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ポルトガルとは?

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ポルトガル共和国
República Portuguesa
República Pertuesa



(国旗) | (国章)
国の標語:なし
国歌:A Portuguesa(ポルトガル語)
ポルトガルの歌
公用語
ポルトガル語ミランダ語
首都
リスボン
【最大の都市】
リスボン
政府
大統領
マルセロ・レベロ・デ・ソウザ
首相
アントニオ・コスタ
面積
【総計】
91,985km(109位)
【水面積率】
0.5%
人口
【総計(2009年)】
約10,640,000人(75位)
人口密度
114人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2008年)】
1,661億ユーロ (€)
GDP (MER)
【合計(2008年)】
2,444億ドル(33位)
GDP (PPP)
【合計(2008年)】
2,359億ドル(40位)
【1人あたり】
22,189ドル
独立
レオン王国より独立 1128年
ポルトガル王国成立 1139年
【レオン王国国王が承認】
1143年
ローマ教皇が承認 1179年

通貨
ユーロ (€) (EUR)
時間帯
UTC ±0(DST:+1)
ISO 3166-1
PT / PRT
ccTLD
.pt
国際電話番号
351
  1. ^ IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
  2. ^ 1999年以前の通貨はエスクード
  3. ^ ポルトガルのユーロ硬貨も参照。
  4. ^ アソーレス諸島はUTC-1(DST: ±0)。

ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、ポルトガル語: República Portuguesaミランダ語: República Pertuesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペイン国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島マデイラ諸島を領有している。首都はリスボン

ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国日本など東アジアとの接触を持った。

目次

  • 1 国名
  • 2 歴史
    • 2.1 先史時代とローマ化
    • 2.2 ゲルマン諸王国とイスラームの侵入
    • 2.3 ポルトガル王国の盛衰
    • 2.4 近代のポルトガル
    • 2.5 共和制の成立とエスタド・ノヴォ体制
    • 2.6 カーネーション革命以降
  • 3 政治
    • 3.1 統治機構
    • 3.2 最近の政治状況
  • 4 軍事
  • 5 国際関係
    • 5.1 日本との関係
  • 6 地方行政区分
    • 6.1 主要都市
  • 7 地理
    • 7.1 気候
  • 8 経済
  • 9 交通
    • 9.1 道路
    • 9.2 鉄道
    • 9.3 航空機
  • 10 国民
    • 10.1 言語
    • 10.2 宗教
    • 10.3 婚姻
    • 10.4 教育
  • 11 文化
    • 11.1 食文化
    • 11.2 文学
    • 11.3 音楽
    • 11.4 美術
    • 11.5 映画
    • 11.6 世界遺産
    • 11.7 祝祭日
  • 12 スポーツ
    • 12.1 サッカー
    • 12.2 陸上競技
    • 12.3 その他
  • 13 著名な出身者
    • 13.1 政治家
    • 13.2 聖職者
    • 13.3 文学者
    • 13.4 音楽家
    • 13.5 芸術家
    • 13.6 スポーツ関係者
  • 14 脚注
  • 15 参考文献
  • 16 関連項目
  • 17 外部リンク

国名

正式名称はポルトガル語で、República Portuguesa [ʁɛˈpuβlikɐ puɾtuˈɣezɐ](レプーブリカ・プルトゥゲザ)。通称、Portugal [puɾtuˈɣaɫ](プルトゥガル)。国名の由来は、ポルトの古い呼び名であるポルトゥス・カレの訛りに由来するとされている。

日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称ポルトガル漢字表記葡萄牙で、 と略される。 英語表記はPortugal、国民・形容詞はPortuguese。

歴史

詳細は「ポルトガルの歴史」を参照

先史時代とローマ化

現在から35,000年前にはクロマニョン人ピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し始め、ポルトガルにもコア川(ドウロ川支流)沿いに動物壁画が残されている。紀元前3000年頃に新石器時代に突入すると、この地でも農業が始まった。紀元前1000年頃にイベリア半島に到達したフェニキア人によって青銅器文明がもたらされ、ギリシャ人もこの地を訪れた。当時この地にはイベリア人が定住していたが、紀元前900年頃から断続的にケルト人が侵入を続けた。

紀元前201年第二次ポエニ戦争に勝利したローマ共和国は、それまでイベリア半島に進出していたカルタゴに代わって半島への進出を始めた。先住民のルシタニア人ヴィリアトゥスの指導の下でローマ人に抵抗したが、紀元前133年にはほぼローマによるイベリア半島の平定が完了し、現在のポルトガルに相当する地域は属州ルシタニアガラエキアに再編された。これ以降、「ローマの平和」の下でイベリア半島のラテン化が進んだ。

ゲルマン諸王国とイスラームの侵入

紀元560年のイベリア半島の勢力図。スエヴィ王国西ゴート王国が並立している。ピンクはローマ領ヒスパニア属州。

ローマ帝国が衰退すると、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人スエヴィ王国を建国し、西ゴート人西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一したが、内紛の末に711年ウマイヤ朝イスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編された。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。

キリスト教勢力のペラーヨアストゥリアス王国を建国し、722年コバドンガの戦いの勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まった後、868年アストゥリアス王国アルフォンソ3世ガリシア方面からポルトゥ・カーレを解放し、ヴィマラ・ペレスを最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成された。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャの下で統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。

ポルトガル王国の盛衰

ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、1139年オーリッケの戦いムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いの後、ローマ教皇の裁定によってサモラ条約が結ばれ、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。

ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスファロが解放された。レコンキスタの完了後、首都が1255年コインブラからリスボンに遷都された。1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立された。また、1297年にはカスティーリャ王国との国境を定めるためにアルカニーゼス条約が結ばれ、この時に定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっている。また、この時期にポルトガル語文章語となった。

