このキーワード
友達に教える
URLをコピー

モロッコとは?

モロッコ王国
ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ(ベルベル語)
المملكة المغربية(アラビア語)



(国旗) | (国章)
国の標語:الله، الوطن، الملك
ⴰⴽⵓⵛ, ⴰⵎⵓⵔ, ⴰⴳⵍⵍⵉⴷ
(神、国、王)
国歌:国王万歳
公用語 アラビア語ベルベル語
首都 ラバト
最大の都市 カサブランカ
政府
国王 ムハンマド6世
首相 サアデディン・オスマニ
面積
総計 446,550km(56位)
水面積率 0.1%
人口
総計(2019年) 36,471,800人(40位)
人口密度 81人/km
GDP(自国通貨表示)
【合計(2008年)】
6,714億モロッコ・ディルハム
GDP(MER)
【合計(2008年)】
863億ドル(57位)
GDP(PPP)
合計(2008年) 1,367億ドル(51位)
【1人あたり】
4,349ドル

独立
フランスから
1956年3月2日
通貨 モロッコ・ディルハム(MAD)
時間帯 UTC +1(DST:なし)
ISO 3166-1 MA / MAR
ccTLD .ma
国際電話番号 212
この標語は、憲法に明記された現国王の標語である。
モロッコ本土のみのデータ。

モロッコ王国(モロッコおうこく、アラビア語: المملكة المغربية‎、ベルベル語: ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ)、通称モロッコは、北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制国家。東にアルジェリアと、南に西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国)と、北にスペイン飛地(セウタメリリャ)に接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバト
南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による(亡命)政府であるサハラ・アラブ民主共和国が領有権を主張している。モロッコは西サハラの約7割を実効支配しているが、国際的には認められていない。実効支配下を含めた面積は約599,500km(うち、西サハラ部分が189,500km)、人口は33,848,242人(2014年国勢調査)。

地中海世界アラブ世界の一員であり、地中海連合アラブ連盟アラブ・マグリブ連合に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場から独立国家として承認していない。1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構(2002年にアフリカ連合へ発展)加盟に反対して同機構を脱退しアフリカ大陸唯一のアフリカ連合(AU)非加盟国であったが、2017年1月31日に再加入した。

国名

正式名称はアラビア語で、المملكة المغربية(ラテン文字転写は、Al-Mamlaka al-Maghribiya:アル=マムラカ・アル=マグリビーヤ)。通称、المغرِب(al-Maghrib:アル・マグリブ)。「マグリブの王国」を意味する。

公式のフランス語表記は、Royaume du Maroc(ロワイヨーム・デュ・マロック)。通称、Maroc

公式の英語表記は、Kingdom of Morocco(キングダム・オヴ・モラコウ)。通称、Morocco

日本語の表記は、モロッコ王国。通称、モロッコ漢字の当て字は、摩洛哥馬羅哥莫羅哥茂禄子など。

アラビア語の国名にある「マグリブ」は、「日の没する地」「西方」を意味する。「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。

アラビア語以外の多くの言語での国名である「モロッコ」は、以前の首都マラケシュに由来する。

トルコ語での国名は「Fas」で、1925年までの首都フェズに由来する。

歴史

詳細は「モロッコの歴史」を参照

アル=アンダルスのイスラーム化

マウレタニアの領域。

先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴフェニキア人により港湾都市が築かれたが、内陸部ではベルベル系マウリ人マウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマの属州マウレタニア・ティンギタナとなった。

ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系ヴァンダル人ジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の下に置かれたが、8世紀初頭にイスラム帝国であるウマイヤ朝が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。

788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人イドリース1世が、イスラーム化したベルベル人の支持を得て、イドリース朝を建国した。また、サハラ交易で栄えたシジルマサにはミドラール朝が成立した。その後、チュニジアから興ったイスマーイール派ファーティマ朝の支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスの後ウマイヤ朝に滅ぼされた。

しかし後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、その支配領域はタイファと呼ばれる中小国家群に分裂した。権力の空白地帯となったモロッコは南方のセネガル川の流域から興ったムラービト朝の領土となり、1070年には新都マラケシュが建設された。ムラービト朝は南方にも攻勢をかけて1076年クンビ=サレーを攻略してガーナ帝国を滅ぼし、再度北進しジブラルタルを越えてレコンキスタ軍と戦い、アル=アンダルスを統一した。

アメリカまでの大航海

ムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールの時代に造営されたクトゥビーヤ・モスク
ラス・ナーバス・デ・トローサの戦い

1130年にムワッヒド朝が成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。第3代ヤアクーブ・マンスールの時代にムワッヒド朝は東はリビアにまで勢力を伸ばし、マグリブ一帯を包括する最大版図を確立したが、続くムハンマド・ナーシルは1212年にラス・ナーバス・デ・トローサの戦いでレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。ムワッヒド朝はこの戦いの後に衰退を続け、1269年にマリーン朝によってマラケシュを攻略され、滅亡した。

マリーン朝はフェスに都を置き、しばしばナスル朝を従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、1415年にはアヴィシュ朝ポルトガルエンリケ航海王子ジブラルタルの対岸のセウタを攻略した。セウタ攻略によって大航海時代が始まった。マリーン朝は1470年に滅亡したが、『旅行記』を著したイブン=バットゥータなどの文化人が活躍した。

マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立したが、1492年にカトリック両王の下で誕生したスペイン王国がナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加え、スペインの脅威をも受けることにもなった。ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略されたアガディールなどを奪還したサアド朝(サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。

サアド朝は、ザイヤーン朝を滅ぼしてアルジェリアにまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いにおいても、1578年アルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王セバスティアン1世は戦死した。この事件がきっかけになって1580年にポルトガルはスペイン・ハプスブルク朝に併合された。さらに南方に転じて1591年に、内乱の隙を衝いてトンブクトゥを攻略し、ソンガイ帝国を滅ぼした。しかし、17世紀に入るとサアド朝は急速に衰退し、1659年に滅亡した。

1660年に現在まで続くアラウィー朝が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。

フランス資本の定着まで

続くスライマーン(Slimane)は鎖国政策を採ったが、1830年にフランスアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、アブデルカーデルを支援して軍を送ったが、イスーリーの戦いで敗れた。1856年にはイギリス不平等条約を結び、それまでの鎖国政策が崩れた。1859年にはスペイン軍の侵攻によりテトゥワンを攻略された(スペイン・モロッコ戦争)。

1873年、新スルタンとしてムーラーイ・エル・ハッサン(Mulai al-Hassan I.)が即位した。ベルベル人などの諸勢力を掃討するため、財政支出によりクルップ砲を導入するなどした。後継の息子(Mulai Abd al-Aziz IV)は未成年で即位し、ドイツ帝国が政治へ助言した。

1904年英仏協商でモロッコを狙っていた英仏両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得したが、このことは翌1905年に英仏協商に反対するドイツ帝国がタンジール事件を起こすことを招いた。さらに1911年にドイツ帝国が再びアガディール事件を起こし、フランスを威嚇したが、最終的にはドイツが妥協した。1912年フェス条約で国土の大部分がフランスの保護領となり、仏西条約で北部リーフ地域はスペイン領モロッコとなった。

フランス領モロッコ初代総督、ウベール・リヨテ

フランス領モロッコの初代総督にはウベール・リヨテ将軍が就任した。将軍は政情不安なフェズからラバトへ都を移した。1913年ドイツ・オリエントバンクのモロッコ支店がソシエテ・ジェネラルに売却された。1919年北アフリカ総合会社(ONA Group)が設立された。1920年アブド・アルカリームスペイン領モロッコリーフ地方で反乱をおこし、第三次リーフ戦争が勃発した。アルカリームはリーフ共和国の建国を宣言したが、スペイン軍とフランス軍に敗れ、1925年にリーフ共和国は崩壊した。1930年代から独立運動が盛んになった。

1936年に駐モロッコスペイン軍のエミリオ・モラ・ビダル将軍が共和国政府に対して反乱を起こし、カナリア諸島フランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が始まった。スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が反乱軍側で戦った。第二次世界大戦中には自由フランスヴィシーフランスからモロッコを奪回し、1943年連合国ウィンストン・チャーチルフランクリン・ルーズヴェルトによってカサブランカ会談が開かれた。

モロッコは1956年にフランスから独立した。スペインはセウタメリリャイフニの飛地領とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄した。翌1957年スルターンムハンマド5世が国王となり、スルターン号が廃止された。1957年にイフニを巡ってスペインとの間でイフニ戦争が勃発し、紛争の結果スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還した。

外資と君主と実効支配

北アフリカ総合会社」も参照
ハサン2世。親西側政策の下モロッコを統治した。

1961年ハサン皇太子が父の死去に伴い国王に即位した。翌1962年に憲法が制定され、モロッコは君主の権限の強い立憲君主制国家に移行した。ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら外資導入を軸に経済発展を進め、対外的にはアメリカ合衆国をはじめとした西側諸国との協力関係を重視しながらも、パレスチナ問題ではアラブを支持した。1965年にはハッサン2世への反対運動を展開していた人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首・メフディー・ベン・バルカパリで失踪する事件が起こった。1967年イスラエル6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰した。1969年にはスペインが飛地領のイフニをモロッコに譲渡したが、スペイン領西サハラはスペインの領有が続いた。

一方、内政は安定せず、1971年7月に士官学校校長と士官らが夏の宮殿を襲ったクーデターが失敗に終わったほか、翌 1972年には、ハサン2世の信任が厚かったムハンマド・ウフキル将軍による国王が搭乗するボーイング727旅客機の撃墜未遂事件が発生、ウフキル将軍とエリート幹部の排除が行なわれた(Years of Lead)。

1975年11月に西サハラに対して非武装で越境大行進を行い(緑の行進)、西サハラを実効支配した。1976年にはモロッコとモーリタニアによって西サハラの統治が始まったが、同年アルジェリアに支援されたポリサリオ戦線サハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言。激しいゲリラ戦争の後、モーリタニアは西サハラの領有権を放棄したが、モロッコは実効支配を続けた。1989年にはマグリブ域内の統合を図るアラブ・マグレブ連合条約が調印された。1991年には西サハラ停戦が成立したが、住民投票は実施されず、西サハラ問題は現在に至るまで未解決の問題となっている。

1992年憲法が改正された。1999年に国王ハサン2世が死去したため、シディ・ムハンマド皇太子がムハンマド6世として即位した。同年から直接投資受入額が急伸した。2002年ペレヒル島危機が起こり、スペインとの間で緊張が高まったが、アメリカの仲裁で戦争には至らなかった。2003年5月16日にイスラーム主義組織によって、カサブランカで自爆テロ事件が発生した。ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなど、リベラルな改革を進める立場を示した。モロッコの実質経済成長率は、1997年のマイナス成長を最後に、2015年までプラス成長を続けている。

世界金融危機が最も顕在化した2008年10月、モロッコはEUの近隣諸国で初めて「優先的地位(Advanced Status)」を獲得した。国際経済に占める「優先的地位」は、欧州近隣政策における行動計画の成果をもとに付与される。モロッコに付与されたそれは、FTA締結から一段踏み込み、財・サービス・資本の完全な自由移動と専門職の自由移動を実現することや、モロッコの国内法がEU法の総体(アキ・コミュノテール)を受容してゆくことを目標としている。

2011年に起きたアラブの春の影響を受けた騒乱により7月に憲法改正。翌年初めアブデルイラーフ・ベン・キーラーン内閣が発足した(2017年4月まで)。

2016年7月17日、ムハンマド6世がアフリカ連合への復帰を表明。9月には加盟申請を行ったことを明らかにした。

2017年1月31日エチオピアの首都アディスアベバで開かれた首脳会議でアフリカ連合への再加入が承認された。

2018年5月1日、モロッコのブリタ外務大臣が、イランとの国交を断絶したと表明した。西サハラで独立運動を展開するポリサリオ戦線に対して、イランおよびイランの影響下にあるヒズボラ(レバノンイスラム教シーア派組織)がアルジェリア経由で支援を与えていることを理由に挙げた。イランとは2009年~2014年にも断交していたことがある。

政治

詳細は「モロッコの政治」を参照

国家体制国王元首とする立憲君主制国家である。現国王として在位しているのはアラウィー朝ムハンマド6世である。国王はアミール・アル=ムーミニーン(カリフ)を称する。憲法によって議会の解散権や条約の批准権を認められており、軍の最高司令官でもある。

2011年の2月から4月にかけて、アラブの春の影響でデモが発生し、憲法改正が承諾された。同年7月、憲法改正により国王の権限縮小と首相の権限強化が為された。

モロッコの君主一覧」および「モロッコの首相」も参照

議会は1996年から両院制に移行し、下院は5年の任期で定数は325議席、上院は6年の任期で定数は90から120議席である。

2007年に行われた下院選では、保守系の独立党(イスティクラール党とも)が52議席を獲得し第一党、イスラーム主義公正発展党が46議席で第二党、選挙前の最大勢力であった左派の人民勢力社会主義同盟は大きく議席を減らし、38議席になった。2011年11月25日に実施された下院選挙では定数395議席の内、公正発展党 (PDJ) が80議席を獲得し、第一党となった。政党連合「民主主義連合」を形成する独立党(イスティクラール党)は45議席となった。今回の選挙は、これまで国王任命であった首相が選挙で多数議席獲得の政党から選出される。

モロッコの政党」も参照

合法イスラーム主義政党の公正発展党以外にもモロッコ・アフガンサラフィスト・グループなどの非合法イスラーム主義組織が存在するが、2003年のカサブランカでの自爆テロ事件以降、非合法イスラーム主義組織は厳しく取り締まられている。

軍事

詳細は「モロッコ王立軍」を参照

モロッコには18か月の徴兵期間が存在し、50歳まで予備役義務が存在する。国軍は王立陸軍、海軍、空軍、国家警察、王立ジャンダルメ、外人部隊からなる。国王は憲法によって軍の最高司令官であると規定されている。国内警備は一般に効果的であり、2003年のカサブランカでのテロのような例外を除いて政治的暴力は稀である。国際連合は小規模な監視部隊を、多くのモロッコ兵が駐留している西サハラに維持している。

なお、赤道ギニアなどいくつかの国に、元首の警護や軍事教練等を目的とした少数の将兵を派遣している。

地方行政区分

詳細は「モロッコの行政区画」を参照
モロッコの行政区画

モロッコは11の地方と51の第二級行政区画で構成されている。この行政区画は西サハラおよびサハラ・アラブ民主共和国の実効支配地域を含む。

主要都市

詳細は「モロッコの都市の一覧」を参照

人口10万人以上の都市が15ある。都市人口率は55.5%と低く都市化は進んでいない。気候が穏やかであることを反映している。

地理

モロッコの衛星画像。
アトラス山脈
北部のリーフ地方
南部のサハラ砂漠砂丘

モロッコの国土は、アフリカ大陸の北西端に位置する。海岸のうち約3/4は北大西洋に面し、残りは地中海に沿っている。東西1300km、南北1000kmに伸びる国土の形状は、約45度傾いたいびつな長方形に見える。モロッコの南西に分布するカナリア諸島はスペイン領であり、本土以外に国土を持たない。国土の北部、地中海沿岸のセウタメリリャは、スペイン本国の飛地となっている。陸続きにある南西の西サハラを実効支配しているものの、国際社

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2020/08/07 14:52

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「モロッコ」の意味を投稿しよう
「モロッコ」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

モロッコスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「モロッコ」のスレッドを作成する
モロッコの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail