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モンゴル帝国とは?

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年2月)
大モンゴル・ウルス
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Yeke Mongγol Ulus (ラテン文字転写)
 | 1206年 - 1634年 | 

モンゴル帝国の版図の変遷 テムジンがチンギス・カンを名乗った1206年から1294年のモンゴル帝国(赤)の領域に続き、4つの領域国家のゆるやかな連邦体制に移行した帝国の版図を示した(1294年時点)。ジョチ・ウルス(黄)、チャガタイ・ウルス(濃緑)、イルハン朝(緑)、大元ウルス(紫)である。
公用語 モンゴル語
首都 カラコルム
皇帝(大ハーン)
1206年 - 1226年 チンギス・ハン(初代)
1260年 - 1294年 フビライ(第5代)
1603年 - 1634年 リンダン・ハーン(最後)
変遷
テムジンが大ハーンに推戴されチンギス・カンを称す 1206年
【クビライが大ハーン即位を一方的に宣言する】
1260年
【朱元璋の立てた明により中国の地を追われる】
1368年
後金により滅亡 1634年

先代
次代
カムク・モンゴル
ケレイト
ナイマン

西夏
天山ウイグル王国
西遼
南宋
ホラズム・シャー朝
セルジューク朝
キプチャク
キエフ大公国
ウラジーミル・スーズダリ大公国
en:Kimek Khanate | 
ジョチ・ウルス
チャガタイ・ウルス
オゴデイ・ウルス
イルハン朝
北元

モスクワ大公国
オスマン帝国
後金
モンゴルの歴史

中国 | モンゴル高原
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南宋 | (乃蛮) | (客烈亦) | モンゴル
モンゴル帝国
大元
 | 北元(韃靼)
ハルハ
大清
中華民国 | 大モンゴル国
中華人民
共和国 | モンゴル人民共和国
モンゴル国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原遊牧民を統合したチンギス・カン1206年に創設した遊牧国家中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス (ᠶᠡᠭᠡ
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Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。

モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパアナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタンチベットミャンマー、東は中国朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km2で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。

モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。

中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライ1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カン末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。

目次

  • 1 歴史
    • 1.1 建国
    • 1.2 チンギス・カンの征服と「帝国」化
      • 1.2.1 モンゴル帝国への諸勢力の帰順
    • 1.3 第2代モンゴル帝国皇帝オゴデイの時代
    • 1.4 第3代モンゴル帝国皇帝グユクの時代
    • 1.5 皇帝(大カアン・大ハーン)位を巡る抗争
    • 1.6 第4代モンゴル帝国皇帝モンケの時代
    • 1.7 モンゴル帝国の再編
    • 1.8 第5代モンゴル帝国皇帝クビライの時代
      • 1.8.1 緩やかな連合へ
      • 1.8.2 諸王家の混乱
      • 1.8.3 バラクの奪権と「カイドゥ王国」の出現
    • 1.9 繁栄と解体
    • 1.10 帝国の遺産
  • 2 社会制度
  • 3 行政制度
  • 4 軍事制度
    • 4.1 編成
    • 4.2 戦闘
    • 4.3 情報戦略
  • 5 経済
  • 6 文化
  • 7 歴代皇帝
    • 7.1 一覧
    • 7.2 系図
  • 8 モンゴル帝国が侵攻した国
  • 9 モンゴル帝国の継承政権
  • 10 参考文献
    • 10.1 モンゴル帝国関係の旅行記
  • 11 関連作品
  • 12 脚注
  • 13 関連項目
  • 14 外部リンク

歴史

建国

初代皇帝チンギス・カン
13世紀初頭の周辺地図

モンゴル高原(モンゴリア)は9世紀ウイグル国家(回鶻可汗国)の崩壊以来、統一政権が存在しない状況にあり、契丹の住む南モンゴリア(現内モンゴル自治区)は遼朝金朝の支配下にあったが、北モンゴリアでは遊牧民が様々な部族連合を形成し、お互いに抗争していた。

このような情勢のもと12世紀末、北東モンゴリアに遊牧するモンゴル部キヤト氏(Khiyad)族集団の出でブルカン山辺りで生まれたテムジンは、同族の絆ではなく個人的な主従関係で結ばれた遊牧戦士集団を率い、高原中央部の有力集団ケレイト王国の当主オン・カンと同盟を結び、1196年に金朝に背いたタタル部をオン・カンと共同して討伐し、同族の諸氏族を討って頭角を現した。1203年、オン・カンと仲違いしたテムジンは、これを倒してケレイト王国を併合し、翌年には高原西部の強国ナイマンを滅ぼした。

