマサチューセッツ銀行を創立した。ジェイムズは初代頭取となった。この銀行は1928年に旧植民地信託銀行となった。翌年ファースト・ボストン(現クレディ・スイス)に買収されたが、しかしグラス・スティーガル法により再び別れた。旧植民地信託銀行は1968年パットマン報告書によるとボストンの信託資産総額における38.0%を運用した。1996年にボストン銀行となり、2005年にバンカメとなった。

合衆国が独立してからも国際貿易港であるボストンは栄え続けた。輸出品は従来と変わらずラム酒タバコなどであった。当時、初期の入植者の子孫たちは、国の社会的・文化的エリートとみなされるようになり、後にアダムズ家などを輩出しボストン旧家と呼ばれた。彼らをふくむ保守派が、1786年に起こったシェイズの反乱をきっかけとして、アメリカ合衆国憲法を制定しようとする政治活動に発破をかけた。

ナポレオン戦争中に制定された1807年通商禁止法と、1812年からの米英戦争により、ボストン・カナダ間の貿易業はかえって保護・独占的となり栄えたが、それは政府の規制がおよばなかったので戦時中も継続した。その間に製造業が市の経済の重要な要素となり、それは1800年代半ばまでに経済的な重要性において国際貿易を抜いた。1900年代初めまで、ボストンは全米で最大の製造業の中心地の一つとなり、被服・皮革製品の生産で知られた。市の周りを流れる小河川網によって市と周辺地域がつながれていたことで、商品の出荷が容易になり、工場の数は激増した。その後は、緻密な鉄道網によってこの地域の産業、商業の発展が促された。

投資家の130年にわたる大航海

1822年、ボストン市民の投票により、正式名称が"the Town of Boston"から"the City of Boston"へと変更された。1822年3月4日、市民により、市の設立憲章が受諾された。ボストンが市へ移行した当時、人口は4万6226人であり、市域はわずか12km(4.7mi)であった。1830年、ボストン旧家のエイモリー家を当事者としたHarvard College v. Amory 事件に判決が下り、ハーバード大学よりも投資家の判断が尊重された。1844年望厦条約が結ばれてからボストンの貿易が再び活気付いた。同じ年、チャールズ・グッドイヤー加硫法の特許を取得した。1851年ジョン・モルガンがボストンのイングリッシュ・ハイスクールへ入学した。

ジョン・ハンコック・タワーに反射して見えるトリニティ教会

1820年代、ボストンの人口が増えはじめた。1840年代後半のジャガイモ飢饉では多くのアイルランド人がアメリカ大陸へわたってきて、ボストン市の民族的構成を劇的に変化させた。1850年までに、ボストンに住むアイルランド人は約3万5000人に達していた。ボストン旧家のエイモリー・ローウェル(John Amory Lowell)は、当然のようにハーバード大学を卒業し、手形交換所であるサフォーク銀行(Suffolk Bank)の経営者となった。彼がボストンの銀行間に連携組織をつくり、1837年から1857年までの経済恐慌に事なきを得たので、政治と血縁による絆が従来に増して堅くなった。

19世紀後半、ボストンに住み始めるアイルランド人・ドイツ人レバノン人・シリア人・フランス系カナダ人ユダヤ系ロシア人ユダヤ系ポーランド人の数が増えていった。19世紀の終わりには、ボストンの中心部が互いに異なる民族の移民居住地でモザイク化していた。イタリア系はノースエンド、アイルランド系はサウスボストンとチャールズタウン、ロシア系ユダヤ人はウェストエンドに住んだ。アイルランド系とイタリア系の移民はローマ・カトリックを持ち込んだ。多様な民族が多様な資本をもちこみ、困窮しがちな移民を互いに独立した慈善組織が世話していたが、見かねた市は公的かつ一元的な救貧政策を打ち出した。

ドーチェスターの丘から望んだボストン(1841年)

19世紀半ばから末にかけて、ボストン旧家は手厚く文芸を支援した。ナサニエル・ホーソーンヘンリー・ワーズワース・ロングフェローオリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアジェイムズ・ラッセル・ローウェルジュリア・ウォード・ハウジョン・ロスロップ・モトリージョージ・バンクロフト (歴史家)サミュエル・モリソンラルフ・ワルド・エマーソンメリー・ベーカー・エディなどの作品が知られる。エマーソンはミルトン閨閥である。

また、ボストンは奴隷制度廃止運動の中心地ともなった。サミュエル・ジョンソンはC.F. Hovey and Co. のパートナーであったが、ともにウィリアム・ロイド・ガリソンを支援した。ボストンは、1850年逃亡奴隷法に強く反対し、1854年のバーンズ逃亡奴隷事件の後、フランクリン・ピアース大統領はボストンを見せしめにしようとした。

