このキーワード
友達に教える
URLをコピー

ポリネシアとは?

ポリネシア(紫),ミクロネシア(赤),メラネシア(青)
ポリネシアの地理的定義

ポリネシア(Polynesia)は、オセアニアの海洋部の分類の一つである。太平洋で、概ねミッドウェー諸島(北西ハワイ諸島内)、アオテアロア(ニュージーランドマオリ語名)、ラパ・ヌイ(イースター島)を結んだ三角形(ポリネシアン・トライアングル)の中にある諸島の総称で、2017年の人口は約700万人。

目次

  • 1 概要
    • 1.1 域外ポリネシア
  • 2 歴史
    • 2.1 ポリネシアへの人間居住
    • 2.2 南米との交流の可能性
    • 2.3 トンガ大首長国
    • 2.4 ヨーロッパ人の到来
    • 2.5 ポリネシア社会の変容
    • 2.6 植民地化
    • 2.7 第二次世界大戦
    • 2.8 現代のポリネシア
  • 3 民族
  • 4 ポリネシア文化
    • 4.1 「ハワイキ」
  • 5 自然
  • 6 脚注
  • 7 参考文献
  • 8 関連項目

概要

イースター島モアイ
ハワイ火山国立公園
ボラボラ島の水上コテージ

ポリネシアはギリシャ語のポリ(πολύς 多くの)ネソス(νῆσος 島)から、「多くの島々」の意味である。ポリネシアという用語は1832年フランス海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィル(Jules Dumont d'Urville)が、メラネシアミクロネシアとは違うこの地域の民族的・地理的分類のために使い始めた。

なお、ポリネシアに含まれる国と地域は以下の通りである。

主権国家
以下の2国はニュージーランドの自由連合国である。
フランス
アメリカ合衆国
ニュージーランド
イギリス
チリ

域外ポリネシア

ウベア島
レンネル島のテンガノ湖

域外ポリネシア(Polynesian outlier)と呼ばれる、ポリネシア文化を保持した島々がミクロネシアおよびメラネシアに点在している。域外ポリネシアには、ポリネシア・トライアングル内では失われてしまった古代の知識が継承されている地域があり、特にソロモン諸島に属するサンタ・クルーズ諸島タウマコ島(Taumako)は、古代ポリネシアの航法技術(後述)に最も近い技術を継承している地域として注目を集めている。域外ポリネシアとされる島は以下の通りである。

ツバル系
フツナ
その他

歴史

ポリネシアへの人間居住

ポリネシア人の移住ルート

ポリネシア人の祖先はオーストロネシア語を話すモンゴロイド系の民族で、その祖先は台湾に定住していた。紀元前2500年頃、一部のグループが台湾から南下を開始し、フィリピンを経て紀元前2000年頃にインドネシアスラウェシ島に到達した。ラピタ人と称される原ポリネシア人は、ここからニューギニア島沿岸およびメラネシアへと東進し、紀元前1100年頃にはフィジー諸島に到達した。現在、ポリネシアと呼ばれる地域への移住は紀元前950年頃からで、サモアやトンガからもラピタ人の土器が出土している。サモアに到達した時点でラピタ人の東への移住の動きは一旦止まるのだが、その間にポリネシア文化が成立していったと考えられている。

再び東への移住を開始するのは1世紀頃からで、ポリネシア人たちはカタマランアウトリガーカヌーを用い、エリス諸島マルキーズ諸島ソシエテ諸島にまず移住した。その後、マルキーズ諸島やソシエテ諸島を中心に300年頃にイースター島、400年頃にハワイ諸島、1000年頃にクック諸島やニュージーランドに到達した。なお、ポリネシア人たちは太平洋各地に拡散したのちも、ウェイファインディング(スターナビゲーション)という高い航法技術によって互いに行き来が行われていた。

南米との交流の可能性

チリ南部のチロエ島で行われているクラント

ポリネシアと南米の間で航海が行われた確実な証拠は見つかっていない。しかし、ポリネシア人の主食のひとつであるサツマイモは南米原産であり、ヨーロッパ人の来航前に既にポリネシア域内では広くサツマイモが栽培されていた。そのうえサツマイモは、アンデス地方ケチュア語族ではクマル(Kumar)、ポリネシアのトンガ語ではクマラ(Kumala)と呼称される。そのほかに、ポリネシアやミクロネシアで一般的な、肉類やイモなどの食材をバナナココヤシの葉で巻いた後、焼け石とともに土中に埋めて蒸し上げるウム料理という調理法は、ペルーパチャマンカ(Pachamanca)やチリ南部チロエ島クラント(Curanto)として南米の太平洋沿岸地域にも存在するなど、古代ポリネシア人が南米までの航海が行った可能性は否定できない。

