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ポーランド侵攻とは?

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ドイツによるポーランド侵攻

1939年9月1日ヴェステルプラッテポーランド軍守備隊に砲撃を浴びせるドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタイン
戦争:第二次世界大戦
年月日:1939年9月1日から10月6日
場所:ポーランド
結果:枢軸国とソ連の勝利、ポーランドの領土がドイツとソ連の間で分割された
交戦勢力
ドイツ国
スロバキア共和国
ソビエト連邦 |  ポーランド
指導者・指揮官
フェードア・フォン・ボック
ゲルト・フォン・ルントシュテット
フェルディナンド・チャトロシュ
ミハイル・コワリョフ
セミョーン・チモシェンコ |  エドヴァルト・リッツ=シミグウィ
戦力
2,967,000 | 950,000
損害
戦死 17,098
負傷 29,299
行方不明 379 | 戦死 66,000
負傷 133,700
捕虜 694,000
第二次大戦ヨーロッパ戦線


1939年時点のヨーロッパの情勢 ポーランドはドイツスロバキア同盟軍(薄青)とソ連赤軍(薄緑)によって東西から侵攻を受けた

ポーランド侵攻(ポーランドしんこう)は、1939年9月1日ドイツ国、及びドイツと同盟を組む独立スロバキアが、続いて1939年9月17日ソビエト連邦ポーランド領内に侵攻したことを指す。ポーランドの同盟国であったイギリスフランスが相互援助条約(ポーランド・イギリス相互援助条約(英語条文ポーランド語条文)、ポーランド・フランス相互援助条約)を元に9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。

概要

ポーランドへの侵攻は、独ソ両国による独ソ不可侵条約調印の9日後、1939年9月1日に開始された

ヒトラーは、自作自演の「ポーランド正規軍によるドイツ領のラジオ放送局への攻撃」(グライヴィッツ事件)及びポーランド国内でのドイツ人への迫害(そのような事実はほとんどないか、あっても針小棒大化したもの)並びに16箇条の要求に対する無回答を開戦理由として、ポーランドに対する北部、南部、西部の3方面からの攻撃をドイツ軍に命令した。OKHはこの作戦に「白の場合(Fall Weiß)」というコードネームを付けて準備していた。

9月3日に、ポーランドと相互防衛条約を結んでいた英仏両国は、ポーランド領からの即時無条件撤退を要求した最後通牒にドイツが回答しなかったので、ドイツに宣戦した。

ドイツと接する長大な国境線を、薄く浅くしか防衛準備出来なかったポーランド陸軍は、開戦後すぐにドイツ軍に押されて東へと戦線を後退させられた。9月中旬にワルシャワ西方のクトノ市での戦い(ブルザの戦い)に敗れると、戦局はドイツ軍に有利となり、ポーランド軍は、首都ワルシャワとルーマニア国境沿いのルーマニア橋頭堡を固持し、英仏両国によるドイツ攻撃と救援を待ち、持久する計画であった。

9月17日ソ連軍ポーランド東部へ侵攻を開始した。ポーランド政府は、ソ連による侵攻を予期しておらず、軍の主力は、対独戦に投入されており、東部国境の守りは手薄だった。9月18日に、ポーランド軍総司令官エドヴァルト・リッツ=シミグウィ元帥は、国土防衛は不可能と判断し、国軍兵士にソ連軍との戦闘を避け中立国のハンガリーとルーマニアへ脱出するよう命令した。9月18日に大統領、国軍総司令官を含む政府・軍要人はルーマニアに脱出し、同国で抑留され、政府は機能を停止した。

空軍は、可動残存機に国外脱出命令を出したので、9月20日以降、ポーランド軍は空軍なしで戦闘を続けることになった。

首都ワルシャワとその北部のモドリンには、各地の敗残部隊も逃げ込んで、総計20万近くの軍が立て籠もっていたが、9月17日よりドイツ軍の包囲攻撃が始まった。9月28日にはワルシャワ地区司令官とドイツ軍の間で降伏についての協定が成立し、9月29日にワルシャワは陥落した。

10月6日には、ポーランドでの戦闘は終了し、ポーランドは、独ソ両国によって分割された。

開戦前の両国の関係

1933年国家社会主義ドイツ労働者党政権を握ると、ヒトラーはまずポーランドとの友好政策を図り、1934年にはドイツ・ポーランド不可侵条約を締結した。英仏の対ドイツ宥和政策の結果としてドイツは領土問題に強硬的な姿勢をとるようになり、1938年オーストリアを併合し、1939年チェコスロバキアを解体して、ベーメン・メーレン保護領の設置とスロバキア保護国化を行い、係争中の地域をあらかた自国領に編入してしまった。こうして他の問題が解決するとナチス政権は悲願だったポーランド回廊問題の解決を決定した。ドイツの主な関心事は国際連盟の管理するドイツ人の住む自由都市ダンツィヒの存在と、ポーランド回廊と呼ばれたバルト海に続くポーランド領によってドイツ本土から切り離されている東プロイセンの存在であった。

