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マツダとは?

マツダ株式会社
MAZDA Motor Corporation

マツダ本社

種類
株式会社
【市場情報】
東証1部 7261
1949年5月上場

【略称】
マツダ
【本社所在地】
日本
730-8670
広島県安芸郡府中町新地3-1
北緯34度22分37秒 東経132度30分11秒 / 北緯34.377058度 東経132.503011度 / 34.377058; 132.503011 (マツダ)座標: 北緯34度22分37秒 東経132度30分11秒 / 北緯34.377058度 東経132.503011度 / 34.377058; 132.503011 (マツダ)
【設立】
1920年(大正9年)1月30日
(東洋コルク工業株式会社)
業種
輸送用機器
法人番号
3240001036223
【事業内容】
乗用車・トラックの製造・販売等
【代表者】

【資本金】
2,839億5,700万円
(2020年3月期)
【発行済株式総数】
6億3,180万3,979株
【売上高】
(2020年3月期)
【営業利益】
(2020年3月期)
【経常利益】
(2020年3月期)
【純利益】
(2020年3月期)
【純資産】
(2020年3月期)
【総資産】
(2020年3月期)
【従業員数】
(2020年3月期)
【決算期】
毎年3月31日
【会計監査人】
有限責任あずさ監査法人
【主要株主】

【関係する人物】
  • 松田重次郎(実質的な創業者)
  • 古田徳昌(相談役・第7代社長)
  • 井巻久一(相談役・第13代社長)
  • 山内孝(相談役・第14代社長)
  • 金井誠太(相談役)

  • 【外部リンク】
    https://www.mazda.com/ja/

    マツダ株式会社(英語: Mazda Motor Corporation)は、広島県に本拠を置く日本自動車メーカーである。

    概要

    自動車及び同部品の製造・販売を事業としている自動車メーカーである。本社所在地は広島県安芸郡府中町新地3-1。2019年度の世界販売台数は142万台。

    ロータリーエンジンを搭載した自動車を量産していたほか、ロードスターは「2人乗り小型オープンスポーツカー」の生産累計世界一としてギネス世界記録の認定を受けている。1991年には日本メーカーとしては初のル・マン24時間レースでの総合優勝を果たした。2000年代以降は「Zoom-Zoom」のキャッチフレーズの下、走行性能とデザインを特色とした車作りに特化する戦略を進めている。今後は、顧客との間に強い絆をもった「プレミアムなブランド」を目指すとしている。

    1979年以来フォードとの提携関係が長く、1996年5月には同社の傘下に入りプラットフォームや生産施設などの共有化が進められたが、リーマン・ショック以降は今度はフォードの経営が悪化したこともあり、2015年9月に完全にグループから独立した。

    2015年5月にはトヨタ自動車と中長期的な提携関係を結ぶことを発表し、2017年8月には業務資本提携を結ぶことで合意。相互に500億円分ずつ株式を取得し、トヨタがマツダの第2位の大株主となった。THS-Ⅱの供給や、EV開発会社と北米工場の共同設立など、両社は急速に距離を縮めている。

    2018年5月には日本国内生産累計5000万台を達成した。国内メーカーではトヨタ、日産に次ぐ3社目の達成である。

    創業は1920年コルクを生産する「東洋コルク工業株式会社」として誕生。1927年以来、「東洋工業株式会社」が正式社名であったが、1984年にブランド名に合わせて「マツダ株式会社」に改称した。英語表記は「MAZDA」。コーポレートマークの「mazda」は1975年から、「M」を模った現在のエンブレム(ブランドシンボル)は1997年から使用されている。現在の社名は、事実上の創業者である松田重次郎の姓と、叡智・理性・調和の神を意味するゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー(Ahura Mazdā)にちなみ、自動車産業の光明となるよう願ってつけられた。

    歴史

    創業・コルクから機械事業へ

    マツダの実質的な創業者である松田重次郎(1921年頃)

