このキーワード
友達に教える
URLをコピー

モルドバとは?

モルドバ共和国
Republica Moldova



(国旗) | (国章)
国の標語:なし
国歌:Limba Noastră(ルーマニア語)
我らが言葉
公用語 ルーマニア語
首都 キシナウ
最大の都市 キシナウ
政府
大統領 イゴル・ドドン
首相 マイア・サンドゥ
面積
総計 33,843km(135位)
水面積率 1.4%
人口
総計(2012年) 3,559,500人(121位)
人口密度 121,9人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2013年)】
1,003億モルドバ・レウ
GDP (MER)
【合計(2013年)】
80億ドル(141位)
GDP (PPP)
合計(2013年) 166億ドル(140位)
【1人あたり】
4,666ドル

独立
- 日付 ソビエト連邦から
1991年8月27日
通貨 モルドバ・レウ (MDL)
時間帯 UTC +2(DST:+3)
ISO 3166-1 MD / MDA
ccTLD .md
国際電話番号 373
  1. ^ “Chisinau Recognizes Romanian As Official Language”. Associated Press. rferl.org. (2013年12月5日). http://www.rferl.org/content/moldova-romanian-official-language/25191455.html 2015年1月12日閲覧。

モルドバ共和国(モルドバきょうわこく、ルーマニア語: Republica Moldova)、通称モルドバモルドヴァ(Moldova [molˈdova] ( 音声ファイル))は、東ヨーロッパに位置する共和制国家。内陸国であり、西にルーマニアと、他の三方はウクライナと国境を接する。旧ソビエト連邦(ソ連)を構成していた国家の一つであった。現在、ドニエストル川東岸地域が沿ドニエストル共和国として事実上、独立状態にある。

モルドバ人は言語的、文化的にルーマニア人との違いはほとんどなく、歴史的には中世のモルダビア公国以後、トルコロシアならびソ連、ルーマニアの間で領土の占領・併合が繰り返された地域である。

目次

  • 1 国名
  • 2 歴史
    • 2.1 古代
    • 2.2 中世時代
    • 2.3 世界大戦時代
    • 2.4 戦後の飢饉と復興
    • 2.5 ソ連当局の政策
      • 2.5.1 反ソビエト運動
    • 2.6 ソ連からの独立
    • 2.7 独立からの流れ
  • 3 政治
    • 3.1 政党
  • 4 軍事
  • 5 国際関係
  • 6 地方行政区分
  • 7 地理
    • 7.1 地形
    • 7.2 気候
  • 8 環境
  • 9 経済
    • 9.1 産業
    • 9.2 低迷する経済
      • 9.2.1 国内紛争
      • 9.2.2 地理的要因
      • 9.2.3 ロシアの経済危機の余波
      • 9.2.4 IMF(国際通貨基金)・WB(世界銀行)主導の急速な市場経済化
    • 9.3 近況
    • 9.4 観光
      • 9.4.1 ギャラリー
  • 10 交通
    • 10.1 鉄道
  • 11 国民
    • 11.1 民族
    • 11.2 言語
      • 11.2.1 モルドバ語とルーマニア語
    • 11.3 宗教
    • 11.4 教育
    • 11.5 保健
  • 12 治安
    • 12.1 警察
    • 12.2 人権
  • 13 マスコミ
    • 13.1 テレビメディア
    • 13.2 ラジオメディア
    • 13.3 報道機関
    • 13.4 印刷・出版
    • 13.5 通信
  • 14 文化
    • 14.1 食文化
    • 14.2 婚姻
    • 14.3 文学
    • 14.4 音楽
    • 14.5 スポーツ
    • 14.6 世界遺産
    • 14.7 祝祭日
  • 15 有名な出身者
  • 16 参考文献
  • 17 脚注
    • 17.1 注釈
    • 17.2 出典
  • 18 関連項目
  • 19 外部リンク

国名

正式名称はルーマニア語でRepublica Moldova [reˈpublika molˈdova] ( 音声ファイル)。日本語表記での近似発音は「モルドヴァ」。

日本語の表記はモルドバ共和国。通称はモルドバまたはモルドヴァ。旧称はモルダビアまたはモルダヴィア。漢字表記摩爾多瓦で、と略される。

公式の英語表記は Moldova [mɒlˈdoʊvə] ( 音声ファイル)。

国名はルーマニア北東部の川(モルドバ川)の名前に由来する。ハンガリーの貴族が川の名前から名付けたという説がある。

また、モルドバという言葉は、ダキア語のmolta(多い)dava(砦)に由来するとされる。

ソビエト連邦の構成共和国であったモルダビア・ソビエト社会主義共和国から領土を継承し、1990年に国名をモルダビアからモルドバに変更した。

なお、ロシア連邦民族自治共和国のひとつでヴォルガ川中流域にある、ウラル語族モルドヴィア共和国(モルドバ共和国)(Mordovia(Mordova)、首都サランスク)とは関係はない。日本語の表記で両国が一致または類似した名前となるのはLとRの音を区別しないためである。

歴史

詳細は「モルドバの歴史」を参照

古代

古代ダキア

古代からモルドバ平原にダキア人がいたが、その後やってきたローマ人入植者も加わりこの地帯独自の文化が形成された。271年のローマ軍撤退後は、ヨーロッパとアジアをつなぐという戦略上重要な位置にあるためキエフルーシモンゴル系などの様々な侵略を受けた。ただしロシア側は、民族大移動時代スラブ人がこの地域にたどりついた時、タタール人しか住んでいなかったと主張している。この辺はルーマニア北西部トランシルヴァニア地方をめぐる、ハンガリーとの歴史認識の違いに似ている。

中世時代

ベッサラビア(モルドバ)を含んだ大ルーマニア(1930年)

中世には、モルダビア公国の東部を構成していた。16世紀にはモルダビアはオスマン帝国の属国になったが、他のバルカン諸国と違って部分的な支配だった。露土戦争の結果、1812年からブカレスト条約によりベッサラビアとして帝政ロシアへ併合される。やがて第一次世界大戦が勃発し、モルダビアは戦乱に巻き込まれていく。

世界大戦時代

戦乱真っ只中の1918年モルダヴィア民主共和国として独立宣言が行なわれたが、ドイツ帝国ルーマニア王国ウクライナ人民共和国ボルシェビキ・ロシアとの分離講和合意の調印後、同国の国民からルーマニア王国との連合を望む意思が強まったことや独立宣言から2週間近く経った2月26日(旧2月13日)にルーマニア王国軍が首都キシナウへ侵攻してきたとの報告により、それに促される形で同国指導部(長官会議)はルーマニア王国との連合を決定した。民主共和国という形で一度は独立を実現したモルダビアだったが、この出来事によって同国はその存在が潰えることとなり、同年4月9日モルダビアはベッサラビアとして独立宣言を行い、同日からルーマニア王国の一部となる。

第一次世界大戦終了後、嘗ての宗主国であった帝政ロシアがロシア内戦により権力の座を追われ、のちに滅亡。するとこれに代わる形でボリシェビキ・ロシアが主導するソビエトへ権力が集中され1922年ソビエト連邦が誕生。その傍ら、先のロシアでの革命の影響により、ルーマニア王国内で共産主義勢力が伸長、さらに当時の国王カロル2世が政府を解散させたことからこの王国の情勢は共産勢力と鉄衛団、王政(王党派)側の三つ巴へと変貌し、不安定なものへと変わって行った。

第二次世界大戦で死亡した村民への慰霊碑ストラセニ(Străşeni)県コズセナ(Cojușna)村にて撮影。

第二次世界大戦において、宗主国のルーマニア王国が枢軸国側で参戦することとなるが、独ソ不可侵条約の裏で締結された秘密議定書によってソ連から同王国へ ベッサラビア・北ブコビナの割譲要求がなされ、同連邦は1940年にベッサラビアを占領。そこからモルダビア・ソビエト社会主義共和国(MSSR)が建国されソ連の構成国家となる。これは一部戦略的に重要な黒海沿岸などをウクライナ領としたもので、トランスニストリアが加わったものの面積は小さくなり、陸の孤島となった。

ソビエト連邦によるベッサラビアと北ブコヴィナの占領」および「ソビエト連邦によるベッサラビアと北ブコヴィナからの追放」も参照

1940年8月2日、第7会期を迎えたばかりのソ連最高評議会により、MSSRの形成に関する法律が採択された。この法律は既存のモルダビア自治ソビエト社会主義共和国との連合化を図るためのもので、ソ連により占領されたベッサラビアのモルドバ人の人口をモルダビア自治共和国のモルドバ人の人口と再結集させる形で失われた労働力とその人口の回復を狙っての計画でもあった。

同年11月4日にソ連最高司令部により 、MSSRとUSSR(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国)との境界が変更された。これによって、ベッサラビアに存在していたアッケルマン群イズマエル郡ホトィン郡はUSSRへ譲渡されることとなり、ベッサラビアの再配分後、採択された法律の意図とは裏腹にMSSRは1万km2の領地と50万人の人口を失った。

だが、これをドイツ側が「協定違反である」と見なしたために独ソ戦が開戦されることとなる。ここから独ソ不可侵条約が破られるとドイツ寄りの政権であった同王国は再びベッサラビアとウクライナの一部となっていた北ブコビナを併合し、その国土も嘗ての形となる。

1941年6月22日、ソ連のドイツ侵攻初日に、ソ連当局によってラツェニ(Răzeni)でモルドバ人10名が殺されるという事件が起きた。犠牲となった10名はのちに大墓へ埋葬され、バルバロッサ作戦後の同年7月、ラツェニに慰霊碑が設けられた 。 1944年ソビエト軍の侵攻で、同国は宗主国の同王国を失い、元のモルダビア・ソビエト社会主義共和国へと戻った。追ってスターリン政権の下、ルーマニア系住民256'800人がカザフスタンシベリア送りとなった。

ルーマニア共産主義独裁研究委員会の報告によれば、1940〜1941年の間だけでも86'604人が逮捕・強制追放されているとされ、現代のロシアの歴史家は、同期間に90'000人が追放されたのでないかと推計している。

戦後の飢饉と復興

 | 
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年3月)

戦後当時のソ連は飢饉で大勢の人々が苦しみにあえいでいた。

ソビエト連邦における飢饉 (1946年-1947年)」も参照

1944〜1945年の間に同国ではソ連内の国家同様に大規模な飢饉に見舞われたことから、栄養失調などで40,592人が死亡したとされている。 この飢饉でキシナウ、ベンデル、カフル、バルツィ、オルヘイ地区の農村はひどく苦しんだ。これらの地区では1946年12月10日までに30,043人の農民が栄養障害を患っており、患者の半分以上は子どもであった。当時、農家たちは農場で働くことができず、家宅不在となっていた世帯も多く、別の村では人々が原因不明の病気に苦しんでいた。加えてモルドバ人たちの大半はタンパク質不足から浮腫を患っていた。

飢饉による死亡率は急激に上昇し、都市部では戦前の年に比べ国民の死亡率が増えた。特にモルダビアでは農村の大半がその多くを占めており、キシナウでは毎日のように死者が8〜12人出ていたという。1945年に4,917人の命が失われ1946年には9,628人が亡くなっている。 同年12月から1947年8月にかけて、飢餓や関連疾患で死亡した農民は最低でも115,000人に達したとされている。

現代のモルドバでは、これはウクライナにおけるホロドモールと同様に、赤軍の食糧徴発により引き起こされた「人工飢饉」であり、犠牲者は当時の人口の約1割にあたる30万人とする見解が存在する。

モルダビア・ソビエト社会主義共和国の飢饉」も参照

飢饉を逃れるため、中にはプルト川を横断してルーマニアへ亡命を図る者も現れ、その数は210人に上った。うち189人が、ソ連軍の大佐であったウラジーミル・アシャフマノフ率いる国境警備隊員に拘束され、国境を越えられずじまいとなった人々は現場で処刑されるか、解放されても後に逃亡犯の名簿に登録されている。

加えて飢饉の影響から非常に深刻な食糧危機があったことや栄養失調に苦しむ世帯の増加と関連する形で盗難事件の件数が急激に増加する事態に陥った。傍らで育児ならび保護監督責任の放棄によってストリートチルドレンとなった子供らが沢山存在していた。当時の警察からの報道によれば多くの場合、両親は子供たちを村から町に連れて行き、町中に放置する形で捨てることを繰り返していたとされる。同国ではこれらの関連の犯罪が増加し、法執行機関には10,545人が拘留された。

それに基づきソ連政府は、モルダビア・ソビエトを赤軍やその他連邦構成共和国向けの特定の種類の製品の供給対象から外すこととなった。

1944年の秋以降、共和国人口の大規模な帰還と住宅不足による家無し民の混雑のため、その状況は疫学的に複雑なものとなっている。1944〜1945年の冬にチフスが発生し、そのピークは1945年5月に起こった。 モルダビア・ソビエトでは、医療関係者や設備が急激に不足しており、伝染病に対処するための主要な措置は、第2ウクライナ戦線(赤軍方面軍の一つ)第4軍団の医療班によって行われていた。また国境警備員は、プルト川に浮いていたチフス感染者の腐乱死体を爆破処分するなどの作業に追われていた。のちに、ソ連政府の指導の下で首都モスクワとウクライナのオデッサから同共和国ならび同国軍とその衛生部隊へ人員・医薬品・道具の支援が行なわれ、ロシア側からは無償供与品が数多く提供された。1945年末までに、ほとんどの村には浴槽と消毒室が設けられ、チフスの感染疑惑を持たれた村民は全て隔離され、大規模な予防接種が始まった。

反面、同国ではソ連主導の下で戦争で破壊された設備などの修復や経済の回復が行なわれ、同時期(1944年〜1945年の冬)に、22の大企業の設備が運ばれるなど大掛かりな復興計画が成された。この計画には448,000,000ルーブル(当時の為替レートによる)がソ連の国家予算から配分されている。同計画では鉄などの金属20,000t、硬質炭226,000t、石油製品51,000tが同国へ移管されており、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国から17.4tの種子がモルドバへ輸出されている。さらには226件の集合農場と60地域の農場が修復され、1944年9月19日にはドニエストル地区が全て修復、設備や機械の輸入が可能となった。 1945年時点での同国の生産量は電気48%、ニット36%、植物油84%、砂糖16%、革靴46%、レンガ42%と順調な伸び率を示しており、1944〜1945年は、同国の産業と農業が積極的にソ連の発展を支えた。のちの1947年以来、モルドバからソビエト連邦の他の共和国に食糧が輸入されている。

ソ連当局の政策

モルダビア・ソビエトはソ連の構成国家となってから同連邦による弾圧や迫害を幾度も受け続けている。迫害は宗教的なものも多く含まれていた。ソビエト占領中の宗教的迫害は数多くの司祭を標的にし、1940-1941年にはいくつかの教会が解体・略奪され、公立施設または公共目的の施設に改築されるか閉鎖に追い込まれ、税金の支払い義務が制定されるなど、その扱いも凄惨なものとなっていた。ベッサラビア・ルーマニア正教会司祭であったアレクサンドル・バルタガはこの迫害による犠牲者の代表的な人物として今も語り継がれている 。

ソビエト連邦によるベッサラビアと北部ブコビナの宗教的迫害」も参照

1941年に財産を大量に処分された農民はルーマニアを支持していた。1944〜1945年ソ連政府は、それらの存在を消し去る目的から弾圧などの暴力的な措置を執り行ない、クラークはその地所の警察署に自身の財産と共に登録された。1946年でのソ連の計算によれば、合計27'025名の民間土地所有者が同国に住んでいたという。1944年の秋の時点で、執行委員会は国内の60ヶ所の地区、1204ヶ所の農村、全ての市に残されていた。また、沿ドニエストル地域には6地区ほど残っており、裁判所と検察庁の機能は無事回復させられる状態であった。 1949年6月16日、MSSR最高評議会常任委員会は、市・地区・村および村の執行委員会の編成に関する法令を発効させた。10月16日、行政区画から「」が廃止され、地区を設立するための新たな法令が発布された。1947年12月、地方自治体であるソビエトへの最初の戦後選挙がモルダビア・ソビエトで行われた。最初の開会では執行委員会が選出され、同委員会ではさらに特別委員会と管理部門が創設された。

反ソビエト運動

ソ連政府は、先の第二次世界大戦によって中断された1940年のソビエト化政策を継続しモルダビアSSRにおける権力を積極的に強化。しかし同国では戦後からの飢饉により反ソビエト運動が活発化していた。

1949年4月6日、その事態を重く見ていたソビエト連邦共産党中央委員会の政治家たちは、かつてルーマニアとドイツに協力した存在や反乱因子となっていたクラーク・起業家・教派、さらにはベッサラビア時代にて白軍の活動を幇助した者たちを国外追放することを決定する。この追放計画は南部作戦と名付けられ、当時 国家保安大臣であったヨシフ・モルドヴィチの指揮の下、反ソ連政府思想者の追放において当事者の家族や親類に当たる人間全員が駆り出されることとなった。なお、同年7月6日と7日のちょうど2日間で11'342人以上の家族世帯が退去させられている。

かくしてモルダビア・ソビエトから40'850人もの国民が追放、11'280の家族世帯が退去することとなった。没収された財産は、集合農家国営農場へ移されることとなり、建物や家屋は民間業者へ売却された(なお、フルシチョフ政権時代に同国を追放されていた人々がグラグに収容されていた人々と共に、徐々にではあるもののMSSRへ戻ることを許されている)。

その後の47年間、同国はソ連の一部として機能し続けるが、1980年代末までに、MSSRにおける国民運動は激化して行く。

ブレジネフ政権の同国(1964-1982)でソビエト政府への抵抗を求める広告や小冊子が作られ、これらは主に飢饉の影響を受けた村人へ配布された。地方の教派によって配布された宗教的性質の反ソビエトの印刷物や広告と並行する形で1969年から1971年にかけ、国民愛国戦線(Nordul Bucovinei)という秘密組織が、キシニョフにおいて知識層青年数人を中心に組織され、モルダビア民主主義共和国の建設ならびソ連からの離脱・独立を目標に活動。

傍ら、反ソビエト運動を展開する政党も現れた。反ソビエト運動に加わった政党は民主農業党ベッサラビア自由党ベッサラビア自由民主同盟で、これらは秘密政党と呼ばれている。

反ソビエト運動は学校などの公共機関にも及び、反体制グループを生み出している。オルゲイに在ったヴァシレ・ルプ高等学校の生徒と教師によって結成された反ソ連グループ『ヴァシレ・ルプ高校団』はその一つとして今も知られている。

しかし、1971年12月、ルーマニア社会主義共和国の国家保安委員会(the Council of State Security)委員長イオン・スタネスク(Ion Stănescu)から、KGB議長ユーリ・アンドロポフへの情報提供に基づき、国民愛国戦線の指導者が逮捕。これに併せて北ブコビナに構えられていた同組織の支部も壊滅し、同じくしてステファンの射手(Arcașii Ștefan)という地下組織のメンバーが拘束された。

一方で反ソビエトの扇動とテロ活動がフィレモン・ボディウ (Filimon Bodiu)率いる地下組織で繰り広げられ、反ソビエト軍の扇動やソ連軍の機能主義者・集団的な農民活動家や警察官の殺害などが行なれた。またソ連政府に対しての反政府運動には武装蜂起などの直接的な抵抗活動も注目されており、武装蜂起を行なった組織で最も有名なのはアルマータ・ネアグラ (Armata Neagră、通称:ブラック・アーミー(黒軍)) と呼ばれた地下組織であった。

1980年5月9日モルダビア・ソビエト社会主義共和国(MSSR)での勝利の日の祝典の様子。

ソ連からの独立

1989年8月31日、その4日前に発生したキシニョフにおける60万人規模の大規模なデモ行進の影響を受け、モルドバ語がモルダビア・ソビエト社会主義共和国の公用語となる。また同年の11月12日、同国の少数民族の住民であるガガウズ人により自治共和国ガガウズ・自治ソビエト社会主義共和国』(GASSR)の建国が宣言されるが、この自治共和国の設立はMSSR政府に認められずじまいとなっている。

1990年、最初の国会議員選挙が自由選挙で行なわれ、フロントゥル・ポプラル(Frontul Popular)の指導者の一人ミルチャ・ドルク(Mircea Druc)による政府が設立される。その傍らMSSR最高会議は同年6月5日に同国憲法を改正。

ここからモルダビア・ソビエトはソビエト社会主義共和国・モルドバ(SSR Moldova)となり、6月23日に主権(ならび共和制)を宣言した。一方で同年8月19日にGASSRがガガウズ共和国としてソ連からの独立を宣言。さらに9月2日、沿ドニエストル地域では現地に住むロシア語系(スラブ系)住民によって第2回臨時国会がティラスポリで開催され、『沿ドニエストル・ソビエト社会主義共和国(現在の沿ドニエストル共和国)』の創設が宣言される。

1991年8月に「モルドバ共和国」として独立を宣言し、1991年12月21日独立国家共同体(CIS)に加盟。

モルドバ共和国独立宣言」も参照

これに対して沿ドニエストル最高会議は同年8月25日、同領土内にUSSR憲法とUSSR法の効果を保持する「沿ドニエストル地域の独立に関する宣言」を採択する。

なお、ソ連時代のモルダビア・ソビエト社会主義共和国の国旗と国章は、スラブ系住民が多いことから分離独立を宣言した沿ドニエストルがそのまま継承し、独立以降のモルドバの国旗はルーマニアとよく似たものに変更した。これに伴って都市名の表記も、キシニョフ(Кишинёв)をキシナウ(Chişinău)というように、ロシア語からルーマニア語へ全て戻した。

同年12月25日ソ連が解体されたことで、同国は晴れて独立国家となった。

独立からの流れ

初代大統領スネグル(1991-1996)は親ルーマニア的外交政策をとったが、2代目のルチンスキー時代(1996-2001)にはロシアにも配慮した中立的スタンスに変わった。

独立当初にはルーマニアへの再統合を望む声もあったが、1994年圧倒的な票差で完全な独立国家として歩むことが決まった。2001年与党の共産党が党首のウラジーミル・ヴォローニンを第3代大統領に指名、2005年に再選された。2009年に選ばれた自由党のミハイ・ギンプ国会議長兼大統領代行は、たとえ民主派に政権が交代しても、ルーマニアとの再統合やCISの脱退、あるいはNATOに加わる考えのいずれもないと明言した。同年の2月21日にはボリシェヴィキに殺害された人々への慰霊碑ヤロベニ県ラツェニに改めて設けられ、この式典に同国政治家のアレクサンドル・タナーセが出席している。

モルドバは軍事的に中立国のままEU加盟を目指しているが、同国では現地の農民が「EU加入に関する国民投票が実施されず、多数派の国民の意向が無視されている」として「EUとの連合協定の破棄」を訴え、ロシアへの輸出に関して対露交渉を再開することなどを要求する状態が今も続いている。

2016年10月30日、20年ぶりとなる大統領の直接選挙が行われた。第一回投票で過半数を占める候補者がいなかったため、11月13日に決選投票が行われ、社会党のイゴル・ドドンが当選した。 同年11月半ばには、その時の大統領選の不正疑惑に抗議する若者ら数千人が街をデモ行進する事態が発生した。

政治

モルドバ議会
詳細は「モルドバの政治」を参照

国家元首を、任期4年の大統領とする共和国である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2019/11/18 02:49

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「モルドバ」の意味を投稿しよう
「モルドバ」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

モルドバスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「モルドバ」のスレッドを作成する
モルドバの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail