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ミッドウェイ海戦とは?

(ミッドウェイ海戦から転送)

ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん、英語: Battle of Midway)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年(昭和17年)6月5日(アメリカ標準時では6月4日)から7日(6月3日から5日とする場合もある)にかけて、ミッドウェー島付近で行われた海戦。同島攻略をめざす日本海軍アメリカ海軍が迎え撃つ形で発生し、日本海軍機動部隊とアメリカ海軍機動部隊および同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は投入した空母4隻とその搭載機約290機の全てを喪失した。ミッドウェー海戦はMI作戦の一部であり、この敗北で同作戦は中止された。

背景

MI作戦の成立

詳細は「MI作戦」を参照

太平洋戦争開戦前、日本海軍は対米作戦の基本的な方針として守勢邀撃作戦を採っていた。連合艦隊司令長官であった山本五十六大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた。大島一太郎大尉(後に大佐1928年〈昭和3年〉海軍水雷学校高等科学生)の戦後の回想によれば、1928年(昭和3年)に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べている。これは、まず国力から見て圧倒的に劣勢の日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戦力で攻撃するアメリカに勝ち目がなく、また短期戦に持ち込むためには、早期に敵の弱点を叩くことで相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機がないと判断したためと言われている。さらに山本長官は太平洋戦争開戦前より、敵の空母部隊が日本を航空攻撃した場合、国内へ物質的な打撃だけでなく精神的打撃が大きいと考えていた点も関係している。及川海軍大臣宛の書簡、黒島参謀の回想によると、山本長官のミッドウェー作戦の第一の狙いがアメリカ海軍・アメリカ国民の士気を喪失させることで、また本土空襲の精神的打撃を大きいと認めている点が分かる。すなわち相当の危険性を承知でアメリカに対し、戦争で勝利するためには積極的な攻勢しかないと考えていた。アメリカ海軍は、1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃で太平洋艦隊主力の戦艦部隊が行動不能となった後、稼動状態にあった機動部隊を中部太平洋方面に出撃させ、日本軍拠点に対する一撃離脱戦法による襲撃を繰り返した。その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされた。日本軍はマーシャル諸島ウェーク島、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戦力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。アメリカ軍の奇襲による被害は小さかったが、連合艦隊は受け身の作戦の困難性を認識した。

詳細は「第二段作戦」を参照

日本の連合艦隊は、真珠湾攻撃後は南方作戦に機動部隊主力を投入していたが、セイロン島攻略作戦案が採用されなかったために、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間で代替案を作成しなければならなかった。連合艦隊幕僚は戦争を早期終結できる作戦が思いつかなかった。連合艦隊幕僚は、これまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、かといって守勢の困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断した。結果、黒島亀人連合艦隊先任参謀を中心に、ハワイ攻略を見据えた作戦計画を立案した。軍令部は日本の国力からみてハワイ諸島の攻略と維持など不可能と判断し、むしろインド洋方面の作戦を強化してイギリスを追い詰め、間接的な同盟国ナチスドイツ支援を構想していたという意見もある。

ハワイ攻略が企図できるようになるまで間隔が空くため、連合艦隊はMI作戦を提案した。これはハワイ攻略の準備ではなく、つなぎであったが、この作戦によって米空母を撃滅できれば、ハワイ攻略作戦は容易になるとは見ていた。軍令部と連合艦隊司令部はこの作戦について対立した。軍令部は米豪交通を遮断するため、フィジー方面の攻略を計画していた。軍令部航空担当部員の三代辰吉中佐は「仮に日本軍が同島を占領しても、米艦隊は本当に来るのか。日本軍の補給路がアメリカ軍に遮断され、疲弊したところを簡単に奪回されるだけではないか」と考え反対し、FS作戦(ニューカレドニア島フィジー諸島の攻略)重視の立場を崩さなかった。連合艦隊司令部の黒島参謀と渡辺安次参謀は、山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして、真珠湾攻撃で空母6隻の使用を認めさせた時と同様の交渉をしたが、話は進まなかった。大本営海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は、伊藤整一軍令部次長に直接連合艦隊のミッドウェー作戦案を説明し、山本長官の意向を伝えた。伊藤次長はこれをふまえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定、永野修身軍令部総長の認可も得て、ミッドウェー島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった。古村啓蔵(筑摩艦長)は同期の富岡定俊軍令部作戦課長から、艦隊はミッドウェー攻略成功後にトラックに集合・米豪遮断のFS作戦実施予定と聞き、驚いていたという。