ボストンにとっても大不況 (1873年-1896年) は暗い時代だった。1872年ボストン大火に遭い、その焼け跡から復興しなければならなかった。1889年11月、Edward L. Cunningham というミルトン閨閥(フォーブズ家ラッセル家・ジョンソン家)の一人が自宅で射殺された。遺族Mary A. Cunningham の遺言によって、自宅の土地は1905年にカニングハム公園となった。フィデリティのエドワード・ジョンソン2世は公園管理会に参加している。1890年代、名家出身のトーマス・ローソンがいわゆるハゲタカファンドの地元ガス業界乗っ取りに手を貸した。数十人の議員に賄賂を払ったのである。1899年アナコンダ銅鉱山会社にローソンが参加した。この会社にはウィリアム・ロックフェラーだけでなくロスチャイルド家も出資をした。

1907年恐慌のときジェシー・リバモアユニオン・パシフィック鉄道株の空売りで大もうけした。1914年ジョセフ・P・ケネディColumbia Trust Company のホワイトナイトになった。このころの投資信託は常識のようにポートフォリオが非公開であった。1924年スウェーデン系アメリカンであったエドワード・レフラーが最初のミューチュアルファンドを始めようとした。しかし勤めていたMassachusetts Investors Trust は乗り気でなく、その他多くの点でもレフラーと意見が違った。そこでレフラーは12月にMIT ファンドを売る別会社をつくって距離をとった。パートナーにWilliam Amory Parker という証券マンがいた。彼は大統領を出したクィンシー家とハーバードに勝訴したエイモリー家の閨閥の出身で、仕事の大体がルートセールスだった。会社は数回社名を変えてIncorporated Investors に落ち着いた。1928年、レフラーの会社は持株会社を三つもつくった。それぞれがファンドを売って、その資金でレフラーの会社の株を買い、それを担保に銀行借入と社債発行まで行い、その資金でまたレフラーの会社の株を買った。こうして極端にレバレッジをかけてあったところへ暗黒の木曜日がやってきて、9月30日に78ドルだったのが6週間で43ドルに下落した。MIT も4割近く下がった。1932年、ステート・ストリートは資産の8割を喪失していた。1935年、連邦法案が投資信託会社のキャピタルゲインに課税を決めた。そこには、一般投資家への善意と恩恵があれば適用しないという文言が付されていた。それで、MIT 会長のMerrill Griswold がオープンエンド会計に前向きになった。ボストン旧家出身のグリズウォルドはGaston & Snow 法律事務所のパートナーだった。ニューヨークで興ったクローズドエンド型のミューチュアルファンドは議会でのロビー活動で圧倒されていた。それからオープンエンド陣営は世論を代表する証券取引委員会と何年も格闘した。1940年にようやく法整備がなされた。しかしアレゲーニー・コーポレーションのような会社がミューチュアルファンドを売っていたので、一般投資家は商品に触ろうともしなかった。この会社は鉄道資本の性なのかモルガンの息子と関係し、ペコラ委員会の標的となってスキャンダラスに倒産したA.テクノロジーの後継であった。ファンドの不振が響いて、ボストンは産業面でも低迷が続いていた。そしてボストンは1950年代にドレフュス・ファンドの台頭を許した。その発売元は後にカール・アイカーンが働くドレフュス商会(現バンク・オブ・ニューヨーク・メロン)だった。

投資環境としての開発

ボストンの埋立て事業
1775年ころ、ショーマット半島と本土は狭い地峡でつながっている
1842年、チャールズ川の埋立て前
1880年、大規模な埋立ての後

1631年から1890年までの間に、市の面積は土地の埋立てによって3倍に広がった。臨海地域に広がる湿地、沼地、波止場の切れ込みなどが埋め立てられた。これを、ウォルター・ミューア・ホワイトヒルは「丘を切り崩して入り江を埋める」と表現した。特に埋立てが進んだのは1800年代であった。1807年から、ビーコンヒルの頂上部分から取られた土で、大西洋の水面が20ヘクタール埋め立てられた。これは後のヘイマーケット・スクエア地区である。現在のマサチューセッツ州会議事堂は、こうして低くなったビーコンヒルの上に建っている。19世紀中頃の埋立てによって、現在のサウスエンド地区、ウエストエンド地区、フィナンシャル・ディストリクト、チャイナタウンの大部分が誕生した。ボストン大火の後には、その瓦礫がダウンタウンの臨海地区の埋め土に使われた。19世紀半ばから末にかけては、ボストンコモン(公園)西側に広がっていたチャールズ川の塩水を含む湿地帯2.4km近くが埋め立てられた。これに用いられたのは、ニーダム・ハイツ地区の丘から鉄道で輸送された土であった。さらに、ボストンは1868年にロックスベリー、1879年にドーチェスターを併合、1874年にはブライトン、ウェスト・ロックスベリー(現在のジャマイカ・プレイン、ロズリンダルおよびウェスト・ロックスベリーを含む)、チャールズタウンの三つの町を併合した。

