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ポピュラー音楽とは?

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  • 独自研究が含まれているおそれがあります。(2018年6月)

ポピュラー音楽(ポピュラーおんがく、英語: popular music ポピュラー・ミュージック)とは、広く人々の好みに訴えかける音楽のことである。

目次

  • 1 概説
  • 2 歴史
    • 2.1 ポピュラー音楽の源泉
      • 2.1.1 19世紀後半のヨーロッパの大衆音楽
        • 2.1.1.1 社交ダンス
        • 2.1.1.2 オペレッタ
        • 2.1.1.3 パーラー・ミュージック(英: parlour music)
        • 2.1.1.4 ミュージック・ホール
        • 2.1.1.5 シャンソン
      • 2.1.2 植民地の混血音楽
        • 2.1.2.1 ・黒人音楽の要素
        • 2.1.2.2 カリブ海地域
        • 2.1.2.3 南米地域
      • 2.1.3 19世紀後半までのアメリカの音楽の状況
        • 2.1.3.1 植民当初から19世紀初期までの状況
        • 2.1.3.2 アメリカ民謡の誕生
        • 2.1.3.3 ミンストレル・ショー
        • 2.1.3.4 黒人霊歌
        • 2.1.3.5 吹奏楽の流行
        • 2.1.3.6 ヨーロッパからの移入文化
    • 2.2 ポピュラー音楽の誕生-19世紀末から1920年代
      • 2.2.1 ティン・パン・アレー
      • 2.2.2 ミュージカル
      • 2.2.3 ジャズの誕生
    • 2.3 ティン・パン・アレーの全盛期-1920~30年代
      • 2.3.1 新技術とポピュラー音楽①
        • 2.3.1.1 ・レコード
        • 2.3.1.2 PA
        • 2.3.1.3 ラジオ
        • 2.3.1.4 映画
        • 2.3.1.5 新技術の影響
      • 2.3.2 ティン・パン・アレーの全盛期
        • 2.3.2.1 ティン・パン・アレー
        • 2.3.2.2 ・スイング・ミュージック
        • 2.3.2.3 ・メイン・ストリームとローカル
    • 2.4 第二次世界大戦前後-1940年代~1950年代半ば
      • 2.4.1 ジャズとブルース
        • 2.4.1.1 ジャズ
        • 2.4.1.2 リズム・アンド・ブルース
      • 2.4.2 戦後の動向
      • 2.4.3 新技術とポピュラー音楽②
        • 2.4.3.1 レコードの進化・テープレコーダーの登場
        • 2.4.3.2 テレビ
    • 2.5 ロックの誕生と沈滞-1950年代半ば
      • 2.5.1 初期ロックの影響と同時代現象
    • 2.6 ポピュラー音楽史上最大の多様化-1960年代~1970年代前半
      • 2.6.1 フォーク・ソング
      • 2.6.2 ロックの復活
      • 2.6.3 ロックの多様化
        • 2.6.3.1 ・サイケデリック・ロック
        • 2.6.3.2 ・フォーク・ロック
        • 2.6.3.3 ・ブルース・ロック
        • 2.6.3.4 ・グラム・ロック
      • 2.6.4 多様化したロックの影響
      • 2.6.5 映画音楽とイージー・リスニング
      • 2.6.6 R&Bとジャズの動向
      • 2.6.7 新技術とポピュラー音楽③
        • 2.6.7.1 ・FMラジオ
        • 2.6.7.2 ・カセットテープ
        • 2.6.7.3 ・エフェクター
        • 2.6.7.4 ・シンセサイザー
    • 2.7 カリスマの時代からワールド・ミュージックへ-1970年代後半~1980年代
      • 2.7.1 商業主義への回帰-ディスコ
      • 2.7.2 パンクの誕生とロックの危機
      • 2.7.3 カリスマとへヴィ・メタル人気
      • 2.7.4 ヒップホップとラップ
      • 2.7.5 ワールド・ミュージック
      • 2.7.6 映画音楽とミュージカルとイージー・リスニング
      • 2.7.7 メイン・ストリームとローカル
      • 2.7.8 新技術とポピュラー音楽④
        • 2.7.8.1 ・ヘッドホンステレオ
        • 2.7.8.2 ・CD
        • 2.7.8.3 ・デジタルオーディオワークステーション
        • 2.7.8.4 ・デジタルシンセサイザー
    • 2.8 現代-1990年代以降
      • 2.8.1 CD全盛期
      • 2.8.2 スター不在の年代
      • 2.8.3 CD不況と音楽業界の低迷
    • 2.9 まとめ
  • 3 ポピュラー音楽の大まかなジャンル
    • 3.1 ヨーロッパ大衆音楽
      • 3.1.1 ダンス
      • 3.1.2 大衆向けオペラなど
      • 3.1.3 歌
    • 3.2 ラテン音楽
    • 3.3 初期のポピュラー音楽
    • 3.4 20世紀初頭までの黒人の音楽
    • 3.5 ジャズ
    • 3.6 カントリー系
    • 3.7 第二次世界大戦後の黒人の音楽
    • 3.8 ロック系
    • 3.9 ディスコ系
    • 3.10 ワールドミュージック
  • 4 脚注
  • 5 関連項目
  • 6 外部リンク

