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マジョルカ島とは?

(マジョルカ島から転送)
マヨルカ島の衛星画像

スペイン内での位置
【地理】

【場所】
地中海バレアレス海
【座標】
座標: 北緯39度37分 東経2度59分 / 北緯39.617度 東経2.983度 / 39.617; 2.983
【諸島】
バレアレス諸島ジムネジアス群島
【面積】
3,640.11 km (1,405.45 sq mi)
【最高標高】
1,445 m (4,741 ft)
【最高峰】
プッジ・マジョー
【行政】

スペイン


バレアレス諸島
【最大都市】
パルマ(人口404,681人)
【人口統計】

【人口】
869,067人(2010年1月1日年時点)
【人口密度】
238.75 /km (618.36 /sq mi)

マヨルカ島(マヨルカとう、カタルーニャ語: Mallorca[məˈʎɔrkə]スペイン語: Mallorca[maˈʎorka]))は、地中海西部のバレアレス海に浮かぶバレアレス諸島最大の島であり、メノルカ島とともにバレアレス諸島北東部のジムネジアス群島を構成している。マジョルカ島マリョルカ島とも表記される。

1983年にスペインの自治州としてバレアレス諸島州が成立すると、マヨルカ島のパルマ・デ・マヨルカが州都となった。メノルカ島やイビサ島などバレアレス諸島の他島と同様に人気のある観光地であり、特にドイツイギリスからの観光客が多い。

名称

名称はラテン語で「大きな島」を意味するinsula maiorに由来し、後に「大きなほう」を意味するMaioricaとなった。さらにカタルーニャ語でMaiorca、Mayorcaとなったが、イェイスムという発音現象によってMallorcaと綴りが変わって現在に至る。一方で、メノルカ島の名称はマヨルカ島と比較して「小さなほう」を意味するMinorcaに由来する。英語ではMajorca(マジョルカ, [məˈjɔːrkə]または[-ˈɔːr-])、イタリア語ではMaiorca(マヨルカ)、フランス語ではMajorque(マジョルク)。古称はマヨール島(Major)。マヨネーズの語源という説もある。

地理

概要・位置

地形図

マヨルカ島は地中海西部のバレアレス海にあるバレアレス諸島を構成する島であり、スペイン本土から見て東側に位置している。面積は3,640.11kmであり、バレアレス諸島ではもっとも大きく、日本の沖縄本島の約3倍である。2012年の人口は869,000人である。地中海の島嶼の中では面積は中規模であるとされるが、地中海における面積第3位のキプロス島に匹敵する人口を持つ。地中海の主要な島嶼の中ではひときわ人口密度が高く、人口第1位のシチリア島よりも高い人口密度を有する。

東西幅は96km、南北長は78kmであり、海岸線の長さは554kmである。バルセロナから見て約210km南、バレンシアから見て約240km東にある。フランスのマルセイユからパルマ・デ・マヨルカまでの距離は460km、アルジェリアのアルジェからパルマまでの距離は340kmである。地理学者のオノフラ・ルリャン(Onofre Rullan)は、マヨルカ島を山地と平地、内陸部と沿岸部、パルマとパルマ外という3つの軸によって8つの地域に分けている。

マヨルカは一つの小型の大陸である。無数の浜があり、山脈があり、鉄道があり、耕やされた平野、歴史的大都市(パルマ)、デパート、ブチク……があり、ミシュランの星印を持つレストラン(複数)では王侯貴族が食事をする。 — アンドリュー・イーメス『Insight guides, Mallorca & Ibiza』

地勢

トラムンターナ山脈

山地

北西部のトラムンターナ山脈と南東部のリェバン山地という2本の山脈がマヨルカ島内を走っている。リェバン山地は標高約500mと比較的低い山地であり、美しい農村景観を持つことからトレッキングに人気がある。

トラムンターナ山脈は南西岸から北岸にかけて90kmに渡って伸びており、1,067kmの面積を持つ。イベリア半島南東部のベティコ山系と連続性を持ち、北にむかうほど急峻になる。海に向かって劇的に標高が落ちるため、海岸には崖が形成されている。トラムンターナ山脈にはマヨルカ島最高峰のプッジ・マジョー(1445m)があるが、プッジ・マジョーの頂上は軍用ゾーンとなっており、民間人がアクセスできるマヨルカ島の最高地点はプッジ・ダ・マッサネーリャ(1364m)である。