ガバメント・センター

20世紀初頭ないし中頃には、工場の老朽化・陳腐化や、安い労働力を求める企業の流出に伴い、ボストンは衰退を始めた。それは第二次世界大戦から30年も続いた。そしてプロパガンダから復興事業がスタートした。ローウェル協会(Lowell Institute)が中心となり地元公共放送局(WGBH-TV)を立ち上げた。1957年に設立されたボストン再開発局(BRA)の指揮の下に、ボストンは様々な都市再開発事業を実施した。1958年、再開発局はウェストエンド地区の古い町並みを一新するプロジェクトを開始したが、広範囲にわたる取り壊しは、当局に対する市民からの猛反発を招いた。再開発局はその後、ガバメント・センターの建設などのプロジェクトにおいては都市再生の手法の見直しを行った。この点、パリ改造で近代都市計画を草分けたフランスのストラスブールと1960年に姉妹都市となったのは興味深いことである。1965年、アメリカで最初の地域医療センターであるコロンビア・ポイント医療センターが、ドーチェスター地区で開業した。同センターは、主に隣接する大規模なコロンビア・ポイント公営住宅群(1953年設立)に医療サービスを提供した。これを設立したのは、ハーバード大学のジャック・ガイガーとタフツ大学のカウント・ギブソンという2人の医師であった。1990年にガイガー・ギブソン地域医療センターとして生まれ変わり、現在も診療を行っている。

1970年代エクイティ・ファンディング事件が取りざたされる一方で、市の経済は急に上向いた。マサチューセッツ総合病院ベス・イズリアル・ディーコンネス医療センターブリガム・アンド・ウイメンズ病院などの病院は、医療技術の革新や患者ケアの分野でアメリカにおける先駆けとなった。ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)、タフツ大学、ボストン・カレッジボストン大学ノースイースタン大学といった大学の存在により、多くの学生がボストンに集まった。その一方で、1974年以降には人種差別廃止に向けたバス通学をめぐって対立が生じ、1970年代半ばには公立学校周辺でけんかや暴行事件が相次いだ。

コロンビア・ポイント半島にあるジョン・F・ケネディ図書館(2007年)

コロンビア・ポイント公営住宅は、1953年にドーチェスター半島に建設されたが計画はうまくいかず、1988年にはここに住むのはわずか350世帯となっていた。町は荒廃し、治安も悪かった。1984年に、ボストンは民間の開発業者であるコーコラン・マリンズ・ジェニソンに管理を委託し、同社の行った再開発・再活性化によって、公営住宅はハーバー・ポイント・アパートと呼ばれる、低所得者層に限らない、魅力のある居住地域となった。1988年に入居が開始し、1990年までに完成した。連邦政府の公営住宅事業が所得層を問わない民間住宅に転換した例としては、アメリカ国内初であり、1992年に始まった連邦政府の公営住宅再活性化プログラムのモデルとなった。

ボストンのダウンタウン

21世紀初頭において、ボストンは学術、科学技術、政治の各面で中心的存在となっている。しかし、ニューヨーク・タイムズ紙に買収されたボストン・グローブ紙のように、消えてしまった地元企業、ノースカロライナ州シャーロットに基盤を置くバンク・オブ・アメリカ2004年に買収されたフリートボストン・フィナンシャルのように、統合・買収によりなくなってしまった地域金融機関もある。ボストンを拠点とする百貨店であるジョーダン・マーシやフィリーンズも、ニューヨークを拠点とするメイシーズに吸収された。

メイシーズの経営者は、クーン・ローブリーマン・ブラザーズゴールドマン・サックス、他多数のユダヤ系金融機関の経営者とひとつの閨閥をつくっていた。

地理

アメリカ合衆国統計局によると、この都市は総面積232.1km(89.6mi)である。このうち125.4km(48.4mi)が陸地で106.7km(41.2mi)が水地域である。総面積の46.0%が水地域となっている。

早い時期に建設されたために、ボストンは非常にコンパクトにまとまった町である。人口が60万人を超えるアメリカの都市の中で、ボストンより陸地面積が狭いのはサンフランシスコだけである。ボストンの標準標高は、ローガン国際空港の海抜5.8m(19ft)である。最も標高の高い地点はベレビュー・ヒルの海抜101m(330ft)であり、最も低い地点は海水面である。

ボストンは、大ボストン都市圏という巨大な都市圏の中核である。同都市圏には450万人が住み、全米第10位の都市圏である。通勤圏としての大ボストン都市圏には、ロードアイランド州ニューハンプシャー州メイン州の一部も含まれ、その人口は750万人、全米第5位の合同統計地域(広域都市圏)である。隣接する市・町としては、ウィンスロップリビア ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/06/25 14:52

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