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メアリー・オブ・テックとは?

【全名】
Victoria Mary Augusta Louise Olga Pauline Claudine Agnes
ヴィクトリア・メアリー・オーガスタ・ルイーズ・オルガ・ポーリン・クローディン・アグネス
【出生】
(1867-05-26) 1867年5月26日
イギリス
イングランドロンドン
【薨去】
(1953-03-24) 1953年3月24日(85歳没)
イギリス
イングランドロンドンモールバラ・ハウス
【埋葬】
1953年3月31日
イギリス
イングランドウィンザー城聖ジョージ礼拝堂
【配偶者】
ジョージ5世
【子女】
一覧参照

【父親】
フランツ・フォン・テック
【母親】
メアリー・アデレード・オブ・ケンブリッジ

メアリー・オブ・テック(英語: Mary of Teck, 1867年5月26日 - 1953年3月24日)は、イギリスウィンザー朝国王ジョージ5世の王妃。

ドイツヴュルテンベルク王家傍系の出身で、ハノーヴァー朝のイギリス国王ジョージ3世の曾孫にあたる。エドワード8世ジョージ6世の母、女王エリザベス2世の祖母である。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 幼少期
    • 1.2 婚約
    • 1.3 王妃時代
    • 1.4 王太后時代
  • 2 子女
  • 3 逸話
  • 4 雑記
  • 5 称号
  • 6 関連項目

生涯

幼少期

ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世の弟ルートヴィヒの孫であるテック公フランツ・パウルと、ケンブリッジ公爵アドルファス(ジョージ3世の七男)の次女メアリー・アデレードの間にロンドンで生まれた。

少女時代は、派手好きな両親が作った借金が原因で、イギリスより物価が安く、自身の親戚が住む諸外国を転々とする生活を送っていたが、このような生活からヨーロッパ各国の文化に接する経験を多く重ねることとなり、芸術方面に深い造詣を持つことになるきっかけとなった。特にイタリアフィレンツェに住んでいた頃は、多くの美術館や教会などを訪れ、同国の先進的な文化や芸術に接する貴重な時期となった。

婚約

ヴィクトリア女王の配慮により、1885年にイギリスへ戻ることのできたテック家は、リッチモンド・パークにあるホワイト・ロッジに定住することとなった。その際、ヴィクトリア女王に見初められたメアリーは、1891年王太子アルバート・エドワード(後のエドワード7世)の長男で、将来の国王とされていたクラレンス公アルバート・ヴィクターと婚約したが、婚約の約6週間後にクラレンス公は肺炎により死去してしまった。しかし、強靭な性格であるメアリーを国王の妻として必要な存在だと考えていたヴィクトリア女王は、1893年にクラレンス公の弟であるヨーク公ジョージ・フレデリック(後のジョージ5世)と結婚させた。

結婚後、サンドリンガムに定住した2人は5男1女をもうけ、比較的円満な夫婦生活を送っていた。気丈な性格で、良くも悪くも王室のしきたりを頑ななまでに守り続けたメアリーは、小姑のファイフ公爵夫人ルイーズや姑のアリックスとは価値観や性格の不一致から不仲だったが、ヴィクトリア女王やエドワード7世など王族の人間からは信頼を寄せられていた。

1902年

1901年にヴィクトリア女王が崩御し、その長男であるエドワード7世が即位すると、メアリーはプリンセス・オブ・ウェールズとなり、その9年後の1910年にエドワード7世が崩御すると、王妃となった。

王妃時代

ジョージ5世とともに

ジョージ5世が即位して間もなく勃発した第一次世界大戦は、イギリス王室にとって試練の時となった。特に、ヨーロッパ中で王室の存在意義や能力が問題視されるようになり、ドイツホーエンツォレルン家ロシアロマノフ家バイエルンヴィッテルスバッハ家オーストリア=ハンガリーハプスブルク家など多くの王家が没落の道を歩んだ。イギリス王室も、国民が嫌悪してやまないドイツの出身ということもあり、一時は他の王家と同様没落の一途を辿るものと思われていた。

しかし、時代の流れを上手く読んでいたジョージ5世は、王家の家名をドイツ由来のサクス=コバーグ=ゴータ家から王宮のウィンザー城に因んでウィンザー家に改名したり、ラジオ演説を通して戦争に苦しみ続ける国民を励まし続けた。また、外国の王室との婚姻を止揚するなど、ナショナリズムを意識した王室の意向を大々的に宣伝し、王室を国民の結束を呼びかけ続けた結果、国民の熱狂的な支持を得ることとなり、王室の地位は盤石なものとなった。

メアリーも夫の意向に積極的に同調し、父方のドイツ系の血筋を否定する一方で、母方のイギリス系の血筋を全面的に押し出して、夫の国政運営をサポートし続け、軍人や死傷者達に直接面会して親しく慰め続けるなど、王妃としての責務を誠実なまでに実行した。短気で粗暴な性格だった夫が国民の王として親しまれ、尊敬されたのも、メアリーによるこのような内助の功があったからだといわれている。王の晩年が病気がちになると、代わって日記を清書するなどした。

その反面、自分の意見や意志を十分に通す性格で、母親としても愛情深くなかったために、長男エドワード8世は色々な女性と浮き名を流し、最終的にウォリス・シンプソンとの恋に走り退位したと言われている。

王太后時代

孫のエリザベスマーガレットとともに(1939年5月)

ジョージ5世が亡くなり、長男エドワード8世が王位に就くと、メアリーは王太后となったが、王室に及ぼす影響力は相変らず強いままだった。王太后としての責務を重要視し、中でも王室の品位を汚すような言動に対しては、自身の子供たちに対しても極端なまでに厳格な対応を取るようになった。特に、エドワード8世が上述のウォリス・シンプソンと婚約する意思を表明し、結婚に対して国中から強い反発が沸き起こった際には、彼の退位に相当なまでの影響力をかけたことは、つとに有名である。

他にも、生来病弱な上に吃音の障害をかかえる次男ジョージ6世に対して、国民から国王としての適性を不安視する声があがったり、三男グロスター公ヘンリーが同性愛者であるとの疑惑が浮上したりするなど、子供たちに関するスキャンダル等への火消しにも強い態度で臨み続けた。

また、「未亡人となった王妃は、新王の戴冠式には出席しない」という王家の不文律を破り、次男ジョージ6世の戴冠式に出席した。

第二次世界大戦中、空襲の激しいロンドンや、息子ジョージ6世の家族が週末を過ごすウィンザー城を避け、姪メアリー(弟ケンブリッジ侯アドルファスの娘)の嫁ぎ先であるボーフォート公ヘンリー・サマセットの居城バドミントン・ハウスへ避難していた。

戦後、孫のエリザベス2世が即位した翌年に、肺癌で死去した。

子女

逸話

雑記

1935年発行の2カナダドル紙幣に肖像が使用されている。

称号

メアリー王妃の紋章

関連項目

王室の称号
先代:
アレクサンドラ | 連合王国自治領王妃
インド皇后

1910年 - 1936年 | 空位
次代の在位者
エリザベス
名誉職
先代:
ウェールズ公 | 大英帝国勲章グランド・マスター
1936年 - 1953年 | 次代:
エディンバラ公爵
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出典:wikipedia
2019/01/13 12:12

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