ペルー太平洋岸の民族にはポリネシアとの交流を示唆する伝承が存在する。インカ帝国の10代サパ・インカ(皇帝)であるトゥパック・インカ・ユパンキは、1480年頃に20,000の兵力で太平洋上の「ニナ・チュンピ(炎の帯)」、「ハフア・チュンピ(離れた帯)」の2つの島に遠征し、財宝を持ち帰ったとされている。またこれに対し、ポリネシア側でもトゥアモトゥ諸島に東からトパという英雄が来航したという伝承がある。更に、インカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)の従兄弟であるペドロ・ピサロ(Pedro Pizarro)が1570年に残した記録には、「ペルー太平洋岸の民族は海の向こうと交流を行っていたが、今(1570年)では大海流(フンボルト海流)によって妨げられて接触が断たれている」との記述がある。

また、ノルウェーの人類学者であるトール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl)はポリネシア人の南米起源説を提唱し、1947年コンティキ号というでペルーのカヤオ沖80kmの地点からトゥアモトゥ諸島ラロイア環礁まで、6,980kmの距離を101日で航海した。

しかし2014年に、ポリネシアの遺跡で出土したニワトリの骨から検出したミトコンドリアDNAと、南米の古代と現代のニワトリのミトコンドリアDNAの比較解析が行われた結果、両者に遺伝的関連性はみられなかった。

トンガ大首長国

ハアモンガの石門
詳細は「トンガ大首長国」を参照

10世紀頃、サモア人を両親に持つアホエイトゥ(ʻAhoʻeitu)によってトンガが統一され、トンガ大首長国(Tu'i Tonga トンガ帝国)が建国された。トンガ大首長国は12世紀頃、第9代大首長モモ(Momo)と第10代大首長トゥイタトゥイ(Tuʻi-tā-tui)の時代に拡張政策を行い、トンガのほかにサモア諸島フィジー諸島、果てはサンタクルーズ諸島のティコピア島にまで至る大帝国を築き上げた。

15世紀頃、暴君であった第23代大首長タカラウア(Takalaua)の暗殺を機に、トンガ大首長国では宗教的な権力と世俗的な権力が分離した。そのため、従来のトゥイ・トンガ(大首長)の称号のほかに世俗的な権力を担うトゥイ・ハアタカラウア(Tuʻi Haʻatakalaua)の称号が誕生し、それぞれタカラウアの長男であるカウウルフォヌア1世(Kau'ulufonua I)とその弟モウンガモトゥア(Mo'ungamotu'a)の家系が世襲することになった。しかしこの後、内乱によってトンガ大首長国は衰退し、1600年頃にはマリエトア一族によって、サモアでの影響力を失った。

1610年頃、新たにトゥイ・カノクポル(Tuʻi Kanokupolu)が誕生する。トゥイ・カノクポルは第6代トゥイ・ハアタカラウアの分家であったが、やがてトゥイ・ハアタカラウアと世俗的な権力を巡って競合するようになった。

ヨーロッパ人の到来

ジェームズ・クック

ヨーロッパ人による最初の太平洋航海は、1521年スペインフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)が行った航海であるが、マゼラン艦隊はトゥアモトゥ諸島やライン諸島の無人島に接触したのみで、ポリネシア人には接触しなかった。ヨーロッパ人による本格的なポリネシア探検の始まりは、1642年アベル・タスマン(Abel Tasman)が、オランダ東インド会社の依頼を受けて行った探検である。タスマンはこの探検でニュージーランド南島やトンガに到達し、マオリ人とは敵対したが、トンガ人とは友好的な交流を行い、トゥイ・ハアタカラウアに謁見している。また1722年ヤーコプ・ロッヘフェーン南方大陸探索のために太平洋を探検し、イースター島、ボラボラ島、サモアに到達している。

1768年イギリスサミュエル・ウォリス(Samuel Wallis)は初めてタヒチに到達したヨーロッパ人となった。その10箇月半後にはフランスルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル(Louis Antoine de Bougainville)もタヒチを訪れている。

