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ヨシフ・スターリンとは?

ヨシフ・スターリン
Иосиф Сталин (ロシア語)
Joseph-Stalin
იოსებ სტალინი (グルジア語)


1943年・テヘラン会談におけるスターリン


ソビエト連邦
第2代最高指導者
任期
1924年1月22日1953年3月5日
前任者
ウラジーミル・レーニン
後任者
ゲオルギー・マレンコフ(暫定)
ソビエト連邦共産党
中央委員会書記長
任期
1922年4月3日1952年10月16日
前任者
ヴャチェスラフ・モロトフ(責任書記)
後任者
ゲオルギー・マレンコフ(書記局書記、代理)
ソビエト連邦
第4代人民委員会議議長 → 初代閣僚会議議長
任期
人民委議長 : 1941年5月6日-1946年3月15日
閣僚会議議長 : 1946年3月15日1953年3月5日
【第一副議長】
ニコライ・ヴォズネセンスキー
ヴャチェスラフ・モロトフ
前任者
ヴャチェスラフ・モロトフ
後任者
ゲオルギー・マレンコフ
ソビエト連邦
国家防衛委員会議長
任期
1941年7月19日1946年2月25日
ソビエト連邦
初代軍事人民委員→軍事大臣
任期
軍事委員 : 1946年2月25日-1946年3月15日
軍事大臣 : 1946年3月15日1947年3月3日
【人民委議長→閣僚会議議長】
自身
前任者
(新設)
後任者
ニコライ・ブルガーニン
ソビエト連邦
第3代国防人民委員
任期
1941年7月19日1946年2月25日
【人民委員会議議長】
自身
前任者
セミョーン・チモシェンコ
後任者
(軍事人民委員新設に伴い廃止)
ソビエト連邦共産党
書記局員
任期
1922年4月3日1953年3月5日
ソビエト連邦共産党
政治局員
任期
1919年3月25日1953年3月5日
ソビエト連邦共産党
組織局員
任期
1919年1月16日1953年3月5日
【個人情報】

【生誕】
(1878-12-18) 1878年12月18日(ユリウス暦12月6日)
ロシア帝国
グルジア地方(現ジョージア国)、ゴリ
【死没】
1953年3月5日(1953-03-05)(74歳)
ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ市、クンツェヴォ・ダーチャ
【墓地】
ロシア
モスクワ市、クレムリン共同埋葬地
【市民権】
グルジアロシア人
【政党】
ロシア社会民主労働党
→・ボリシェビキ派
→・ソビエト連邦共産党
【配偶者】
エカテリーナ・スワニーゼ (1906–1907)
ナジェージダ・アリルーエワ (1919–1932)
【子供】
ヤーコフ・ジュガシヴィリ
ワシーリー・ジュガシヴィリ
スヴェトラーナ・アリルーエワ
【宗教】
無神論
【署名】

【兵役経験】

【所属組織】
ソビエト連邦
【部門】
ソビエト陸軍
【軍歴】
1918-1920
1941–1953
【最終階級】
元帥 (1943–1945)
大元帥 (1945–1953)
【指揮】
全軍指揮 (最高司令官)
【戦闘】
ロシア内戦
ポーランド・ソ連戦争
冬戦争
第二次世界大戦
冷戦
【受賞】

ソ連邦英雄 (左)

社会主義労働英雄(右)
ソビエト連邦


最高指導者
レーニン · スターリン
マレンコフ · フルシチョフ
ブレジネフ · アンドロポフ
チェルネンコ · ゴルバチョフ
標章
ソビエト連邦の国旗
ソビエト連邦の国章
ソビエト連邦の国歌
鎌と槌
政治
ボリシェヴィキ · メンシェヴィキ
ソビエト連邦共産党
ソビエト連邦の憲法· 最高会議
チェーカー · 国家政治保安部
ソ連国家保安委員会
軍事
赤軍 · ソビエト連邦軍
ソビエト連邦地上軍 · ソビエト連邦海軍
ソビエト連邦空軍 · ソビエト連邦防空軍
戦略ロケット軍
場所
モスクワ · レニングラード
クレムリン · 赤の広場
イデオロギー
共産主義 · 社会主義
マルクス・レーニン主義
スターリン主義
歴史
ロシア革命 · ロシア内戦 · 大粛清
第二次世界大戦 · 独ソ戦 · バルト諸国占領
冷戦 · 中ソ対立 · キューバ危機
ベトナム戦争 · 中ソ国境紛争
アフガニスタン紛争 · ペレストロイカ
マルタ会談 · 8月クーデター
ソ連崩壊

