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モザンビークとは?

モザンビーク共和国
República de Moçambique



(国旗) | (国章)
国の標語:なし
国歌:最愛の祖国
公用語 ポルトガル語
首都 マプト
最大の都市 マプト
政府
大統領 フィリペ・ニュシ
首相 カルロス・アゴスティーニョ・ド・ロザーリオ
面積
総計 801,590km(35位)
水面積率 2.2%
人口
総計(2011年) 23,920,000人(???位)
人口密度 23人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2008年)】
234兆92,272億メティカル
GDP(MER)
【合計(2008年)】
96億ドル(115位)
GDP(PPP)
合計(2008年) 186億ドル(101位)
【1人あたり】
896ドル
独立
ポルトガルより 1975年6月25日

通貨 メティカル(MZM)
時間帯 UTC (+2)(DST:なし)
ISO 3166-1 MZ / MOZ
ccTLD .mz
国際電話番号 258

モザンビーク共和国(モザンビークきょうわこく)、通称モザンビークは、アフリカ大陸南東部に位置する共和制を取る国家で、首都マプトである。南に南アフリカ共和国、南西にエスワティニ、西にジンバブエ、北西にザンビアマラウイ、北にタンザニアと国境を接し、モザンビーク海峡を隔てて東にマダガスカルコモロが存在する。

ポルトガルの植民地であり、1964年からモザンビーク独立戦争を戦い抜いた後の1975年に独立を達成した。しかし独立後も政情は不安定で、1977年から1992年までモザンビーク内戦が続いた。内戦終結後は好調な経済成長を続ける反面、HIV感染AIDS発症の蔓延が問題となっている。

ポルトガル語諸国共同体ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国ではあるものの、隣接国が全て英語圏の国家であるため1995年からイギリス連邦に加盟している。

国名

正式名称は、ポルトガル語República de Moçambique(IPA: /rɨˈpublikɐ dɨ musɐ̃ˈbikɨ/プーブリカ・デ・ムサンビーケ)。通称、Moçambique(ムサンビーケ)。

公式の英語表記は、Republic of Mozambique。通称、Mozambique(モウザンビーク)。

日本語の表記は、モザンビーク共和国。通称、モザンビーク。国名はかつてポルトガル領東アフリカの首都が置かれたモザンビーク島に由来し、島の名前が全土を指す名前となった。独立後の1975年から1990年まではモザンビーク人民共和国だったが、1990年の憲法改正により現在のモザンビーク共和国となった。

歴史

詳細は「モザンビークの歴史」を参照
1683年のソファラ

この地域には約300万年前から人類が居住し、生活していた。紀元前後にはサン人(ブッシュマン)が居住していたものの、次第にバントゥー系アフリカ人諸部族が広範囲に分布するようになった。紀元前1世紀にはギリシャ人ローマ人が沿岸部住民と交易するようになった。8世紀にはアラブ人の商人が金・銀を求めて港に現れるようになった。

この地域の記録に残る歴史は、11世紀から19世紀の部族連合国の王の称号からアラブ人の商人が通称したモノモタパ王国に遡ることができる。現在のジンバブエを中心に栄えたモノモタパ王国は、スワヒリ文明最南端に位置した都市である現モザンビーク領のソファラを拠点に、アラブ人の商人と香辛料象牙などの交易を行っており、中国陶磁器や、インド綿製品も手に入れていた。

ポルトガル植民地時代

詳細は「ポルトガル領モザンビーク」を参照

1498年ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰を越えてこの地に到達したのをきっかけに、16世紀初頭より、ポルトガルの植民が始まり、17世紀半ばにはポルトガルの植民地支配が確立し、ポルトガル領モザンビーク・東アフリカ(ポルトガル語: Estado da África Oriental、通称ポルトガル語: Província Ultramarina de Moçambique)の首都はモザンビーク島に置かれた。モザンビークからは遥か遠くのブラジルにまで黒人奴隷が連行された。1782年にロウレンソ・マルケスが建設された。1807年にイギリス奴隷貿易を禁止した結果、西アフリカから奴隷を輸出することが困難になると、ポルトガルはブラジルへの新たな奴隷供給地としてモザンビークに目を向け、ザンジバルを拠点にしたサイイド・サイード王の奴隷貿易と相俟って、19世紀前半の東アフリカ内陸部は、拡大する奴隷貿易の輸出用奴隷供給地となった。

19世紀に入り、1858年にポルトガル領では奴隷制度が廃止されたものの、劣悪な労働環境による契約労働制により、事実上は奴隷労働制度が継続していた。19世紀末に進んだアフリカ分割の中でポルトガルは、モザンビークとアンゴラを横断しようとする「バラ色地図」計画を発表した。しかし、1890年にイギリスの圧力に屈したポルトガルは、ザンビアとジンバブエとマラウイの領有を諦め、1891年の条約で現在のモザンビークの領域が確立された。また、同1891年にポルトガル領モザンビーク総督はイギリス・フランス資本の勅許会社モザンビーク会社ニアサ会社ザンベジア会社に開発の権利と司法権を除く自治権を与えた。このためポルトガルが旧宗主国であるにも拘らず、独立後にイギリス連邦の加盟国となっている。また、ポルトガルの圧政に対して、例えば1894年のロウレンソ・マルケス襲撃など、先住民による抵抗運動が頻発したものの、それらは全てポルトガル軍により武力鎮圧された。

1898年にモザンビーク島からロウレンソ・マルケスに植民地の首都が遷都され、以降ロウレンソ・マルケスはポルトガル領東アフリカの首都となった。

脱植民地化

モザンビーク解放戦線(FRELIMO)に対するポルトガルのプロパガンダ。

第二次世界大戦が終結し、世界的に脱植民地化の流れが出てくると、アフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立が叫ばれるようになり、その影響はモザンビークにも押し寄せた。ポルトガルのアントニオ・サラザール政権は、1951年にモザンビークなどのアフリカ植民地を「海外州」と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。モザンビークやアンゴラは、形式上ポルトガル本国と同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、モザンビークには3800万ポンドが投資された。さらに、リンポポ川流域へのポルトガル人の入植や、港湾の能力拡大のための鉄道建設が進められた。ただ、モザンビーク植民地の慢性的なポルトガルへの輸入超過を補うために、南アフリカ連邦の鉱山への黒人労働者の出稼ぎによって経済は支えられた。

その後、形式上に過ぎない本国ポルトガルとの対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、モザンビークでも1964年9月に、エドゥアルド・モンドラーネを議長としたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)がタンザニアを拠点に武装闘争を開始し、モザンビーク独立戦争が始まった。マルクス主義を掲げ、ソ連中華人民共和国の援助を受けていたFRELIMOは、冷戦構造の中で西側諸国の脅威であり、そのためポルトガル軍も強権を以て解放軍に対処した。1969年にモンドラーネは暗殺されたものの、サモラ・マシェルらが後を継いで独立戦争を継続。約10年を経てポルトガル本国でのカーネーション革命がきっかけとなり、1975年6月25日にモザンビークはモザンビーク人民共和国として完全独立を果たした。

独立と内戦

詳細は「モザンビーク内戦」を参照

1975年の独立後、出国したポルトガル系モザンビーク人に代わって権力を握ったFRELIMOは政党化し、一党制による社会主義路線を推進した。社会主義を掲げるモザンビークは1976年国連制裁決議に従って、白人国家ローデシアの国境を封鎖した。ただ、この措置はモザンビークとローデシア双方の経済に大打撃を与えた。

1977年にローデシア諜報機関によって、ポルトガル領時代の秘密警察であったPIDEを母体として結成された反政府組織モザンビーク民族抵抗運動(MNR,RENAMO)は、政府軍と衝突してモザンビーク内戦が勃発した。イデオロギー的正当性を欠いていたRENAMOは、当初は成人男子や少年を強制徴収することによってしか兵力を集めることができず、暴力と恐怖を旨に学校や病院への襲撃作戦を遂行した。

1980年にローデシアが崩壊し、黒人国家のジンバブエが独立すると、アフリカにおける反共産主義の砦を自認していた南アフリカ共和国は、ローデシアに代わってモザンビークとアンゴラの社会主義政権に対して不安定化工作を仕掛けた。南アフリカをはじめとする西側諸国の援助を受けたRENAMOは、農村部で略奪、暴行を激化させたため、1984年にはモザンビークと南アフリカ両国の間にンコマチ協定が締結され、南アフリカはRENAMOに対する支援を、モザンビークはANCに対する支援を相互に打ち切り、両国の間で不可侵条約が結ばれた。しかし、その後も実質的にこの協定は反故にされ、以降も南アフリカによるRENAMO支援が続けられた。さらに、1986年にはマシェル大統領が事故死し、後任としてジョアキン・アルベルト・シサノが新たな大統領に就任した。

内戦が長期化し、経済が疲弊する中で、1989年東側諸国の勢力低下と合わせてシサノ大統領率いるモザンビーク政府は、社会主義体制の放棄を決定し、翌1990年複数政党制自由市場経済を規定した新憲法を制定した。これにより反共産主義を掲げていた南アフリカなどから干渉される理由が少なくなった。さらに、1990年から1991年にかけての大旱魃の影響もあり、和平交渉の結果、1992年ローマ和平協定ローマで締結され、内戦は終結した。

内戦終結以降

ジョアキン・アルベルト・シサノ。内戦終結後のモザンビークを安定した発展の軌道に乗せた。

内戦後の新政権樹立のため、1994年10月に国際連合モザンビーク活動(ONUMOZ)の支援の下、複数政党制による大統領選挙及び議会選挙を実施された。この結果、与党のFRELIMOが勝利し、新政権が創設された。

1995年に南アフリカやジンバブエなど、周辺の英語圏諸国との経済的結び付きを深めるため、それまでオブザーバーとして参加していたイギリス連邦に正式に加盟した。ただ、翌1996年にはポルトガル語世界(ルゾフォニア)との結び付きを深めるために、ポルトガル語諸国共同体にも加盟した。1998年にはアルミニウム精錬を行うモザール社が、南アフリカと日本などの投資により誕生した。

シサノ大統領は2003年にはアフリカ連合(AU)の第2代総会議長に選出され、更に引退後の2007年にはモ・イブラヒム賞の第1回受賞者となった。2005年の大統領選挙では、与党FRELIMOからアルマンド・ゲブーザが新たに大統領に就任した。ゲブーザは2009年の大統領選挙でも勝利した。2014年1月には中華人民共和国の援助で新しい大統領府が建設された。

なお、和平協定締結後は比較的安定した政治と、アルミニウム精錬を行うなどして年率8%の経済成長を実現したものの、国民の70%が貧困ライン以下で、失業率も54%に達している。しかも内戦時代には学校への襲撃もあったなど教育は立ち遅れている。国民の教育水準は低いままで、識字率は55%程度に過ぎない。慢性的な医師不足の改善も進まず、教育水準の低い国民はHIV感染者が多く、AIDSの蔓延が深刻な問題となっている。2009年において平均寿命も50歳を下回っている。

新たな有力産業として、東方のインド洋沖を含めて天然ガス開発が進んでいる。モザンビーク政府は、2020年代には液化天然ガス(LNG)輸出拡大により高い経済成長を持続することをめざしている(「鉱業」も参照)。

政治

第3代大統領アルマンド・ゲブーザ
詳細は「モザンビークの政治」を参照

大統領国家元首とする共和制をとっている。大統領は1994年1月以来、直接選挙で選出され、任期5年。大統領の他に行政府の長たる首相が存在する。

モザンビークの大統領一覧」および「モザンビークの首相一覧」も参照

立法府たる共和国議会(en:Assembly of the Republic (Mozambique))は一院制であり、全250議席は全て直接選挙によって選出される。任期5年。1994年1月に国民選挙委員会が設置された。

主要な政党としては、社会民主主義民主社会主義モザンビーク解放戦線 (FRELIMO)、保守主義モザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE)、中道右派モザンビーク民主運動(en:Democratic Movement of Mozambique、MDM)の名が挙げられる。

モザンビークの政党」も参照

司法権は最高司法機関たる最高裁判所が司る。

これまでの選挙

軍事

モザンビーク陸軍の軍人
詳細は「モザンビークの軍事」を参照

モザンビーク国防軍は陸軍海軍空軍から構成されている。総人員は約11,200人であり、徴兵制を採用している。2006年の軍事支出は国内総生産(GDP)の0.8%だった。

国際関係

詳細は「モザンビークの国際関係」および「モザンビークの在外公館の一覧」を参照
モザンビークが外交使節を派遣している諸国の一覧図。

独立時に主導権を握ったのが社会主義を掲げるFRELIMOだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親東側政策に結び付き、親西側の立場から反政府ゲリラを支援するローデシア南アフリカ共和国などとは敵対政策が続いた。冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。

ポルトガル語諸国共同体の一員であり、ポルトガルブラジルカーボベルデアンゴラなどポルトガル語圏の国々(ルゾフォニア)とは深い絆を保っている。

周辺諸国との関係においては、特に南アフリカ共和国との関係が経済的に大きい。また、タンザニアとは独立戦争以来の友好関係が存在する。

隣接国が全て英語圏であるため、1987年からイギリス連邦のオブザーバーとなっていた。モザンビークが南アフリカとジンバブエの民主化に大きな役割を果たした功績が認められたため、1995年に正式にイギリス連邦に加盟した。

日本との関係

織田信長の家来として活躍した弥助は、現在のモザンビークにあたるポルトガル領東アフリカ出身で、1581年にイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノにより日本に渡航したと推定される。また、1582年にヨーロッパへ向かった天正遣欧少年使節が、帰路にて1586年にモザンビーク島に寄港し、約6か月間をすごした。
1980年代以降日本に留学する者が現れており、ベンビンダ・ツレのように長期間の留学を経て日本で就職後帰国した者もいる。このベンビンダは小学生向けの学習雑誌に読み物が掲載される、帰国の年にはラジオ番組で特別企画が長期間にわたって組まれるなどして多くの日本人に名前が知られた。第5回アフリカ開発会議中の2013年6月1日に、横浜で日本との間に投資協定が結ばれた。

地方行政区画

モザンビークの州
詳細は「モザンビークの州」を参照

モザンビークは、10の(província,プロヴィンシア)、及び、州と同格の1つの(cidade,シダーデ)に分かれる。

  1. カーボ・デルガード州 (Cabo Delgado) 州都 - ペンバ (Pemba)
  2. ガザ州 (Gaza) 州都 - シャイシャイ (Xai-Xai)
  3. イニャンバネ州 (Inhambane) 州都 - イニャンバネ (Inhambane)
  4. マニッカ州 (Manica) 州都 - シモイオ (chimoio)
  5. マプト市 (Maputo cidade)
  6. マプト州 (Maputo província) 州都 - マトラ (Matola)
  7. ナンプーラ州 (Nampula) 州都 - ナンプーラ (Nampula)
  8. ニアサ州 (Niassa) 州都 - リシンガ (Lichinga)
  9. ソファラ州 (Sofala) 州都 - ベイラ (Beira)
  10. テテ州 (Tete) 州都 - テテ (Tete)
  11. ザンベジア州 (Zambezia) 州都 - ケリマネ (Quelimane)

主要都市

詳細は「モザンビークの都市の一覧」を参照

主要な都市はマプト(首都)、マトラベイラナンプラがある。

地理

モザンビークの衛星写真
詳細は「モザンビークの地理」を参照

モザンビークの国土面積は、802,000 kmであり、これはアメリカ合衆国のカリフォルニア州の約2倍に相当する。国内最高峰はビンガ山(2436m)である。2500 km以上におよぶ海岸線には、熱帯のビーチとサンゴ礁の浅瀬が見られる。マダガスカル島とはモザンビーク海峡を挟んで向かい合っている。

モザンビークには5つの大きな河川が流れており、最も大きく重要なものはザンベジ川である。国土はザンベジ川によって地勢上、2つの地域に分かれる。ザンベジ川の北では、なだらかな海岸線が内陸部に入って丘陵や低い台地である。その西は、ミオンボ森林に覆われたニアサ高原ナムリ高原(シレ高原)、アンゴニア高原テテ高原マコンデ台地のような険しい高原である。なお、主要なとしては、ニアサ湖(またはマラウイ湖)、シウタ湖シルワ湖と3つが挙げられ、これらはいずれも北部に位置する。ザンベジ川の南では、低地は広く、マショナランド台地レンボ山地が深南部に存在する。

一方、南部アフリカ山脈であるレボンボ山脈の一部が同国に繋がっており、その姿を眺めることが出来る。

ケッペンの気候区分によれば、気候は熱帯雨林気候サバナ気候に分かれるが、首都のマプトが位置する南部は冬季には平均気温が20 ℃以下まで下がり、5月から9月までは比較的しのぎやすい。

経済

詳細は「モザンビークの経済」を参照
首都マプト

通貨は新メティカルであり(2009年時点で1アメリカ合衆国ドル|USドルはほぼ27メティカルである)、1000:1のレートで旧メティカルと置き換わっている。旧通貨は2012年末までにモザンビーク銀行によって償還される見込みである。USドル南アフリカランド、そして近年ではユーロもまた広く受け入れられ、ビジネスの取引で使われている。法定最低賃金は月60USドルである。モザンビークは南部アフリカ開発共同体(SADC)の加盟国である。

ザンベジア州グルエー付近の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2020/10/22 06:10

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