ポーランドの状況はピウツスキの死を契機に変わっていく。1936年、反ドイツ的史観から、教科書改訂及び従来の教科書回収を各国に求める動きが始まる。

ダンツィヒの状況はドイツにとって腹立たしい存在だった。ここは第一次大戦におけるドイツの敗戦によってドイツから奪い取られた領土であるため、ヒトラーはダンツィヒのドイツ系住民の解放を大義名分とした。1939年初頭にヒトラーは軍事力によるポーランド問題の解決を準備する秘密命令を下し、続いてドイツ政府は自由都市ダンツィヒのドイツへの編入要求と、ポーランド回廊を通過し東プロイセンとドイツ本土を結ぶ治外法権の道路建設の要求を強めた。ポーランド侵攻計画は4月3日までに準備が整っていた。

1920年国境線を示した地図。ドイツ領は小豆色で、ポーランド領は黄色で示されている。ポーランド領のうち西北端のバルト海に面した細長い部分をポーランド回廊と呼ぶ。

ヒトラーは、ポーランドがドイツの要求に譲歩するものと考えていた。しかし、ポーランド政府は要求を拒否した。ドイツの国威復興に危機感を抱いたイギリスフランス3月30日にポーランドに対し、軍事援助の保証をしてポーランド政府の方針を支持した。ヒトラーはイギリスとフランスを、来るべきポーランドとの戦争に介入させないようにできると考えていた。4月28日にドイツは、1934年に締結されていたドイツ・ポーランド不可侵条約と、1935年に締結されていたロンドン海軍軍縮条約の両方を破棄した。一方ポーランドは、1938年ミュンヘン協定の直後に、チェシン市のうちチェコスロバキア領だった部分(チェスキー・チェシンČeský Těšín市)を自国領に併合することでドイツの拡張主義から利益を得ることとなった。この地は以前からポーランドとチェコスロバキアで領有権を争っていた経緯がある。チェスキー・チェシンは面積こそ小さいが、人口構成はポーランド人が多数派で、炭鉱を中心としたその経済はポーランドの中央産業地帯 (Centralny Okręg Przemysłowy) と密接な相互依存の関係にあった。ドイツとの戦争の可能性は年々高まってきており、ポーランドは自国の工業化を急ぐため中央産業地帯に多大な投資をしていた。

1919年から1939年までの期間、イギリスの基本的な外交政策の主眼は、飴と鞭の使い分けによって世界大戦の再発を防ぐことにあった。鞭とは1939年春にポーランドに保証した軍事援助で、これはドイツがポーランドやルーマニアを攻撃するのを防ぐためであった。同時に、首相ネヴィル・チェンバレンと外相のハリファックス卿(en)はミュンヘン協定と同様のやり方でヒトラーにアメを与えることを考えた。これは自由都市ダンツィヒポーランド回廊を、ポーランドの他の部分の領土保全の保障と引き換えにドイツに割譲することであった。

これはしかし、ポーランド外相ユゼフ・ベック大佐がチェンバレンやハリファックス卿と会談した後、変更された。1939年8月25日にフランス・ポーランド間の軍事同盟を補完するものとしてポーランド・イギリス相互援助条約が締結された。これでイギリスはポーランドの独立を守る義務を負った。

ソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ独ソ不可侵条約に署名。モロトフの後ろに立つのは左がドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、右がソ連首相ヨシフ・スターリン

一方、モスクワではドイツとソ連の秘密会談が続けられ、8月23日には独ソ不可侵条約が締結された。ヒトラーはこの条約によって、ドイツがポーランドを侵攻してもソ連がそれに反対しないことを確実にした。また、条約の秘密議定書に、ドイツとソ連はポーランドを分割占領(西側3分の1はドイツが、東側3分の2はソ連が占領)することに合意した。