政治シリーズ記事からの派生
スターリン主義


概念
マルクス・レーニン主義
一国社会主義論
階級闘争激化論
農業集団化
個人崇拝
愛国主義
左翼ナショナリズム

人物
ヨシフ・スターリン
ヴァルター・ウルブリヒト
エンヴェル・ホッジャ
ニコラエ・チャウシェスク
金日成
毛沢東
ホルローギーン・チョイバルサン

政党
ソビエト連邦共産党
フランス共産党
日本共産党(行動派)
アルバニア労働党
インドネシア共産党
ベトナム共産党
ルーマニア共産党
ニュージーランド共産党
スターリン・ブロック— ソ連のため
国家ボリシェヴィキ党
グレートブリテン共産党 (マルクス・レーニン主義)

関連項目
五カ年計画
スターリン様式
大粛清
全体主義
反修正主義
ネオ=スターリニズム
毛沢東主義
国民共産主義
愛国心
非スターリン化
反スターリン主義

Portal:政治学

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин, 1878年12月18日(ユリウス暦 12月6日) – 1953年3月5日)は、ソビエト連邦政治家軍人(職業軍人ではない)。レーニンの死後、29年間に渡り同国の最高指導者の地位にあった。一般に広く知られている「スターリン」というは「鋼鉄の(人)」を意味する筆名であり、本姓はジュガシヴィリ(ロシア語: Джугашви́лиグルジア語: ჯუღაშვილი)である。

概説

1878年ロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア国)のゴリで誕生する。正教神学校で教育を受けるが、のちに無神論に転向してマルクス主義の信奉者となり、1899年には神学校を去って革命家に転身した。

その後、ウラジーミル・レーニンが率いるロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派に加わり、1912年には党中央委員に選出された。1917年十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握したのち、レーニンのロシア共産党による独裁国家が成立すると、その行政府の有力者となり、1922年4月には党書記長に就任し、同年12月のソビエト連邦創設にも深く関与した。1924年にレーニンが死去すると、続いて起きたレフ・トロツキーとの後継者争いを制し、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会書記長に権限を集中させることでレーニンの後継者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派粛清の大義名分としても用いられた。

以降、人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議議長1941年から1953年に死没するまで務めたほか、前述のソビエト連邦共産党中央委員会書記長などの要職を兼任、国家指導者としての立場を維持した。

1928年、干渉戦争に対応して行われた戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)を進めて合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済を有する基盤を作り出したと評されている。

一方で、急速な経済構造の改革は反対派に対する厳しい弾圧と合わさって国民に多数の犠牲者を出すことになった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、1932年から1933年の飢饉へと繋がった。後者に関してはグラーグ(収容所)に収監された者だけで100万人以上、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた。強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万人が処刑あるいは追放された。

1939年、ナチスドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化する中、マクシム・リトヴィノフに一任していた仏英ソ同盟の締結が不調に終わったこともあり、反共主義・反スラブ主義を掲げていたアドルフ・ヒトラーナチス・ドイツ独ソ不可侵条約を締結し、秘密議定書に基づくポーランド侵攻第二次世界大戦を起こすことになる。世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。ポーランド分割、バルト三国併合、東カレリア併合(冬戦争)などの軍事行動における背景になっただけでなく、外交交渉においてもそうであった。第一次世界大戦における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けてベッサラビアと北ブコビナを返還させている。アジア方面ではドイツと同じ枢軸国日本とも日ソ中立条約を結んだ。

1941年、第二次世界大戦においても中立を維持していたソ連はイギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まった。同時にイギリスを中心とする連合国陣営にも参加、米国の連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされている。自身の大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだものの、従来通りの強権支配を維持して軍と政府の統制を維持し続けた。やがて戦争が長期化する中で態勢を建て直し、最後には反攻に転じてドイツの首都ベルリンを陥落させ、東欧を支配下に置いた。アジア方面ではソ連対日参戦モンゴルの独裁者ホルローギーン・チョイバルサンとともに満州と内蒙古、日本の北方領土朝鮮半島北部まで攻め落とした。

連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく、国際連合安全保障理事会常任理事国となり、米国と並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた。ヤルタ会談ポツダム会議では大戦後の欧州情勢についての協議を行って冷戦を始めて鉄のカーテンを築き、ファシズム打倒後の共産主義資本主義の対立においては西欧諸国と北大西洋条約機構を結成した米国に対し、非同盟を掲げてスターリンと対立したヨシップ・ブロズ・チトー政権のユーゴスラビアを除く東欧諸国とワルシャワ条約機構が後に設立される。アジア情勢を巡っては国共内戦中国共産党を支援して中国大陸に中華人民共和国を成立させ、第一次インドシナ戦争ではベトナム民主共和国朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国を支援して竹のカーテンを築いて東側陣営を拡大していく。

1953年の死没まで国家指導者としての立場は続き、ソ連内の戦後復興でも主導的な役割にあったことはスターリン様式の建設物が今日でも多く残っていることからも理解できる。また科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、武装や宇宙開発などに予算や費用が投じられており、前者は1949年のRDS-1で成功し、後者ものちに実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策たる自然改造計画であった。1953年に寝室で倒れ、病没した。

死後から程なくしてスターリン後の権力闘争が行われたが、その過程でニキータ・フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開され始めた。1956年ソ連共産党第20回大会でフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、一転してスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき独裁者という評価へ変化した。この潮流は、反スターリン主義として各国の左派に影響を及ぼした。

その後もスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を非常に難しくしている。この流れはソ連の後裔国家の一にあたるロシア連邦においても踏襲され、スターリンを暴君とする意見と、英雄と見なす意見とが混在する状態にある。また、1944年から1955年までのソ連国歌には名前が入っていたが、その次の国歌では名前がなくなっている。

生涯

生い立ち

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父ヴィッサリオンと母ケテワン

ヨシフ・スターリンは1878年12月18日(ユリウス暦 12月6日)、グルジア語名イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ(იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი)、ロシア語名ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(Ио́сиф Виссарио́нович Джугашви́ли)として、ロシア帝国支配下のグルジア(現在のジョージア国)の街ゴリに生まれた。父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリはゴリに工房を構える靴職人、母ケテワン・ゲラーゼはレンガ職人の娘であり、共に農奴の家系の出身であった。スターリンは両親の第3子であったが2人の兄は幼児期に死没していたため、実質的には長男として育てられた。

スターリンの生まれ故郷は騒々しく暴力的で、治安の悪い地域であった。父ヴィッサリオンは靴職人として成功しており、一時は工房で10人の従業員を雇うほどの経済的余裕があったが、伝統的なグルジア様式の靴への需要が減ったことで事業は行き詰まった。飲酒に逃避したヴィッサリオンはアルコール依存症を患い、しばしば妻や幼い息子に暴力を振るうようになった。1883年までに、ケテワンはスターリンを連れてヴィッサリオンの家を離れ、母子はその後10年間で9回も転居を繰り返す流浪の生活を始めた。1886年、2人は親交のあった司祭クリストファー・シャルクビアーニ (Christopher Charkviani)の家に居候を始める。ケテワンは掃除婦や洗濯婦として働き生活費を稼ぐ一方で、息子に学校教育を受けさせることを強く望んでいた。

1888年9月、シャルクビアーニ司祭の取り計らいにより、スターリンはゴリの教会付属学校に入学することを許された。入学後のスターリンは他の子供たちと頻繁に喧嘩したが、学業の面では極めて優秀な成績を残した。一方で、幼少期のスターリンは病気や怪我に苦しめられ1884年には天然痘に罹患し、命は助かったものの顔面の皮膚に目立つ痘痕を残した。また12歳の時までに2度に亘って馬車にはねられて大けがを負い、後遺症で左腕の機能に障害を抱えることになった。母ケテワンはスターリンが学校に入ったことを大いに喜んだが、父ヴィッサリオンは息子に靴職人を継がせることを望んでおり、学業には反対していた。ヴィッサリオンはケテワンに「俺は靴職人だ。息子も靴職人になるさ」と溢しており、息子を無理やり連れ去って自分と一緒に働く道を選ばせようとしたり、養育費を打ち切るなどの抵抗を続けていたとされる。スターリンは度重なる父親の反対や障害を乗り越えつつ勉学に励んだ。

1894年8月、奨学金を得たスターリンは首都トビリシの神学校に入学した。トビリシ神学校は全寮制であり、司祭を目指す約600人の訓練生と共同で生活することになった。当初、スターリンは神学校でも非常に成績優秀だったが、やがて神学に対する興味を失い、成績も下降していった。また、学内で秘密裏に活動していた読書クラブに加わり、禁じられた書籍に触れるようになり、カール・マルクスの著作である『資本論』に影響され熱心なマルクス主義者となった。神学校の記録によれば、スターリンは自らを無神論者だと宣言しており、礼拝への参加や修道士への挨拶を拒否していた。また、1896年には禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書の所持で、1898年には朝の祈禱の欠席や規律違反、反抗的態度などで繰り返し注意や処罰を受けていた。1899年4月、スターリンはトビリシ神学校を去り、2度と戻ることはなかった。

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出典:wikipedia
2020/09/28 23:29

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