    1920年(大正9年)1月30日広島市中島新町10番地にマツダの源流となる東洋コルク工業株式会社が設立された。清谷商会という1890年(明治23年)創業のコルクの製造・販売を手がける企業の経営が悪化したため、主な融資元であった広島貯蓄銀行が中心となり、融資の回収と事業の存続を図る方策として、それまでの個人経営から会社組織に改める形で設立された会社だった。設立にあたっては当時の広島の主要な財界人が参画し、初代社長には互選によって広島貯蓄銀行頭取の海塚新八が就任した。しかし海塚が体調不良により辞任を申し出たため、翌1921年(大正10年)3月、取締役の中で唯一経営に専念できる松田重次郎が社長に就任。松田重次郎はコルク栓を製造する際に出る屑コルクに目をつけ、広島高等工業学校との研究で加熱製法による圧搾コルク板を商品化し、廃材から付加価値の高いコルク製品の製造に成功する。海軍から大量の受注を得て業績は回復し、東京大阪にも出張所を設けて経営を積極的に展開した。

    しかし東京に出張所を設けていたことが仇となり、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって多くの売掛金が回収不能となって経営は大きな打撃を受けた。かねてから松田重次郎と親交のあった日窒コンツェルン総帥の野口遵からの融資で倒産を回避したが、不況の深刻化を受けて従業員の半分を解雇する事態にまで追い込まれ、さらに1925年(大正14年)12月の深夜の火災によりコルク工場が全焼してしまう。

    東洋コルク工業の圧搾コルク板

    こうした事態を受け、松田重次郎は過当競争となっていたコルク事業から自身が得意とする機械事業への進出を決意。知遇を得ていた呉海軍工廠長の伍堂卓雄に支援を依頼し、日本製鋼所を通す形で注文を取り付け、資金面では野口が保証人となり、芸備銀行から資金を調達した。1927年(昭和2年)には社名を東洋工業株式会社に改称した。

    1928年(昭和3年)初頭から、日本製鋼所や宇品造船所などの下請工場として海軍関係の兵器や機械、部品の製造を始めた東洋工業は、同年10月に広海軍工廠の指定工場に、翌1929年(昭和4年)1月に呉海軍工廠および佐世保海軍工廠の指定工場となり、航空機エンジンプロペラ軍艦精密機械などを受注。同年8月には海軍省購買名簿に登録され、従来の第2次下請けの立場から各海軍工廠の第1次下請け工場の地位を確立した。

    前述の債務保証を発端に、日本窒素肥料(現・チッソ)の経営参加が開始され、1931年(昭和6年)には野口自身も取締役に就任したことで、東洋工業の4人の取締役の内、松田重次郎を除く3人が日本窒素肥料系で占められた。第二次世界大戦の頃まで東洋工業の経営はおおむねこの陣容で進められていくことになる。

    三輪トラック生産の開始

    マツダ初の三輪トラック、マツダ号DA型(1931年)

    東洋工業は軍工廠の下請けという形で機械事業へと進出したが、軍からの注文は少量多品種な上に繁閑差が大きいため、量産によるコスト低減を図ることが難しいという悩みがあった。独自の製品を持ちたいと考えた松田重次郎は、最終的な目標を自動車製造に置きながらもまずはオートバイから手をつけることにし、1929年(昭和4年)から試作を始め、1930年(昭和5年)に30台と少数ながら市販した。

    1930年(昭和5年)には三輪トラックの開発に着手。オートバイから一足飛びに四輪自動車製造に向かうのではなく、まずは当時人気を呼んでいた三輪トラックで実績を積もうという狙いがあった。また、広島市吉島町の工場が手狭になっていたため、現在の本社所在地である広島県安芸郡府中村(現・府中町)の土地を取得。松田重次郎の長男の松田恒次(後に3代目社長)がレイアウトを担当し、三輪トラックを中心に設計された新工場が完成した。コルク製品と機械工業が事業の中心だった東洋工業にとって三輪トラック市場への進出は未知数だったため、野口の斡旋により、東洋工業が生産する三輪トラックを三菱商事の一手販売とする契約を結んだ。