ドイツによるポーランドへの奇襲攻撃は、8月26日午前4時に予定されていた。しかし8月25日にイギリス政府は、ポーランドの独立はイギリス・ポーランド間の同盟によって正式に保障されたと発表した。ヒトラーは予定の奇襲をためらい、攻撃開始を9月1日に延期した。その間ドイツは8月26日、ポーランドとの来るべき軍事衝突にイギリスとフランスが介入することを思いとどまらせようと、両国を相手に交渉した。ヒトラーは、ドイツがポーランドを攻撃しても、ポーランドの西側同盟国がドイツに対し宣戦布告する可能性はほとんどないとの確証を得た。もし宣戦布告しても、ポーランドに対する国境線の確約はないのだから、ポーランドを占領してしまえば交渉によって、ドイツにとって有利な譲歩を引き出せると考えた。また23日、ヒトラーは既にハリファックスに対して「ことの本質は長年の政治的問題にあるのであり、軍事力の大小にあるのではないこと」を告げており、英仏の参戦はドイツにとって問題ではなかった。米国やイタリアらの交渉をポーランドや西側同盟国が拒否するまで、宣戦布告は長引いた。ドイツ国防軍の情報部(アプヴェーア)による国境を越えた襲撃や破壊行為とそれに対応したポーランド側との小競り合い、ドイツの高々度偵察機による領空侵犯の件数は増加し、戦争勃発は差し迫った状態になっていた 。

8月29日、ドイツはポーランドに対しポーランド回廊割譲を要求する最後通牒を突きつけたが、ポーランドはその広範囲にわたる内容の説明を要したが、呼ばれているわけではないのにドイツ外務省へ出向くのは貴族的ではないとして、ドイツが説明を与えるため何者かを派遣してくるだろうことを予測し待っているうちに(ただし個人としてベルリン駐在の外交官が今回の通牒の理由等の説明をリッベントロップに求めたが、要求の全権委任大使ではないとして、リッベントロップとの取り次ぎはなされなかった)時間切れがきた。にもかかわらず、ドイツはこれをポーランドが黙殺したと主張し、ポーランドの戦時動員は拒否の姿勢であるとして戦争の理由にした。ドイツ外相リッベントロップは、ポーランドとの交渉は打ち切りにすると宣言した。ポーランド軍は戦争勃発に備えた。

8月30日ポーランド海軍駆逐艦艦隊をイギリスに向けて出航させた(ペキン作戦Plan Peking)。ポーランド海軍に比べて圧倒的なドイツ海軍によって、狭いバルト海で破壊されないようにする措置だった。同日、ポーランドのエドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥はポーランド軍の「戦時動員」を布告した。

1939年8月31日、ヒトラーは戦争開始を翌日の朝4時45分とする命令を下した。この時点のポーランド軍は動員予定の70%(予備役も含めた全軍の半分)しか達成できず、多くの部隊は未だ隊形を整えておらず、それぞれ与えられた前線の守備位置に向かって移動途中であった。

それぞれの兵力

ドイツ

ドイツはポーランド軍に対して圧倒的な数的優位を維持し、強大な軍事力を準備していた。陸軍I号戦車II号戦車といった軽戦車を主力として、より攻撃力のあるIII号戦車IV号戦車を含めて約2,400両の戦車を保有し、6個の装甲師団を編制、新しい攻撃理論を構築していた。理論上では戦車部隊の集中運用によって、他の作戦部隊と共に敵の戦線のあちこちに突破口を穿ち、敵部隊を孤立させ、その上で歩兵部隊が孤立した敵部隊を各個撃破することとなっていた。作戦は適宜繰り返され、自動車化されていない歩兵部隊や各歩兵によって補完されることとなっていた。空軍は戦術的・戦略的な空からの軍事力を提供した。とくに急降下爆撃機は敵の補給線や通信線を遮断することになっていた。陸と空からの攻撃をあわせた立体作戦には電撃戦というニックネームがつけられた。 航空機は侵攻作戦における主力であった。爆撃機は無差別爆撃により都市と一般市民を攻撃し、一般市民の間に多くの犠牲者を出した。ドイツ空軍は1,180機の戦闘機、290機のJu 87 シュトゥーカ急降下爆撃機、290機の爆撃機(主にハインケル He 111双発爆撃機)、240機の種々の水上機から編成されていた。当時のドイツは全部で3,000機近い航空機(そのうち2,000機は新鋭機)を保有しており、半数がポーランド戦線に投入された。


