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ミシシッピ州とは?

ミシシッピ州
State of Mississippi



(州旗) | (州章)
州の愛称: マグノリアの州
Magnolia State
州都
ジャクソン
【最大の都市】
ジャクソン
【州知事】
フィル・ブライアント
公用語
英語
面積
- 総計
- 陸地
- 水域 全米第32位
125,443 km²
121,607 km²
3,940 km² (3.1%)
人口(2010年)
- 総計
- 人口密度 全米第31位
2,967,297
24.5人/km²
【合衆国加入
- 順番
- 加入年月日】

20番目
1817年12月10日
時間帯
UTC -6
DST -5
緯度
北緯30°12' - 35°
経度
西経88°6' - 91°39'
【東西の幅】
275 km
【南北の長さ】
545 km
標高
-最高標高
-平均標高
-最低標高
246 m
90 m
0 m
【略称 (ISO 3166-2:US)】
US-MS
【ウェブサイト】
ミシシッピ州政府
【上院議員】
サッド・コクラン
ロジャー・ウィッカー

ミシシッピ州(英:State of Mississippi [ˌmɪsᵻˈsɪpi] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国南部に位置するである。州都および最大都市ジャクソン市人口は、2014年の統計(推計)によると2,994,079人。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第32位、人口では第31位である。

州名はインディアン部族オジブワ族の、部族語で「大きな川」を意味するミシシッピ川から取られている。

南北戦争では南部連合側に属した。そのため、州旗には南軍旗が描かれている。

【家庭で話される言語(ミシシッピ州) 2010】

 |  |  |  | 
英語 | 
 | 96.18%
スペイン語 | 
 | 2.29%
【人種構成(ミシシッピ州) 2010】

 |  |  |  | 
白人 | 
 | 58.0%
黒人 | 
 | 37.0%
ヒスパニック | 
 | 2.7%
アジア系 | 
 | 0.9%
インディアン | 
 | 0.5%
混血 | 
 | 1.1%

目次

  • 1 歴史
    • 1.1 ミシシッピ州昇格後
    • 1.2 20世紀
  • 2 地理
    • 2.1 気候
    • 2.2 生態系
      • 2.2.1 洪水
  • 3 人口動勢
    • 3.1 人口
    • 3.2 人種的構成および祖先
    • 3.3 十代の出産
    • 3.4 宗教
  • 4 健康
  • 5 インディアン部族
    • 5.1 インディアン・カジノ
  • 6 主要な都市および町
  • 7 政治と法律
    • 7.1 州法
  • 8 経済
    • 8.1 連邦補助金と使途
  • 9 交通
    • 9.1 空港
    • 9.2 道路
    • 9.3 鉄道
      • 9.3.1 旅客輸送
      • 9.3.2 貨物輸送
    • 9.4 水運
      • 9.4.1 主要河川
      • 9.4.2 主要な水域
  • 10 教育
    • 10.1 単科および総合大学
  • 11 芸術・文化
    • 11.1 音楽
    • 11.2 その他の芸術
  • 12 その他
    • 12.1 ミシシッピ州出身の有名人
    • 12.2 州の象徴など
  • 13 脚注
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

歴史

主要記事:ミシシッピ州の歴史

紀元前1万年頃、パレオ・インディアンが今日アメリカ合衆国南部と呼ばれる地域に入ってきた。彼等は狩猟採集民であり、更新世末には絶滅した大型動物を狩っていた。その後の数千年間で、ウッドランド文化やミシシッピ文化が生まれ、豊かで複雑な農耕社会を発展させ、余剰物が交易に発展した。どちらの文化でもマウンドを構築した。ミシシッピ文化のマウンドは大きくて複雑であり、人々の交易圏は大陸の北から南まで広がっていた。マウンドは政治と宗教の概念を表しており、現在でもミシシッピ川やオハイオ川流域に残っている。

『シェファンクト近くのチョクトー族村』、フランソア・ベルナール画、1869年、ハーバード大学ピーボディ博物館。描かれている女性はバスケットを作るためにトウの皮を染めている

アメリカ合衆国南東部におけるミシシッピ文化の子孫にはチカソー族やチョクトー族がいた。現在のミシシッピ州となった地域に住んだその他の部族としてナチェズ族、ヤズー族、ビロクシ族などがいた。