    1931年(昭和6年)10月、府中の新工場で三輪トラックのマツダ号DA型の生産を開始。軍需景気で需要が増加していたところに、それまでの三輪トラックにはない後退ギアや、カーブをスムーズに曲がれるよう後輪にディファレンシャルギアを装備したDA型は、三菱商事の全国的な販売網も相まって好評を博した。改良型のDB型を発売した翌1932年(昭和7年)には国内シェア25%を獲得。売上は急拡大を遂げ、マツダ号は海外へも輸出された。

    1940年に完成した試作四輪車

    1935年(昭和10年)10月、朝鮮半島で大規模な水力発電所をいくつも建設していた野口からの依頼を受けて開発した削岩機を初納入し、またこの年には1929年(昭和4年)から社内向けに製造していた工作機械の外販も始めた。1936年(昭和11年)には三菱商事との販売契約を解消し、オート三輪は東洋工業の直売制に移行した。

    この頃には三輪トラックの次なる商品として、四輪自動車の検討を始めた。1936年(昭和11年)の重役会で小型四輪自動車の製造が決議され、イギリスオースチン・7を購入して研究を開始。さらにドイツ車オペル37年式やイギリスのMG37年式を購入し、最新のプレス機をはじめとする各種設備もアメリカから買い入れた。1940年(昭和15年)には小型四輪自動車の試作車を完成させ、生産体制も整備されつつあったが、この頃すでに東洋工業は軍事体制に組み込まれていたため、自動車の生産は実現不可能になっていた。

    戦時体制下

    1941年に竣工した小銃工場

    1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発し、国内の組織が総力戦体制へと再編成されていく中、東洋工業は陸軍小倉工廠から三八式歩兵銃と九二式騎兵銃の生産を申し渡された。自動車こそ戦時に必須であると主張して断ったものの、認められることはなく、年末には部品の生産が開始された。1938年(昭和13年)1月には軍需工業動員法により陸海軍共同管理工場に指定され、軍部の直接管理を受けることになった。陸軍大臣による歩兵銃生産の命令を受けた東洋工業は、1940年(昭和15年)に九九式短小銃の組み立てを始め、工場が完成した翌1941年(昭和16年)からは本格生産を開始した。呉海軍工廠からは爆弾水雷信管などの製造の命令を受けた。

    軍国主義の流れが軍需一本槍となる中、民生用品生産は圧迫を受け、商工省により三輪トラックの生産は東洋工業、発動機製造(現・ダイハツ工業)、日本内燃機の3社にのみ許可された。しかしその後、三輪トラックの生産は一時中止に追い込まれるなどして生産台数は極度に落ち込んだ。 1943年(昭和18年)10月には三輪トラックの生産台数はゼロとなり、終戦まで三輪トラック部門は実質的に機能を停止した。

    1943年(昭和18年)の上期には戦時金融金庫が東洋工業を取得して日本窒素肥料に次ぐ第2位の大株主となり、さらに同年下期に日本窒素肥料が保有する株式を戦時金融金庫に譲渡したことで、資本面でもより強い戦時統制の下に置かれた。翌1944年(昭和19年)1月、兵器増産を目的に前年に施工された軍需会社法に基づき、東洋工業は軍から軍需会社に指定され、軍需省中国軍需管理部の管理下に入った。同月には日窒コンツェルン総帥で取締役の野口遵が死亡し、これを受けて同年5月までに日本窒素肥料系の役員が経営陣から去ったことから、東洋工業と日本窒素肥料の提携は終了した。同年7月には内山コルク工業との共同出資で東洋コルクを設立し、祖業であるコルク製造事業を分離した。この年の10月には東洋工業は8556人の従業員を抱える国内トップクラスの軍需会社となっており、戦時中に製造した小銃は累計で58万5646挺に上った。

    原爆による広島市の火災及び爆風被害状況を示す地図。赤色は全焼区域。東洋工業は地図上の最も東を流れる猿猴川下流域の東側に位置する。

    1945年(昭和20年)8月6日アメリカ軍により広島市に原子爆弾が投下され、細工町(現・中区大手町)上空で炸裂した(広島市への原子爆弾投下)。爆心地から5.3km離れた東洋工業は爆風によって若干の建物が倒壊し、一部工場の屋根が吹き上げられたりほとんどの窓ガラスが割れる被害に遭ったものの、全体としての損害は軽微で、機械設備はほぼ無傷で残存した。しかし県当局の命令により鶴見町(現・中区鶴見町)で建物疎開の作業に動員されていた73名を含め、計119名の社員が命を落とし、負傷者は335名に上った。松田重次郎の次男でマツダモータース (現・広島マツダ)社長の松田宗弥も全従業員7名と共に亡くなった。

    東洋工業附属医院(現・マツダ病院)は広島市の負傷者が一番広い道をに向かって避難する際に真っ先に目に入る医療機関だったため、多くの人々が詰めかけてくる事態となり、そのため東洋工業の食堂寄宿舎も解放・提供し、医療品を含めたあらゆる物資の扉を開いて総出で救護にあたった。しかしながら負傷者は次々と亡くなっていき、会社のグラウンドでは連日犠牲者の遺体をかけて火葬が行われた。1945年(昭和20年)8月15日、東洋工業は生産を完全に停止したまま終戦を迎えた。

    戦後の復興期

    マツダ号GA型

    東洋工業本社は広島市周辺で唯一残存した大規模な建物だったため、多くの企業や団体が東洋工業に施設の提供を求めた。広島県庁1946年(昭和21年)7月まで全機関が東洋工業の施設内で業務にあたり、他にも広島県警察部、広島控訴院、広島区裁判所、広島県食料統制組合なども東洋工業に間借りした。日本放送協会広島中央放送局(現・NHK広島放送局)は東洋工業で放送を再開し、中国新聞は東洋工業から借り受けた三輪トラックで壁張り新聞を掲示して、救護所の場所といった情報を市民に届けた。

    占領にあたった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本の平和経済に必要な設備・施設のみの存置を認め、その他は賠償として全て取り立てるという方針を示しため、軍需会社に指定されていた東洋工業は存亡の危機に立たされる事態となった。1946年(昭和21年)に東洋工業は賠償工場に指定され、全社の46%に上る機械や設備が封印され使えなくなったが、当時の内務省警保局長である谷川昇の取り計らいにより、資本金1億円以上の企業のみがパージの対象となったため、資本金3000万円の東洋工業は幹部の公職追放などは免れることができた。

    企業の存続が許されるかも分からず、社内に不安が漂う中、東洋工業は三輪トラックの生産再開を決定し、1945年(昭和20年)9月には久留米市ブリヂストンの工場を訪ねるなど準備活動を始めていた。GHQからも軍需工場の民需生産転換の許可が降りたことから、終戦から4ヶ月後には生産を再開し、マツダ号GA型10台を完成させた。三輪トラックは戦前に軍用に向かないとして生産台数が大幅に減らされていたため、現役で走るその多くが老朽化していた上、戦後に手軽な輸送手段として急速に需要が高まったことから、1946年(昭和21年)には大手メーカーが相次いで参入し、三輪トラック業界は活況を呈した。復興が本格化してきた1950年(昭和25年)頃になると市場からはより大きい積載能力を持つ三輪トラックが要望されるようになり、同年9月、東洋工業は業界初の1トンの積載能力を持つマツダ号CT型を発売。1951年(昭和26年)に三輪トラックに対する車体サイズや排気量の制限が撤廃されたのを受け、同年に4.8メートルのロングボディを持つCTL型を発売し、翌1952年(昭和27年)には2トン積みのCTL型も登場させた。東洋工業の三輪トラックの売上は1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)までの間に12倍以上に増加した。

    四輪車市場への参入

    マツダ初の四輪自動車、CA型の試作車

    三輪トラックの大型化と多様化を進める一方、東洋工業は小型四輪トラックの開発も並行して行なっていた。1949年(昭和24年)にかけて試作を完了させ、工場生産の準備を開始。翌1950年(昭和25年)には東洋工業初の四輪車となる小型四輪トラック、CA型を発売した。新開発の空冷エンジンを搭載し、28万円の低価格で販売されたCA型だったが、1952年(昭和27年)までの間に35台だけで生産は中止となり、またほぼ同じ時期に発売した消防車のCF型の生産台数も74台に留まったため、四輪車市場への進出は一旦中断されることになった。

    1951年(昭和26年)、松田重次郎の長男で専務松田恒次が社長に就任。1956年(昭和31年)には再び四輪車の開発に着手し、1958年(昭和33年)、小型四輪トラックのロンパーを発売。翌1959年(昭和34年)には水冷エンジンを搭載したトラックのD1100型、D1500型を登場させた。

    1960年(昭和35年)以降になると、日本のモータリゼーションはそれまでの事業用から個人用へと需要が移行しつつあった。1955年(昭和30年)に報道された通商産業省(現・経済産業省)の「国民車構想」の影響もあり、富士重工業(現・SUBARU)のスバル・360三菱重工業三菱・500など、他社からは次々と大衆乗用車が発売されていた。

    マツダ初の四輪乗用車、R360クーペ(1960年)

    このような一連の動きを背景に、東洋工業は乗用車市場するにあたり、「ピラミッドビジョン」という新車開発構想を立案した。これは国民所得階層分布とそれに対応する乗用車の保有構造をピラミッド型に見立て、まずは下層部を占める大衆向けの乗用車から開拓し、国民所得水準の向上とともに一段ずつ上の車格の車種を展開していくことで、最終的には頂点部である高級車までをも担う総合自動車メーカーを目指すというものだった。この構想に基づき、1959年(昭和34年)4月に乗用車の開発に着手し、翌1960年(昭和35年)4月、東洋工業初となる四輪乗用車、R360クーペを発売した。1962年(昭和37年)には大人4人が乗れるファミリーカーとして開発したキャロル360を発売。両車は大ヒットを記録し、1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)までの3年間、東洋工業はトヨタ自動車日産自動車を抑えて国内販売台数首位に躍進した。

    次なる市場として小型乗用車を見据え、1963年(昭和38年)にファミリアバンを発売し、翌1964年(昭和39年)年には本格的なファミリーカーとして開発したファミリア4ドアセダンを投入。その後も2ドア、2ドアスペシャル、ファミリアトラックなど、ファミリアシリーズを中心に小型車を充実させていった。

    ロータリーエンジンの量産化

    ロータリーエンジン#マツダのロータリーエンジン」も参照
    マツダ初のロータリーエンジン搭載車、コスモスポーツ(1967年)

    1960年(昭和35年)から3年間にわたり、東洋工業は自動車生産台数で国内首位となっていたが、その多くは三輪トラックと軽乗用車だったため経営基盤は弱く、企業規模や収益性といった点でトヨタや日産に大きな差をつけられていた。また、当時の通商産業省は、近い将来の貿易自由化に備えて国際競争力を強化するために、国内自動車メーカーを「量産車(普通乗用車)」、「特殊乗用車(高級車)」、「ミニカー(軽自動車)」の3グループに統合させるとする「3グループ構想」を抱いており、東洋工業はミニカーグループの代表的なメーカーと見られていた。社長の松田恒次は、総合自動車メーカーを目指しているにもかかわらず東洋工業がミニカー専業会社とされ、その上合併を強いられて経営権を失うなど論外だと考えていた。

    こうした状況の中、社の独立を保ちたいと思案していた松田恒次は、1960年(昭和35年)の元旦ドイツ人の友人から、西ドイツNSU社とフェリクス・ヴァンケル博士が率いるヴァンケル社が共同開発したロータリーエンジン(RE)についてのレポートと雑誌記事が同封された手紙を受け取り、1日も早く技術提携を結ぶよう勧められた。REが自動車業界再編を乗り切るための切り札になると確信した松田恒次は、社内の反対の声を無視して技術提携を進めることを決断。松田恒次には、REの技術力によって企業イメージの向上が図れることや、RE開発の名目で銀行からの融資が受けやすくなり、その資金で通商産業省主導の再編を乗り切るための研究開発設備投資を強化できるといった考えがあった。

    NSUには世界各国の約100社から技術提携の申し込みが殺到していたが、駐日西ドイツ大使らの仲介によって、1960年(昭和35年)7月に交渉の約束を取り付けることに成功した。同年9月末、松田恒次一行はメインバンクである住友銀行頭取堀田庄三の斡旋により手に入れた、吉田茂元首相から西ドイツのアデナウアー首相に宛てた紹介状を携えてNSUへと向かい、当時としては破格の2億8000万円の特許料を払って技術導入を決めた。

    技術提携に関する政府認可がおりた1961年(昭和36年)7月、技術研修団がNSUに派遣され、そこで一定時間の稼動後にエンジン内壁面に発生する「チャターマーク」と呼ばれる摩耗が量産化を妨げる大きな原因であることを知らされた。帰国後に「ロータリーエンジン開発委員会」が設置され、NSUから届いた設計図を元に試作エンジンを完成させたが、契約前には明かされなかった様々な問題が発生し、実用には程遠いものだった。1963年(昭和38年)4月、開発強化のため、「ロータリーエンジン開発委員会」を昇格させた「ロータリーエンジン研究部」を設置。山本健一(後に6代目社長)を部長に総勢47名で発足し、翌年には3億円の総工費をかけた専用の研究室が用意された。山本をはじめとする開発陣は日本カーボンと共同でカーボンを浸潤させたアペックスシールを開発するなどして耐久性の確保に成功。1967年(昭和42年)5月、特許購入から6年の歳月と40億円以上とも言われる巨額をかけたプロジェクトは、RE搭載車のコスモスポーツの発売という形で結実した。

    REの圧倒的な動力性能と流麗かつ未来的なデザインを兼ね備えたコスモスポーツはイメージリーダーとして絶大な役割を果たし、それまでの「バタンコ屋」と呼ばれた垢抜けないイメージが「ロータリーのマツダ」という最先端のイメージに取って代わった。企業イメージ向上は販売増にも結びつき、1966年(昭和41年)からの2年間で四輪車の生産台数は19%も増加。コスモスポーツに続いて、ファミリアロータリークーペルーチェロータリークーペなどREを搭載したモデルを発売し、1970年(昭和45年)にはファミリアロータリークーペなどの対米輸出を開始して念願だったアメリカ市場へと進出した。

    オイルショック下の経営危機

    サバンナGT(1972年)

    1970年(昭和45年)、東洋工業はフォード、日産と共同で日本自動変速機(現・ジヤトコ)を設立し、同年にはフォードからの強い申し入れを受けて資本提携交渉に入った。マツダの小型トラックをフォードに供給する業務提携がまとまり、本題の資本提携交渉に入ろうとした矢先、社長の松田恒次が死去。後任には長男で副社長の松田耕平が就任し交渉は継続されたが、NSUが東洋工業とフォードの資本提携は認められないと反対した上にニクソン・ショックも重なり交渉は難航。互いの溝は埋まらず、1972年(昭和47年)3月に交渉は決裂に至った。

    1970

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    出典:wikipedia
    2020/09/13 18:59

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