ポリネシアの残りの地域の詳細が判明するのは、1768年から1780年にかけて行われたジェームズ・クック(James Cook)による3回にわたる探検航海である。クックはタヒチ、ニュージーランド、トンガのほか、1778年の第3回航海の途上でハワイ諸島に到達している。なお、第3回航海に参加したウィリアム・ブライ(William Bligh)は、1787年バウンティ号(HMS Bounty)の船長になるが、1789年4月28日にトンガ沖で乗組員による反乱事件を起こされている。この事件はバウンティ号の反乱(Mutiny on the Bounty)といい、バウンティ号を追放されたブライ以下19人は、ボートで6,701km離れたティモール島にたどり着き生還する。一方、反乱を起こした乗組員たちはタヒチに戻り、16人はタヒチに残留したが、8人はタヒチ人の男女を船に乗せて無人島であったピトケアン島に移住した。

また1804年には、ロシア帝国ニコライ・レザノフ(Николай Резанов)が指揮する2隻の艦隊が、マルキーズ諸島ヌク・ヒバ島とハワイに寄港した。2隻のうちのナジェジダ号(Надежда)には、陸奥国牡鹿郡石巻(現:宮城県石巻市)出身の津太夫善六若宮丸漂流民5名が乗っており、確実な記録に残っている中では、若宮丸漂流民5名が初めてポリネシアを訪れた日本人である。

ポリネシア社会の変容

1774年ソシエテ諸島フアヒネ島

18世紀後半以降、ポリネシアの探検が一通り終了したことにより、捕鯨船商人宣教師がポリネシアに姿を見せるようになった。

捕鯨船はポリネシアの社会に大きな影響を与えた。18世紀から19世紀初頭にかけての捕鯨船員は、強制徴募によって集められた者が多かったため、その質は劣悪であった。こうした捕鯨船員たちの中には寄港地で脱走を図ったり、また船長に置き去りにされるケースもあったため、ポリネシアの島々に性病のほか天然痘はしかインフルエンザなどの伝染病をもたらし、抵抗力を持たないポリネシア人の人口は激減した。

初期の商人たちは、島民との交易のほか、中国で珍重されている白檀ナマコを目的としており、首長を人質にとって島民を使役するなど暴力的な手段に出ることもあった。また、商人たちはマスケット銃をポリネシアにもたらしたため、いち早く銃を入手した勢力によってハワイ王国やタヒチのポマレ王朝のような統一王朝が建国された。やがて商人たちは、土地所有権という概念の薄い島民たちから、契約によって土地を入手または賃借し、コプラサトウキビコーヒー綿などの換金作物をポリネシアに持ち込み、農園主となる者が現れた。また19世紀後半に、化学肥料の原料としてグアノが有用であることが判明すると、その採取も行われた。こうして誕生した農園では、当初は島民たちが労働者として導入されたものの、前述の事情からポリネシア人の人口は激減しており、働き手が足りなかったため、中国人インド人日本人フィリピン人などの移民が招聘されることになった。このような移民たちは苦力と呼称され、低賃金で過酷な労働を強いられた。また反対に、ポリネシア人たちがブラックバーダー(Black-birder)と呼ばれる人身売買専門の商人に拉致され、ペルーなど南米の鉱山で強制労働させられるケースもあったが、国際的な批判もあり、1864年に禁止された。

宣教師によるキリスト教の布教は、1797年にタヒチでプロテスタントの布教が行われたのが嚆矢である。ほどなくカトリックの布教も始まり、プロテスタント勢力のバックにはイギリスとアメリカ、カトリック勢力のバックにはフランスがつき、それぞれポリネシアの首長層の紛争にも介入した。トンガは1799年以降、トゥイ・トンガ、トゥイ・ハアタカラウア、トゥイ・カノクポルの間で三つ巴の内戦が勃発し、最初にトゥイ・ハアタカラウアがトゥイ・カノクポルに敗れ消滅した。1826年ハアパイ諸島の首長であったタウファアハウ(Taufa'ahau)にプロテスタントの宣教師が接近した。タウファアハウは軍事的な支援と引き換えにプロテスタントに改宗し、イギリス風にジョージ・ツポウ1世(George Tupou I)と改名した。これに対して、第39代トゥイ・トンガであるラウフィリトンガ(Laufilitonga)もカトリック勢力を味方につけ、ジョージ・ツポウ1世と対立した。両勢力は同年にリフカ島で決戦を行った結果、ジョージ・ツポウ1世が勝利した。ジョージ・ツポウ1世はその後もキリスト教に反対するトンガタプ島の首長勢力から抵抗に遭ったものの、1845年に第18代トゥイ・カノクポルであるアレアモトゥア(Aleamotuʻa)から禅譲を受け、第19代トゥイ・カノクポルとなりトンガを統一した。

