このキーワード
友達に教える
URLをコピー

ボブ・ディランとは?

【基本情報】

【出生名】
Robert Allen Zimmerman
【別名】
ブラインド・ボーイ・グラント
ラッキー・ウィルベリー/ブー・ウィルベリー
ジャック・フロスト
【生誕】
(1941-05-24) 1941年5月24日(78歳)
アメリカ合衆国
ミネソタ州ダルース
【出身地】
ミネソタ州 ヒビング
【学歴】
ミネソタ大学中退
【ジャンル】
ロック
フォークロック
フォーク
ブルース
カントリー
ホワイト・ゴスペル
【職業】
ミュージシャン
シンガーソングライター
【担当楽器】
ボーカル
ギター
ベース
ハーモニカ
キーボード
ピアノ
【活動期間】
1959年 - 現在
【レーベル】
コロムビア(ソニー)
アサイラム
【共同作業者】
ザ・バンド
トラヴェリング・ウィルベリーズ
グレイトフル・デッド
トム・ペティ
ジョーン・バエズ
【公式サイト】
www.bobdylan.com
ノーベル賞受賞者
受賞年:2016年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:米国歌謡の伝統の中に新しい詩の表現を創造したこと

ボブ・ディラン(英語: Bob Dylan1941年5月24日 - )は、アメリカミネソタ州出身のミュージシャン。出生名は、ロバート・アレン・ジマーマン(Robert Allen Zimmerman)だが、後に自ら法律上の本名もボブ・ディランに改名している。“ボブ”はロバートの愛称、“ディラン”は詩人ディラン・トマスにちなむ。70年代末には保守派のビル・グレアムの影響を強く受け、福音派(新興宗教的キリスト教)に改宗(ボーン・アゲイン)し、コンサートでブーイングを浴びたが、ソニー・ミュージックなどによれば、83年以降はユダヤ教に回帰している。2016年歌手として初めてノーベル文学賞を受賞。

風に吹かれて」「時代は変る」「ミスター・タンブリン・マン」「ライク・ア・ローリング・ストーン」「見張塔からずっと」「天国への扉」他多数の楽曲により、1962年のレコードデビュー以来半世紀以上にわたり多大なる影響を人々に与えてきた。現在でも、「ネヴァー・エンディング・ツアー」と呼ばれる年間100公演ほどのライブ活動を中心にして活躍している。

グラミー賞アカデミー賞をはじめ数々の賞を受賞し、ロックの殿堂入りも果たしている。また長年の活動により、2012年大統領自由勲章を受章している。そのほか、2008年にはピューリッツァー賞特別賞を、2016年10月には「アメリカ音楽の伝統を継承しつつ、新たな詩的表現を生み出した功績」を評価され、歌手としては初めてノーベル文学賞を授与されることが決定。発表からしばらく沈黙を守っていたが、同月28日に授賞を受け入れると発表した

Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第18位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第7位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第2位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のソングライター」において第1位を獲得している。

目次

  • 1 人物と宗教
  • 2 経歴
    • 2.1 生い立ち
    • 2.2 1960年代
      • 2.2.1 ニューヨークへの移住とレコードデビュー
      • 2.2.2 時代の代弁者とそれからの脱却
      • 2.2.3 エレクトリック・ギターの使用
      • 2.2.4 バイク事故と隠遁
    • 2.3 1970年代
      • 2.3.1 隠遁後からレコード会社移籍まで
      • 2.3.2 ツアーへの復帰
      • 2.3.3 福音派への改宗
    • 2.4 1980年代
      • 2.4.1 キリスト教三部作の終了
      • 2.4.2 アルバム「サン・シティ」、エイドへの参加
    • 2.5 1990年代
      • 2.5.1 ネヴァー・エンディング・ツアー
      • 2.5.2 7年振りのオリジナル・アルバム
    • 2.6 2000年代
      • 2.6.1 新作のNo.1獲得
  • 3 影響・語録など
  • 4 日本への影響
  • 5 ディランに影響を受けたミュージシャン
  • 6 ボブ・ディラン・ファンの著名人
  • 7 日本公演
  • 8 ディスコグラフィ
  • 9 受賞各賞
  • 10 関連項目
  • 11 脚注
    • 11.1 注釈
    • 11.2 出典
  • 12 参考文献
  • 13 外部リンク

人物と宗教

ディランは、よくメッセージソングやプロテストソングの旗手と評される。ジミ・ヘンドリックスはディランに心酔していたし、サム・クックは「風に吹かれて」を聴いて、曲が黒人ではなく白人によって書かれたことが信じられなかったと述懐した。しかしながら、このようなことを本人は迷惑に感じており、同世代については「ほとんど共通するものも無いし、知らない」と述べ、自分の詩が勝手に解釈され、運動の象徴として扱われることに辟易していると明かす。自身の関心事は「平凡な家庭を築く」「自分の子供の少年野球と誕生日パーティー」と述べている。もともとユダヤ人、ユダヤ教徒として出生したが、70年代後半にキリスト教福音派に改宗し、コンサートでは激しいブーイングを浴びた。ジョン・レノンは、ディランのキリスト教をすすめる歌詞に反発し、反対の意味のアンサー・ソングを書いている。

セント・アンドルーズ大学や、米プリンストン大学は、彼に名誉博士号を与えている。「現行の音楽をすべて忘れて、ジョン・キーツメルヴィルを読んだり、ウディ・ガスリーロバート・ジョンソンを聴くべし」と後進のアーティストに提言している。また、歌詞や自伝における引用・盗用(盗作)も数多く指摘されている。佐賀純一ジャック・ロンドンアーネスト・ヘミングウェイヘンリー・ティムロッドや、旅行ガイドからの引用も突き止められてきた。絵画は映画「パリ、テキサス」「黒い罠」の場面からの盗用が発覚している。さらにエド・クック教授は、ディラン自伝での盗用を発見し、がっかりしたと述べている。ジョニ・ミッチェルは、LAタイムズ紙のインタビューの中で、「ディランは盗作野郎で、名前も声もインチキ、まがいもの。彼と私は昼と夜みたいなもの。彼は彼。私は私。」と厳しく批判している。

2012年10月発売の米誌ローリング・ストーン(フランス語版)のインタビューで米国の人種間関係について問われた際に、「奴隷主や(クー・クラックス・)クランの血が混じっている人がいれば黒人はそれを感じ取る。そういうことは今日にも残っている。ユダヤ人ならナチスの血を感じ取り、セルビア人ならクロアチア人の血を感じるように」などと応じ、クロアチア人に対する憎悪を煽情する発言として在仏クロアチア人協議会から告訴された。2013年11月中旬、これを受けたフランス司法当局により侮辱行為と憎悪扇動の罪で刑事訴追されたが、2014年4月15日にパリの裁判所により訴えは棄却された。

経歴

生い立ち

1941年5月24日ミネソタ州ダルースに生まれる。ヘブライ語の名はシャブタイ・ツィメルマン(シャプサイ・ジスル)(イディッシュ語: שַׁבְּתַאי זיסל בֶּן אַבְרָהָם צימערמאַן‎Šabsay Zisl ben Avrohom Tsimerman)。ジスルはイスロエルの愛称。祖父母はロシアオデッサ(現ウクライナ)やリトアニアからの移民であり、父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティー)は小規模だが絆の固いミネソタのアシュケナジム・ユダヤ人の一員だった。1946年、弟デイヴィッド誕生。1947年頃、一家はヒビングに転居する。

幼少時より家にあったピアノを独習。「ラジオを頻繁に聴いていた。レコード店に入り浸り、ギターをかき鳴らし、ピアノを弾いて、自分の周りにはない別の世界からの歌を覚え」て育つ。初めてのアイドルはハンク・ウィリアムズ。ハイスクール時代はロカビリーの全盛期で、ボブもまたエルヴィス・プレスリーらにあこがれバンドを組んで演奏活動を始める。ハイスクールの卒業アルバムには「リトル・リチャードと共演すること」が夢だと記したりもしている。1959年夏、ノースダコタ州ファーゴエルストン・ガンという名でボビー・ヴィーのバンドにピアノ弾きとして入り、彼のバックでステージを数回経験する。

1959年9月、奨学金を得てミネソタ大学に入学するも半年後には授業に出席しなくなる。持っていたエレキ・ギターアコースティック・ギターに交換。ミネアポリスフォーク・シンガーとしての活動を始め、この時にボブ・ディランと名乗っていた。「ボブ」はロバートの愛称ボビーから、「ディラン」は詩人ディラン・トーマスから取ったとも、また叔父の名前であるディリオンから取ったとも述べている。アメリカ土着のブルース、ヒルビリーへの傾倒を深めていたこのころ、ウディ・ガスリーのレコードを聴き大きな衝撃を受ける。

1960年代

ニューヨークへの移住とレコードデビュー

ジョーン・バエズとディラン(1963年)
ニューヨーク・セントローレンス大学でのステージ(1963年)

1961年冬、大学を中退してニューヨークに出てきた彼は、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りをしていたが、やがてハリー・ベラフォンテのバックで初めてプロのレコーディングを経験。キャロリン・ヘスターのレコーディングに参加したことや、タイムズ紙で好意的に論評されたことをきっかけに、コロムビア・レコードジョン・ハモンドにその才能を見出され、1962年3月にアルバム『ボブ・ディラン』でレコードデビューする。しかしその年の売上は5,000枚程にとどまり、コロムビアの期待していた3分の1というセールスであった。

当初は、トラッド・フォークやブルースを中心に歌っており自作曲は少なかったが、ニューヨークで出会った人達、絵画、ミュージカル、レコード、ランボーヴェルレーヌブレイクといった象徴主義的な作風の詩人の表現技巧など、さまざまなものに創作上の影響を受け、急速に多くの新しい歌を書くようになる。「オンリー・ア・ホーボー〜トーキン・デビル」、「ジョン・ブラウン」、「エメット・ティルのバラッド」など初期作品の一部は、トピカルソングを紹介する『ブロードサイド』誌に掲載され、録音は同レーベル(後にフォークェイズ)のオムニバスに収録、ブラインド・ボーイ・グラント(Blind Boy Grunt)なる変名でクレジットされている。

アルバート・グロスマンがマネージメントに乗り出すと、幅広い活動が可能になり、ボブの楽曲を他のアーティストに提供することが考え出される。しかし一方でグロスマンとハモンドが契約をめぐって対立。2枚目のアルバムのレコーディング途中で、プロデューサーはトム・ウィルソンに交代する。1962年12月、ロックンロールそのもののシングル「ゴチャマゼの混乱」を発表しているが、あまりにイメージが違い過ぎたため早々に回収された。

時代の代弁者とそれからの脱却

1962年12月から1963年1月、初めてイギリスを訪れ、BBCのテレビドラマ「マッドハウス・オンキャッスル・ストリート (Madhouse on Castle Street)」に出演し、ロンドンのクラブで演奏。4月12日、タウンホールでソロ・コンサート。5月12日、初の全米中継であるテレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演が決まるが、リハーサル後、極右政治団体ジョン・バーチ・ソサエティを揶揄した曲「ジョン・バーチ・ソサエティ・ブルース」を省くよう指示されると、検閲的行為に怒ってスタジオを出てしまった。同月、モンタレー・フォーク・フェスティバルに出演。タイム誌は「新たなるヒーロー」と紹介した。共演したジョーン・バエズは、以後積極的にディランの楽曲を歌い行動を共にすることが多くなる。