ディニス1世の下で最盛期を迎えたボルゴーニャ朝は14世紀半ばから黒死病の影響もあって衰退し、百年戦争と連動したカスティーリャとの戦争が続く中、1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化し、最終的にイングランドと結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、コルテス(イベリア半島の身分制議会)の承認のもとで1385年アヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャ(スペイン)から独立した。

16世紀ポルトガルの領土拡張。

ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年-1460年)を中心として海外進出が本格化した。ポルトガルの探検家はモロッコ西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。

1492年グラナダ戦争に勝利してレコンキスタが終結したスペインが、1494年にポルトガルとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定した。条約に基づいてポルトガルの探検家の東進は更に進み、1498年ヴァスコ・ダ・ガマインドに到達した。また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。

以後ブラジルは1516年マデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀と共に資本の本源的蓄積過程の原初を担った。一方、1509年ディーウ沖の海戦で勝利し、インド洋制海権を確保してマラッカホルムズと更に東進したポルトガル人は、1541年1543年には日本へもやってきた。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年にはからマカオの居留権を得た。

こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバスティアン1世1578年アルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年アヴィス朝断絶による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結した(スペイン帝国)。

スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年カタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとしたポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年ネーデルラント連邦共和国オランダ西インド会社がブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。ブラジル北東部オランダオランダ領ブラジルを成立(オランダ・ポルトガル戦争)させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。

1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年ハーグ講和条約で、賠償金と引き換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ(現アンゴラ)の領有権を認められた。アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年コンゴ王国を事実上滅ぼした。また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。

1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家キロンボ・ドス・パルマーレスを滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年にはスペイン帝国マドリード条約を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。

広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、17世紀から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年イギリスと締結したメシュエン条約によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。1696年ブラジル南東部ミナスが発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。

1755年リスボン大地震の後、ジョゼ1世の下で権力を握ったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)はポルトガルにおける啓蒙専制君主の役割を果たし、工業化や王権の拡大、植民地経営の徹底、イエズス会の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。

1777年に即位したマリア1世の時代にもポンバル侯が進めた政策は続いたものの、1789年フランス革命によってフランス革命戦争/ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。ポルトガル本国は半島戦争(スペイン独立戦争)に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年まで南米のリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退したが、王室はブラジルから帰還する気配を見せなかった。

近代のポルトガル

19世紀末までにポルトガル帝国が領有した経験を持つ領域。

ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続いたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年ポルト自由主義革命が勃発し、10月にイギリス軍は放逐された。翌1821年に招集されたコルテスでは憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行した。ブラジルでも革命を受けてジョアン6世が帰国すると、ブラジル人国民主義者達による独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦争の末に1822年ジョゼー・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジー達がポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立し、ブラジル帝国が独立した。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失した。戦乱でそれまでの産業基盤が崩壊していたポルトガルにとって、それまで多大な富をもたらしていたブラジル喪失の影響は非常に大きなものとなった。

ブラジルの独立後、国内の自由主義者と保守主義者の対立を背景に、ブラガンサ王家の王位継承問題がきっかけとなって1832年から1834年までポルトガル内戦が続いた。内戦は自由主義者の勝利に終わり、自由主義側の代表となった元ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王ペドロ4世に即位することで幕を閉じた。その後、自由主義者と保守主義者の主導権争いが続いた後、1842年ブラジル帝国憲法をモデルにした君主権限の強い憲章体制が確立され、農村における大土地所有制と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。憲章体制の下でロタティヴィズモと呼ばれる二大政党制が確立され、鉄道の普及が進んだことによる国内市場の統一も進んだが、ポルトガルにおける議会制民主主義カシキズモ(: Caciquismo)と呼ばれる農村部のボス支配がその実態であり、権力を握ったブルジョワジー主導の大土地所有制度の拡大が進んだ。さらに大土地所有制の強化による余剰労働力の受け皿となるべき工業化が進まなかったこともあって、19世紀後半から20世紀後半まで多くのポルトガル人がブラジルやポルトガル領アフリカ、西ヨーロッパ先進国に移住することとなった。

また、19世紀になっても工業化が進まず、農業に於いても徐々に国内市場が外国の農産物に席巻されるようになったため、ポルトガルのブルジョワジーは新たな市場を求めてアフリカに目を向けた。それまでにもブラジル喪失の直後からアフリカへの進出は進められていたが、19世紀末のアフリカ分割の文脈の中でポルトガルのアフリカ政策も活発化した。列強によるアフリカ分割が協議されたベルリン会議後の1886年には、大西洋ポルトガル領アンゴラインド洋ポルトガル領モザンビークを結ぶ「バラ色地図」構想が打ち出されたが、1890年アフリカ縦断政策を掲げていたイギリスと、アンゴラ=モザンビーク間に存在した現在のザンビアマラウイジンバブエに相当する地域を巡って対立したポルトガル政府がイギリスの圧力に屈する形でこれらの地域を失うと、アフリカにおけるポルトガル領の拡張は頓挫した。この事件がきっかけとなって共和主義者による王政への批判が進み、王党派は共和主義者による攻撃を受けることになった。その他にも1887年マカオの統治権をより獲得している。

共和制の成立とエスタド・ノヴォ体制

共和制革命の寓意画。

1910年10月3日に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、国王マヌエル2世が早期に亡命したこともあって、1910年10月5日革命が成功し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは共和政に移行した。翌1911年には急進的な1911年憲法が制定され、反乱を扇動した王党派を排除して共和国政府は支持基盤を固め

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出典:wikipedia
2018/05/15 20:05

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