詳細は「AL作戦」を参照

さらに軍令部はミッドウェーと同時にアリューシャン列島西部を攻略し、米航空兵力の西進を押さえるとともに、両地に哨戒兵力を進出させれば、米空母のわが本土近接を一層困難にすることができると判断し、そのためのAL作戦実施を連合艦隊にはかり、連合艦隊でもその必要性を認めていたし、攻略兵力にも余裕があったので直ちにこれに同意した。AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米ソ間の連絡を妨害しシベリアにアメリカの航空部隊の進出を妨害しようとするものであった。当時開発されたとの情報があった米大型爆撃機による帝都空襲が行われ、その一部が奇襲に成功したことで同方面の関心はさらに強くなった。図上演習においてアリューシャン方面からアメリカの最新大型爆撃機が首都空襲を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景があり、連合艦隊もこれに同意、第二段作戦の全体像が固まった。軍令部第一部長福留繁によれば、「ミッドウェーを攻略しても、劣勢な米艦隊は反撃に出ないのではないかとの懸念が強かった。そこでアリューシャン列島方面への攻略作戦を行えば、同地が米国領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊の出撃を強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施を要望した」という。

1942年4月5日、海軍の次期作戦構想が内定し、主務者連絡で陸軍に伝えた。ミッドウェー攻略は海軍単独で行うが、できれば陸軍兵力の派出を希望するとした。陸軍参謀本部は、ハワイ攻略の前提ではないことが明言され、海軍単独でも実施してもよいとのことだったので反対できなかった。

ドーリットル空襲

詳細は「ドーリットル空襲」を参照

1942年4月18日、空母ホーネットはミッドウェーでエンタープライズと合流し、第16任務部隊は日本に向けて進撃した。「エンタープライズ」は航空支援を、ホーネットは日本本土に接近、ジミー・ドーリットル中佐率いるB-25ミッチェル双発爆撃機で編成された爆撃隊を輸送する役割分担である。爆撃隊は「ホーネット」から発進後、東京を筆頭に日本の主要都市を攻撃する予定であった。第16任務部隊は4月18日の朝に犬吠埼東方で特設監視艇第二十三日東丸に発見され、ウィリアム・ハルゼー中将は予定より早い攻撃隊発艦を決意する。爆撃隊は前日に発艦準備を整えていたが、40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなり、ホーネットは大きく揺れていた。その中でドーリットル隊は発進し、09:20までに16機のB-25は全て発艦した。

B-25爆撃隊は、東京、名古屋、大阪を12時間かけて散発的に爆撃、中国大陸に脱出後、不時着放棄された。セイロン沖海戦で勝利した南雲機動部隊は台湾沖で第16任務部隊追撃命令を受けたが距離は遠すぎ、燃料を浪費しただけだった。

空襲による被害は微小であったが、日本本土上空にアメリカ軍機が侵入したことは日本に大きな衝撃を与えた。またアメリカ軍が航続距離の長い双発爆撃機を用いたために対応策が考えられず、陸海軍はより大きな衝撃を受けた。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き、山本長官にも国民からの非難の投書があった。

山本長官は以前から本土空襲による物質的精神的な影響を重視していたため、すでに内定していたミッドウェー攻略作戦の必要をこの空襲で一層感じた。連合艦隊航空参謀佐々木彰によれば、山本長官はわが空母によるハワイ奇襲が企図できるのであるから、哨戒兵力の不十分なわが本土に対しても、彼もまた奇襲を企図できると考えていたようであるという。この空襲により日本陸軍もミッドウェー作戦・アリューシャン作戦を重大視するようになり、陸軍兵力の派遣に同意、ミッドウェー作戦は日本陸海軍の総攻撃に発展した。昭和天皇の住む東京を爆撃されたことで山本長官のプライドが傷つき、アリューシャンからミッドウェーにわたる航空哨戒線を築くことで東京に対する二度目の米機動部隊襲撃を阻止する狙いがあったと推測や、二度目のドーリットル空襲を防ぐためにミッドウェー攻略作戦を急ぐ必要があり、空母瑞鶴を有する第五航空戦隊の戦力が回復するのを待てなかったという推測もある。

日本の準備

MI作戦の内容

詳細は「MI作戦」を参照

連合艦隊が計画したミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊(空母機動部隊)を誘い出し捕捉撃滅することに主眼が置かれた。日本軍は同島をアメリカ軍の要点であり、占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍は全力で奪回しようとすると考えた。一方、軍令部では、ミッドウェーは攻略後の防衛が困難で、わざわざ米空母が出撃してくるとは考えにくいと見ていた。

作戦構想では現時点で豪州方面で活動している米空母部隊がミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と計算していた。日本軍は情報分析の結果、アメリカ軍の空母戦力を以下のように推定した。

  1. 空母レンジャーは大西洋で活動中。
  2. 捕虜の供述によればレキシントンは撃沈されたようであるが、アメリカ西海岸で修理中という供述者もある。
  3. エンタープライズホーネットは太平洋に存在。
  4. ワスプの太平洋への存否については確証を得ない。
  5. 特設空母は6隻程度完成、半数は太平洋方面に存在の可能性があるも、低速なので積極的作戦には使用し得ない。

これをふまえ日本軍は、ミッドウェー攻撃を行った場合に出現するアメリカ軍規模を、「空母2-3隻、特設空母2-3隻、戦艦2隻、甲巡洋艦4-5隻、乙巡洋艦3-4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦30隻、潜水艦25隻」と判断した。アメリカ軍が同島に海兵隊を配備し、砲台を設置して防衛力を高めていることも察知していたが、その戦力は「飛行艇24機、戦闘機11、爆撃機12、海兵隊750、砲台20前後」または「哨戒飛行艇2コ中隊、陸軍爆撃機1乃至2中隊、戦闘機2コ中隊」であり、状況によってはハワイから「飛行艇60機、爆撃機100機、戦闘機200機」の増強もあると推測。同島占領作戦実施の際にはアメリカ軍基地航空隊からの空襲も想定していたが、直掩の零戦と対空砲火で排除できるとしている。日本軍が海兵隊3000名、航空機150機というミッドウェー島の本当の戦力を知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった。

作戦は、ミッドウェー島上陸日(N日)を6月7日と決定して一切を計画した。上陸用舟艇で敵のリーフを越えて上陸するため、下弦月が月出する午前0時を選んだ。7月は霧が多く上陸が困難なため、6月7日に固定した。上陸作戦の制空と防備破壊は3日前(後に延期で2日前になる)に南雲艦隊が空母6隻で奇襲することで可能と考えた。連合艦隊は奇襲の成功を前提にしており、アメリカが日本の企図を察知して機動部隊をミッドウェー基地の近辺に用意することは考慮していなかった。米機動部隊の反撃は望むところであったが、米機動部隊は真珠湾にあってミッドウェー基地攻撃後に現れることを前提に作戦を計画した。ミッドウェー島占領後、基地航空部隊の哨戒網で敵機動部隊を発見、一航艦は第二艦隊と協力してそれを攻撃、山本艦隊は機を見て参加し撃滅するというものだった。

MI作戦の主目標はミッドウェー島攻略と米機動部隊(空母部隊)撃滅のどちらにあるのかはっきりしておらず、連合艦隊は米機動部隊撃滅を重視する発言をしていたが、軍令部は主目標を攻略による哨戒基地の前進にあると示していた。軍令部で作戦計画の説明を受けた第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介少将と第二艦隊参謀長白石萬隆少将は、ドーリットル空襲の直後だったため、哨戒基地の前進によって米空母による本土再空襲を阻止するものと抵抗なく解釈し、ミッドウェー作戦の主目的は同島攻略という強い先入観を得た。また、5月の図上演習で、陽動で米艦隊を他に誘導してミッドウェーを攻略する案が出たが、連合艦隊参謀長から陽動をしたら米艦隊をミッドウェーに引き出せないとの意見が出た。この直後、軍令部に基づく大本営命令、総長指示で攻略が主目標に示されただけに、白石少将は連合艦隊の解釈が間違っているのではと思ったという。連合艦隊は出撃前に再び米艦隊の撃滅が目的と伝えるが、参加部隊には徹底して伝わらなかった。

戦後、草鹿は作戦目標があいまいでミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している。 第一航空艦隊源田実中佐は、日本の兵力が分散し過ぎて目標を見失っており、集中という兵術の原則にも反していると感じたため、図上演習後の研究会で連合艦隊参謀黒島亀人に「作戦の重点をアメリカ艦隊撃滅に置くべきである。そのためにはアリューシャン攻撃部隊やあらゆる作戦可能な兵力を、たとえ第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)が参加できるのを待ってもミッドウェーに集中すべきだ」と主張したが、黒島は「連合艦隊長官は一度決めた方針に邪魔が入ることを望まれない。機動部隊の主要任務はミッドウェー攻略支援だ」と答えたため、アメリカ艦隊撃滅は二次的なものと源田は受け止めた。源田実は、作戦目標がアメリカ軍機動部隊の撃滅かミッドウェー基地攻略なのか曖昧であったとし、戦略戦術からいってどうにも納得できない部分があり航空主兵なのか戦艦主兵なのかも曖昧で大和と山本長官が後ろからついてくる事も疑問だったという。

図上演習

4月28日から1週間かけて戦艦大和で行われた「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と「第二段作戦図上演習」では、日本軍にとって不安な結果が出た。5月1日から4日間は第二段作戦の図上演習を実施、図上演習ではハワイ攻略まで行われた。実演は3日午後に終わり、3日夜と4日午前にその研究会を行い、4日午後からは第二期作戦に関する打ち合わせが行われた。図上演習では、連合艦隊参謀長宇垣纏中将が統監兼審判長兼青軍(日本軍)長官を務め、青軍の各部隊は該当部隊の幕僚が務め、赤軍(アメリカ軍)指揮官は戦艦「日向」艦長松田千秋大佐が務めた。

この図上演習において、ミッドウェー攻略作戦の最中に米空母部隊が出現し、艦隊戦闘が行われ、日本の空母に大被害が出て、攻略作戦続行が難しい状況となった。審判をやり直して被害を減らして空母を三隻残して続行させた。空母加賀、赤城は爆弾9発命中判定で沈没判定となり、宇垣纏連合艦隊参謀長は「9発命中は多すぎる」として爆弾命中3発に修正させ、赤城を復活させた。攻略は成功したが、計画より一週間遅れ、艦艇の燃料が足りなくなり、一部の駆逐艦は座礁した。宇垣は「連合艦隊はこうならないように作戦を指導する」と明言した。また、攻略前に米機動部隊がハワイから出撃してくる可能性はあったが、図上演習でアメリカ軍を担当した松田大佐は出撃させることはなかった。

戦訓分科研究会において、連合艦隊司令部の宇垣参謀長は一航艦の草鹿参謀長に対し、「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿参謀長は「かかる事無き様処理する」と答えたため、宇垣参謀長が草鹿参謀長を追及すると、一航艦の源田参謀が「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以て、これと巡洋艦の零式水偵を使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた。そのため宇垣参謀長は注意喚起を続け、作戦打ち合わせ前に第一航空艦隊はミッドウェー攻撃を二段攻撃とし第二次は敵に備えることとした。米機動部隊が現れた際に反撃するために第一航空艦隊の半数は魚雷装備となったが、連合艦隊首席参謀黒島亀人大佐は命令として書き込む必要はないと航空参謀佐々木彰中佐に指示した。

研究会で作戦参加者から最も要望されたのが準備が間に合わないことによる作戦延期だった。第二航空戦隊司令官山口多聞少将と一航艦航空参謀源田実中佐は作戦に反対と食いついたが、連合艦隊司令部は聞く耳を持たなかった。4日の研究会で、第一航空艦隊参謀長草鹿少将と第二艦隊参謀長白石少将も作戦に反対したが、受け入れられず、5日に再び反対しに行ったが、第二段作戦を手交され、反対せずに帰った。第二艦隊長官近藤信竹中将は、米空母がほぼ無傷で残っており、ミッドウェー基地にも敵戦力があることからミッドウェー作戦を中止して、米豪遮断に集中すべきと反対した。しかし、山本長官は奇襲が成功すれば負けないと答えた。また、近藤中将は、ミッドウェー島を占領しても補給が続かないと指摘したが、宇垣参謀長は不可能なら守備隊は施設を破壊して撤退すると答え、攻略後の保持、補給には考えがなかった。占領後、他方面で攻勢を行い、アメリカ軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えていたという意見もある。

図上演習と研究会は、ミッドウェー作戦の目的である敵空母捕捉撃滅が難しく、高いリスクを伴う作戦であることを示したが、連合艦隊は問題点を確認することなく作戦を発動した。特に山本長官は「本作戦に異議のある艦長は早速退艦せよ」と強く訓示している。第五艦隊参謀長中澤佑によれば、中沢が作戦会議で機動部隊と連合艦隊主隊の距離が離れすぎていることを指摘すると、黒島は問題ないと発言したという。

5月25日、MI作戦における艦隊戦闘の図上演習・兵棋演習、続いて作戦打ち合わせを行い、関係者の思想統一を図った。ミッドウェー攻略の次の日から始まっており、アメリカの主力および空母はオアフの南東450海里から西方に急進中の状態から立ち上がった。攻略前の作戦(ミッドウェー海戦)が奇襲によって成功することが前提で、敵機動部隊が現れることも考慮していなかった。連合艦隊は第一航空艦隊に対し敵艦隊に作戦中備えるように指導しながら、図上演習では攻略の翌日に敵艦隊がハワイにいるものとし、研究会では「敵艦隊が反撃に出てくれば、もうけものである」と発言しており、出現の可能性に対する判断は極めて薄く、この空気は各部隊に伝わっていたという意見もある。打ち合わせにおいて第一航空艦隊は、部品が間に合わないので延期を要望し、連合艦隊は一日だけ一航艦の出撃延期を認め、6月4日予定の空襲は5日に変更されたが、7日の攻略は変更されていないため、空襲前に攻略部隊船団が敵飛行哨戒圏内に入り、発見されやすくなった。連合艦隊はこれを敵艦隊誘出に役立つと考えた。

出撃前日の5月26日、赤城において作戦計画の説明と作戦打ち合わせが行われた。山口少将から索敵計画が不十分という意見があった。索敵計画を立案した第一航空艦隊航空参謀吉岡忠一少佐によれば、当時の敵情判断から索敵計画は改めなかったという。吉岡は、当時攻略作戦中敵艦隊がほとんど考えていなかったため、厳重にするのが良いのはわかっていたが、索敵には艦攻を使わなければならないので攻撃力が減ることとなり、惜しくて索敵にさけなかったとして、状況判断の甘さが原因と回想している。

この計画での一航艦司令部の心配は、攻撃開始日が決まっているので奇襲のための機動の余地がなかったことと、空母はアンテナの関係から受信能力が十分でなく、敵信傍受が不十分となり、敵情がわかりにくいことであった。そのため、一航艦参謀長の草鹿少将は、連合艦隊が敵情を把握して作戦転換を指示することを連合艦隊参謀長の宇垣参謀長に取りつけた。土井美二(第八戦隊首席参謀)によれば、草鹿参謀長が「空母はマストが低くて敵信傍受が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたという。

参加部隊の状態

山本長官の意気込みとは反対に、4月下旬に日本本土に戻った第一航空艦隊(南雲機動部隊)は問題を抱えていた。開戦以来ドック入り、長期休暇もなく太平洋を奔走したため、艦・人員とも疲労がたまっていた。さらに「相当広範囲の転出入」という人事異動のため、艦艇と航空部隊双方の技量が低下していた。

ミッドウェー海戦後の戦闘詳報では「各科共訓練の域を出ず特に新搭乗員は昼間の着艦ようやく可能なる程度」と評している。雷撃隊は「この技量のものが珊瑚海に於いて斯くの如き戦果を収めたるは不思議なり」と講評されている。水平爆撃と急降下爆撃は満足な訓練ができず、戦闘機隊は基礎訓練のみで編隊訓練は旧搭乗員の一部が行っただけ。着艦訓練は訓練使用可能空母が加賀のみだけだったため、新人搭乗員の訓練が優先され、ベテラン搭乗員でも薄暮着艦訓練を行った者は半分程度であった。戦闘詳報は「敵情に関しては殆ど得る所なく、特に敵空母の現存数、その所在は最後まで不明なりや。要するに各艦各飛行機とも訓練不十分にして且つ敵情不明情況に於いて作戦に参加せり」と述べている。

不安要素があったとはいえ、連合艦隊司令部、軍令部、南雲機動部隊のいずれも自信に満ち溢れていた。5月5日、永野軍令部総長より山本長官に対し大海令第18号が発令された。

  1. 連合艦隊司令長官は陸軍と協力し「AF」(ミッドウェー)及「AO」(アリューシャン)西部要地を攻略すべし。
  2. 細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。

大海令第18号により、ハワイ攻略の前哨戦として山本長官、宇垣参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された。これは戦艦大和他の戦艦部隊(第一艦隊)が呉の柱島を出撃、参加する初めての作戦であった。

淵田美津雄中佐によれば、第一航空艦隊航空参謀源田実は当時、第一段階作戦の後始末でミッドウェー作戦を検討する暇も無かったと打ち明けており、草鹿参謀長に至っては真珠湾で戦死した航空機搭乗員の二階級進級問題の折衝で走りまわり(航空機搭乗員の士気に関わるため)、ミッドウェー作戦の研究どころではなかったという。草鹿は「準備期間が不十分で不満もあったが強く反対せず、何とかやれるだろうと考えていた。それよりハワイ攻撃の戦死者の2階級特進の方に関心があった」という。