ポーランド

ポーランド陸軍の7TP軽戦車
グディニャ港に係留され博物館となっているポーランド海軍の駆逐艦ブウィスカヴィツァ(ORP Błyskawica)。

1936年から1939年にかけてポーランドは、国土の中西部から南部に広がる中央産業地帯 (Centralny Okręg Przemysłowy) に大規模な産業投資を行った。しかし、産業は鉄道関係が中心であり、製鉄や機械の製作は進んでいなかった。元々農業国であり、帝政ドイツや帝政オーストリアの教育を受けたものが多かったが、下級将校の数は足りなかった。数字の上ではおよそ100万人の兵士を有していたが、実際はほとんどが予備役で、1939年9月1日までに実際に動員されたのはその半分にも満たなかった。ポーランドの鉄道等の大量輸送網がドイツ空軍の目標になると、動員に遅れた者の多くが犠牲となった。ポーランド軍はドイツ軍に比べ装甲戦闘車両の数が少なく、その上それらは各地の歩兵部隊に少数ずつ配置されたので、有効に活用されなかった。しかし、これらの欠点にも関わらず、「ポーランド軍は勇敢に戦った(ヒトラー、9月19日の演説)」

ポーランド陸軍 (Wojsko Lądowe) の組織および行動の方針は、ポーランド・ソビエト戦争での経験に則ってなされていた。第一次世界大戦塹壕戦と異なり、騎兵の機動力が最重要視された。開戦当時、ポーランド陸軍は、7個軍(Modlin、Pomorze、Poznan、Lodz、Krakow、Lublin、Karpaty)、1個独立作戦群(Narew)、予備隊(独立軍(Prusy)と3個作戦群(Wyszkow、Tarnow、Kutno)から成り、39個歩兵師団、11個騎兵旅団、3個山岳旅団、2個機械化装甲旅団を擁した。開戦後には、更に1個軍(Warszawa)と独立作戦群(Polesie)が編成された。

ポーランド空軍 (Wojska Lotnicze i Obrony Powietrznej、通称Siły Powietrzne) はドイツ空軍に比べ不利だったが、一般に誤解されているような、飛ぶこともせず地上で全滅させられたという話は事実ではない。ポーランド空軍には最新式の戦闘機が配備されていなかったが、当時の世界では最もよく訓練されたパイロットたちがおり、数的にも質的にも有利なドイツ機に対しうまく戦った。ポーランドには戦闘用の軍用機を400機ほど保有し、そのうち戦闘機は169機だった(他に400機の時代遅れの偵察機練習機があった)。戦闘用の軍用機のうち近代的なもの(PZL.37 ウォシ爆撃機)は36機で、他は皆ドイツ軍機に比べ旧式だった。たとえば1930年代前半に生産されたPZL P.11戦闘機は最高速度は約350km/hで、これはドイツの爆撃機よりも遅かった。

ポーランド海軍 (Marynarka Wojenna) は駆逐艦潜水艦、それと小型の護衛艦で構成された小規模なものであった。駆逐艦3隻は、8月30日にポーランドを離れ、ドイツ軍を回避しながら北海へ出てイギリス海軍に合流するペキン作戦 (Plan Peking) に従った。潜水艦隊は袋作戦 (Plan Worek) に参加した。これは、バルト海においてドイツの海上補給線を攻撃し、それに打撃を与えるというものであったが、大きな成功を得ることができなかった。ポーランド商船隊はイギリスのそれに合流し、第二次世界大戦を通じさまざまな商船隊に参加した。ポーランドの駆逐艦は戦艦ビスマルクとの戦いにも参加し、水雷戦を挑んでビスマルク撃沈を試みている。


戦闘の詳細

1939年9月1日時点でのドイツ軍とポーランド軍の配置

計画

ドイツの計画

侵攻作戦は陸軍参謀総長フランツ・ハルダーに起案され、陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュによって指揮された。軍事攻撃は宣戦布告より前に開始されることになっており、近代的な航空戦力と戦車部隊を使った伝統的な殲滅戦理論に則したものであった。歩兵はほとんど自動車化されていなかったが、自走砲部隊と兵站部隊を維持して戦車部隊に支援され、トラックに載せられた歩兵(装甲擲弾兵の前身)は敵前線に集中する侵攻部隊の迅速な移動を助け、孤立した敵の部隊を包囲殲滅することとなっていた。それに対して、イギリスの研究者たちによって提唱されハインツ・グデーリアン等がドイツ軍の戦術として導入することを主張していた電撃戦理論は、機甲部隊が敵前線に激しい攻撃で突破口を開き、敵の後方深くまで一気に進撃することであったが、実際のところポーランドでの作戦は電撃戦でなく、もっと伝統的な殲滅戦理論に沿って戦われることとなった。これは装甲師団や機械化部隊の役割を伝統的な歩兵部隊の支援に限定すべきだとする、陸軍上層部の間に蔓延していた保守主義に原因するものであった。