トラムンターナ山脈内の道路状況は貧弱であるが、山脈内の村から村に渡るための多くのハイキングコースを持ち、その他には登山、ノルディックウォーキング、急流下りなどのスポーツを行うことができる。山脈内の多くの地域は保護地域となっており、2011年には「トラムンターナ山脈の文化的景観」がユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。山脈は石灰岩で構成されており、その浸食作用によって洞窟、湧き水、急流を形成、約700の湧水場がある。

湾・平原・属島

北岸にある入江

マヨルカ島北東部にはポリェンサ湾とアルクーディア湾があり、南西部にはパルマ湾がある。ポリェンサ湾はトラムンターナ山脈の北端部に囲まれており、アルクーディア湾はリェバン山地の北端部の先にある。洞窟や小規模な入江はマヨルカ島の観光資源であり、それらは主に東岸に位置している。

マヨルカ島の中央部には肥沃なマヨルカ平原が広がっており、動植物の豊かさで知られている。典型的な植物はマツトキワガシキャロブなどの樹木である。アーモンドオリーブの栽培など、島の農業の大部分はこの平原で行われている。南岸はマヨルカ島の中でも乾燥して岩がちな地域であり、エス・ミグジョルンと呼ばれている。エス・ミグジョルンと2つの山地は島の中央部にある肥沃なマヨルカ平原を取り囲んでいる。

マヨルカ島の沖合にあるすべての小島は行政的にパルマに属している。東南岸にある無人島のカブレラ島カブレラ群島マリティメ=テレストリアル国立公園に指定されており、西岸にある無人島のドラゴネーラ島も保護地域となっている。マヨルカ島にあるその他の特徴的な地形には、アルファビア山地、アス・クルナドルス、フルマントール岬などがある。

周辺海域

バレアレス海の範囲

イベリア半島とバレアレス諸島の間の海域はバレアレス海と呼ばれ、その最大水深は2,065mである。カステリョン・デ・ラ・プラナの沖合約50km、バレアレス海南西部には無人島のコルンブレテス諸島があるものの、その他に島や浅瀬は存在しない。イベリア半島の沿岸部から20-65kmの範囲に大陸棚が広がり、水深がもっとも深いのは中央部である。バレアレス海の主要な港湾都市はスペイン本土のバルセロナバレンシア、マヨルカ島のパルマなどである。

地中海西部には長さ900km、幅200kmに渡って平坦な海底があり、この平均水深2,000-3,000m、最大水深3,150mの海底はバレアレス深海平原と呼ばれる。その東端はフランスのコルシカ島とイタリアのサルデーニャ島、南端はアフリカ大陸のアルジェリア、北西端はスペインのバレアレス諸島であり、フランス本土の沖合はバレアレス深海平原には含まれない。フランスのローヌ川やアルジェリア北岸の海底谷から多くの堆積物が供給される。

地質

マヨルカ島の平原や山地は主に新第三紀後期(鮮新世)に形成されたとされ、バレアレス諸島は150万年前(更新世)に形成されたとされる。この平原や山地は南西から北東方向に連続性を持ち、イベリア半島南東部のベティコ山系と連続性を持つ。マヨルカ島の地質はほぼ完全に石灰岩からなり、石灰岩は強力な浸食作用で峡谷や洞窟を形成している。

もともと降水量に乏しい地中海性気候に高透過性の石灰岩が組み合わさっているため、大半の河川はすぐに水流が途絶える。マヨルカ島内には一年を通じて水を湛えている河川は存在せず、淡水資源の大部分は地下水が占めている。雨水は石灰岩を透過して地下水となるため、マヨルカ島に池や湖は少ない。地下水に極度に依存しているという点で特筆すべき地中海地域の島嶼であるとされる。

気候

マヨルカ島の気候は典型的な地中海性気候であり、ケッペンの気候区分ではCsaに分類される。特に降水は季節性が顕著である。冬季には低気圧の中緯度偏西風ベルトの影響で大雨が降ることもあり、偏西風ベルトが高緯度に移動する夏季には高気圧の亜熱帯ベルトの影響を強く受け、乾燥した暑い気候となる。この結果、年降水量の大半は秋季と冬季に集中し、もっとも降水量の多い時期は10月から12月である。年降水量は地域的な差異が大きく、南東部ではわずか300mmであるのに対して、そこから100kmも離れていない北西部のトラムンターナ山脈では1,200mmとなる。平原は暑い夏季と穏やかで涼しい冬季を持つが、冬季のトラムンターナ山脈は平原より温度が低くなり、しばしば降雪も見られる。

