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ラグビーとは?

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ラグビーユニオン/クルセイダーズブランビーズとの間のスクラム
ラグビーリーグ/ニュージーランドの選手がオーストラリアの選手にタックルしている。

ラグビー(: Rugby)は、イングランド中部のラグビーにあるラグビー校を発祥地とする2つのフットボールコード(code、法典)、ラグビーリーグ(13人制)とラグビーユニオン(15人制)を指す。「ラグビーフットボール(: Rugby football)」とも。

日本でのラグビーは通常ラグビーユニオンである。

フィールド上の各サイドの人数やルールが異なる様々な派生競技が存在する。ラグビーユニオンでは通常の15人制に加え10人制(テンズ)、および7人制(セブンズ)、ラグビーリーグでは通常の13人制に加え9人制(ナインズ)、7人制(セブンズ)の人気があり、各地で大会が開かれている。7人制ラグビーユニオンは夏季オリンピックコモンウェルスゲームズアジア競技大会の正式種目である。

ラグビーリーグのルールに基づき、タックルを安全なタグやタッチに置き換えたタグラグビータッチラグビー、タッチラグビーを競技化したタッチも広くプレーされている。

目次

  • 1 概要
  • 2 名称
  • 3 歴史
    • 3.1 ラグビーユニオンとラグビーリーグ
    • 3.2 ラグビーユニオンとラグビーリーグの統合年表
  • 4 各国におけるラグビーの協会
    • 4.1 ラグビーユニオン
    • 4.2 ラグビーリーグ
  • 5 ルール
  • 6 文化
    • 6.1 ホームカントリー
    • 6.2 その他の国
    • 6.3 季語
  • 7 関連競技
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
  • 9 関連項目
    • 9.1 リーグ
    • 9.2 ユニオン
    • 9.3 その他
  • 10 外部リンク

概要

ラグビーは2つのチームに分かれて行われ、楕円形(回転楕円体)のボールを奪い合って相手陣のインゴールまで運ぶ、あるいはH型のゴール上部に蹴り入れて得点を競うスポーツである。

イングランド発祥の競技ということもあって、ヨーロッパ(イングランドスコットランドアイルランドウェールズフランスイタリア。この内イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズはホームユニオンと称される)ばかりでなく、オセアニア(オーストラリアニュージーランドサモアフィジートンガ)および南アフリカアルゼンチンで人気の競技である。とりわけ英連邦諸国内ではサッカークリケットと並ぶ人気スポーツである。アメリカンフットボールは楕円形のボールを使う、タックルにより相手の前進を止めるなどラグビーと共通する特徴をもっていることから、古い時代に共通の起源をもつと考えられているものの、まったく別の競技である。

名称

由来地名にあたる「ラグビー」を意味する "Rugby(ラグビー)" との区別は、表記言語的には大文字の使用・不使用で明示されるが、一般には特に区別されない。また、球技「ラグビー」は英語で "rugger(ラガー)" ともいい、この語は「ラグビーをする人」をも意味する。ただ、「ラグビーをする人」を意味する英語としては "rugby player" のほうが一般的である。また、英語 "rugger" に由来する外来語としての日本語ラガー」は、ほとんど後者の意味に限って通用し、後者の同義語ラガーマン(: rugger man)」のほうが多く用いられる。

現代日本語では、ほとんどすべての場合「ラグビー」というが、1925年(大正14年)ごろ以降、戦前(第二次世界大戦前)には「ラ式蹴球(ラしきしゅうきゅう)」が正式名称であったという。また、戦局が悪化して敵性語が禁止され始めた1943年(昭和18年)3月から終戦まで使われた「闘球(とうきゅう)」がある。なお、慶應義塾大学のラグビーは例外的に現在も昔ながらの「蹴球部」(慶應義塾體育會蹴球部)を名乗っている。今でこそ「蹴球」はサッカーの別名という認識が定着しているが、当クラブが創立された1899年(明治32年)頃にはフットボール全般が「蹴球」で、ソッカー部(今でいうサッカー部)より数年早く創部されたラグビー部がその名を占有した(cf. 慶應義塾体育会ソッカー部)。「ラ式(※ラグビー式)」ことラグビー、「ア式(※アソシエーション式)」ことソッカー(サッカー)、「米式(べいしき)」ことアメリカンフットボールなどといった呼び分けは後付けである。

歴史

ラグビーユニオンの歴史」も参照

ラグビーの起源は、「1823年イングランドの有名なパブリックスクールであるラグビー校でのフットボールの試合中、ウィリアム・ウェッブ・エリスがボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出した」ことだとされている。

1840年頃にはボールを持って走る「ランニングイン」が確立して普及しだしたのは確かであるが、その第1号がエリス少年だったかどうかについては諸説ある。しかし、エリスが最初にボールを持って走ったという証言が記してある文章が、ラグビーの起源を調べる上で最古の文献だということは間違いなく、起源と考案者を探る上で名前がわかっている人物はエリスただ一人である。なお、エリス少年がルールを破ったとされるのは、ボールを手で扱ったことでなく、ボールを持って走った行為についてである。その頃はまだ今でいうサッカーも生まれておらず、当時のフットボールでは手を使うこと自体はルールとして許されていた。

エリスは1806年にマンチェスター近郊で生まれ、ラグビー校では少なくとも3シーズン、フットボールをプレーしている。オックスフォード大学に進み、卒業した後は牧師となり、病気療養のために渡った南フランスで65歳で没した。南仏コートダジュールの小都市マントンに墓地がある。ラグビーとクリケットを愛したと伝えられている。

ラグビー校ではラグビーのルーツ以外にも多くの習慣が生まれており、イングランド代表の白いジャージの元になった白いシャツとショーツと紺色のストッキング、ハーフタイムにサイドをチェンジする習慣、インターナショナル代表がかぶるキャップ、H型のゴールポスト、楕円球のボールなどラグビーの起源を示すような証拠が多くこの学校から生まれた。

ラグビーの源流である「原始フットボール」は中世イングランドに起源をさかのぼる。数千人の大人数が手と足を使って村と村の対抗戦として原始的な「フットボール」を行っていた。ちなみに1点先取で勝負を決めていたことから、長時間続けるために得点するのを難しくしようとオフサイドが生まれ、今日のラグビーにもルールとして生き永らえている。試合は祝祭でもあり、死者も出るほど激しかった。

19世紀に入り、ラグビー校やイートン校、ハロー校などパブリックスクールでは学校ごとに独自のルールでそれぞれのフットボールを行なっていた。それぞれ学校で違うルールの統一を目指した協議は長らく行われてきたが、1863年10月26日ロンドンのフリーメイソンズ・タバーンでFA(フットボール・アソシエーション)とロンドンにある12のクラブの間で会議が開かれ、12月までに6回のミーティングを持って統一ルールの作成を行った。この統一ルール作成により近代サッカーが本格的に誕生した。このとき、一部のクラブの代表が、ボールを持って走ること、ボールを運んでいる相手にハッキング(すねをけること)、トリッピング(引っ掛けてつまずかせること)およびホールディング(おさえること)を行うことが認められなくなったことに合意できず、FAを脱退した。これがラグビーフットボールとアソシエーションフットボール(サッカー)が分岐した瞬間である。

そして1871年、脱退した者たちによって、サッカーのFA(フットボール・アソシエーション、1863年設立)に対抗して、ロンドンラグビーフットボール連合(RFU:ラグビーフットボール・ユニオン)が設立された。

発祥であるイギリスでは中流階級から上流階級の間でも人気があり、その子息が通う名門校でも盛んに行われていることから「ジェントルマンのスポーツ」とも称される。

ラグビーユニオンとラグビーリーグ

詳細は「ラグビーユニオン」、「ラグビーリーグ」、および「ラグビーリーグとラグビーユニオンの比較」を参照

ラグビーは英国でも指折りの炭鉱地帯であるマンチェスターを中心とするイングランド北部のランカスターヨークシャー地方ならびにウェールズ南部で発展していった。

しかし1895年、選手の労働会社などへの休業補償問題(現在も兼業しながらプレーする選手が多数だが、当時は今と違ってラグビーにはプロ契約が存在しなかった)がきっかけで、北部でRFUからの分裂が起き、22チームからなるプロリーグが発足した。それ以降、世界にはラグビーという名のスポーツが2つあり、ケンブリッジ大学オックスフォード大学戦に代表される南部を母体とするアマチュア主義をうたった組織はラグビーユニオン、北部を母体とする報酬を目的とするものはラグビーリーグと呼ばれるようになった。日本でラグビーといえばラグビーユニオンのことである。

分裂した頃はルールは全く同一のものであったが、現在ではユニオンは15人制でリーグは13人制である。ルール上最も異なっている点は、ラグビーリーグがフォワードの密集(ラックモール)を排除したことである。

プロ容認のリーグへのユニオン選手の流失が相次ぎ、リーグに移った選手はユニオンでのプレーを禁止されるなど長らくユニオンとリーグは対立状態にあった。

しかしラグビーワールドカップなどをきっかけに120年以上アマチュア主義を守ってきたユニオンも1995年以降にプロを認めたこともあり、コーチ層での交流(リーグのディフェンスシステムをユニオンに取り入れるなど)などからしだいに対立は緩和した。現在は選手がユニオンとリーグを行き来することも多い。現在、英国ではラグビーリーグとラグビーユニオンの両方のルールで前後半の試合を行うクロスコード・ゲームが行われることもある。

ラグビーユニオンとラグビーリーグの統合年表

【年】
【出来事】
ルール
〜19世紀
1400-
1800年 | 多くの異なる種類のフットボール(ラグビーの先祖)がブリテン中で行われていた。現代サッカーと異なり、ほとんどのフットボールの試合では手を使うことが許されていた。
1830年 | ボールを持って走ることは1830年代にラグビー校で一般的になり、1850年代と1860年代にラグビースクールフットボールは連合王国中で人気となった。
1863年 | ザ・フットボール・アソシエーション (FA) が結成され、FAとラグビーフットボールの間の分裂が正式なものとなった。
1864年 | 初のラグビークラブがリーズハダーズフィールドで結成され、その後1870年代と1880年代にはカンバーランドランカシャーヨークシャーで何百ものクラブが作られた。
1871年 | ラグビー・フットボール・ユニオン(ラグビーフットボール協会、RFU)が創設され、ポールモールレストランで21クラブによる会合が開かれた。
1871年 | 確認されている初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われた。
1876年 | マシュー・ブロクサムの書簡がザ・ミーティアに掲載された。この書簡ではラグビー校の生徒のウィリアム・ウェブ・エリスがボールを拾い上げたことがラグビーの発祥であると主張されている。1895年のラグビー協会の調査では証拠はないとされたが、この神話を不朽のものとすることが決定された。
1876年 | ヨークシャーカップがヨークシャーのラグビークラブによって始まった。この大会はFAカップ決勝よりも多くの観客を集めた。
1877年 | 選手数が1チーム20人から15人に減少した。
1883年 | 初のホーム・ネイションズ・チャンピオンシップがイングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズの間で行われた。
1886年 | 大部分が労働者階級で構成される北部クラブの高まる優越性を危惧して、南部が主体のラグビーフットボール協会は厳格なアマチュアルールを導入した。
1888年 | 1888年と1889年に、ニュージーランド先住民フットボールチームがブリテン、オーストラリア、ニュージーランド遠征を行った。
1890年 | 1890/91シーズンから現代の得点システムがホーム・ネイションズによって一様に承認された。
1892年 | ブラッドフォードとリーズのラグビーフットボールクラブが選手の休業保障を行ったことによって、プロフェッショナリズムの非難が向けられた。しかしラグビー・フットボール・ユニオン (RFU) 自身も、1888年ブリテン諸島代表のオーストラリア遠征や、1904年にイングランドと対戦したニューサウスウェールズのHarry Hamillに対する支払いを認めている。
1893年 | ヨークシャーのクラブは選手の休業保障として6シリングを支払うことを提案したが、RFUはこの提案を否決した。これによって北部のクラブおよび選手による試合の中止が広がっていった。
1895年 | ラグビーフットボール界の分裂の結果、ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン (NRFU) が結成された。この分裂には、労働者階級の北部チームの成功や、入場料を徴収した競技場でのラグビー試合のRFUによる禁止命令、クラブがアマチュアリズムを受け入れなかった場合のRFUからの除籍に対する恐れ、選手が仕事を休んでラグビーの試合に出場した際の休業保障の開始など多くの要素が作用している。同じような動きは他の国々でも存在した。22のクラブがハダーズフィールドのジョージホテルで会合を開きNRFUが結成された。ハダーズフィールドでの初会合から15年以内に、200以上のクラブがRFUを脱退しNRFUに加入した。 | リーグ・
ユニオン
1896年 | マニンガムが初のノーザン・ユニオン・チャンピオンシップで優勝した。マニンガムは1903年にアソシエーションフットボール(サッカー)に転向し、ブラッドフォード・シティとなった。 | リーグ
1896年 | ラグビーリーグ・チャレンジカップが創設され、開始から成功を収めた。バトリーセント・ヘレンズを10対3で破り、初の勝者となった。 | リーグ
1897年 | 試合をより興奮するものにするため、ノーザン・ユニオンはラインアウトを廃止し、全てのゴールの得点を2点に減らした。ラインアウトはタッチラインからのパントに変更された。トライは3点を与えられた。 | リーグ
1898年 | ノーザン・ユニオンにプロフェッショナリズムが導入された。このプロフェッショナリズムは厳密にパートタイムであり、選手は他の「きちんとした」仕事を持っていることが義務付けられた。 | リーグ
1900年 | ラグビーユニオンが1900年の夏季パリオリンピックに採用された。これは1924年のパリオリンピックに終了した。 | ユニオン
20世紀前半
1901年 | ラグビーリーグのラインアウトに代わるパントアウトの導入実験がわずか4年で終了した。現在はボールがアウト・オブ・プレーになるとスクラムでリスタートされる。 | リーグ
1904年 | ラグビーリーグの初の国際試合がウィガンで行われ、イングランドが他国合同チームに3対9で敗れた。 | リーグ
1905年 | ウェールズが初遠征を行ったラグビーユニオンのニュージーランド代表にかろうじて勝利した。この試合は「世紀の試合」と呼ばれた。 | ユニオン
1906年 | イングランドは(スプリングボクスとして知られる)南アフリカとラグビーユニオンの試合を初めて行った。南アフリカが黒人選手がプレーすることに抗議した後、ジェームス・ピータースがイングランドチームから外された。 | ユニオン
1906年 | ジェームス・ピータースはイングランド代表としてスコットランドと戦い、初の黒人ラグビー選手となった。 | ユニオン
1906年 | ラグビーリーグにおいて、よりクリエイティブなプレーのためのスペースを与えるために選手数が15人から13人に減らされた。タックル後の試合再開の形としてプレー・ザ・ボールの初期の形が導入された。 | リーグ
1907年 | ラグビーリーグがオーストラリアおよびニュージーランドに広まっていった。ニューサウスウェールズ・ラグビー・フットボール・リーグがシドニーのBateman'sホテルで創設された。ニューサウスウェールズ・ラグビー・リーグは故障した選手に対する保障問題でオーストラリアン・ラグビー・ユニオンと喧嘩した後に、8チームで開始した。初優勝はサウス・シドニーが果たした。ラグビーリーグはニューサウスウェールズ州クイーンズランド州での主要なフットボール競技としてラグビーユニオンに取って代わっていった。 | リーグ
1907年 | ニュージーランドラグビーリーグチームがブリテンへ遠征を行った。ニュージーランドの郵便局員アルバート・ヘンリー・バスカヴィルによって組織されたニュージーランド遠征チームは、彼らのオープン・プロフェッショナリズムのために母国のメディアに「オール・ゴールズ (All Golds)」との汚名を着せられた。彼らはシドニーとブリテンではラグビーユニオンのルールで試合を行い、オーストラリアの偉大な選手であるダリ・メッセンジャーに遠征に加わるよう説得した。彼らは初のテストマッチに2対1で勝利したが、バスカヴィルは帰国中に肺炎のため25歳で死去した。 | リーグ
1908年 | 初のオーストラリアカンガルーズ遠征チームがブリテンを訪れた。ハンスレットは、チャンピオンシップ、チャレンジカップ、ヨークシャーカップ、ヨークシャーリーグの4つのトロフィー全てを手にした初のクラブとなった。ハンスレットはラグビーリーグ初期の主要な選手であるアルバート・ゴールドソープに率いられた。 | リーグ
1910年 | ラグビーユニオンのホーム・ネイションズ・チャンピオンシップがフランスの参加によりファイブ・ネイションズ・チャンピオンシップとなった。 | ユニオン
1910年 | 初のノーザン・ユニオンのブリティッシュ・ライオンズによる遠征がオーストラリアおよびニュージーランドへ行われ、シドニーとブリスベンで行われたテストマッチに勝利した。 | リーグ
1912年 | ラグビーユニオン南アフリカ代表がブリテン諸島およびフランスに遠征した。遠征チームはイングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、フランスのヨーロッパ5チーム全ての勝利する「グランドスラム」を達成した。 | ユニオン
1914年 | ハダーズフィールドアルバート・ローゼンフェルドが1シーズン100トライを記録した。ブリテン代表遠征チームはテストマッチ3連戦の最終戦でオーストラリアに14対6で勝利し、The Ashesを勝ち取った。最後までこの試合に残っていたのはわずか10人であり(選手交代は認められていなかった)、ロークス・ドリフトのテストマッチとして知られるようになった。 | リーグ
1922年 | ノーザン・ユニオンはラグビー・フットボール・リーグと改名した。この組織名がオーストラリアにおけるこのスポーツの名称としても以後使用されるようになった。 | リーグ
1925年 | ラグビーユニオンのオールブラックスのブリテン、フランス、カナダ遠征が行われた。ニュージーランド人達は遠征中無敗を誇り、「The Invincibles(無敵)」の称号を得た。 | ユニオン
1929年 | 初のラグビーリーグ・チャレンジカップ決勝がウェンブリーで行われた。41,500人の観衆の前でウィガンデューズベリーに13対2で勝利した。 | リーグ
1930年 | ファイブ・ネイションズとは別にラグビーユニオンヨーロピアンカップが始まった。この大会は第二次世界大戦で中断された。 | ユニオン
1930年 | ラグビーリーグのブリテン代表とオーストラリア代表のテストマッチ第3戦が0対0の引き分けに終わった後、前例のない第4戦がロッチデールで行われた。ブリテン代表は3対0で勝利しThe Ashesを手にした。 | ユニオン
1932年 | 夜間照明の下で初のラグビーリーグの試合が開催された。 | リーグ
1933年 | 大晦日、フランスにおける初のラグビーリーグの試合が、イングランドとオーストラリアの間で行われた。フランスはプロフェッショナリズムの申し立ての真っ只中にありラグビーユニオンのファイブ・ネイションズから除外されていたことから、新しいスポーツを受け入れようとしていた。 | リーグ
1934年 | 元ラグビーユニオン代表のジャン・ガリアによってフランスでラグビーリーグが設立された。1939年までにフランスリーグには225クラブが所属した。 | リーグ
1934年 | フランスはパリで初めての国際試合を行いイングランドに32対21で敗れた。サルフォードはフランス遠征を行い、‘Les Diables Rouges’(赤い悪魔)のニックネームを得た。 | リーグ
1941年 | フランスヴィシー政府は敵国との繋り(フランスはドイツおよびイタリアの占領下にあった)を理由にラグビーリーグを禁止した。ラグビーリーグの資金および資産は全て没収されるかラグビーユニオンのクラブに渡った。ラグビーユニオンは無傷であり、ラグビーリーグに奪われた競技場のほとんどを取り返した。今でもラグビーリーグのクラブの資産は彼らに返還されていない。 | リーグ・ユニオン
1943年 | ノーザン・コマンド陸軍ラグビーリーグチームとノーザン・コマンド陸軍ラグビーユニオンチームはヘディングリーでラグビーユニオンルールで戦い、ラグビーリーグ側が18対11で勝利した。次の年は三軍統合ラグビリーグチームが三軍統合ラグビーユニオンチームを15対10で破った。1996年に交流が再開されるまでリーグ対ユニオンの試合はこれらだけであった。 | リーグ・ユニオン
1944年 | ヴィシー政権の崩壊により、フランスにおけるラグビーリーグの禁止令が解除された。 | リーグ
1945年 | ブライアン・ビーヴァンウォリントンでラグビーリーグデビューを果たした。16年間に渡って、ビーヴァンはウォリントンで620試合に出場し740トライを上げた。キャリア通算トライ数は796。しかし、故郷のオーストラリア代表としてプレーすることはなかった。 | リーグ
1946年 | ランス・トッド・トロフィーがチャンレジカップ決勝のマン・オブ・ザ・マッチに初めて手渡された。ウェイクフィールド・トリニティー・ワイルドキャッツビリー・ストットが初の受賞者となった。1942年に交通事故で死亡したランス・トッドは1907年ニュージーランド代表遠征チームの一員であり、サルフォードを1928年から1940年まで指揮した。 | リーグ
1946年 | この年は史上最も有名なラグビーリーグ遠征が行われた。ライオンズはHMSインドミタブルでオーストラリアへ航海した。オーストラリアを横断する5日間の旅で、ガス・リスマンに率いられたチームはテストマッチを2勝1引き分けで終えThe Ashesを保持した。 | リーグ
1949年 | フランスラグビーリーグは名称への「ラグビー」の使用を禁止され、Jeu à Treize(Game of Thirteen)へと改称した。 | リーグ
1950年 | トリノからのイタリアチームがイングランド北部へと遠征した。イタリアは後に国内大会やオーストラリアとの試合を行ったが、この活動は1962年に途絶えた。 | リーグ
20世紀後半
1951年 | 南米ラグビーチャンピオンシップが開始した。 | ユニオン
1951年 | 南アフリカラグビーユニオン代表がブリテン諸島およびフランスへ遠征した。南アフリカは二度目のファイブ・ネイション・グランドスラムを達成した。 | ユニオン
1951年 | 活動を終えてからちょうど10年後、フランスはオーストラリアでの初のラグビーリーグシリーズに勝利した。フランスは1955年にも再び勝利を収めた。 | リーグ
1951年 | ラグビーリーグのセク・トンプソンはあらゆるスポーツの中で初のグレートブリテン代表の黒人選手となった。 | リーグ
1952年 | ラグビーユニオンのヨーロピアンカップが再開した。 | ユニオン
1953年 | 英国陸軍通信部隊で兵役を果たしていたウェールズ人の若者、ビリー・ボストンがウィガンでデビューした。彼はイギリスの最多トライ数の記録を持っており、全世界ではビーヴァンに次いで第2位である。 | リーグ
1954年 | イングランドブラッドフォードOdsalスタジアムで行われた1953-54 ラグビーリーグチャレンジカップ決勝は102,569の観衆を集め、ラグビーユニオン・ラグビーリーグを含むラグビーフットボールの試合の新記録を打ち立てた。 | リーグ
1954年 | 初のラグビーリーグ・ワールドカップ(ユニオンも含めて初)がフランスで開催された。パリ、パルク・デ・プランスで行われた決勝では、グレートブリテン代表がフランス代表を16対12で破り優勝した。 | リーグ
1956年 | スプリングボクスがニュージーランドに遠征した。南アフリカはニュージーランドに対して遠征で初めての敗戦を喫した。 | ユニオン
1957年 | オーストラリアがラグビーリーグ・ワールドカップ第2回大会で優勝した。 | リーグ
1958年 | ラグビーリーグテストマッチ第2試合でグレートブリテン代表はオーストラリア代表に25対18で勝利した。この試合では健康なグレートブリテン代表はピッチに8人しかいなかった。アラン・プレスコットは腕を骨折しながら77分間プレーした。 | リーグ
1960年 | グレートブリテンが第3回ラグビーリーグ・ワールドカップで優勝した。 | リーグ
1964年 | ラグビーリーグで初めて選手交代が認められたが、ハーフタイム前に負傷した選手に限られていた。 | リーグ
1966年 | 国際ラグビーリーグ委員会は、ボールを保持したチームには3度のプレー・ザ・ボールが認められ、4度目のタックルでスクラムが組まれるルールを導入した。次の年に南半球はこのルールを採用した。1972年には6度の攻撃権が認められるようになり、1983年にスクラムはボールの引き渡しに変更された。 | リーグ
1967年 | プロラグビーリーグは減少する観客を呼び戻す試みで、他のスポーツに先駆けて主な試合日を日曜日とした。 | リーグ
1968年 | ‘Watersplash’(浅瀬)チャレンジカップ決勝が、豪雨がピッチを満たしていたにもかかわらず行われた。この試合は最もドラマティックな幕切れとなった。ウェイクフィールドのドン・フォックスが逆転のためのゴール近くからの簡単なコンバージョンを試みたが失敗し、リーズが11対10で勝者となった。 | リーグ
1968年 | ラグビーユニオンで選手交代が初めて認められた(負傷選手のみ)。 | ユニオン
1969年 | スクリングボクスがブリテンとアイルランドに遠征した。この遠征はアパルトヘイトに対する抗議を受け、以後南アフリカはアパルトヘイト廃止までヨーロッパ遠征を行わなかった。 | ユニオン
1969年 | ラグビーリーグはイギリスの大学のスポーツとしてついに認められていった。 | リーグ
1970年 | グレートブリテン代表はオーストラリアとのテストマッチの後半2戦に勝利しThe Ashesを得た。 | リーグ
1970年 | イングランドで開催されたラグビーリーグ・ワールドカップは少ない観客しか集めることができなかった。オーストラリアが優勝した。 | リーグ
1971年 | ニュージーランドがブリテンでのラグビーリーグシリーズで初めて勝利した。 | リーグ
1971年 | ラグビーユニオンのライオンズがオーストラリアとニュージーランドに遠征した。このライオンズはニュージーランドでのテストシリーズで勝利した唯一のチームである。 | ユニオン
1971年 | スプリングボクスのオーストラリア遠征は抗議活動を受けた。 | ユニオン
1972年 | タイムキーパーとサイレンがラグビーリーグに初めて導入された。 | リーグ
1972年 | グレートブリテンがフランス・ラグビーリーグ・ワールドカップで再び優勝した。 | リーグ
1973年 | バーバリアンズカーディフ・アームズ・パークオールブラックスを破った。 | ユニオン
1973年 | 多くのアマチュアリーグ・クラブが消滅していることに対するRFLの軽視に抗議して、草の根レベルでラグビーリーグを運営するためイギリスアマチュアラグビーリーグ協会が設立された。両者の再統一には30年を要した。 | リーグ
1974年 | ラグビーユニオンのライオンズが南アフリカに遠征した。99コールが悪名高い遠征である。 | ユニオン
1974年 | ラグビーリーグのドロップゴールによる得点が2点から1点に減点された。 | リーグ
1975年 | ウェールズとイングランドが別々のチームでラグビーリーグ・ワールドカップに参加し、両半球で数カ月に渡ってプレーした。オーストラリアがイングランドに1ポイントリードしトロフィーを手にした。 | リーグ
1976年 | ラグビーユニオンニュージーランド代表(オールブラックス)が南アフリカに遠征した。
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出典:wikipedia
2019/11/18 22:18

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