1963年5月、セカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』リリース。6月、ミシシッピー州グリーンウッド選挙人登録集会で演奏。7月、ピーター・ポール&マリーがカバーした「風に吹かれて」がビルボード2位のヒットを記録する。同月、ニューポート・フォーク・フェスティバルに出演。8月28日ワシントン大行進で演奏。公民権運動が高まりを見せていたアメリカにおいてボブは次第に「フォークの貴公子」として多大な支持を受け、時代の代弁者とみなされるようになっていった。10月26日カーネギー・ホールでソロ・コンサート。1964年1月、アルバム『時代は変る』リリース。しかし、急進化する運動や世間が抱いている大げさな自分のイメージに違和感を持ち、次第にスタイルを変化させ、次のアルバム『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』(1964年)では、プロテストソングと呼べる曲はなくなっている。10月31日、フィルハーモニック・ホール「ハロウィーン・コンサート」(『アット・フィルハーモニック・ホール(ブートレッグ・シリーズ第6集)』(2004年)収録)。

またこのころから、ボブの楽曲をカバーするアーティストが目立つようになってきた。中でもザ・バーズによる「ミスター・タンブリンマン」はビルボードで1位を獲得している。「悲しきベイブ」、「はげしい雨が降る」、「くよくよするなよ」、「イフ・ノット・フォー・ユー ("If Not For You") 」、「はじまりの日 ("Forever Young") 」などもよくカバーされている。

エレクトリック・ギターの使用

1964年頃からマリファナなどのドラッグの影響が、コンサートやレコーディングでも見られた。ビートルズローリング・ストーンズをはじめイギリスのミュージシャンとの交流が芽生えたのもこの時期である。ただしビートルズのメンバーはハンブルク時代からドラッグ、セックス、ロックンロールを享受しており、ボブがビートルズにドラッグを教えたというのは謬説(あやまり)である。中期以降のビートルズがドラッグ体験をモチーフにしたサイケデリックな曲を多く残した。中でも特に60年代半ばのジョン・レノンはボブに傾倒し、作風から精神面、スタイルなどの面でボブに触発された(例:[1][2])。またジョージ・ハリスンとは後に生涯にわたる友情を築くこととなる。(1971のジョージバングラデシュのコンサートにも出演している。)

一方、ボブ自身もこれらブリティッシュ・インヴェイジョンに刺激を受け、1965年から1966年にかけて『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』、『追憶のハイウェイ61』、『ブロンド・オン・ブロンド』とエレクトリック楽器を取り入れた作品を矢継ぎ早に発表した。

従来のフォーク・ソング愛好者、とくに反体制志向のプロテストソングを好むファンなどはこの変化を「フォークに対する裏切り」ととらえ、賛否両論を巻き起こした。なかでも1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ボブはバック・バンドをしたがえて数曲演奏したが、トーキングブルースなどの弾き語りを要求するファンから手痛いブーイングの洗礼を受けた。そこでやむなくステージを降りた後、アコースティック・ギター一本で再登場し、観客に「お前らなんて信じない」と言い放ち、過去の音楽との決別を示唆するかのごとく「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」を涙ながらに歌いあげた、という逸話が有名である(しかし、これはあくまでサイ&バーバラ・リバコブの伝記に記述された、ややドラマティックな脚色がもたらした風説である。ブーイングはひどい音響とあまりに短い演奏だったことに対するものであり、実際には歓声もあがっていたという逸話もある。また、バンドで用意した曲だけでは時間が余ったため、アコースティック・ギターで再度ステージに戻って数曲を披露したに過ぎないという証言も存在する)。

このようなトラブルにもかかわらず、これら3枚のアルバムでボブは従来以上に新しいファン層を多く獲得した。内省的で作家性の強い原曲を、アメリカ社会のさまざまなルーツミュージックやリズム&ブルースなどのバンドアレンジに乗せたこの時期の作品が、ロック史の大きなターニングポイントとして位置づけられている。また、この頃の歌詞はアレン・ギンズバーグらの文学者からも絶賛されるようになっており、ロックの歌詞が初めて文学的評価を獲得したものとして重要である。

中でもアル・クーパーマイク・ブルームフィールドらの参加でバンド演奏を全面的に取り入れた『追憶のハイウェイ61』からのカット、「ライク・ア・ローリング・ストーン」が、キャッシュボックス誌ではじめて(そして唯一の)シングルチャートNo.1となった(ビルボードでは2位。1位はビートルズの「ヘルプ!」)。その他「寂しき4番街」が7位、「雨の日の女 (Single Edit.) 」がビルボード、キャッシュボックス誌で共に最高2位、。"「アイ・ウォント・ユー」が20位、「女の如く」が33位を獲得するなど、次々チャートアクションを記録した。しかしその記録だけでなく、今日のミュージックシーンにおいていわゆる「ディランズ・チルドレン」を自認してきた大御所ミュージシャンに、さらに多くのフォロワーが枝分かれしている事実からも「シンガー・ソングライター」という系統を確立した役割は遥かに大きいといえる。

1965年から1966年にかけて、後にザ・バンドとなるバックバンド、レヴォン&ザ・ホークスをしたがえてワールドツアーをこなす。既述のように、ここでも初期の弾き語りを求めるファンやメッセージ性の強いラディカルな曲を好む観客からのブーイング、リズムを乱すようにしむける不規則な手拍子、足踏みなどの妨害行為は収まらず、それに対し挑戦的にバンド演奏を繰り広げるボブの姿は『ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレッグ・シリーズ第4集)』(1998年)、映画『イート・ザ・ドキュメント(Eat the Document)』などに収録されている。『ロイヤル・アルバート・ホール』では、バンドが次曲の準備をしている最中に観客の一人が「ユダ(裏切り者)!」と叫ぶと、場内に賛同するような拍手やブーイング、更には逆にそれを諌める声などが起こった場面が収められている。その中でディランは「I don't believe you... You're a liar!」と言い放つと、怒涛の迫力で「ライク・ア・ローリング・ストーン」の演奏をはじめた。嵐のような演奏が終わると、放心状態だった会場からは惜しみない拍手が巻き起こったが、ボブはぶっきらぼうに「Thank you」と言い残し、そのままステージをあとにした。

またこの頃にはLSDも使用するようになっており、ビートルズやザ・ビーチ・ボーイズらと同様、作風にも大きな影響を受け、特にボブは声が大きく変化した。

この時期のアルバム未収録曲としては、「ビュイック6型の想い出 ("From a Buick 6") 」のハーモニカバージョン、「窓からはい出せ」のアル・クーパーマイク・ブルームフィールドによるセッション(当初、「Positively 4th Street」と誤記されたシングル盤が出回ったため回収。再発売され、後に『バイオグラフ』(1985年)に収録された公式バージョンはザ・ホークスとの再録音)などがある。「イート・ザ・ドキュメント」の中でジョン・レノンと彼のリムジンの中で会話を収録しようとしたが、なぜか酔っていたボブはまともな会話が出来ず呆れ失望したジョンは酷いイヤミを言うようになってしまい、最後ボブはみっともない醜態を見せ、それまでボブに傾倒していたジョンに決別を決意させてしまう結果になった。その映像はカットされたがビートルズの海賊盤のCDやビデオやDVDに収録されている。

バイク事故と隠遁

こうして最初の絶頂期を迎えていた1966年7月29日に、ニューヨーク州ウッドストック近郊でオートバイ事故を起こす。重傷が報じられ、すべてのスケジュールをキャンセルして隠遁。再起不能説や死亡説などの噂が流布した。しかし当時、ドラッグとコンサートツアーに明け暮れ、「競争ばかりの社会から抜け出したかった」ボブにとってはかえってよい休養となった。事故の三週間程前、秘密裏に結婚していたサラ・ラウンズとの間に子供が生まれ、家族以外のことには興味を持てなくなっていたボブの大きな転機である。