この地域に入った最初のヨーロッパ人探検家はスペイン人エルナンド・デ・ソトであり、1504年の新世界への2回目の遠征で、州北東部を通った。1699年4月、フランス人開拓者がオーシャンスプリングスに最初の開拓地フォートモーリパスを設立した。ここにはピエール・ル・モワン・ディバヴィーユが入植した。1716年、フランスはミシシッピ川沿いにナチェズの町(ロザリー砦)を設立した。この町が中心地となり交易拠点となった。フランスはこの広大な領土を「ヌーベルフランス」と呼んだ。当時スペインはメキシコ湾岸、現在のアラバマ州南部とフロリダ州の領有主張を続けていた。

その後の数十年間、この地域はスペイン、フランス、イギリスの各植民地政府が支配した。植民地人は労働力としてアフリカ人奴隷を輸入した。フランスとスペインの統治下では、自由有色人階級が発展し、その大半はヨーロッパ人と奴隷化された女性とその子供達の多人種子孫だった。初期のフランスとスペインの植民地人は主に男性だった。ヨーロッパ人女性が開拓地に入ってくるようになったとしても、男性はヨーロッパ人女性と結婚する前後でアフリカ人の子孫と関係を持った。ヨーロッパ人男性はその多人種の子供達に教育を受けさせ、商売の訓練を受けさせ、時には資産を残した。奴隷の場合は母親と子供達を解放することもあった。この社会資本を得た自由有色人は職人になり、時には教育のある商人や土地所有者となって、ヨーロッパ人とフランスやスペインの開拓地にいる奴隷化されたアフリカ人の間で第3の階級を形成した。ただし、ニューオーリンズほど大きな社会にはならなかった。イギリスがフレンチ・インディアン戦争(ヨーロッパでは七年戦争)に勝利した後、1763年のパリ条約によってフランスはこの地域をイギリスに渡した。

プッシュマタハ、チョクトー族酋長

アメリカ独立戦争が終わると、この地域は新生アメリカ合衆国の領土になった。1798年4月7日にはミシシッピ準州が組織化された。その領域はジョージア州サウスカロライナ州が権利放棄したものだった。その後アメリカ合衆国とスペインが領有論争を続けていた領土を2回に分けて含むようになった。1800年から1830年頃、アメリカ合衆国はインディアンからヨーロッパ系アメリカ人の入植のために土地を購入した(ドークススタンド条約)。入植者は南部州からの移住者が多かった。多くの奴隷所有者が奴隷を連れて行き、あるいはニューオーリンズなど国内の奴隷市場で奴隷を購入した。ミシシッピ州を含むディープサウスには100万人近い奴隷が輸入され、国内の移住によってプランテーション所有者が過剰な奴隷を売ったアップランドサウスでは奴隷の家族が別れ別れになった。南部人は白人至上主義の見解に立ち、奴隷法を強め、自由黒人の権利を制限した。

デブローの前景、1840年建設、アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている

ミシシッピ州昇格後

1817年12月10日、ミシシッピはアメリカ合衆国20番目の州に昇格した。デイビッド・ホームズが初代州知事に選出された。川が主要な輸送路だったので、川に沿った地域にプランテーションが開発された。初期の町もここに発展し、商品や作物を市場に運ぶ蒸気船で結ばれた。後背地はほとんど未開なままに残されていた。

1850年代は綿花が王様であり、ミシシッピのプランテーション所有者、特にミシシッピ・デルタブラックベルト地域の所有者は土壌の肥沃さ、国際市場での綿花の高値、さらに奴隷という資産で裕福になった。そこから得られる利潤を使ってさらに綿花栽培用の土地と奴隷を購入した。プランテーション所有者は数十万人の奴隷労働者に依存し、また白人の間にも富の不均衡が発生したので、州の政治においても、アメリカ合衆国からの脱退を支持したときにも強い影響力を発揮した。

1860年時点で奴隷人口は436,631人であり、州人口791,305人の55%になっていた。自由有色人は1,000人に満たなかった。南北戦争前は比較的人口が少なかったので、土地と村は主要輸送路となる川沿いでのみ開発された。ミシシッピデルタ低地の90%はフロンティアであり、未開だった。州は開発のためにより多くの入植者を必要としていた。

1861年1月9日、ミシシッピ州はアメリカ合衆国からの脱退を宣言した2番目の州となり、アメリカ連合国設立の一員になった。南北戦争中、北軍南軍が重要な補給路であるミシシッピ川の支配権を巡って激しく戦った。北軍のユリシーズ・グラント将軍がビックスバーグを長期間包囲し、1864年にはミシシッピ川を完全に支配した。

コリンスの戦い後の南軍兵の死体、1862年10月5日撮影

レコンストラクション時代、1868年に最初のミシシッピ州憲法制定会議が開かれ、黒人も白人も代議員となり、その後22年間有効となる憲法草案を策定した。この会議の代議員100人の内の17人が黒人であり、このような政治組織としては初めてのものになった。そのうちの数人は自由人だったが、他の者は北部から移ってきた解放奴隷だった。32の郡では黒人人口が多数派だったが、その代表には白人も黒人も選んだ。この会議は普通選挙を採択し、選挙権や被選挙権に対する資産資格を排除したが、この修正は貧乏白人にとっても恩恵だった。また州初の公共教育体系を作り、資産の所有と継承では人種差別を禁じた。さらに旅行中の公民権制限を禁じた。レコンストラクションの条件に従い、ミシシッピ州は1870年2月23日に合衆国に復帰した。

19世紀後半のジム・クロウ法および1890年の新憲法の成立によって、ミシシッピ州はディープサウスに典型的な形で、事実上黒人の選挙権を取り上げ、その歴史は複雑なものになった。ミシシッピ・デルタには南北戦争以前に開発されていなかった肥沃な土地があったので、土地の90%は未開なままだった。戦後、数万人の移住者がこの地域に入ってきた。土地を切りはらい、木材を売ることで金を儲け、土地所有者になった。新しい農夫には解放奴隷が含まれ、高い比率で土地所有者になった。1870年代から1880年代、多くの黒人農夫が土地の取得に成功した。

20世紀

20世紀に変わった頃、デルタで土地を所有する農夫の3分の2はアフリカ系アメリカ人だった。その多くは綿花価格が低落する難しい時代を、その負債を増やすことでやり過ごした。南北戦争後の時代は綿花の価格が下がり続けた。しかし、1890年代のさらなる農業不況が綿花価格を下げ、多くのアフリカ系アメリカ人農夫は負債の支払のために土地を売り、汗水垂らして開拓した土地を失うことになった。

白人議員が1890年に新憲法を作り、実質的に大半の黒人と貧乏白人の多くから選挙権を取り上げる有権者制限条項を設けた。その後の数年間で推計10万人の黒人と5万人の白人が有権者名簿から外された。19世紀後半にアフリカ系アメリカ人が信用を拡大しようとしても、政治的な影響力の無さが災いした。ジム・クロウ法に加え、1890年代からは白人が白人至上主義を植え付けようとしてリンチが行われることが増え、ワタミゾウムシの蔓延で綿花の収量が落ち、さらには1912年と1913年の大洪水が続いたことで、多くのアフリカ系アメリカ人にとって危機的な状態になった。白人プランテーション所有者は投票箱を支配し、信用も拡大して、ミシシッピ・デルタ低地の所有範囲を拡大し、また新しい鉄道の利点を生かすことができた。

1900年時点で黒人人口は州人口の50%以上だった。これが1910年には、黒人農夫の過半数がデルタの土地を失い、小作農になった。1920年では、奴隷解放後の第3世代となったアフリカ系アメリカ人の大半が、再度貧乏に直面する土地無し労働者になっていた。1913年頃からは、グレートマイグレーションと呼ばれる動きの中で、数万人ものアフリカ系アメリカ人がミシシッピ州を離れ、北部のセントルイスシカゴデトロイトフィラデルフィアニューヨークなど工業化された都市に移住した。彼等は職を求め、子供達には良い教育機会、選挙権、人種差別の比較的少ない自由な社会、さらにより良い生活を求めた。1910年から1940年まで続いた移住時代に、機会を頑として閉ざされた社会を捨てた。ミシシッピ州を離れる移住者の大半は鉄道で直接北のシカゴに行き、元の隣人の近くに居を定めることが多かった。

児童労働者、ミシシッピ州パスクリスチャン、1911年、ルイス・ハイン撮影

20世紀初期、州内で幾つかの産業が興ったが、職は概して白人に限られ、労働者には児童も含まれていた。職が無いことで南部の白人もシカゴのような都市に移住し雇用機会を求めた。ミシシッピ州は農業に依存していたが、機械化が進んで農業労働者も職を失った。

クラークスデール近くの安酒場でダンスをする人々、1939年、マリオン・ポスト・ウォルコット撮影
リーランドに近いアルドリッジ・プランテーションのオーナーと労働者の子供、1937年6月、ドロシア・ラング撮影

南部からの第二次グレートマイグレーションは1940年代に始まり、1970年まで続いた。この時代にほぼ50万人がミシシッピ州を離れ、その4分の3は黒人だった。20世紀前半の全国でアフリカ系アメリカ人は急速に都会に入り、多くは工場で働いた。この第二次グレートマイグレーションの行き先にはアメリカ合衆国西部、特にカリフォルニア州が追加された。カリフォルニア州では防衛産業の発展でアフリカ系アメリカ人に高い賃金を払うことができた。

ミシシッピ州のアフリカ系アメリカ人と白人は、豊かで真にアメリカ的な音楽の伝統を築き上げた。ゴスペル音楽カントリー・ミュージックジャズブルースロックンロールが生まれた。その全てがミシシッピ州のミュージシャンによって創成され、広められ、大きく発展した。ミュージシャンの多くはアフリカ系アメリカ人であり、ミシシッピ・デルタ低地の出身だった。多くのミュージシャンはシカゴなど北部にも音楽を伝え、シカゴのジャズやブルースの中心を作り上げた。

グレートマイグレーションの間に多くのアフリカ系アメリカ人が離れていったので、1930年代以降は少数派に変わった。1960年での構成比は42%だった。1890年憲法の条項に従い、白人が管理し、差別する有権者登録は継続しており、アフリカ系アメリカ人の大半は投票できなかった。公民権運動の時代、ミシシッピ州では黒人教会が中心となって黒人に有権者登録を行わせる教育活動の中心になった。全国の学生や社会組織者がミシシッピ州に来て、黒人の有権者登録を支援し、自由の学校を設立した。白人政治家大半の抵抗と厳しい態度(ミシシッピ州主権委員会の創設など)、多くの州民が白人市民の委員会に参加したこと、さらにクー・クラックス・クランと同調者の暴力戦術が重なり、1960年代のミシシッピ州は反動の州という評判が立った。州内のアフリカ系アメリカ人は1960年代半ばにその選挙権の行使を始め、連邦政府が1964年と1965年に公民権法を成立させた後は、人種差別と憲法による選挙権規制を止めさせた。

1966年、ミシシッピ州は禁酒法を州全体で公式に撤廃した最後の州になった。それ以前には密造者が持ち込む違法アルコール飲料に課税していた。ポール・ジョンソン州知事が撤廃を進め、保安官が「ジャクソン・カントリクラブで毎年開催されるジュニアリーグのマルディグラ舞踏会を襲撃し、上層階級や州の高官が驚いて見ている前で、酒類棚を割って開かせ、シャンペーンを運び去った。」

ミシシッピ州は1987年に人種間結婚の禁止法を撤廃した。これはアメリカ合衆国最高裁判所が1967年に違憲と裁定していた。1989年には人種差別時代の人頭税も撤廃した。1995年には、1865年に奴隷制度を廃止したアメリカ合衆国憲法修正第13条を象徴的に批准した。2009年、州議会は、1964年に法制化されたが、1967年にアメリカ合衆国最高裁判所が違憲と裁定していた人種差別的公民権法を撤廃する法案を可決した。共和党知事ヘイリー・バーバーがこの法に署名して成立した。

1969年8月17日、カテゴリー5のハリケーン・カミュがミシシッピ州海岸を遅い、死者248人、総額15億ドルの被害を出させた。2005年8月29日、カテゴリーは3だったが、ハリケーン・カトリーナが上陸し、ルイジアナ州からアラバマ州まで90マイル (145 km) におよぶメキシコ湾岸に破壊的な被害を及ぼした。

地理

参照:ミシシッピ州の郡一覧

ミシシッピ州の図
アシュランドに近いボトムランドの硬木湿地

ミシシッピ州はテネシー州と北部、アラバマ州と東部、ルイジアナ州およびメキシコ湾と南部、ならびにルイジアナ州およびアーカンソー州(ミシシッピ川を超えて)と西部で隣接している。

主要な川としては、州名となったミシシッピ川、ビッグブラック川、パール川、ヤズー川、パスカグーラ川、トンビッグビー川がある。主要な湖としては、ロス・バーネット貯水池、アーカバトラ湖、サーディス湖およびグレナダ湖がある。グレナダ湖が最大である。

ミシシッピ州は大半が低地で構成され、最高地点はカンバーランド山地の麓丘陵部ウッドール山の標高806フィート (246 m)、最低地点はメキシコ湾岸の海面である。州内の平均標高は300フィート (91 m) である。

州領域の大半は東ガルフ海岸平原に属している。この海岸平原は、南部のパインヒルや北部セントラルヒルのように概して低い丘陵で構成されている。北東部のポントトク・リッジやフォールライン・ヒルズは幾らか高い。茶褐色の黄土が州西部で見られる。北東部は肥沃な黒土地帯であり、アラバマ州のブラックベルトに広がっている。

海岸線にはセントルイス湾、ビロクシ湾、パスカグーラ湾など大きな湾がある。メキシコ湾とは浅いミシシッピ・サウンドで隔てられ、一部はプティボワ島、ホーン島、イースト・アンド・ウェスト・シップ諸島、ディア島、ラウンド島、キャット島で遮られている。

州北西部はミシシッピ・デルタであり、ミシシッピ沖積平野の一部になっている。この平原は南部で狭く、北部のヴィックスバーグでは広くなっている。この地域は土壌が肥沃であり、一部はミシシッピ川の洪水で定期的に堆積された沈泥になっている。

国立公園局の管理下にある地域は以下の通りである。

気候

ミシシッピ州は温暖湿潤気候にあり、長い夏と、短く温暖な冬が特徴である。平均気温は7月の95°F (35 ℃) から1月の48°F (9 ℃) まで変化している。夏は州全体で場所による温度差は少ないが、冬はミシシッピ・サウンドに近い地域が内陸部よりかなり暖かくなる。過去最低気温は1966年に北東部のコリンスで記録された-19°F (-28.3 ℃) であり、過去最高気温は1930年に北部のホリースプリングスで記録された115°F (46.1 ℃) である。州全体で激しい降雪の可能性があり、特に1963年大晦日の暴風雪が顕著なものだった。年間降水量は北部から南部に行くに従って多くなり、メキシコ湾岸が最も多い。北西部のクラークスデールでは年間降水量約50インチ (約 1,270 mm)、南部のビロクシでは同約61インチ(約 1,550 mm) となっている。北部と中部では少量の降雪があり、南部ではごく希である。

晩夏から秋にかけては、特に南部でメキシコ湾から内陸に入るハリケーンの危険性が高い。1969年のハリケーン・カミーユや2005年のハリケーン・カトリーナが州を襲った最大級のハリケーンであり、どちらもガルフポート、ビロクシ、パスカグーラ周辺に高潮被害を出させた。ハリケーン・カトリーナでは238人が死亡した。ディープサウスの他地域と同様、も特に南部で多い。年平均で27個の竜巻が発生している。北部では一年の前半で、南部では後半で発生することが多い。アメリカ合衆国の歴史で大きな竜巻5個のうち2個が州内で発生した。これらは南西部のナチェズと北東隅のテューペロを襲った。州内では藤田スケールF5の竜巻が7個記録されている。

各都市の月別平均最高最低気温 (°F)
都市 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
ガルフポート 61/43 | 64/46 | 70/52 | 77/59 | 84/66 | 89/72 | 91/74 | 91/74 | 87/70 | 79/60 | 70/51 | 63/45
ジャクソン 55/35 | 60/38 | 68/45 | 75/52 | 82/61 | 89/68 | 91/71 | 91/70 | 86/65 | 77/52 | 66/43 | 58/37
メリディアン 58/35 | 63/38 | 70/44 | 77/50 | 84/60 | 90/67 | 93/70 | 93/70 | 88/64 | 78/51 | 68/43 | 60/37
テューペロ 50/30 | 56/34 | 65/41 | 74/48 | 81/58 | 88/66 | 91/70 | 91/68 | 85/62 | 75/49 | 63/40 | 54/33
[1]

生態系

州間高速道路20号線沿いにある州の看板

ミシシッピ州は半分以上の領域が野生の樹木で覆われており、松、ハコヤナギ、ニレ、ヒッコリー、オーク、ピーカン、スウィートガム、ヌマミズキが多く見られる。

洪水

ミシシッピ川は12月から6月にかけて洪水を起こすために、その支流流域を含めたミシシッピ・デルタに肥沃な洪積平野を作り上げてきた。この洪水を制御するためにミシシッピ川に沿った堤防を奴隷が建設した。川が溢れた後に堆積する泥でできた自然の堤防の上に、人工の堤防を造った。デルタでの綿花の栽培が増加すると、農園主は1840年代に大量に移民してきたアイルランド人労働者を雇用し、土地に溝を掘って排水した。

1858年から1861年にはミシシッピ州が堤防工事を引き受け、業者や雇用した労働者によって完成させた。この時代に農園所有者はその奴隷達が貴重なものであるので、そのような危険な仕事には出せないと考えた。建設業者はアイルランド移民の労働者を雇用し、堤防を築き、ときには土地を開墾した。アイルランド移民の多くは母国の飢饉から逃れて比較的近年に移民してきた者達であり、懸命に働いて身を立てようとした。南北戦争以前、土盛りされた堤防は平均高さが6フィート (1.8 m) あり、場所によっては20フィート (6 m) あった。

洪水はミシシッピ川の歴史そのものだったが、耕作のために土地を開き、蒸気船のために燃料として供給したことで、樹木と下生えの水分吸収力が無くなった。南北戦争後、1865年、1867年、1874年、1882年に大洪水が起こった。これらの洪水は戦中に南軍と北軍が戦って損傷を受けていた堤防や、戦後に造られた堤防を乗り越えるのが常だった。1877年、州南部の郡のために、ミシシッピ堤防地区が創設された。1879年、アメリカ合衆国議会がミシシッピ川委員会を作り、堤防の建設に際して州の堤防委員会を援助することなどを役割とした。19世紀後半は、白人も黒人も季節労働者が堤防建設に携わった。1882年までに堤防の平均高さは7フィート (2.1 m) となったが、この年に起きた洪水によってデルタ南部地帯は大きな損害を出した。この1882年洪水後、堤防の体系が拡張された。1884年、ヤズー・ミシシッピ・デルタ堤防地区が作られ、デルタ北部郡での堤防建設と維持にあたった。これにはアーカンソー州の幾つかの郡も含められた。

1912年から1913年に起きた洪水はミシシッピ州北西部を襲い、堤防地区にも大きな打撃を与えた。地域的な被害が出たことと、ミシシッピ川堤防協会が洪水制御のためのロビー活動を行ったことで、1917年と1923年には連邦政府と地元堤防地区で2対1の連邦マッチングファンドを出させる全国法を成立させることになった。アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参入したことで堤防建設のためのファンドにも障害ができたが、ファンドの二次ラウンドで、ミシシッピ・ヤズー・デルタの平均堤防高さは1920年代に22フィート (6.6 m) になった。現在の科学者は堤防が逆に洪水も増したと考えており、1927年のミシシッピ大洪水では深刻な被害を受けた。資産、家畜、穀物など被害総額は数百万ドルに上った。被害の大きかったのはワシントン郡ボリバー郡などデルタ下流地域だった。

ミシシッピ川に関する科学的知識が増えたとしても、上流での開発や堤防の建設によって何度か厳しい洪水が起きた。現在の科学者は、土地を広く切り開き、堤防を造ったことで、湿地や森林の自然保護能力を取り去り、川の性質そのものを変えて流れを強めたと理解するようになった。州政府と連邦政府は、当初あった川の生態系とうまく付き合うために、生息域の回復への最善手段を求めて苦慮し続けている。

人口動勢

ミシシッピ州の人口密度図

人口

人口推移
【年】
【人口】
【】

1800 | 7,600 |  | 

1810 | 31,306 |  | 311.9%
1820 | 75,448 |  | 141.0%
1830 | 136,621 |  | 81.1%
1840 | 375,651 |  | 175.0%
1850 | 606,526 |  | 61.5%
1860 | 791,305 |  | 30.5%
1870 | 827,922 |  | 4.6%
1880 | 1,131,597 |  | 36.7%
1890 | 1,289,600 |  | 14.0%
1900 | 1,551,270 |  | 20.3%
1910 | 1,797,114 |  | 15.8%
1920 | 1,790,618 |  | -0.4%
1930 | 2,009,821 |  | 12.2%
1940 | 2,183,796 |  | 8.7%
1950 | 2,178,914 |  | -0.2%
1960 | 2,178,141 |  | 0.0%
1970 | 2,216,912 |  | 1.8%
1980 | 2,520,638 |  | 13.7%
1990 | 2,573,216 |  | 2.1%
2000 | 2,844,658 |  | 10.5%
2010 | 2,967,297 |  | 4.3%
2012(推計) | 2,984,926 |  | 0.6%
Source: 1910–2010

アメリカ合衆国国勢調査局による2012年7月1日時点のミシシッピ州の推計人口は2,984,926人となっており、2010年国勢調査から0.6%成長していた。2000年から2012年の変化を見ると、混血の増加率が70%と国内でも高い方だった。

総人口はそれほど変化していないが、総じて若く、変化の幾らかは出生によるものである。過去には白人によって課された人種差別の時代からの遺産として単一民族を選んでいた者達が、1つ以上の人種出身であることを選ぶようになったことを明らかに反映している。人口統計学者のウィリアム・フライは「ミシシッピ州においては南部から変化していると思う」と記した。インディアン強制移住後のミシシッピ州において、多数派は黒人(アフリカ系アメリカ人、その多くはヨーロッパ人の先祖も持っていた)と白人(主にヨーロッパ系アメリカ人)だった。やはり人口統計学者のマシュー・スニップはこの変化について「ある意味で、彼等は過去に抑圧されていた人種的遺産というものをより正確に描き出すようになっている」とコメントしている。

アフリカ系アメリカ人は人口の約37%を構成しており、その中には19世紀に地域のプランテーションを開発するために運ばれてきた祖先を持っている者がいる。ミシシッピ州はブラックベルトに属し、黒人多数派の時代が南北戦争前から1930年代まで続いた。その後の黒人大移動により、40万人近いアフリカ系アメリカ人が北部、中西部および西部へ新たな機会を求めて移住した。

ミシシッピ州の人口重心Lenaの町がある、リーク郡となっている。2010年国勢調査に拠れば、州内の同性カップルの約33%が1人以上の子供を持っており、この比率は他州よりも高い。

人種的構成および祖先

2010年国勢調査に拠れば、ミシシッピ州の人種による人口構成は次のようになっている。

白人 (a) 59.1%
黒人 (a) 37.0%
アメリカインディアン、およびアラスカのインディアン、エスキモー(a) 0.5%
アジア人 (a) 0.9%
太平洋諸島人 (a) 0.1%未満
混血 1.1%
ヒスパニックないしラティーノ (b) 2.7%
白人 (ヒスパニックとラティーノを除く) 58.0%
(a) 1つの人種だけを回答した者だけの割合。
(b) ヒスパニックは人種概念ではないため、同時にいずれかの人種に属する。

1830年9月27日、ダンシングラビット・クリーク条約がアメリカ合衆国政府とチョクトー族の間で結ばれた。チョクトー族はミシシッピ州とアラバマ州にあった先祖伝来の土地の売却に合意した。これと引き替えに補償金とインディアン準州(現在のオクラホマ州)の居留地への移住が待っていた。これによりヨーロッパ系アメリカ人開拓者への土地公売が解禁された。条約の第14条では、州内に残留するチョクトー族はアメリカ市民になることを認めている。チェロキー族に続いて非ヨーロッパ系民族となることを選んだ2つめの部族だった。今日、約9,500人のチョクトー族が、ネショバ郡ニュートン郡リーク郡ジョーンズ郡に住んでいる。連邦政府から認められた部族には、チョクトー族ミシシッピ・バンドがある。

南北戦争以前から1930年代まで、アフリカ系アメリカ人がミシシッピ州人口の過半数を占めていた。1940年代以降、黒人大移動により、36万人以上のアフリカ系アメリカ人が州を離れ、北部、中西部および西部へ新たな機会を求めて移住し、アフリカ系アメリカ人人口は大きく減少した。

それでも2010年時点でミシシッピ州におけるアフリカ系アメリカ人構成比は国内最高である。近年、その構成比は高くなりつつあり、これは白人よりも平均年齢が若いことが寄与している(生涯出産数はほぼ等しい)。州内公共教育学区のほぼ全ては、アフリカ系アメリカ人の生徒が多数となっているが、ヨーロッパ系アメリカ人が多数であることも多い。北西部のヤズー・デルタ、南西部および中央部ではアフリカ系アメリカ人が多数派である。これらの地域では、南北戦争後の19世紀にアフリカ

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出典:wikipedia
2018/11/16 16:24

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