平地では年間300日以上が好天日とされており、古くから「地中海の楽園」と呼ばれる。冬季の日中の気温は摂氏10-15度と穏やかであるが、夜間には摂氏10-5度まで下がる。夏季の気温は摂氏約27度であり、最高気温は摂氏30-32度である。パルマの年平均気温(摂氏17.9度)は日本の鹿児島市とほぼ等しいが、年間の気温較差は鹿児島市と比較して遥かに少ない。海水の温度は夏季の8月が摂氏25度、冬季の1月・2月が摂氏16度である。

冬季から春季には強風が吹く。南東風のシロッコアフリカ大陸の砂漠からマヨルカ島に赤砂を運ぶ。トラムンターナ山脈はマヨルカ島を北風から守っており、マヨルカ島の気候を決定づけている。

パルマ・デ・マヨルカ(Satellite view)の気候
【月】
【1月】
【2月】
【3月】
【4月】
【5月】
【6月】
【7月】
【8月】
【9月】
【10月】
【11月】
12月 年
平均最高気温 °C (°F) 15.2
(59.4) | 15.7
(60.3) | 17.1
(62.8) | 18.7
(65.7) | 22.1
(71.8) | 25.9
(78.6) | 29.9
(85.8) | 30.5
(86.9) | 28.1
(82.6) | 23.4
(74.1) | 19.2
(66.6) | 16.5
(61.7) | 21.6
(70.9)
日平均気温 °C (°F) 11.7
(53.1) | 12.1
(53.8) | 13.3
(55.9) | 15.0
(59) | 18.4
(65.1) | 22.1
(71.8) | 25.1
(77.2) | 25.9
(78.6) | 23.4
(74.1) | 19.7
(67.5) | 15.7
(60.3) | 13.0
(55.4) | 17.9
(64.2)
平均最低気温 °C (°F) 8.3
(46.9) | 8.5
(47.3) | 9.5
(49.1) | 11.3
(52.3) | 14.7
(58.5) | 18.4
(65.1) | 21.3
(70.3) | 22.2
(72) | 19.8
(67.6) | 16.1
(61) | 12.1
(53.8) | 9.7
(49.5) | 14.3
(57.7)
降水量 mm (inch) 43
(1.69) | 34
(1.34) | 26
(1.02) | 43
(1.69) | 30
(1.18) | 11
(0.43) | 5
(0.2) | 17
(0.67) | 39
(1.54) | 68
(2.68) | 58
(2.28) | 45
(1.77) | 427
(16.81)
平均降水日数 (≥ 1 mm) 5 | 5 | 4 | 6 | 4 | 2 | 1 | 1 | 4 | 7 | 6 | 6 | 52
平均月間日照時間 165 | 168 | 204 | 231 | 280 | 307 | 342 | 313 | 228 | 204 | 165 | 154 | 2,763
出典: スペイン国立気象庁

人口・自治体

1965年のマヨルカ島の人口は40万6000人、人口密度は112人/kmであり、スペインの中でも人口密度の高い地域だった。マヨルカ島を含むジムネジアス群島は集居人口が多く、イビサ島などのピティウザス群島は散居人口が多かった。マヨルカ島の2006年の人口は790,763人、2012年の人口は869,000人であり、今日でも早いペースで人口が増加している。カナリア諸島テネリフェ島グラン・カナリア島、バレアレス諸島のマヨルカ島と、スペインには3つの規模が大きな島があり、それぞれ80-90万人の人口を有している。マヨルカ島はバレアレス諸島でもっとも人口が多い島である。バレアレス諸島全体の面積は4,992km、2007年のバレアレス諸島全体の人口は103万人であり、マヨルカ島はその面積で諸島全体の72.5%を、人口で諸島全体の78.6%を占めている。

マヨルカ島内でもっとも人口が多い自治体はパルマ・デ・マヨルカであり、パルマに隣接するカルビア、東部の中心都市であるマナコールがパルマに続いている。パルマ・デ・マヨルカ都市圏はパルマを中心とする9自治体で構成されており、マヨルカ島の人口の50%以上がパルマ・デ・マヨルカ都市圏に住んでいる。

マヨルカ島の主な自治体
【#】
【自治体】
【人口(人)】
所在地
1 | パルマ・デ・マヨルカ | 427,973 | パルマ・デ・マヨルカ都市圏
2 | カルビア | 50,363 | パルマ・デ・マヨルカ都市圏
3 | マナコール | 40,264 | 東部
4 | マラチ | 35,521 | パルマ・デ・マヨルカ都市圏
5 | リュックマジョール | 34,602 | パルマ・デ・マヨルカ都市圏
6 | インカ | 30,625 | 中央部
7 | アルクーディア | 19,768 | 北部
8 | ファラニチュ | 17,291 | 東部
9 | ポリェンサ | 16,088 | 北部

パルマ

詳細は「パルマ・デ・マヨルカ」を参照

マヨルカ島の主都であるパルマ・デ・マヨルカは、先史時代の集落の遺跡(タライオット)の上にローマ人が築いた野営地が基礎になっている。ローマ人はその集落を「パルマリア」と呼んだ。西ローマ帝国の崩壊時にはヴァンダル族がパルマリアに何度も略奪行為を加えた。パルマリアの支配者はその後、ビザンツ帝国後ウマイヤ朝ムラービト朝ムワッヒド朝アラゴン王国などと変遷した。スペインの民主化後の1983年にバレアレス諸島自治州が設置されると、パルマが自治州都となった。マヨルカ島の南東沖にあるカブレラ島(無人島)も行政的にはマヨルカ島評議会の一部であり、パルマの自治体域に含まれている。

1857年時点ではスペイン第9位の4.3万人の人口を有していた。1887年には6.0万人(11位)、1920年には7.7万人(12位)、1950年には13.7万人(13位)、1970年には23.4万人(12位)と堅実な伸びを見せ、スペインの50県都の中でも常に上位に位置した。1991年には308,616人、2011年には405,318人となっている。夏季には各国から観光客が集まることから、「地中海の夏の首都」と呼ばれることもある。

2008年時点ではパルマの人口の19.5%に相当する77,330人がスペイン以外の国籍であり、これはスペイン平均よりも高い比率である。国籍別の内訳は、アルゼンチンが5,682人、ボリビアが5,541人、ブルガリアが5,293人、コロンビアが5,200人、イタリアが5,142人、ドイツが4,724人、モロッコが3,397人などだった。

歴史

先史時代

マヨルカ島にある先史時代の集落

マヨルカ島には先史時代の紀元前6000年-紀元前4000年頃に人類が住んでいた痕跡がある。青銅器時代には巨石記念物を含むタライオティック文化が栄え、タライオットと呼ばれる埋葬場や住居の痕跡が発見されている。

マヨルカ島のタライオットの例

古代

カルタゴ時代

ローマ時代の投石兵

初めてマヨルカ島に植民を行ったのは、紀元前8世紀頃にレバント(東部地中海沿岸地方)からやってきて多数のコロニーを築いた航海民族のフェニキア人であり、マヨルカ島は主要なフェニキア都市となっていた北アフリカのカルタゴの統制下に入った。紀元前700年から紀元前145年のバレアレス諸島はフェニキア人によって支配され、マヨルカ島にやってきたフェニキア人は地中海西部で精力的に交易活動を行った。フェニキア人の時代にバレアレス諸島の商業中心地となったのはイビサ島エイビッサであり、マヨルカ島はわずかな役割を果たしたに過ぎなかったが、ポエニ戦争で投石手としてカルタゴのために戦ったマヨルカ人の存在が文献に記載されている。バレアレス諸島の名称は「投石」を意味するギリシア語の「ballerin」に由来すると指摘する歴史学者もいる。侵略者から領土を守る唯一の防衛手段が投石だったため、マヨルカ人投石手は優れた投石技術でよく知られている。