当初、瑞鶴翔鶴を含む空母6隻の計画だったが、珊瑚海海戦の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の空母瑞鶴をミッドウェーに、大破した翔鶴を修理後アリューシャン作戦に回す予定であった。しかし翔鶴の修理には3ヶ月要し、また瑞鶴も無傷であったものの参加した搭乗員の損耗が激しく、トラック島に停泊、補充を待ちの状態で、本作戦に不参加となった。

これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4対3(日本軍は、エンタープライズ、ホーネット、ワスプ出現可能性考慮)と、アメリカ軍より優勢であった。ただしミッドウェー基地の航空機を計算にいれると、航空戦力比は日本軍「戦闘機105、急降下爆撃機84、雷撃機94、艦偵2、水上戦闘機24、水上偵察機10、計319(南雲部隊、近藤部隊、輸送部隊合計)」、アメリカ軍機動部隊「戦闘機79、急降下爆撃機112、雷撃機42」、アメリカ軍基地戦力「戦闘機27、急降下爆撃機27、雷撃機6、飛行艇32、大型爆撃機23」総計348機となって、ほぼ互角であった。

また、日本軍では情報管理が徹底しておらず、空母飛龍では出発前に誰もがミッドウェー作戦を知っており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていたという証言もある。異動してきた士官が「今度はミッドウェーですね」と挨拶し、さらに日用品や食料品を機関部の通路にまで詰め込んだ。連合艦隊司令部も、ミッドウェー島占領後に配備予定の21機の零式艦上戦闘機(第六航空隊)を4隻の空母に詰め込んだ。野村留吉(佐世保鎮守府参謀)によれば、海軍第二特別陸戦隊は「6月以降、当隊あての郵便物は左に転送されたし。ミッドウェー」と電報を打ったという。また5月下旬に呉に戻った重巡洋艦加古の高橋艦長は、息子から近々行われる大作戦について教えてくれとせがまれ困惑していた。白石萬隆少将(第二艦隊参謀長)は「連合艦隊は、作戦目標を多少漏らすことで敵艦隊の誘出を図ろうとしていた」との見解を述べている。そして、連合艦隊長官山本五十六大将は、愛人の河合千代子と密会し、別離を惜しんだ後の手紙に「5月29日に出撃して、三週間ばかり全軍を指揮する。多分あまり面白いことはないだろう。この戦いが終わったら、全てを捨てて二人きりになろう」と記している。

K作戦

詳細は「K作戦」を参照

作戦では日本側の事前索敵計画として6月2日までに2個潜水戦隊をもって哨戒線を構築する予定だった。しかし担当する第六艦隊(潜水戦隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戦隊の内、第二潜水戦隊はインド洋での通商破壊戦後の整備中、第八潜水戦隊は豪州・アフリカでの作戦任務中、第一潜水戦隊は北方作戦に充てられる事になった為どれも作戦には投入できなかった。

このため、「海大型」で構成される第三・五潜水戦隊が担当する事になったが五潜戦は日本からクェゼリンへの回航途上で(第六艦隊に作戦が通知された5月19日時点)予定期日に間に合うのは不可能、三潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられたため、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは6月4日になってしまった。特に第16任務部隊が6月2日に五潜戦の担当海域を通過しており本作戦における大きな禍根になった。

次に予定されていたのは第二十四航空戦隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。これは二式大艇によるウェーク島を経由した索敵計画であったが、ウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎ、経由地がウォッゼ環礁に変更された結果ミッドウェー全海域の索敵が不可能となった。更にパイロットの技量不足で夜間着水が困難であることから薄暮までにはウォッゼ環礁に帰還する必要があったので肝心な北方海域哨戒(5月31日)が短縮された。これにより、結局米艦隊を発見する事は出来なかった。仮に予定通り北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。

最後に計画され、連合艦隊が最も重視した第2次K作戦は、オアフ島西北西480海里にあるフレンチフリゲート礁で潜水艦の補給を受けた二十四航戦の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である。第1次は3月に実施し、さらに二式大艇によるハワイ空襲時にもフレンチフリゲート礁は使用された。しかし、アメリカ軍は日本軍の作戦を暗号解読で察知すると、海域一帯に警戒艦艇を配置して封鎖した。潜入した伊123は「見込み無し」という報告を送った。これを受け第十一航空艦隊は5月31日21時23分に作戦中止を二十四航戦に指示した。この偵察作戦が成功すればそれがもたらす成果は大きいはずだったが、大型機による夜間偵察では大型艦を空母と誤認する危険があった。また米空母の真珠湾在泊を確認できれば作戦の価値は極めて大きいが、米空母が不在であった場合は、5月末から6月初にかけての日本海軍の状況判断から見て、米空母はまだ南太平洋方面で行動中であろうと判断したのではないかという意見もある。6月1日、二十四航戦の司令部からミッドウェーの600浬圏付近で敵の潜水艦や飛行艇と会敵したことと、第2次K作戦の中止が連合艦隊司令部、南雲機動部隊司令部に伝達された。無線封止が重要視されたため連合艦隊司令部からは南雲機動部隊に作戦中止の連絡はしていない。作戦中止に対し連合艦隊司令部から作戦再興の指示は出されなかった。南雲機動部隊首脳部もK作戦の中止を大した問題とは考えなかった。連合艦隊参謀らによれば、知的手段は崩れたが、連合艦隊は米艦隊はハワイからの出撃が遅れるだろうと考えていたの大した心配はしていなかったという。

アメリカ軍の対応

情報収集と分析

アメリカ軍は日本軍来襲の情報収集、分析し、ミッドウェー作戦に備えていた。1942年3月4日、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツはオアフ島に日本軍の大型航空機(二式飛行艇)2機が爆撃を行い(K作戦)、同月11日にはミッドウェーに新型飛行艇(前同 二式飛行艇)1機が接近、撃墜されたことをふまえ、日本軍の攻勢の兆候と判断した。ただ、これは誤解で、実際には日本軍の爆撃は攻勢作戦とは関係のない偵察監視・妨害作戦に過ぎなかった。日本海軍の主力部隊は南方戦線から日本本土へと帰投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、ハワイ、ミッドウェー、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。米本土西岸への日本軍上陸の誤報なども影響している。

真珠湾攻撃直前に変更された日本海軍の戦略暗号 "D"は、アメリカ軍の諜報部よりJN-25と呼ばれていた。1942年4月頃には、ハワイ真珠湾のアメリカ海軍 レイトン(情報)班が、日本軍の暗号を断片的に解読し、日本海軍が太平洋正面で新たな大規模作戦を企図していることについても、おおまかに把握していた。この時点では時期・場所などの詳細が不明であった。その後、5月ごろから通信解析の資料が増え、暗号解読との検討を繰り返して作戦計画の全体像が明らかになると、略式符号「AF」という場所が主要攻撃目標であることまでわかってきた。しかし「AF」がどこを指しているのかが不明であった。アメリカ側は、日本海軍の編成表から「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白であると判断した。

爆撃されるダッチハーバー(6月3日)。

ワシントンのアメリカ統合参謀本部は攻撃目標をハワイ、陸軍航空隊ではサンフランシスコだと考え、またアラスカ、米本土西岸だと考える者もいた。5月中旬になっても決定的な情報は無かったが、チェスター・ニミッツ大将は各種情報と戦略的な観点からミッドウェーが目標であると予想し、ハワイ所在のレイトン情報主任参謀らも次第にミッドウェーが目標であるとの確信を深めていった。

5月11日ごろ、諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼は、ミッドウェー島の基地司令官に対してオアフ島・ミッドウェー間の海底ケーブルを使って指示を送り、ミッドウェーからハワイ島宛に「海水ろ過装置の故障で、飲料水不足」といった緊急の電文を英語の平文で送信させた。その後程なくして日本のウェーク島守備隊(クェゼリン環礁所在の第六艦隊説もあり)から発せられた暗号文に、「AFは真水不足、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、AFはミッドウェー島を示す略語と確認された。こうしてミッドウェー島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された。 日本側にも「6月1日における第三部特務班の判断」として「ミッドウェー島が清水不足を訴えている」と軍令部作戦課佐薙毅中佐の日誌に残されている。一方、このエピソードについては、実際の暗号解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。沈没する空母飛龍から脱出後、アメリカ軍に救助され捕虜となった相宗邦造中佐ら機関科兵34名は、アメリカ軍情報士官から1942年5月に就役したばかりの飛鷹型航空母艦隼鷹の写真を見せられて仰天している。萬代久男少尉によれば、「隼鷹」の写真は軍極秘回覧簿で見たものと全く同じであった。萬代は暗号解読云々よりも、むしろ連合軍諜報活動の方が連合軍の情報戦勝利に影響を与えたと述べている。

5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はこの結果をミッドウェー基地の部隊に伝えたが、ワシントンではこの情報を全面的には信用せず、日本軍の偽情報ではないかと疑問を持つ者もいた。ニミッツ大将は、日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、自己の意見が間違いないと主張、論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号・乱数表を変えたために解読できなくなった。

戦力の準備

ハワイ諸島は、アメリカにとって太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であった。ミッドウェー島はハワイ諸島の前哨であり、戦略的要衝である。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェーを5月3日に視察し、同島守備隊の指揮官シマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせた。このとき、シマード中佐は兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将はシマード中佐の要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。こうして、ミッドウェー島に集結した航空機は当時最新鋭のTBFを含む約120機、アメリカ海兵隊を含む人員の補強は3027人に達し、防爆掩蓋や砲台も配備していた。陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めが多く、また整備員の増強がなかったために搭乗員自ら整備・燃料補給を行うなど、完全に充足した部隊ではなかった。それでも、日本海軍陸戦隊5000名の上陸を撃退するには十分な兵力だった。

ハワイの情報隊は、日本海軍のミッドウェーへの攻撃が6月3日から5日までに行われることを事前に察知し、日本側が陽動作戦として計画していた、空母龍驤と隼鷹を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせてアッツ島、キスカ島などを占領、ダッチハーバーなどを空爆する作戦も陽動であることを事前に見抜いており、ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の指揮下にある使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン・アラスカ方面には最低限の戦力を送るにとどめ、主力をミッドウェーに集中することにした。

アメリカ軍の作戦計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戦計画第29-42号』として発令され、内容は、第1に敵を遠距離で発見捕捉して奇襲を防止、第2に空母を撃破してミッドウェー空襲を阻止、第3に潜水艦は哨戒及び攻撃、第4にミッドウェー島守備隊は同島を死守などというものであった。

真珠湾のドックに入る空母「ヨークタウン」。

5月28日に作戦計画を発した時点において、ニミッツ大将は2隻の空母しか使用が期待できなかった。サラトガは日本海軍潜水艦による攻撃で損傷、修理を要する状態にあり、第17任務部隊(TF-17)の2隻は、次にのべるように珊瑚海海戦により大打撃を受けていた。

フレッチャー少将の第17任務部隊は、珊瑚海海戦においてポートモレスビー防衛を成功させ、日本海軍の軽空母1隻撃沈し、主力空母にもダメージを与えたものの、自身も主力空母レキシントンを失い、ヨークタウンが中破していた。ヨークタウンへの命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊される重大損傷で、機関からの燃焼煙を正常に排出できずボイラーが出力を上げられず、速力が24ノットに低下。また、2発の至近弾で左舷燃料タンクから燃料が漏れ出していた。特に珊瑚海海戦では艦隊付属の油槽船ネオショーを失い、この燃料漏れは海上での立ち往生になりかねなかった。

ニミッツ大将は、日本軍の侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できたヨークタウンは5月27日に真珠湾に到着、直ちに乾ドックに入れられて突貫の応急修理工事が実施された。特に燃料タンクの損傷については、アメリカ西海岸のワシントン州ブレマートン港にて長期の修理を行う必要があるとの見通しがあったが、ハワイでの72時間の不眠不休の作業によって、空母としての機能を取り戻し、5月30日に乾ドックを出た。出撃時、艦には修理工が乗ったままであり、戦場へ向かって航行中も修理が続けられた。この応急修理について乗組員は「いいかげんな間に合わせ」と評している。ヨークタウンを母艦とする第5航空群は珊瑚海海戦で損耗していたため、修理のために本国に戻るサラトガの第3航空群と入れ替えられた。これで当時のアメリカ海軍太平洋艦隊が投入できる空母戦力の全てがミッドウェーの戦いに参戦する形が整えられた。

もし、ニミッツ大将が準備できた空母が、第16任務部隊のエンタープライズ、ホーネットの2隻のみであった場合、戦いの様相もまた違っていた可能性は高い。前述にもあるが、日本側はアメリカ海軍の太平洋における戦闘可能空母をこの時点で正規空母2-3隻、軽空母2-3隻と見積もっており、ワスプや軽空母が出現することはあっても、珊瑚海海戦で自力航行不能にまで追い込んだヨークタウンがミッドウェー作戦に間に合うとは想像だにしていなかった。

戦闘の経過

ミッドウェー海戦 戦闘の経過

ミッドウェー攻撃前

両軍の移動

1942年5月28日、アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官発の作戦計画に従い、エンタープライズ、ホー

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出典:wikipedia
2020/02/27 16:10

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