テムジンのもとにはコンギラトオングトなど周縁部の有力部族集団も服属するようになり、モンゴリアを統一したテムジンは、1206年初春、ココ・ナウルに近いオノン川上流の河源地において開かれたクリルタイ(大集会)において「あまねきモンゴル」(Khamag Mongol)のカン(王)に推戴され、チンギス・カンと称した。

チンギス・カンは、高原の全ての遊牧民を腹心の僚友(ノコル)や同盟部族の王たちを長とする95の「千人隊(千戸)」と呼ばれる集団に編成し、それぞれの千人隊から1000人の兵士が供出可能な軍事動員制度を整えた。さらに、高原の東部大興安嶺方面には3人の弟、ジョチ・カサルカチウン(本人は死去していたので代わりに嗣子のアルチダイに分与される)、テムゲ・オッチギンを、西部アルタイ山脈方面には3人の息子、ジョチチャガタイオゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、東西に向かって一族が広がってゆく基礎を置いた。

チンギス・カンの征服と「帝国」化

チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大
詳細は「チンギス・カンの西征」を参照

即位したチンギス・カンは南の西夏親征し、これを服属させた。さらに、1211年には西遼に服属していた天山ウイグル王国が帰順し、モンゴル高原西部のオイラトトメトカルルク西遼などの周辺諸国に次々に遠征軍を送って帰順と征服を達成し、南シベリア中央アジアまで勢力を広げた。

同じ1211年からは金朝に遠征して中国の東北地区(満州)と華北を席捲し、金朝皇帝宣宗は先代衛紹王公主をチンギスに嫁がせて和睦を結んだが、1214年には首都の中都(後の大都)を放棄して河南開封へ遷都し、金朝は河南のみを支配する小国に転落した。

1218年からは中央アジアのオアシス農業地帯に対する大規模な遠征軍を発し、スィル川(シルダリア川)流域からイランまでを支配する大国ホラズム・シャー朝に侵攻した。モンゴル軍はサマルカンドブハラウルゲンチニーシャープールヘラートなど中央アジアの名だたる大都市に甚大な被害を与え、ホラズム・シャー朝は壊滅した。チンギス・カンの本隊はガズニーを領有していたホラズム・シャー朝の王子ジャラールッディーンを討伐するためにアフガニスタン方面へ進軍し、ホラーサーンバルフバーミヤーンなどの大都市をことごとく殲滅しながら南下して行った。しかし、バーミヤーンではチャガタイの長男モエトゥゲンが戦死し、アフガニスタン中南部のパルワーンでは駐留していたボルテの養子シギ・クトクの軍がジャラールッディーンの軍に壊滅させられるなど手痛い反撃を受けた(パルワーンの戦い)。チンギスはトルイを殿軍としてホラーサーンに駐留させて自らの本軍とジョチ、チャガタイ、オゴデイ率いる諸軍を引き連れ、マー・ワラー・アンナフルから南下してジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い落として捕縛は出来なかったものの撃退することには成功した(インダス河畔の戦い)。

一方、カスピ海まで逃げた君主アラーウッディーンを追ったジェベスベエテイ率いる別働隊はアラーウッディーンを取り逃がしたものの、そのまま捜索を続けてアゼルバイジャンからカフカスを抜けてロシアに至り、ルーシ諸公を破って勇名を轟かせた(カルカ河畔の戦い)。

モンゴリア本土への帰還後、チンギス・カンは中央アジア遠征への参加の命令に従わなかった西夏への懲罰遠征に赴いたが、1227年、西夏を完全に滅ぼす直前に陣中で病没した。

モンゴル帝国への諸勢力の帰順

チンギス・カンは戦闘による征服活動以外に、幾度かのモンゴル高原周辺の有力諸勢力の帰順によって自勢力を遊牧政権の「国家」として段階的に発展させている。

オングトの帰順
1203年春にオン・カンの息子イルカ・セングン率いるケレイト王国軍と戦い、善戦するものの大敗を喫し、麾下の諸軍も潰走してしまった。この時バルジュナと呼ばれる湖まで落ち延び、ジョチ・カサルなど一部の供回りとともにこの湖水をすすって再起を誓ったという。程なくイルカ・セングンらが戦勝で油断していた隙をついて、コンギラト、コルラス部族などの臣従をとりつけケレイト本軍の幕営に夜襲をかけて逆にケレイト王国を制圧してしまった。この時オン・カンの弟ジャガ・ガンボが降服し、その娘たちがジョチやトルイと婚姻を結んでいる。
『元朝秘史』などによれば、この「バルジュナ湖の誓い」には敗戦以前からチンギスに付き従っていた近親や譜代家臣以外に、ゴビ砂漠以南の陰山山脈に拠点をもつオングト部族長アラクシ・テギト・クリからマー・ワラー・アンナフル方面出身のムスリム商人と思しきアサン・サルタクタイなる人物が使者としてチンギスのもとに赴き援助を行っていた。また『元史』によれば後のモンゴル帝国の筆頭書記となって帝国の財政分野などを総覧した大ビチクチ・チンカイもこの「バルジュナ湖の誓い」に加わっていたと伝えている。
翌1204年には、オングト王家が正式にチンギスに帰順し、モンゴル高原の勢力図が一変。この年のうちにタヤン・カンを討ってナイマン王国を滅ぼし、メルキト部族連合の盟主トクトアもまた敗れて逃走。ウワス・メルキト氏族の首長ダイル・ウスンは降服・帰順した。
オイラトの帰順
1208年、クドカ・ベキ率いるオイラト部族が降服・帰順しキルギスなどモンゴル高原の西部境域への制圧の足掛かりが出来た。このクドカ・ベキ家は一時チンギス・カン各王家の当主に準じるような主要王族たちと婚姻関係を結んでいる。
ウイグルの帰順
1211年、西遼に臣従していた天山ウイグル王国国王バルチュク・アルト・テギンが離反してチンギス・カンに帰順し、同じ時期にウイグル同様に臣従していたホラズム・シャー朝とカラハン朝の離叛に苦しんでいた西遼は急速に弱体化した。

これらのオングト、オイラト、ウイグルそれぞれのモンゴル帝国への帰順は、それぞれモンゴル帝国にとって重大な転機となった。オングトの援助と帰順は窮地に陥っていたチンギス・カン陣営がモンゴル高原を統一するまでに一気に躍起した契機となり、またチンカイタタ・トゥンガらウイグル系やサルト人アサンといった中央アジア系のムスリム勢力との接触の端緒となった。オイラトの帰順は西方境域への拡大、天山ウイグル王国の帰順は王国が保留していたウイグル系の官僚たちを取り込み、その後の中国イラン中央アジア方面といった農耕地域への征服を通じて支配領域を拡大して行くが、彼らウイグル系やムスリム系の財務官僚たちがこれら新期の領土における支配体制の確立に大きく寄与している。特にウイグルの帰順は、ウイグル人官僚がテュルク語文語として確立していた古典ウイグル語や漢語、イラン系言語に通じていたため、帝国経営における財務関係のノウハウや人材を提供したことや、初期だけでなくモンゴル帝国全体のその後の農耕地域支配の基礎を整備し、帝国において遊牧以外の生産・財政基盤を確立したことから、重大である。オングトやカルルク、ウイグル王家などはモンゴル帝国の地域支配の要として「駙馬王家」というモンゴル王家に準じコンギラト部族などとならぶ高い地位を得た。

第2代モンゴル帝国皇帝オゴデイの時代

カラコルム都城跡、エルデニ・ズー寺院周壁外のモンゴル時代の亀趺
モンゴル帝国皇帝オゴデイ
レグニツァの戦い』左がモンゴル軍、右がポーランド・チュートン騎士団連合軍(14世紀に書かれた聖人伝『シレジアの聖ヘドウィッヒの伝説』より)

チンギス・カンの死後、生前の勅令によってモンゴルの全千人隊のうち8割を占めるその直属軍は10万1000戸が四男のトルイが相続し、トルイは監国としてモンゴル皇帝である次期大ハーンの選出を差配する役割を与えられた。このとき軍才にすぐれた長兄のジョチは既に亡く、財産の多寡でいえばトルイが圧倒的に有利であったが、次兄チャガタイら有力者たちは、兄弟のいずれとも仲がよく、そのためチンギス・カンが生前に後継者とすることを望んでいた三兄オゴデイを推した。こうしてオゴデイが即位し、トルイは帝国の分裂を防ぐために中央軍の指揮権を新モンゴル皇帝(大カアン・大ハーン)に譲ったと言われている。

父の死から2年後の1229年に即位したオゴデイは、トルイと協力して金朝との最終戦争(モンゴル帝国の金朝征服)にあたり、1232年に金朝を完全に滅ぼした。トルイは金朝との遠征からの帰路に病没するが、これによってチャガタイの強い支持を受けたオゴデイは皇帝としての地位を固め、1234年に自らの主導するクリルタイを開いてモンゴル高原の中央部に首都カラコルムを建設させた。

これ以降、オゴデイはカラコルム周辺の草原に留まり、遠征は皇帝ではなく配下の軍隊に委ねられる。近年の研究によると、トルイのウルスはカラコルムの北西方向を中心に存在し、トルイが統帥していた10万戸以上の軍団も、オゴデイの政策によって金朝への遠征などを通じて中軍・左翼軍団へ分散され、オゴデイを含む王族直属としてはなおも最大であったものの結局トルイ麾下の軍団は2万戸余りにまで縮小されてしまったようである。(宇野伸浩らの研究による)

グユクのインノケンティウス4世宛国書に捺されたモンゴル皇帝の朱印。左から1-4行目にかけて「長生なる天(テングリ)の力によりて。イェケ・モンゴル・ウルスの海のカンの勅令(ヤルリク)(Möngke ṭngri-yin / küčündür. Yeke Mongγol / Ulus-un dalai-in / Qanu Jrlγ)」とある

オゴデイの治世にはカラコルムを中心として行政機構が整備され、チンカイマフムード・ヤラワチ耶律楚材ら様々な民族出身の書記官(ビチクチ)たちによる文書行政が行われた。中国や中央アジアでは戸口調査が行われ、遊牧民には家畜100に対して1が、農耕民には10の収穫に対して1が税となる十分の一税制が帝国全土に適用された。帝国の主要幹線路には一定距離ごとにジャムチ(駅伝)が置かれ、モンゴル皇帝(カアン)の発給した許可状(パイザ)をもった使者や旅行者、商人は帝国内を自由に行き来することができるようにされた。

また、オゴデイは即位以前の1228年に、ホラズム・シャー朝ジャラールッディーンがインドからイラン高原に帰還したとの情報を受け、監国となっていたトルイとともに協議し、イラン方面へチョルマグンを司令とする鎮戍軍(ちんじゅぐん タマ軍 lashkar-i Tamā)の派遣に合意している。1229年にオゴタイは第2代モンゴル皇帝となると、改めてチョルマグンに4つの万戸隊を授け、ジャラールッディーン討伐のためにチョルマグン率いる鎮戍軍にアムダリヤ川を渡河させてイラン入りさせている。ジャラールッディーンはイラン高原に戻ったもののイラン西部の諸勢力との紛争の末孤立し、1231年、チョルマグン率いるイラン鎮戍軍はジャラールッディーンの軍勢を急襲してこれを撃破した。ジャラールッディーンは逃亡中にクルド人兵士によって殺害され、ホラズム・シャー朝は完全に滅亡した。モンゴル帝国のイラン鎮戍軍はイラン高原西部の諸政権やアッバース朝カリフとも衝突を繰り返し、アゼルバイジャンのイルデニズ朝を滅ぼすなどしたものの、これらの地域からの支配権の承認は得られず、イラン高原の完全制圧をすることはできなかった。オゴデイの治世にはこれ以外にも高麗の征服を開始し(→モンゴルの高麗侵攻)、インドなどにも遠征軍が派遣され、モンゴル帝国は膨脹を続けた。

1235年、建設間もないカラコルムで開かれたクリルタイでは、中国の南宋と、アジア北西のキプチャク草原およびその先に広がるヨーロッパに対する二大遠征軍の派遣を決定した。

南宋に対する遠征は司令官とされたオゴデイの皇子クチュの急死により失敗したが、ジョチの次男バトゥを司令官とするヨーロッパ遠征軍はヴォルガ・ブルガール侵攻ルーシ侵攻を敢行してロシアまでの全ての遊牧民の世界を征服し、遠くポーランド(モンゴルのポーランド侵攻)、ハンガリー(モヒの戦い)など中央ヨーロッパまで席捲した。

1241年4月9日モンゴルのポーランド侵攻を食い止めるべく、ポーランド王国神聖ローマ帝国、そしてテンプル騎士団ドイツ騎士団聖ヨハネ騎士団などのヨーロッパ連合軍はポーランドのレグニツァ近郊に2万の兵を集結させたが、バイダルが率いるモンゴル軍の支隊に手も足もでなかった。これが後年ヨーロッパで恐れられ語り継がれていくワールシュタットの戦い(レグニツァの戦い)である。その後、モンゴル軍はハンガリー領モラヴィア(現:チェコ東部)地方に移動した後、オーストリア公国ウィーナーノイシュタットを攻めるが、1242年にオゴデイの崩御に伴ってモンゴルへ帰還した。

第3代モンゴル帝国皇帝グユクの時代

グユク1246年ローマ教皇インノケンティウス4世に宛てたペルシア語文国書。文面15行目に「チンギス・カンとカアン(Chinkīz Khān wa Qā'ān)」と見える

1241年にオゴデイが急死し、翌年にはチャガタイが病死すると、チンギス・カンの実子がいなくなった帝国には権力の空白が訪れた。次期モンゴル皇帝(大カアン・大ハーン)の選出作業にはオゴデイの皇后ドレゲネが監国となってあたったが、生前オゴデイが指名した後継者シレムンを無視して自身の子であるグユクを擁立しようとしたため、皇帝(大カアン・大ハーン)の選出が遅れた(シレムンは、1236年に南宋遠征中に陣没しオゴデイが生前後継者と指名していた三男クチュの長男)。 1246年、ようやく開催されたクリルタイはグユクを皇帝に指名したが、グユクと仲の悪いバトゥは兄弟たちを出席させたものの自身は病気療養を口実にクリルタイをボイコットした。皇帝のグユクと西方の有力者バトゥの対立により帝国は一時分裂の危機に陥るが、グユクは即位わずか2年後の1248年に崩御した。

しかし、この間の1243年にはアナトリア半島キョセ・ダグの戦いがあり、チョルマグンから鎮戍軍の指揮権を継いだバイジュ・ノヤン率いるモンゴル軍がルーム・セルジューク朝軍を打ち破り、ルーム・セルジューク朝、アルメニア王国、グルジア王国などがモンゴル帝国に帰順した。イラン鎮戍軍と同時に進駐して来たイラン総督府と1250年代のフレグの西方遠征までは20年余りの時間差があるが、この時期にチンギス・ハンの遠征時には東部でモンゴル軍による掠奪と殺戮のみで通過しただけであったイラン高原は、鎮戍軍の軍事的支配と総督府の財政的な掌握によって徐々にモンゴル帝国の支配地域として組み込まれて行った。

皇帝(大カアン・大ハーン)位を巡る抗争

グユクの死後、監国となった皇后オグルガイミシュは続いてオゴデイ家から皇帝を選出しようとクリルタイを召集したが、バトゥは叔父トルイの未亡人ソルコクタニ・ベキと結んでトルイの長男モンケを皇帝に即位させようと目論み、クリルタイを欠席した。オグルガイミシュにはオゴデイ家とチャガタイ家、ソルカクタニにはジョチ家とトルイ家がつき、両陣営は後継者をめぐって水面下の対立を続けた。

1251年、トルイ家の陣営はついにオゴデイ家・チャガタイ家の説得を諦め、ジョチ家の協力を受けて自領内のチンギス・カンの幕営(オルド)においてモンケの即位式を強行した。モンケは即位するやいなやオゴデイ家とチャガタイ家の有力者に皇帝暗殺を計画した嫌疑をかけて弾圧し、オグルガイミシュ以下の有力者は処刑され、オゴデイ家とチャガタイ家のウルスは解体寸前の状態にされてしまった。

第4代モンゴル帝国皇帝モンケの時代

モンケはオゴデイが行った占領地域に統治政策を受け継ぎ、帝国のうち定住民が居住する地帯をゴビ砂漠以南の漢地(中国)、ハンガイ山脈以西の中央アジア、アム川(アムダリア川)以西の西アジアの3大ブロックに分けて地方行政機関(行尚書省)を再編した。『元史』に載るいわゆる燕京等処行尚書省、別失八里等処行尚書省、阿母河等処行尚書省の3つの行尚書省がこれにあたり、マフムード・ヤラワチサイイド・アジャッルマスウード・ベク、アルグン・アカといった財務官僚たちこれらの管轄やその補佐と

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出典:wikipedia
2019/07/07 21:58

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