概説

ポピュラー音楽とは、何らかの「広く訴求力のある」音楽ジャンルに属す、人々の好みに訴求した、あらゆる時代の音楽を包括的に指す用語、等と定義づけられ、具体的にはロックポップソウルレゲエラップダンスミュージックなどが例としてあげられる。

音楽産業を通して多数の聴衆に配給されるものが典型的であり、芸術音楽とは区別される。また、伝統音楽のように典型的には学術的な形態によって伝えられたり口承によって小規模の局地的に限定された聴衆に広められる音楽とも対照的な存在である。

この用語はもともと、1880年代のアメリカ合衆国ティン・パン・アレーの音楽を指したものであった。

また、日本ではポピュラー音楽を指して和製英語で「ポップス」とも呼称する。

アメリカ合衆国では「pops」という語はボストン・ポップス・オーケストラのようにオーケストラがポピュラー音楽や映画音楽などを演奏することを示す。また俗語で「おやじさん」の意味を持つため、ジャズやポピュラー音楽界では特に勢力のあるリーダーや大人物に対する愛称としても使われる。

歴史

音楽史#ポピュラー音楽史」も参照

「ポピュラー音楽」という言葉には、広い意味・狭い意味・その他諸々異なった意味合いがあり、文脈によってこの広がりが変わったりずれたりということが起き、定義を難しくしている。

ここではポピュラー音楽を「アメリカを中心に世界的な広がりを見せている近代的な商業音楽」とやや狭く定義し、その歴史を記載する。広義のポピュラー音楽に含まれるがこの項では扱われない音楽に関しては、民俗音楽民族音楽および各国の音楽の項などを参照されたい。

ポピュラー音楽の源泉

ポピュラー音楽のルーツとして、19世紀後半のヨーロッパの大衆音楽、カリブ海及び南米の混血音楽、アメリカで誕生した音楽の3つが指摘できる。

19世紀後半のヨーロッパの大衆音楽

19世紀後半、ヨーロッパでは資本主義の興隆によって豊かな中産階級の拡大と都市部への労働人口の流入が見られた。中産階級はワンランク上の生活に憧れオペラ劇場に定席を得たり子女にピアノを習わせたりすることがステータスとなり、労働者たちは生活の安定と余暇の充実に伴って娯楽として音楽を楽しむ習慣が広まり、クラシック・大衆音楽とも大幅に聴衆を増やし、現代に近い形で多くの人の生活に音楽がとりいれられるようになった。こうした中で、主に都市部で盛んになった大衆音楽が、のちのポピュラー音楽に大きな影響を与えている。

社交ダンス

ヨーロッパではもともとダンスが盛んで、民俗音楽の中にも多くの踊りが見られるが、そこから変化したワルツワンステップなどの社交ダンスの音楽が、ギターやアコーディオンを含むバンドで演奏されるようになった。ワルツは、オーストリアの山岳地方の舞曲レントラーが洗練・発展したものだが、ヨーロッパ中に熱狂的に広まり、19世紀を代表する舞曲となった。

オペレッタ

18世紀にはすでにバラッド・オペラ(イギリス)、ジングシュピール(ドイツ)、オペラ・コミック(フランス)のような、民謡(または民謡風の単純な歌)を材料にした親しみやすいオペラが人気だったが、19世紀には喜劇的な内容の親しみやすいオペラがオペレッタ(軽歌劇)という名で人気を集めるようになった。オッフェンバックの「地獄のオルフェ」やスッペの「軽騎兵」やJ・シュトラウス2世の「こうもり」やレハールの「メリー・ウィドウ」などが挙げられる。

パーラー・ミュージック(: parlour music)

「パーラー」は「応接間」のこと。中産階級女性の間で盛んだったもので、家庭のパーラー(談話室)で家族や知り合い同士で、ピアノやギターなど家庭にあるような楽器で伴奏され歌われた。1曲1枚のシートミュージックと言う楽譜の形で販売された。

ミュージック・ホール

ミュージック・ホールとは、客が飲食を摂りながら音楽を楽しむことを目的とした施設で、パブで歌で客をもてなしたのが起源。1852年、イギリス最初の専用のホールとしてロンドンに開かれたカンタベリー・ホールは、客が飲食をとるために椅子とテーブルを並べた部分と舞台とをもっており、以後、同種のホールが全国につくられた。当初は大工業都市の労働者のビア・ホールとして生まれたものだったが、19世紀後半には飲酒よりも娯楽の方が重要になり、ユーモラスで風刺的または感傷的な歌からなる演芸を提供した。音楽だけでなく踊りやコントや手品、動物の芸、アクロバットなども演じられ、人気を博していた。1868年にはイギリスには500を超えるミュージック・ホールがあった。パリのムーラン・ルージュもミュージック・ホールである。

シャンソン

現代大衆歌謡としてのシャンソンは19世紀後半から20世紀初頭にかけて確立され、演劇的表現スタイル、反権威的現実主義、ミュゼット(同時代に誕生したダンス音楽)のアコーディオンと3拍子を伝統とする。パリやベルリンのキャバレー・カフェ・レビュー小屋などで盛んに歌われた。

こうした当時の大衆歌謡は、クラシック歌曲の通俗版としての性格をもち、歌い手も美しい声ではっきりと歌うのが普通だった。

現在「スコットランド民謡」「アイルランド民謡」などとして知られている曲の多くは、この時代にパーラー・ミュージックや酒場やミュージック・ホールの歌として人気を得たものが多く、「蛍の光」「庭の千草」「ダニー・ボーイ」「ホーム・スイート・ホーム」「アニー・ローリー」などが該当するし、フランスのシャンソンも古いもの(「さくらんぼの実る頃」など)は該当する。ロシア民謡として日本で知られている歌も、この時代の言わば歌謡曲が多く、「一週間」「カリンカ」「トロイカ」「コロブチカ」などはこの時代のものである。これらの中には売ることを目的に作曲されたものと、本当に民謡を手直ししたものが混在している。民俗音楽とポピュラー音楽の境界線はまだ曖昧であった。

植民地の混血音楽

当時たくさんあった植民地では、都市部の中産階級はヨーロッパの芸術音楽や大衆音楽をそのまま持ち込み、農村部ではヨーロッパの民俗音楽がそのまま持ち込まれていた。が、植民地での都市の発展の中で形成された周辺部のスラム地区で、黒人や先住民の音楽とヨーロッパ系の音楽が融合して新たな音楽が生まれる現象が様々な植民地で見られている。担い手は船乗りや日雇労働者、賭博師、売春婦などのいわゆるルンペン・プロレタリアート層であった。リズムの肉体性・わざと濁らせた音色や声色・楽譜通りではない何らかの即興性などの要素を特徴とする。こうした音楽はその地域のエリート層からは下級な音楽として蔑視されたが、後にヨーロッパの民衆によって価値が見いだされて世界的な流行音楽となっていった例が多い。この種の音楽の最初期のものはスリランカとインドネシアで見られるが、後のポピュラー音楽に大きな影響を与えたのはカリブ海および南米地域のものである。

・黒人音楽の要素

アメリカ大陸に連れて来られた黒人の多くは西アフリカ地域の人たちだったが、アフリカの音楽には広くポリリズムの要素が見られ、特に西アフリカの音楽はホットでテンポも速く、また数人の奏者による打楽器アンサンブルがよく見られる。中には太鼓だけではなく、金属製の打楽器も入ってリズムを明確にすることも見られる。もちろんアフリカを離れてから何世代も経ており、西アフリカの民族音楽そのままではありえないものの、根底にある「身体の奥からゆさぶってくれるようなビート」は明らかに「肉体の解放による喜びと高い精神的な喜びを合一させた」アフリカのダンス音楽のものであり、この要素はその後のポピュラー音楽まで確実に影響している。