翌1967年からは、ウッドストックにこもってザ・ホークスのメンバーとともにレコード会社向けデモテープの制作に打ち込む。このセッション音源をもとにしたアセテート盤が配布され、マンフレッド・マンによる「マイティ・クイン ("Quinn the Eskimo (The Mighty Quinn)") 」がキャッシュ・ボックスで10位、全英シングル・チャートで1位を獲得するなど、様々なミュージシャンにカバーされて紹介された。ザ・ホークスは、ザ・バンドと名を改め、このセッションから生まれた「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「火の車 (This Wheel's on Fire) 」等の楽曲を収録し、ボブが描いた絵をジャケットにしたアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(1968年)で単独デビューする。やがてボブとザ・バンドによる膨大な未発表のデモテープがディラン宅の地下室に眠っているという噂が口コミで広がったが、その後大きな問題が生じた。副産物として『グレート・ホワイト・ワンダー (Great White Wonder) 』などの海賊盤が出回り始め、闇の一大市場となってしまったのである。なお、このデモ音源の一部は1975年にロビー・ロバートソンの手により、新たにオーバーダブを加えた改良版として『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』の題で公式発表された。

1967年にはベネルックス三国にて、地元のバンドによるコーラスをオーバーダビングした「出ていくのなら ("If You Gotta Go, Go Now") 」がシングルリリースされた。1991年リリースの『ブートレッグ・シリーズ1 - 3集』に収録されたバージョンとは全く違う、ハーモニカなしのバージョンであった。

1967年12月、前作に引き続き、ナッシュビル録音による『ジョン・ウェズリー・ハーディング』を発表。「見張塔からずっと」は、ジミ・ヘンドリックスがカバーしてヒットする。

1969年に映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌の依頼があったが、レコーディングが間に合わず、ハリー・ニルソンの「うわさの男Everybody's Talkin'」に差し替えられるということがあった。その幻の主題歌「レイ、レディ、レイ ("Lay Lady Lay") 」は結局ノン・タイアップでリリースされたが、澄んだ声と奥行きのあるサウンドのこのシングルは全米8位のヒットとなった。ボブにとって、最後のトップ10シングルである。この曲が収録された『ナッシュヴィル・スカイライン』はまさにカントリーといっていいアルバムである。このアルバムでの澄んだ歌声についてボブは、煙草を止めたら声質が変わったと述べてはいるが、次アルバムに収録された「ボクサー」では、しゃがれ声と澄んだ声の多重録音一人二重唱をやっている。12月には後に自身と同じくミュージシャンとなる息子、ジェイコブ・ディランを授かっている。

1970年代

隠遁後からレコード会社移籍まで

1970年6月、『セルフ・ポートレイト』を発表。カントリー、MORインストを含む様々なジャンルの曲を無作為に並べた実験精神溢れるアルバムで、評価をとまどう声もあったがセールスは好調であった。その直後、レコーディング拠点をナッシュビルからニューヨークに戻し、10月『新しい夜明け』を発表する。

その後、ボブはオリジナルアルバムの制作を中断。それ以降は「バングラデシュ・コンサート」への出演、ジョージ・ハリスンレオン・ラッセル、ハッピー・トラウム、アール・スクラッグス、デヴィッド・ブロンバーグ、ロジャー・マッギン、ダグ・サム等とセッションしたこと以外は沈黙を守る。

1971年発表の『グレーテスト・ヒッツ第2集』にはボブ自身のリリース条件としてレオン・ラッセル、デラニー&ボニー&フレンズとのセッションから2曲、ハッピー・トラウムとのセッションから3曲、そして未発表初期音源としてタウンホールでのライブから「明日は遠く ("Tomorrow Is A Long Time") 」を一切の手を加えない状態で収録。ベスト盤にボーナス・トラックを加える先例となる。また、同年末には久々のプロテストソングである「ジョージ・ジャクソン」を発表。A面にはレオン・ラッセルとのセッションからのビッグ・バンド・バージョン、B面にはアコースティック・バージョンを収録。当時のアメリカの放送局では歌詞に問題がある曲の場合は、そのシングルのB面をかけてお茶を濁すのが慣例であったが、このシングルはB面の方が歌詞がより鮮明に聴こえて逆に効果大であった。

1973年、ビリー・ザ・キッドを題材にした映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』への出演をきっかけに活動を再開。挿入歌「 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/10/18 00:16

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「ボブ・ディラン」の意味を投稿しよう
「ボブ・ディラン」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

ボブ・ディランスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ボブ・ディラン」のスレッドを作成する
ボブ・ディランの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail