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ミズーリ州とは?

ミズーリ州
State of Missouri



(州旗) | (州章)
州の愛称: 疑い深い州
The Show Me State
州都
ジェファーソンシティ
【最大の都市】
カンザスシティ(最大の都市圏はセントルイス)
州知事
マイク・パーソン
公用語
英語
面積
- 総計
- 陸地
- 水域 全米第21位
180,533 km²
178,455 km²
2,119 km² (1.17%)
人口(2010年)
- 総計
- 人口密度 全米第18位
5,988,927
33.62人/km²
【合衆国加入
- 順番
- 加入年月日】

24番目
1821年8月10日
時間帯
UTC -6
DST -5
緯度
北緯36° - 40°37'
経度
西経89°6' - 95°46'
【東西の幅】
385 km
【南北の長さ】
480 km
標高
-最高標高
-平均標高
-最低標高
540 m
240 m
70 m
【略称 (ISO 3166-2:US)】
US-MO
【ウェブサイト】
ミズーリ州政府
【上院議員】
ロイ・ブラント
クレア・マカスクル

ミゾーリ州(: State of Missouri 発音: [mɪˈzuəri] ( 音声ファイル), [məˈzɜrə] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国中西部ミシシッピ川沿いにある内陸のである。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第21位、人口では第18位である。前身のミズーリ準州から1821年8月10日に合衆国24番目の州に昇格した。現在は観光が州のおもな産業の一つとなっている。

州都ジェファーソンシティ市である。同州を代表する都市はイリノイ州との州境にあるセントルイス市と、カンザス州との州境にあるカンザスシティ市であり、ともに都市圏人口200万人以上の大都市である。ほかの主要都市には、スプリングフィールド市インディペンデンス市コロンビア市などがある。とりわけミシシッピ川に面するセントルイス市は、開拓時代より西部への玄関口として発展し、現在では中西部きっての観光都市である。

また、ミシシッピ川沿いにある多数の町は、ヨーロッパからの移民の影響を強く受けており、現在でも当時の教会や町並みが多く残っている。特にセントジェネビーブや、そこから1時間ほどの場所にあるケープジラードなどはフランス移民の影響が強く、大きな教会や狭い街路など美しい町並みが見られ、知られざる観光地である。

【家庭で話される言語(ミズーリ州) 2010】

 |  |  |  | 
英語 | 
 | 94.12%
スペイン語 | 
 | 2.65%
【人種構成(ミズーリ州) 2010】

 |  |  |  | 
白人 | 
 | 81.0%
黒人 | 
 | 11.6%
ヒスパニック | 
 | 3.5%
アジア系 | 
 | 1.6%
インディアン | 
 | 0.5%
混血 | 
 | 2.1%

目次

  • 1 州名の由来
  • 2 歴史
    • 2.1 ミシシッピ文化
    • 2.2 フランス領ルイジアナ
    • 2.3 ルイジアナ買収
    • 2.4 ミズーリ妥協
    • 2.5 奴隷制度に関する紛争
    • 2.6 南北戦争
    • 2.7 20世紀以降
  • 3 地理
    • 3.1 地形
    • 3.2 気候
  • 4 人口動勢
    • 4.1 人種および祖先
    • 4.2 言語
    • 4.3 宗教
  • 5 インディアン部族
    • 5.1 インディアン・カジノ
  • 6 郡
  • 7 都市および大都市圏
    • 7.1 セントルイス大都市圏
    • 7.2 カンザスシティ都市圏
  • 8 政治と法律
    • 8.1 州政府
    • 8.2 政治の行方を占う州
    • 8.3 放任的なアルコールとタバコの法律
      • 8.3.1 アルコール
      • 8.3.2 タバコ
  • 9 経済
    • 9.1 税、金融
    • 9.2 カジノ
  • 10 交通
    • 10.1 航空
    • 10.2 鉄道
    • 10.3 バス
    • 10.4 河川
    • 10.5 道路
      • 10.5.1 州間高速道路
      • 10.5.2 アメリカ国道
  • 11 教育
    • 11.1 ミズーリ州教育委員会
    • 11.2 初等中等教育
    • 11.3 単科および総合大学
  • 12 芸術・文化
    • 12.1 オーケストラなど
    • 12.2 スポーツチーム
      • 12.2.1 マイナーリーグ
  • 13 その他
    • 13.1 同州出身の有名人
    • 13.2 州の象徴など
    • 13.3 日本の姉妹都市
  • 14 脚注
  • 15 関連項目
  • 16 外部リンク

州名の由来

ミズーリ州はミズーリ川にちなんで名付けられており、「ミズーリ」はスーインディアンの部族名だった。彼らは「ウィミスーリタ(ouemessourita あるいは wimihsoorita)」と呼ばれ、マイアミ・イリノイ語で「丸木船を持つ人々」を意味している。イリニ族はこの地域でヨーロッパ人が初めて遭遇したインディアンであり、ヨーロッパ人からミズーリと呼ばれることになった。


歴史

詳細は「ミズーリ州の歴史」を参照

ミシシッピ文化

コリンズビルカホキア遺跡にあるモンクス=マウンド (Monk's Mound) 。

ヨーロッパ人がミズーリ州となった地域を探検し開拓する前の数千年間、インディアンが居住していた。河川沿いの考古学調査により、7,000年以上にわたって継続して人類が住んでいたことが示されている。西暦1000年以前から複合的なミシシッピ文化が発生し、現在のセントルイス市郊外のミシシッピ川対岸のカホキア(現在のイリノイ州コリンズビル)に、地域の政治的中心を作り出していた。その大きな都市には数千人の住人が住み、巨大なマウンドと呼ばれる土盛り構造物を作っていたことで知られている。このマウンドは宗教、政治および社会的な目的があり、円錐台形の頂部は壇をなしていた。カホキアは五大湖メキシコ湾にまで及ぶ地域交易ネットワークの中心だった。この文化は1400年までに衰退し、住人はヨーロッパ人が到着するずっと前に地域を離れていた。セントルイス市には前史時代のマウンドが多く残されていたため、ヨーロッパ系アメリカ人がマウンドシティと呼んだこともあったが、そのマウンドの多くは都市開発のために失われてきた。ミシシッピ文化のマウンドはミシシッピ川中流域やオハイオ川流域、さらに南東部上流域に残っている。

フランス領ルイジアナ

詳細は「ヌーベルフランス」および「黒人法」を参照

この地域に入った最初のヨーロッパ人開拓者はフランス系カナダ人であり、セントルイスから約1時間南のセントジェネビーブに最初の開拓地を作った。彼らは1750年ごろにイリノイ・カントリーから移ってきていた。ミシシッピ川東岸にあった開拓村では、土地が痩せてきており、増加する人口を養うに足る平地がなかった。セントジェネビーブは農業中心として繁栄するようになり、小麦、トウモロコシおよびタバコを生産して、余剰分を下流のルイジアナに船で運んだ。この農産物はルイジアナ、特にニューオーリンズ市の生き残りのために重要なものになった。1762年フォンテーヌブロー条約によってヌエバ・エスパーニャ副王領とされた。

「ミズーリ川を下る毛皮交易業者」ジョージ・ケイレブ・ビンガム画

それからまもなく、1764年にニューオーリンズ市から来たフランス人によってセントルイスの町が設立され、1764年から1803年までミシシッピ川西岸の流域はその北限までフランス領ルイジアナと呼ばれた。スペイン人がセントルイスに現れたのは1767年9月だった。セントルイスはミズーリ川やミシシッピ川流域に広がるインディアンとの毛皮交易中心となり、その後長い間地域経済を支配する要素となった。交易会社と提携している者たちはセントルイスから毛皮を船積みしてニューオーリンズ市まで運び、そこからヨーロッパの市場に送った。その見返りにさまざまな商品が業者に渡り、それがインディアンとの交易に使われた。毛皮交易とそれに関連する事業でセントルイスは初期の金融中心となり、それで得た富によって瀟洒な家を建て、贅沢品を輸入する者もいた。セントルイスはミシシッピ川とイリノイ川が合流する地点に近く、農作地域からの産品も取り扱うことができた。ミシシッピ川による輸送と交易は地域経済と一体のものとなり、セントルイスは地域最初の主要都市として、特に蒸気船が発明され川の交易が増えたあとは、著しい発展を遂げた。

ルイジアナ買収

1800年、ナポレオン・ボナパルトは、サンイルデフォンソ条約によってスペイン領だったルイジアナをフランスに取り戻した。ただし、この条約は秘密にしておかれた。ルイジアナは1803年11月30日にフランスに移管されるまで、名目上スペイン領だった。これはルイジアナがアメリカ合衆国に移譲されるちょうど3週間前のことだった。

アメリカ合衆国による1803年のルイジアナ買収地の一部だったミズーリ州は、19世紀に西に向かう探検隊や開拓者の出発点になったため、「西部への玄関」という呼び名がついた。セントルイスの西にあるセントチャールズは、1804年にミシシッピ川から出発し、西部領土を探検し、太平洋に至ったルイス・クラーク探検隊の出発点かつ帰還目標地となった。セントルイスはその後長い間、西に向かう開拓者隊の重要な供給点となっていた。1812年、ニューマドリード地震で揺り動かされたが、まだ人口が希薄だったため被害は軽かった。

ミズーリ州西部の開拓者の多くがアッパーサウスから移ってきたため、労働力としてアフリカ人奴隷を連れてきており、その文化と奴隷制度の継続を望んだ。ミズーリ川沿いの17郡に入った者が多く、そこはプランテーションによる農業を可能にする平地であり、リトル・ディキシーと呼ばれるようになった。

ミズーリ妥協

詳細は「ミズーリ妥協」、「メイソン=ディクソン線」、および「ミズーリ妥協線」を参照

1821年、ミズーリはミズーリ妥協によって奴隷州として州昇格を認められ、暫定州都はセントチャールズに置かれた。1826年、州都はやはりミズーリ川沿いのジェファーソンシティに移され、恒久的なものになった。当初、州の西側境界はコーズマスを通る子午線で定義されたため直線だった。コーズマスはカンザス川がミズーリ川に合流する地点であり、その後、川がこの定義を動かしてきた。この直線はオーセージ境界線と呼ばれている。1835年、インディアンから土地を買収したプラット買収によって、州北西隅に領域が付け加えられ、カンザス川より北側にあるミズーリ川が州境になった。この領土追加によってミズーリ州の面積は約66,500平方マイル(172,000平方キロメートル)となり、バージニア州(65,000平方マイル、168,000平方キロメートル)に代わって当時の国内最大の州になった(当時のバージニア州は現在のウェストバージニア州を含んでいた)。

1830年代初期、モルモン教徒が北部州やカナダから移ってきて、インディペンデンス近くとその北に入植し始めた。昔からの開拓者(おもに南部出身)とモルモン教徒(おもに北部出身)の間に宗教と奴隷制度をめぐって紛争が起こった。1838年にはモルモン戦争が起きた。1839年、リルバーン・ボッグス知事が「根絶命令」を出したこともあり、昔からの開拓者がモルモン教徒をミズーリ州から追い出し、その土地を没収した。

奴隷制度に関する紛争

詳細は「アメリカ合衆国の歴史 (1849-1865)」、「1850年協定」、「カンザス・ネブラスカ法」、および「血を流すカンザス」を参照

奴隷制度に関する紛争は州と準州の境界で緊張感を高めた。1838年から1839年、いわゆるハニーランドに関するアイオワ州との境界論争では、両州が州境に民兵隊を招集することになった。移民が増加し、1830年代から1860年代にかけて、ミズーリ州の人口は10年ごとに倍増していった。新参者の大半はアメリカ生まれだが、1840年代後半と1850年代にはアイルランドドイツから多くの移民が到着した。彼らは大半がカトリック教徒で、それまでプロテスタントが大半だった州内で独自の宗教習慣を作り上げた。アイルランド人は飢饉と弾圧から、ドイツ人は革命の騒動から逃れてきており、奴隷制度には同調的でなかった。都市に入った多くの移民は地域の、のちには州全体のカトリック教会と学校のネットワークを作り上げた。19世紀のドイツ人移民はミズーリ川沿いでワイン産業を、セントルイス市ではビール産業を始めた。

南北戦争以前の農業は自給自足農業が大半だった。奴隷を所有する農夫の大半は、奴隷の数が5人未満だった。農園主は、歴史家の定義で奴隷数20人以上であり、ミズーリ川沿い、ミズーリ州中央部のリトル・ディキシーと呼ばれた郡部に集中していた。奴隷制度に関わる緊張感は、おもに州と国の未来に関わっていた。1860年、州人口は118万2,012人となり、奴隷はその10パーセント足らずだった。ミシシッピ川に沿った農地や低地集落を洪水から守るために、1860年まで総延長140マイル(220キロ)の堤防が建設されていた。

南北戦争

詳細は「南北戦争」および「エイブラハム・リンカーン」を参照

1861年、南部州のアメリカ合衆国からの脱退が始まり、ミズーリ州議会は脱退のための特別会議に送る代議員の選挙を要求した。その会議では、断固としてアメリカ合衆国に残留することが投票で決められた。南部寄りの州知事クレイボーン・F・ジャクソンは、訓練のためにセントルイスのキャンプに集めていた数百名規模の民兵隊の動員を命じた。この動きに刺激された北軍の将軍ナサニエル・ライアンはキャンプを取り囲み、民兵隊に降伏を強いた。ライアンの部隊はほとんど英語を話せないドイツ人移民で構成されていたが、捕虜達に町の通りを行進させるよう指示した。兵士たちは捕虜の周りに集まった敵意を持つ市民集団に発砲した。のちにセントルイス虐殺(St. Louis Massacre)と呼ばれることになるこの事件で、武装していない捕虜に加えてセントルイス市民の男女子供が殺された。

この事件は州内の南軍支持感情を高めた。ジャクソン知事は、脱退会議の議長を務めたスターリング・プライスを、新しいミズーリ州軍の長に指名した。ライアン将軍による北軍の急速な侵攻があり、ジャクソンとプライスは1861年6月14日に州都ジェファーソンシティから逃げ出した。ジャクソンはネオショーの町で州議会の開会を要求し、脱退条例を成立させた。しかし、南部の脱退に向けた見解で固まったとしても、州全体の会議のみが脱退を決める権限があった。その会議は北部支持者が支配していたため、いかなる場合も南部よりは北部寄りであり、議会で採択された脱退条例にはほとんど信任が与えられていない。それでもアメリカ連合国は1861年10月30日にミズーリ州の脱退を認知した。

ミシシッピ川流域戦線におけるプライスの襲撃、1864年

選挙で選ばれた知事が州都におらず、議会議員も散り散りになっていたため、ジャクソンの部隊とともに南部に逃亡した20人を除き、集められる議員の大半で州会議を再招集した。この会議ではすべての役人の解任を宣言し、新しいミズーリ州知事にハミルトン・ギャンブルを指名した。リンカーン大統領の内閣はただちにギャンブルの政府を合法的なミズーリ州政府として承認した。この連邦政府の判断により、北軍のために州内で任務にあたる北軍側の民兵隊と志願兵連隊を立ち上げることが可能になった。

プライス将軍のミズーリ州軍と、ベンジャミン・マカロック将軍の下にアーカンソー州とテキサス州から集められた南軍の連合部隊と、北軍との間に戦闘が続いた。南軍はウィルソンズ・クリークの戦いとレキシントン包囲戦で勝利したが、至る所で戦力を失い、補強される北軍に直面して、まずアーカンソー州に、さらにテキサス州マーシャルまで後退した。

南軍の正規軍はミズーリ州に何度か大規模な襲撃を敢行したが、その後の3年間、州内で行われた戦闘はほとんどゲリラ戦だった。ウィリアム・クァントリル大佐、フランク・ジェイムズ、ジェシー・ジェイムズ、ヤンガー兄弟、ウィリアム・T・アンダーソンなど「市民兵士」あるいは暴徒が、素早く動く小部隊の戦術を使った。ミズーリ・パルティザン・レンジャーズなどをはじめとして、北軍に占領されたアメリカ連合国領域でそのような暴動が起きた。南北戦争が終わったあとも、ジェイムズ兄弟などがゲリラ戦を継続して無法状態の期間を作ったことを評価する近年の歴史家もいる。1880年代、ミズーリ州南中部の「ボールドノバーズ」の行動などは、戦後も長く続いた非公式敵対行為であるとみられている。

詳細は「レコンストラクション」、「黒人法」、および「ジム・クロウ法」を参照

20世紀以降

セントルイスにあるゲイトウェイアーチ
詳細は「クー・クラックス・クラン」を参照

1930年、スプリングフィールド周辺地域でジフテリアが流行し、およそ100人が命を落とした。この地域に血清が急送され、医療関係者が伝染の拡大を止めた。

詳細は「アフリカ系アメリカ人公民権運動」を参照

1950年代半ばから1960年代、セントルイスとカンザスシティは脱工業化が進み、鉄道や製造業で働き場が失われた。中西部の工業都市の多くが同様の状況だった。1956年、セントチャールズ市に州内では初の州間高速道路が通った。このような高規格道路の建設によって、都市の中流階級住民が郊外に開発された新しい住宅に移ることを容易にした。郊外地はもともと農地であり、低コストで土地を手配できた。主要都市は新しい経済分野を発展させ、人口の変化に対応する時代を過ごした。郊外地では知識産業や大規模ショッピングセンターなどサービス業で新しい就職機会が生まれた。

詳細は「Shooting of Michael Brown」を参照

2014年、en:2014 Ferguson unrestが起きた。

地理

主要記事:ミズーリ州の地理(英語)
ミズーリ州の主要都市と道路

ミズーリ州の境界は、地理的に総計8つの異なる州と接しており、その数はテネシー州と並んで合衆国内の州では最多である。同州は北にアイオワ州、ミシシッピ川を挟んで東はイリノイ州、南東部でケンタッキー州およびテネシー州、南はアーカンソー州ミズーリ川を挟んで西はカンザス州、さらに南西部でオクラホマ州、北西部でネブラスカ州とそれぞれ接している。州内2つの大河川の1つ、ミシシッピ川が州東部の境界となり、もう1つのミズーリ川は州内を東西に流れて、カンザスシティとセントルイス、2つの大都市圏をつないでいる。

今日のミズーリ州はアメリカ合衆国中西部に属すると考えるのが一般的だが、昔はアメリカ合衆国南部に入るとみなす人が多かった。これは南部からの移住者が入ってきたことと、南北戦争以前は奴隷州だったことがおもな理由である。「リトルディキシー」を構成する郡部は州中央のミズーリ川に沿っており、多くの奴隷を伴った南部からの移住者が開拓してきた。

関連項目:ミズーリ州の国立および州立公園 2005年、ミズーリ州の国立公園やリクリエーション地域を1,669万5,000人の観光客が訪れた。公園などの総面積は20万2,000エーカー(820平方キロメートル)あり、観光による収入は年間7,410万ドル、公園運営経費の26.6パーセントとなっている。

地形

ミズーリ州の地勢図

ミズーリ川の北および、ところによってそのすぐ南の地域は、アイオワ州、ネブラスカ州およびカンザス州へ広がっている北部平原に入っている。ここのなだらかなうねりのある丘陵部は、かつてカナディアン・シールドからミズーリ川まで広がっていた氷河作用の名残である。ミシシッピ川、ミズーリ川、メラメック川に沿って多くの大きな河岸断崖がある。

州南部では開析台地であるオザーク高原が立ち上がり、先カンブリア時代火成岩でできているセントフランシス山脈を取り囲んでいる。オザーク高原はアーカンソー州、カンザス州南東部、およびオクラホマ州北東部へ広がっている。ミズーリ州南西部の都市スプリングフィールドは、オザーク高原に位置している。この地域は石灰岩が多いカルスト地形となっており、陥没や洞穴が見られる。

ミズーリ州南部のオザーク高原

州南東の端はミシシッピ沖積平原の一部であるブートヒルと呼ばれる地域であり、ミズーリ州の形状がここだけ南に突きだし、靴のかかとのように見えることからこの名前がある。この地域は州内でもっとも標高が低く、もっとも平坦であり、もっとも雨量が多い。経済が農業に依存しており、もっとも貧しい地域でもある反面、綿花と米が主要作物となりもっとも肥沃な土地でもある。1812年におきたニューマドリード地震の震源地だった。

気候

関連項目:ミズーリ州の気候 ミズーリ州は概して湿潤大陸性気候(ケッペンの気候区分"Dfa")であり、寒い冬と、暑く湿度の高い夏が特徴である。州南部、特にブートヒル地域では温暖湿潤気候(ケッペンの気候区分"Cfa")に変わる。内陸部にあるため気温は極端に高く、また低くなることがある。気温の変化を和らげる高山や大洋が近くになく、冷たい北極気団や暑く湿ったメキシコ湾気団の影響を交互に受けやすい。州内過去最高気温は1954年7月14日にワルソーとユニオンで記録された118°F(48 ℃)、過去最低気温は1905年2月13日にやはりワルソーで記録された-40°F(-40 ℃)である。

雷雨や竜巻など異常気象の影響も受けやすい。2011年、ジョプリンで発生した改良藤田スケールEF5の竜巻は、ジョプリン市のおよそ3分の1を破壊した。この竜巻による被害総額は10億ないし30億ドル、死者159人、負傷者1,000人以上となった。スケールEF5の竜巻としては1957年以来のものになった。この竜巻の規模は1947年以降の最大、アメリカ史の中では第7位、世界では第27位だった。

州内各都市の月別平均最高最低気温
都市 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
コロンビア 37/18 | 44/23 | 55/33 | 66/43 | 75/53 | 84/62 | 89/66 | 87/64 | 79/55 | 68/44 | 53/33 | 42/22
カンザスシティ 36/18 | 43/23 | 54/33 | 65/44 | 75/54 | 84/63 | 89/68 | 87/66 | 79/57 | 68/46 | 52/33 | 40/22
スプリングフィールド 42/22 | 48/26 | 58/35 | 68/44 | 76/53 | 85/62 | 90/67 | 90/66 | 81/57 | 71/46 | 56/35 | 46/26
セントルイス 40/24 | 45/28 | 56/37 | 67/47 | 76/57 | 85/67 | 89/71 | 88/69 | 80/61 | 69/49 | 56/38 | 43/27

人口動勢

ミズーリ州の人口密度図
人口推移
【年】
【人口】
【】

1810 | 19,783 |  | 

1820 | 66,586 |  | 236.6%
1830 | 140,455 |  | 110.9%
1840 | 383,702 |  | 173.2%
1850 | 682,044 |  | 77.8%
1860 | 1,182,012 |  | 73.3%
1870 | 1,721,295 |  | 45.6%
1880 | 2,168,380 |  | 26.0%
1890 | 2,679,185 |  | 23.6%
1900 | 3,106,665 |  | 16.0%
1910 | 3,293,335 |  | 6.0%
1920 | 3,404,055 |  | 3.4%
1930 | 3,629,367 |  | 6.6%
1940 | 3,784,664 |  | 4.3%
1950 | 3,954,653 |  | 4.5%
1960 | 4,319,813 |  | 9.2%
1970 | 4,676,501 |  | 8.3%
1980 | 4,916,686 |  | 5.1%
1990 | 5,117,073 |  | 4.1%
2000 | 5,595,211 |  | 9.3%
2010 | 5,988,927 |  | 7.0%
Source:1910–2010

2011年7月1日時点のミズーリ州推計人口は601万0,688人であり、2010年国勢調査からは0.36パーセント増加していた。

2010年国勢調査での州人口は598万8,927人であり、2000年の国勢調査から39万2,369人、7.0パーセント増加した。州民の半分以上はセントルイスとカンザスシティの二大都市圏に住んでいる。人口密度は33.6人/平方キロメートルであり、ほぼ全国平均に等しい。

ミズーリ州の人口重心はウェストファリアがあるオーセージ郡となっている。2000年の国勢調査時点で、アメリカ合衆国の人口重心が州内のフェルプス郡となっている。

人種および祖先

ミズーリ州の人種構成比および前の国勢調査との比較

【国勢調査年:】
2010年
2000年
1990年
白人 | 82.8% | 84.9% | 87.7%
黒人 | 11.6% | 11.2% | 10.7%
アジア系 | 1.6% | 1.1% | 0.8%
ネイティブアメリカン | 0.5% | 0.4% | 0.4%
その他 | 1.4% | 0.9% | 2.0%
混血 | 2.1% | 1.5% | 
*


ヒスパニック以外の白人 | 81.0% | 83.8% | 86.9%
ヒスパニック‡ | 3.5% | 2.1% | 1.2%
 | ノート:
* データ無し;混血は2000年の国勢調査で初めて報告された。
ヒスパニックには人種を問わず該当者全てが含まれる。

州内で申告された祖先による構成比はドイツ系(27.4パーセント)、アイルランド系(14.8パーセント)、イギリス系(10.2パーセント)、アメリカ人(8.5パーセント)、フランス系(3.7パーセント)となっている。「アメリカ人」はインディアンまたはアフリカン・アメリカンと申告されたものを含むが、先祖からかなりの期間アメリカ合衆国の中に住んでいるヨーロッパ系アメリカ人も含まれている。

ドイツ系アメリカ人は、ミズーリ州内全体に居住している。アフリカ系アメリカ人は、セントルイス、カンザスシティ、南東部のブートヒル地域、および昔はプランテーション農業が重要だったミズーリ川流域でかなりの比率を占めている。フランス系のミズーリ・クレオールはセントルイスより南のミシシッピ川流域に集中している。カンザスシティには、ラテンアメリカ、特にメキシコからの移民、アフリカ系アメリカ人(スーダンソマリアナイジェリアなど)、東南アジア(中国フィリピンなど)、東ヨーロッパ(ユーゴスラビアなど)の大きな移民社会があり、成長してい

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出典:wikipedia
2019/06/26 04:48

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