ローマ時代

ローマ都市ポリェンティアの遺跡

バレアレス諸島地域からやってくる海賊との戦いに疲れたローマ人は、紀元前123年にクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・バリアリクス率いる軍隊を送ってマヨルカ島を征服し、約550年に渡るローマ時代が幕を開けた。バレアレス諸島がキリスト教化されたのはこの2世紀のことである。ローマ時代には北岸のポリェンティア(現在のアルクーディアの近く)と南岸のパルマリア(現・パルマ・デ・マヨルカ)という2つの都市があったとされている。加えて、建設がローマ以前に遡る北部のボッチョリスの町は、古代ローマの連合市となった。ローマ時代にはオリーブやブドウの栽培、岩塩の採掘などがマヨルカ島の経済を支えていた。マヨルカ人兵士は投石の技術がローマ帝国内で評価された。

ヴァンダル族

455年のガイセリックの王国(ヴァンダル王国)の最大版図

古代ローマ文明を終わらせた原因については諸説あるが、5世紀の小氷期が引き金になったという説がある。グンデリック王が率いるヴァンダル族は、406年に凍結したライン川を渡り、409年にはピレネー山脈を越え、419年にはイベリア半島西部に国を建てた。425年には当時ヒスパリスと呼ばれたセビージャとカルタゴの間で、西ローマ帝国の目を盗んで密貿易を行い、427年にバレアレス諸島を荒掠した。グンデリックの息子ゲイセリック地中海においてカルタゴシチリア島コルシカ島サルデーニャ島、バレアレス諸島に版図を築き、イタリア半島の沿岸集落と密貿易したり海賊行為をしたりする際の基地としてマヨルカ島を利用した。ヴァンダル族はキリスト教徒を迫害した。

中世

ユスティニアヌス1世帝期、555年のビザンツ帝国の版図

中世前期

地中海世界の中世は、信仰を統治原理にした3勢力、ギリシア正教/イスラーム/カトリックのめまぐるしい交替劇に彩られる。マヨルカ島もこの例に漏れないが、少なくとも中世の前半期は、いずれの勢力が支配した場合であっても島には半独立的な地位が認められた。

ヴァンダル王国を討った将軍フラビオス・ベリサリオスは、配下のアッポロニオスをバレアレス諸島に派遣し、534年前後にマヨルカ島をビザンツ帝国の版図に入れた(cf. ヴァンダル戦争)。以後、10世紀初頭に至るまでの500年間弱、島は名目上ビザンツ帝国領になったが、中核的な先住島民へのギリシア正教の影響は限定的であった。ビザンツ人はバレアレス諸島の各島にギリシア正教の教会を建て、それぞれに司祭を派遣したが、先住島民の教化は非常にゆっくりしたものであったと見られる。マヨルカ島と似たシチュエーションにあったコルシカ島とサルデーニャ島ではビザンチン時代の終わりごろでもまだ、伝統宗教(ペイガニズム)の信仰が強く残っていた。20世紀末から実施されるようになったビザンツ時代のギリシア正教の教会址の考古学的調査によれば、タライオット集落、ローマ人の植民市、ヴァンダル族の集落のいずれとも重ならない位置に立地しており、先住島民とのつながりが希薄であった可能性が示唆される。

マヨルカ島のギリシア正教会、ソン・ペレト教会洗礼堂

かつてマウレタニアと呼ばれた北アフリカのマグリブで遊牧生活を営んでいたベルベル人は、8世紀より前はキリスト教などを信仰していたようであるが東方から来たウマイヤ朝によるマグリブの征服後、イスラームを受容した。イスラーム化及びアラブ化したベルベル人であるムーア人とウマイヤ朝軍はイベリア半島を征服した。バレアレス諸島にも707年にムスリム軍が来襲し、地元の首長が何人かダマスカスまで捕虜として連行された。ムスリム軍は一時期南仏まで攻めたが、789年ごろにはフランク王シャルルマーニュピレネー山脈まで押し戻された。フランク王国の年代記には、セプティマニアを手に入れたシャルルマーニュの宮廷に、バレアレス諸島が海賊の来襲を受けているという知らせが入ったと記されている。798年にマヨルカ島のキリスト教の修道会士からもたらされたこの知らせにおいて、海賊は「サラセン人とムーア人」であるとされている。

マヨルカ島はムーア人のイベリア半島征服から150年ほど後れた902年、後ウマイヤ朝のアミール、アブドゥッラーの時代にコルドバに併合される。マヨルカ島のコルドバへの併合の経緯は、イサーム・ハウラーニーという人物が航海の途中、荒天のためやむなく島に寄港した際、島の様子を見てこれを気に入り、バレアレス諸島全体のコルドバへの編入をアミールに具申し、アミールがこれを許したとというものだったとされる。ハウラーニーの「コンキスタ」は小規模な小競り合いだけで終了した。ムスリムとの最初の接触があった707年から903年までを「ビザンツ=ムスリム時代」と呼ぶ研究者もいる。この時代は外部のイスラーム勢力が散発的に権益を主張する一方で、ビザンツ人が優位を保つ社会構造が継続した。なお、マヨルカ島はこの時代にゲルマン系ノルマン人による来寇も経験した(869年)。ノルマン人はシチリア島に王国を建国する

10世紀パルマに建設されたハンマーム(公共浴場)

ハウラーニー以後のムーア人の支配者は海賊行為をよく取り締まり、島の商工業を発展させた。政治史上は、後ウマイヤ朝がその後、ターイファ(国)という小王国群に解体・分裂することになり、マヨルカ島は1015年からデーニアのターイファ国の一部、1087年以後は分離してマヨルカのターイファ国を形成した。しかし、経済上は、アフリカ大陸北岸、イベリア半島、バレアレス諸島がアラブ=イスラームの文化、商習慣を共有したので、マヨルカ島では貿易が盛んになった。ムーア人はまた、灌漑や有用作物を島に導入して農業も発展させた(cf. アラブ農業革命)。

ターイファ時代には、コルドバ出身の博学者、イブン・ハズムがマヨルカ島を訪れ、地誌を著した。イブン・ハズムの『マヨルカ島地誌』は、12世紀頃までのマヨルカ島の歴史を知るための一級の史料になっている。レコンキスタ以後は商工業が停滞したので、マヨルカ島の民俗・言語・食文化などにはムーア人が支配した時代の痕跡がよく保存されている。

中世後期

マヨルカ島に遠征するカタルーニャ人を描いたゴシック調の壁画。アルモガバルスを描いたものか?(バルセロナ歴史博物館蔵)

11世紀から14世紀にかけてのイベリア半島の歴史は、宗教的寛容が失われ、カトリック/ムスリム/ユダヤ人の共存が崩壊していく過程でもある。マヨルカ島はこの点、イベリア半島とは少し異なる歴史をたどった。ファナティックなムラービト朝もムワッヒド朝も半島より遅れてマヨルカ島を支配下に入れ、しかもその支配はずっと緩やかであった。

マヨルカ島が半島より100年遅れで宗教的にファナティックなムラービト朝の支配下に入ったきっかけは、カトリック勢力の武力攻撃である。マヨルカ島の繁栄は十字軍の襲撃をひきつけることにもつながった。1114年にバルセロナ伯ラモン・バランゲー3世を盟主としたカタルーニャ君主国群、ピサ共和国聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)等が連合してマヨルカ島への十字軍遠征を行った。カトリック連合軍は、イビサ島とマヨルカ島の主都マディーナ・マユールカーを8箇月間包囲した後、交渉の末得た戦利品に満足し、マヨルカ島を占領することなく帰った。マヨルカのターイファはアンダルスの政権ムラービト朝を頼り、マヨルカ島は1116年にムラービト朝の勢力圏内に入った。

以後の120年ほどの間、マヨルカ島にはワーリーという地方代官が置かれ、ワーリーによる半自律的な統治が行われた。ワーリーは、ムラービト朝を興したベルベル系サンハージャ部族の一支族、バヌー・ガーニーヤにより世襲された。アンダルスとマグリブの政権が1144年ごろムワッヒド朝に交替した後はバヌー・ガーニーヤが中央の支配を受けず自立した。ワーリー・イスハークがマヨルカ島を治めた1152年から1185年までの時代は特に繁栄の時代として知られている。

ムーア人やアラブ人にはアラビア語でマディーナ・マユールカーと呼ばれた島の主都は、12世紀終わりごろには人口35,000を数えるようになり、人口規模で見ると当時のバルセロナやロンドンと同等の、西ヨーロッパ有数の大都市であった。マディーナは12の街区に分けられ、地中海によく見られる迷宮都市の様相を呈した。また、ムーア人の支配者は被征服民の信仰については自由に任せたため(改宗させると人頭税を徴収できないため)、マディーナには国際都市の雰囲気が漂った。なお、マヨルカ島繁栄の時

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出典:wikipedia
2020/07/08 15:46

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