カリブ海地域

西インド諸島では先住民がほとんど全滅しており、白人と奴隷の黒人が暮らしていた。黒人音楽とヨーロッパ音楽が融合して生み出された音楽の中で、最初に世界的に流行したのはジャズではなく、キューバのハバネラ、中でもスペイン人のイラディエールが作曲した「ラ・パロマ」だった。イラディエールは若いころに数年間キューバに住んだことがあり、そこで接したハバネラのリズムを自作に取り入れて発表し、世界的に大人気となるのみならず、様々な国の音楽に影響を与えた。ハバネラのリズムの影響はアメリカのジャズ、イタリアの「オ・ソレ・ミオ」、トルコからギリシャにかけて伝わるシルトースという踊りのリズム、アルゼンチンのタンゴなどに見られ。またジャズ発祥の地のニューオーリンズに移植された黒人奴隷の大部分は、スペイン領キューバ、フランス領ハイチなどから購入されたものであった。

南米地域

南米は全般に先住民・白人・黒人の三者が混交し、メスティソ(先住民+白人)・ムラート(白人+黒人)・サンボ(先住民+黒人)などの集団が存在する。音楽もメスティソ系とムラート系に分けられるが、それぞれの存在の比率により、メスティソ系(白人の要素が強い、メキシコ・アルゼンチンなど)・メスティソ系(先住民の要素が強い、ペルー・ボリビア)・ムラート系(ブラジル海岸部・カリブ海地域)などと分けられる。

ブラジルでは18世紀にルンドゥーという踊りの音楽が成立し、最初は野卑なものとして上・中流階層の非難を浴びたが、やがて洗練されて都会的な歌謡形式へと変化した。このルンドゥーは19世紀半ばに同じブラジルで生まれたショーロと混交し、19世紀終わりごろにサンバへと発展する。またアルゼンチンではハバネラのリズムの影響のもと、19世紀末にタンゴが生まれている。タンゴもまた世界的に広まったので例えば日本の演歌などにも影響を与えており、民衆の音楽のグローバリゼーションの最初の例と言われている。もっとも有名なタンゴ「ラ・クンパルシータ」は、24時間365日常に世界のどこかで必ず演奏されているとの伝説もあるほどである。

ルンドゥーもハバネラも付点8分音符と16分音符を組み合わせた軽く跳ねるリズム感をもち、ポルトガルもしくはスペインの音楽にアフリカ的リズム感を加味したものと考えられるが、これがその後のラテン・アメリカの音楽の基調となった。ショーロやタンゴやサンバ、後に現れるキューバのルンバなどもこのリズムの延長上にあると言える。

このようなカリブ海地域・南米地域の音楽はラテンの音楽などと呼ばれるが、これがポピュラー音楽の歴史上の要所要所で大きな影響を与え続けることになる。後にはキューバからマンボチャチャチャ、トリニダード・トバゴからカリプソ、マルティニーク島とセント・ルシアからビギン、ブラジルからボサ・ノヴァ、ジャマイカからレゲエなどが生まれ、世界的にも流行している。なお、先の分類でいえばムラート系の影響が勝っていることには留意すべきであろう。

19世紀後半までのアメリカの音楽の状況

アメリカはイギリス・アイルランドを中心とする白人移民の国だが、南部を中心にカリブ海地域から輸入された黒人奴隷を多く抱えており、それぞれの音楽を持ち込んでいる。このためアメリカは、ヨーロッパ型の芸術音楽と大衆音楽、植民地型の混血音楽の双方を国内に抱えることとなり、独自の発展を遂げていく。

植民当初から19世紀初期までの状況

植民地時代、白人入植者社会の音楽の大半はイギリスから輸入された世俗音楽や礼拝用音楽だった。18世紀半ばには東海岸ニューイングランドでオリジナルの讃美歌をつくる動きが出てきてアメリカ独自の音楽表現が生まれたが、芸術音楽はヨーロッパ出身者が依然として主導権を握っており、18世紀末にアメリカで一番人気があった曲はイギリスのイギリスの職業作曲家がロンドンの遊園地で行楽客に聴かせるために書いた歌や、英語のバラッド・オペラやコミック・オペラの中でうたわれた歌であったようである。19世紀初めにはイタリア・オペラも人気を博し、ロッシーニベリーニドニゼッティらイタリアのオペラ作曲家のアリアが、シート・ミュージックのかたちで発売されている。こうした状況を象徴するのがアメリカ合衆国国歌である「星条旗」(1814年)、独立革命中の流行歌「ヤンキー・ドゥードル」(1780年ころ)、準アメリカ合衆国国歌「アメリカ」(1831年)が全てイギリス起源の曲だということである。ただ、アメリカ独自の表現を求める努力は続いており、ニューイングランドですたれた讃美歌づくりはアメリカ南部に伝えられ、「アメージング・グレース」などの今日でも歌われる讃美歌を生み出しており、またローウェル・メーソンは1838年にボストンの公立学校に音楽教育を導入したほか、讃美歌を1200曲以上作曲している。

アメリカ民謡の誕生

農村部では、アメリカ南東部のアパラチア山脈周辺でスコットランド民謡やアイルランド民謡などのケルト音楽がアメリカ民謡の下地となっていく。これらはフィドル(ヴァイオリン)やギターやダルシマーで伴奏されていたが、やがて黒人音楽との接触からブルースの感覚やバンジョーというアフリカ起源の楽器を取り入れたり、スイスのヨーデルやチェコのポルカの要素を取り入れたりし、ブルーグラスヒルビリーカントリーなどと呼ばれるジャンルのもとになっていく。

ミンストレル・ショー

ミンストレル・ショーとフォスターとヴォードヴィル。都市部では、イギリスと同様にパーラー・ミュージックやダンスホールの音楽やオペレッタが流行しており、イギリスものが主流で専門家もロンドンで修業してくる流れが続いていたが、1820年ころにミンストレル・ショーという、白人が顔を黒く塗って黒人の真似をする差別的な喜劇が成立する。各自バンジョー・ヴァイオリン・タンバリン・ボーンズ(馬の骨などで作った一種の打楽器)で演奏しながら、コミカルな歌やセリフのやり取りをした。この頃は新移民として東欧(ロシア・ポーランド)や南欧(イタリア・ギリシャ)からの移民が急増しており、彼らは旧移民のように土地や農場を持つこともできず多くは都市の下層労働者となり、旧来のWASPと対立していた。このような新移民たちの間で、黒人を軽く見下して憂さ晴らしできるミンストレル・ショーは受け入れられていた。アメリカポピュラーソング史上最初の国際的なヒットはミンストレル・ショーから出たトマス・ダートマス・ライトの「ジャンプ・ジム・クロウ」(ミンストレル・ショーの代表的な黒人キャラクターの名)である。その音楽の多くは楽譜が出版されて商業的に成功し、アメリカの初期のポピュラー音楽をけん引し、19世紀半ばに最盛期を迎えたが、南北戦争や奴隷解放を経てミンストレル・ショーの人気は陰り、商業的には1910年ころに終焉を迎えた。

こうしたミンストレル・ショーの中から、フォスターが現れる。彼はミンストレル・ソングを書くところから経歴をスタートさせており、「おおスザンナ」「草競馬」「故郷の人々(スワニー河)」「主人は冷たい土の下に」「ケンタッキーのわが家」などは全てミンストレル・ショーのための作品である。やがてミンストレル・ソングに作曲することを恥じ、中流階級向けのパーラー・ソングに脱皮すべく方向転換し、「金髪のジェニー」「夢路より」などを残した。当時作曲家の地位は低く、低収入にあえいでいたフォスターは37歳で非業の死を遂げたが、作品の多さと現在でも歌われている親しみやすさ・その後に与えた影響から、「アメリカ音楽の父」「ポピュラー音楽の先駆者」と呼ばれている。彼の歌の作り方を、次代のポピュラー音楽の作曲家たちはこぞって「フック」(聴き手をとらえる印象的なメロディ。いわゆる「サビ」)の手本にした。

同じころ、いくつかの独立した出し物からなる舞台芸能や、軽わざ師、音楽家、コメディアン、手品師、魔術師などからなる芸人のショーがヴォードヴィルと呼ばれるようになった。イギリスのミュージック・ホールに当たるものであり、寄席演芸劇場と訳される。こうした家族で楽しめる娯楽場をアメリカに広めた最初の人物は、俳優で劇場支配人であったトニー・パスターで、1881年、ニューヨーク市の14丁目劇場でバラエティショーをおこなった。ヴォードヴィルは20世紀初頭にはアメリカで一番人気のある芸能となった。

黒人霊歌

黒人たちには18世紀後半あたりからキリスト教が普及し、白人たちもこれを黙認あるいは推奨するようになったとゴスペルとブルース。黒人たちも讃美歌で礼拝を行うようになったが、彼ら固有の音楽的な伝続からか、活気あるリズム・交互唱・叫ぶような唱法など、相当荒々しい形で礼拝を行っていたようである。奴隷だった黒人たちにとっては、教会での礼拝は唯一白人の監視がなく過ごせる場所であり、社交とエンターテインメントの場所でもあった。日曜日の黒人の礼拝のようすを描写した当時の記録によれば、輪になって踊りながらすり足で時計と反対方向に回り、リーダーと会衆とが掛合いで歌い(交互唱)、興奮が高まって憑依状態に達することもあった(リング・シャウトという)。歌といっしょに指をパチパチ鳴らしたり、手拍子をうったり、床を踏みならしたりということも見られ、その中にはポリリズムが含まれる。こうした黒人たちの讃美歌は、白人の讃美歌の歌詞や旋律を黒人のリズム・交互唱・シャウトにはめ込んだものと言える。

1863年の奴隷解放以後には、そこから黒人霊歌と呼ばれるジャンルが生まれる、これは白人がリーダーになってヨーロッパの讃美歌風の和音をつけ、楽譜として売り出したものであり、多くの曲が知られているが純粋に黒人のものとは言えず、黒人の礼拝から再度白人の要素を重点的に抽出したものと言える。それに対して黒人たち本来のものに近い讃美歌はゴスペルと呼ばれ、南部および北部・東部都市の黒人居住区に数多く生まれた黒人教会を拠点として独自の宗教音楽が発展を続けた。

同じく奴隷解放後には、南部農業地帯の黒人たちが抑圧の中で味わった個人的感情を呟くように吐き出す歌としてブルースが発生し、ギターの伴奏を伴う中でヨーロッパの和声構造を身につけていく。標準的なブルースの定型は、A A B の3行から成る詩を12小節に収め、各行ごとに後半でギターが歌の間に即興的に割り込む形になっている。音づかいとしてはブルー・ノートと呼ばれる黒人音楽の特質を示す音階(ミとシ(さらにソも)がときに低めの音になる)に特徴がある。

吹奏楽の流行

アメリカではイギリスやヨーロッパの影響で、18世紀末ころから鼓笛隊などが生まれ、南北戦争の頃にブラスバンドが盛んになり、19世紀後半には博覧会場や公園などで演奏する商業バンドが発達した。特にアメリカ海兵隊バンドの楽長だったジョン・フィリップ・スーザが退役してつくったスーザ吹奏楽団が1892年に活動を開始すると、その演奏水準の高さから大人気となった。19世紀末にアメリカで一番有名だった音楽家は、「行進曲王」の名で世界に知られたスーザだった。同じ頃、バス・ドラムの上にシンバルをセットしたり、バス・ドラムをペダルで演奏するドラムセットの基本アイデアが生まれ、リズムセクションの人数を減らすのに貢献した。

ヨーロッパからの移入文化

19世紀後半、東部の都市では、J・シュトラウス2世レハールオッフェンバック、それにロンドンのギルバートとサリバンによるオペレッタが移入され、人気を博した。

同じ時期、物語性がなく、歌、ダンス、コメディの寸劇などが演じられるショーとして、レビューが劇場や上流階級用のサロンなどでもてはやされていた。レビューは語源的には〈再見〉を意味するフランス語がジャンルの名となったもので、1820年代のパリで年末にその年のできごとを風刺的に回顧するために演じられた出し物を起源とする。その後、上演時期に関係なく、おおむね風刺的な内容の短い場面をつないだ芸能を指すようになった。

ワルツ王J. シュトラウスは、〈ウィンナ・ワルツ〉の名曲を数多く作ったが、熱狂的にヨーロッパに広がったこのワルツはアメリカに渡り、ゆるやかなボストン・ワルツが生まれた。

18世紀末から19世紀末にかけて、アメリカの領土は約3倍に、人口は移民や新領土獲得に伴う増で約14倍になっている。こうした中で文化的な統一など望むべくもないが、このように様々な民俗音楽の伝承が相互接触して文化変容するところから、多様なジャンルが生まれてくることになる。

ポピュラー音楽の誕生-19世紀末から1920年代

最初に定義したポピュラー音楽の「近代的な商業音楽」という要素が明確になるのが、1880~90年代の「音楽の商品化システム確立」である。この商品化システムは、自然発生的でローカルな他ジャンルを取り込みつつ発展していく。アメリカは第1次世界大戦の影響をほぼ受けておらず、史上最高の繁栄を見せた時期だったこともこれを後押しし、第1次世界大戦後から大恐慌までの戦後の繁栄と享楽は「ジャズ・エージ」とも呼ばれる。

ティン・パン・アレー

フォスターの時期、つまり19世紀半ばにすでに幅広い活動を行っていた楽譜出版業界は、1880~90年代にはニューヨーク、特にマンハッタンの下町の〈ティン・パン・アレー〉と呼ばれる通りに集中し、音楽を商品化するシステムを確立した。業者が作詞家に具体的な詞の内容にまで注文をつけて作詞させ、作曲家にも細かい指示のもとに作曲させて、その曲を楽譜に印刷して販売し、曲が話題になるように宣伝マンに店先などで歌わせ、その曲が人々に広く歌われれば楽譜が売れて商業的に成功する、という仕組みだった。

この商品化のシステムでは、最初から流行しそうな曲を作詞家作曲家に書かせるための〈プロデュース〉と、それを多くの人に覚えてもらい流行させるための〈プロモーション〉という二つの作業が重要なポイントとなる。プロモーションがうまく行くよう、その曲を人気芸人に歌ってもらい、それに対して謝礼を支払うのを〈ペイオーラ〉と呼んだ。〈ティン・パン・アレー〉は直訳すれば「錫鍋小路」となり、それぞれの会社で試演を行っていたため大変にぎやかだったことからついた名前であるが、のちにポピュラー音楽業界を指すようにもなった。

曲は8小節×4行の32小節が標準で、ティン・パン・アレーの出版社が楽譜を売り、レコード会社はオーケストラ伴奏で録音し、片面1曲ずつのシングル盤として売り出すのが当時の典型的な発表方法だった。このような形の音楽がポピュラー・ソングと呼ばれ、このティン・パン・アレーによって生産される音楽が「メイン・ストリーム」(主流)音楽として幅を利かせ、彼らの確立した生産・販売システムは、その後レコード業界にも踏襲され、1950年代半ばまでアメリカ音楽業界を支えた。この「ポピュラー・ソング」は、最狭義のポピュラー音楽の定義でもある。

こうしたシステムのもと、チャールズ・K・ハリス作の「舞踏会のあとで」(1892)の楽譜は史上はじめてミリオン・セラーを記録し、楽譜出版産業の急成長をうながした。同時期に大衆芸能の主流となったヴォードヴィルでは、人気歌手たちが全米を巡業して、ティン・パン・アレー産の歌を大衆に普及させた。

ティン・パン・アレー流の商業主義路線はアメリカのポピュラー音楽の特徴で、ヨーロッパのような「国民の大多数に共通の文化基盤」が存在しないアメリカでは、自然発生的に何かの音楽が大流行と言うことは大変起こりにくく、楽譜会社・のちにはレコード会社が企画して流行らせる音楽がメインという状況が続いていく。もちろん意図しないところから意図しない曲が大流行することはあり、またティン・パン・アレー側の企画も大外れする場合も多く、常にうまく行っているわけではなかったが、ニューヨークの音楽会社が商業的に流通させるのがアメリカのポピュラー音楽だ、と言う流れはこの頃に確立した。

ミュージカル

ミュージカルは「ミュージカル・コメディ」の略。19世紀半ばに現れ、20世紀前半にニューヨークのブロードウェーを中心にしてアメリカで発展した。オペレッタ、パントマイム、ミンストレル・ショー、ヴォードヴィルなど、19世紀のさまざまな演劇から影響をうけて成立した。元来はコメディの名の通り、他愛のない喜劇的な物語をもっぱら扱っていたが、内容が深刻さを増したり、本格的な演劇性を獲得したりするにつれ、単にミュージカルと呼ばれるようになった。分かりやすい物語と親しみやすい音楽、時にはスペクタクル溢れる装置やコーラス・ガールの肉体的魅力などの視覚的要素で観客にアピールする、ショー・ビジネスが盛んなアメリカにふさわしい、費用の掛かる贅沢な舞台芸術である。

当初はその名の通り、形ばかりの物語で歌や踊りをつないだたわいのない恋愛劇や笑劇と、ヨーロッパ出身の作曲家によるオペレッタ風の作品が多かった。しかし1927年の「ショー・ボート」で、現実感のある舞台に人種差別などの社会問題を盛り込んだ物語でミュージカルに文学性が持ち込まれ、以後は都会的機知と文学性に富んだミュージカルが多く作られた。

ジャズの誕生

黒人たちの音楽では、1890年代にラグタイムが誕生した。これは、ピアノの右手にアフリカ音楽に起因するシンコペーションを多用したメロディ、左手にはマーチに起因する規則的な伴奏を組み合わせたもので、ミンストレル・ショーの歌を母体に発展してきた。1900年前後に活躍していたスコット・ジョプリンという黒人ピアニストが、1899年に「メイプル・リーフ・ラグ」を発表し、1902年には「ジ・エンターテイナー」を発表している。20世紀初めの10年ほどの間は、このラグタイムとブルースが商業的にヒットしていた。

同じく1900年代には、ニューオーリンズの元奴隷の黒人たちが始めたブラスバンドが不思議とスウィングするリズムがあるとして評判になり、白人のバンドに真似されたり、そのままのスタイルでダンスホールに雇われたりするようになる。これがジャズの誕生である。ニューオーリンズの初期のジャズ(ディキシー・ランド・ジャズと言う)で一番目立つのはブラスバンドの行進曲の要素だが、これまでに出てきたブルース(特にブルー・ノートと言われる音階)、ラグタイム、黒人霊歌の要素を含んでいる。また、どのバンドにもクラシック音楽の素養を身につけたクレオール(白人と黒人の混血の人)がいて、楽譜も読めない元奴隷たちにできるだけの指導を行っていた。ディキシー・ランド・ジャズはトランペット・クラリネット・トロンボーン・ピアノ・ベース(もとはチューバ)・ドラム・ギター(もとはバンジョー)が標準的な編成で、決まったコード進行が繰り返される中、管楽器たちが即興演奏を行い、その時にはシンコペーションやスイングでリズムを豊かにするような工夫が行われる。ジャズも様々なスタイルがあるが、この即興とスイングの要素はどのジャズにも見られる。

ラグタイムやジャズは、黒人の音楽ではあるがヨーロッパ音楽の要素も多く含んでおり、メイン・ストリーム側とすぐに接触が生じ、ティン・パン・アレーからラグタイムやジャズの曲が売り出されて人気を得たり、逆にティン・パン・アレーの曲をジャズ・ミュージシャンが演奏したりということが盛んに見られるようになった。ジャズは本質的には「演奏テクニック」であり、どんな曲でも演奏できる代わりに必ず何か「元ネタ」を必要とする。ティン・パン・アレーの曲は「元ネタ」としてよく使われた。この後1940年代まで、ジャズは時代の主役となっていく。

ラグタイムやジャズは当時のアメリカ人たちの間では芸術的な価値は認められておらず、「黒人たちのやっているわけのわからない音楽」と思われていたようである。しかし、その価値はむしろヨーロッパのクラシック系の作曲家に認められた。ドビュッシーミヨーは明らかにラグタイムやジャズの影響を受けた作品を残している。

1910年~20年にかけて産業構造が農業から工業に転換するにつれてアメリカでは南部から北部への人口の大移動が起こり、それに合わせるように多くのジャズメンがニューオーリンズからシカゴに移動する。シカゴでは天才トランペット奏者のルイ・アームストロングが全てのジャズ奏者と編曲者に甚大な影響を与え、ジャズの時代を築く。1920年頃にはドラムセットにハイハットが加わり、現在とほぼ同様のリズムパターンが出せるようになった。

ティン・パン・アレーの全盛期-1920~30年代

新技術とポピュラー音楽①

・レコード

1887年に発明された円盤型レコードは徐々に浸透し、1925年の電気録音方式の導入による音質向上にも後押しされ、1920年代半ばにはアメリカ全土でレコードは年間1億枚以上を売り上げるようになった。

PA

電気録音導入以前は歌手は声が大きくなければならなかったが、マイクロホンの導入により、声量がなくてもマイクを効果的につかって表情が出せるようになり、ビング・クロスビーなどによってソフトにささやくようにうたうクルーニング唱法(クルーンには感傷的にうたうという意味もある)が広まった。オペラのように、肉声で遠くまで響き渡らせようとすると不可能なささやくような歌い方は、現在のポピュラー曲でも多用されているが、音響・録音技術の進歩と不可分だった。やがてポピュラー音楽は実演のステージでさえも、拡声装置(PAシステム public address system)が切り離せなくなっていく。

ラジオ

同じく1920年代にはラジオ映画が浸透し始め、これがポピュラー音楽を大衆に伝えるのに大きな役割を果たすことになる。ラジオは当初レコードと競合すると思われていた。しかしレコードはラジオの番組制作簡略化に貢献しただけでなく、音楽が放送されることによって、多くの新たな聞き手を獲得した。

映画

映画産業は2

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出典:wikipedia
2019/09/17 00:05

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