ポーランドは西と北(東プロイセン側)でドイツと総延長2,000キロメートルもの長い国境を接していた。1938年のミュンヘン協定後はドイツとの国境は南部でさらに800キロメートル延長された。ドイツのベーメン・メーレン保護領の設置と、ドイツの傀儡国家である独立スロバキアの誕生は、ポーランドの南側面がドイツによる攻撃に対し無防備になっていることを意味していた。

ドイツの戦争計画立案者は長い国境線を侵攻作戦の殲滅戦理論の機動戦術に存分に利用しようと目論んだ。ドイツの各部隊はポーランドを3方面から侵攻することとなった:

全ての強襲部隊はワルシャワに向かって進軍し、その過程でポーランド軍の主力部隊はヴィスワ川の西で包囲殲滅されることとなっていた。「白の場合」作戦は1939年9月1日に開始され、第二次世界大戦の最初の軍事作戦となった。

ポーランドの計画

ポーランドの防衛計画、暗号名「西方 (Zachód)」はポーランド・ドイツ国境に直接に兵力を展開するという内容である。これはポーランドが他国から侵略を受けた際に、イギリスがポーランドに対し軍事的援助を行うという約束を元に立てられた計画である。さらに、ポーランドにとって最も価値のある天然資源、産業、そして人口の多い地域が西部国境付近(シレジア地方)に集中しているため、ポーランドの政策はこれらの地域を防衛することを主眼としていた。

西方 (Zachód) 計画はポーランド陸軍を自国領の奥深くに撤退する余地を与えたが、撤退は川(ナレフ川、ヴィスワ川、サン川)の付近に準備された場所から後方へとゆっくりと行われなければならなかった。うまくいけばこれによって、ポーランドは軍の動員完了までの時間稼ぎをし、「西側同盟諸国」が約束どおりの攻勢をかけた時に自軍も大規模な「反転攻勢」にかけられるはずであった。

ポーランド軍にとって最も悲観的なケースとなる「退却戦計画」は、サン川の後方から自国領の東南部地方への撤退と、時間稼ぎの長い防戦(ルーマニア橋頭堡作戦)を含むものであった。

このポーランドの計画は、同盟国がポーランドと結んだ相互援助条約を遵守して、すみやかにドイツに対し攻勢をかけることを前提としていた。しかし、実際にドイツのポーランド侵攻作戦が行われている間、フランスもイギリスもドイツを攻撃する計画を立てていなかった。しかしポーランド政府はこの両国の計画について知らされておらず、ポーランドの全ての防衛計画は西側同盟諸国の迅速な救援行動への期待の上に立てられていたのである。

ドイツによるポーランド侵攻の間、ポーランド軍は非常に広大な国境線に薄く引き伸ばされて配置され、コンパクトな防衛線と有利な防衛配置をとることができず、補給線も充分守られずに、しばしば機械化されたドイツ軍に包囲される結果となってしまった。ポーランド軍のおよそ3分の1はポーランド回廊とその周辺(ポーランド西北部)に重点配備されたが、彼らは東プロイセンと西方からの敵により孤立させられ、さらに挟撃の危険に晒された。南部では、進撃するドイツ軍の主要進撃路に対し、ポーランド軍は薄く広く配置されていた。同時に、ポーランド軍の別のほぼ3分の1は前線から離れ、エドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥の指揮下に集結したまま国土の中北部、ウッチ市とワルシャワ市の間に残されていた。前方に集結したポーランドの部隊は大部分が敵の動きに遅れをとり、戦う機会を失ってしまった。ドイツ軍と違い、動員途中で装備の整っていなかったポーランド兵の多くは徒歩で移動せざるをえず、後方の防衛線まで移動することができず、侵略者の機械化部隊が国内に展開する前に適切な配置がなされなかった。

第一段階: ドイツによる侵攻

9月1日から9月14日までの戦いの経過。ドイツ軍が殲滅戦理論 (Vernichtungsgedanke) に則って進撃している。
1939年9月のドイツ軍との戦いに使用されたポーランド陸軍装甲列車9月1日モクラでの戦闘に参加したNo.53「シミャウィ」号。

ドイツ軍はポーランド侵攻に備えて国境近くに軍を移動させた。イギリスの『デイリー・テレグラフ』紙は開戦に先立つ8月29日付で、クレア・ホリングワース記者による目撃情報を基に「戦車1000両がポーランド国境に集結 10個師団が侵攻準備中」と報じていた。これは第二次大戦の始まりを告げた歴史的スクープと看做されている。

ドイツによる種々の自作自演の事件(ヒムラー作戦)は、ドイツの軍事行動は自衛権の行使なのだというプ

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出典:wikipedia
2020/08/07 15:43

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