植民地化

19世紀のポリネシアは、ハワイやトンガ、タヒチのように中央集権的な王国が誕生している地域もあったが、在地勢力の統一が成されていない地域も数多く存在した。

詳細は「ニュージーランドの歴史」を参照

ニュージーランドは、19世紀前半からイギリス人の入植者が多数流入しており、1840年2月6日ワイタンギ条約によってイギリスの植民地となった。ワイタンギ条約はニュージーランド総督代理のウィリアム・ホブソン(William Hobson)とマオリ人の首長たちの間で締結された条約であり、第2条でマオリ人の土地所有を保障したものであったために500人あまりの首長がワイタンギ条約に署名した。しかし、入植者たちは羊毛を輸出するために牧畜を導入し、大規模な土地買収が行われるようになったため、1864年の時点で南島の土地の99%が入植者の所有する土地となっていた。これに対してマオリ人たちは反撥し、1845年ニュージーランド戦争(マオリ戦争)が勃発し、武力衝突が始まった。戦争は1861年4月に一時休戦するも、その後もマオリ人によるゲリラ的な抵抗が続き、完全に鎮圧されるのは1872年であった。ニュージーランドの白人人口はこの後も増加し、1907年9月26日にニュージーランドはイギリスの自治領(Dominion)となり、独自の政府を持てるようになった。イギリスはこの後、ニュージーランド以外のポリネシア各地域の植民地化を進め、1872年にはイギリス領西太平洋領土(British Western Pacific Territories)を成立させ、クック諸島、ニウエ、エリス諸島、トケラウをこれに含めた。また、トンガも1900年にイギリスの保護国となった。

フランスは19世紀前半からタヒチのポマレ王朝に対する干渉を強めていった。ポマレ王朝は成立以来プロテスタントの影響下にあったが、1836年ポマレ4世がフランス人宣教師2名を国外追放処分にしたことをきっかけに、フランスはポマレ王朝に対する干渉を強めていった。1843年、フランスはポマレ王朝に対し保護条約の批准を要求したが、ポマレ4世はこれに反対し、反対派による武力闘争が行われた。しかし、1847年8月5日にポマレ4世はフランスと保護条約を締結した。その後、ポマレ王朝はポマレ5世が王位を継承するものの、パナマ運河の開通を睨んだフランスによって1880年に併合協定に署名させられ、ポマレ王朝はフランス領ポリネシアの一部となった。また、ウォリス・フツナに存在するアロ首長国ウベア首長国シガベ首長国の3つの王国(首長国)も1888年にフランスの保護国となり、1917年に併合された。

ハワイ王国カラカウア王のであるカイウラニ王女。日本の山階宮定麿王との縁談話があった。
詳細は「ハワイの歴史」および「ハワイ併合」を参照

ハワイは、カメハメハ3世の治世下である1840年憲法が定められ、国際的に独立国家として承認されていた。しかし、経済的な実権はイギリス人やアメリカ人に握られており、1850年に外国人の土地所有権が認められていた。1872年に親米派のルナリロが国王となると、ハワイはアメリカへの傾斜を強めていき、1875年6月3日には米布互恵条約が締結され、ハワイの全ての生産品は非課税でアメリカ合衆国本土への輸出が可能となった。1887年ロリン・アンドリュース・サーストン(Lorrin Andrews Thurston)率いる安全委員会(Committee of Safety)は、カラカウア王に対して新憲法の採択を承認させた。この新憲法によって国王が議会に対して持っていた拒否権が剥奪され、さらに外国人参政権も認められた反面、アジア系移民に対する参政権は剥奪された。武力を背景に採択され

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/09/21 09:51

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「ポリネシア」の意味を投稿しよう
「ポリネシア」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

ポリネシアスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ポリネシア」のスレッドを作成する
ポリネシアの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
無料コミックを探す
占い・診断
着メロを探す
GAMEを探す
デコメを探す
きせかえツールを探す
FLASH待ち受けを探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail