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ラリー・バードとは?

インディアナ・ペイサーズ

【役職】
経営コンサルタント
【殿堂】
バスケットボール殿堂
【永久欠番】
セルティックス 33
【ポジション(現役時)】
SF
【身長(現役時)】
206cm (6 ft 9 in)
【体重(現役時)】
100kg (220 lb)
【基本情報】

【本名】
Larry Joe Bird
【ラテン文字】
Larry Bird
【誕生日】
(1956-12-07) 1956年12月7日(62歳)
【国】
アメリカ合衆国
【出身地】
インディアナ州ウエストバーデン
【出身】
インディアナ州立大学
【ドラフト】
1978年 6位
【選手経歴】

1978-1992
ボストン・セルティックス
【指導者経歴】

1997-2000
インディアナ・ペイサーズ
【受賞歴】

選手時代

コーチ時代

エグゼクティブ部門


【キャリアスタッツ】

NBA通算


Stats Basketball-Reference
Profile NBA.com
Coaching Stats Basketball-Reference
【代表歴】

【キャップ】
アメリカ合衆国 1992
獲得メダル
アメリカ合衆国
オリンピック
 | 1992 バルセロナ | バスケットボール



ラリー・ジョー・バード(Larry Joe Bird1956年12月7日 - )は、プロバスケットボールリーグNBAで活躍したアメリカ合衆国の元バスケットボール選手。1980年代にNBAのボストン・セルティックスを3度の優勝に導いた。得点やパス、リバウンドのセンスに優れ、正確な長距離シュートや試合の先を読む能力に秀でていた。しばしば史上屈指の選手に挙げられ、史上最高のスモールフォワードの一人と考えられている。現役時代には既に「伝説 (Legend)」の異名を与えられていた。

シーズンMVPを3度受賞(連続受賞でもある)。1996年にNBA50周年を記念したNBA50周年記念オールタイムチームの1人に選ばれた。1998年に殿堂入り。身長は206センチ、体重は100キロ。引退後はインディアナ・ペイサーズで監督を務めて最優秀監督賞を受賞、NBAファイナルに進出した。現在は同チームの経営コンサルタントを務める。

目次

  • 1 生い立ちと少年時代
  • 2 大学時代
  • 3 ボストン・セルティックス
    • 3.1 キャリア初期
    • 3.2 キャリア中期
    • 3.3 キャリア末期
  • 4 個人成績
    • 4.1 NBAレギュラーシーズン
    • 4.2 NBAプレーオフ
    • 4.3 カレッジ
  • 5 プレイスタイル
  • 6 マジック・ジョンソンとの因縁
  • 7 負傷
  • 8 オリンピックと引退後
  • 9 コーチ業とチーム運営
    • 9.1 ヘッドコーチ
    • 9.2 人事部門担当者
  • 10 受賞・タイトル
  • 11 その他
  • 12 脚注
  • 13 外部リンク

生い立ちと少年時代

インディアナ州のウエストバーデンで6人の兄弟姉妹の4番目(兄弟は三人、姉妹は二人)として生まれる。少年時代のほとんどを同州のフレンチリックで過ごした。二人の兄にバスケットボールの手ほどきを受け、町のホテルで働く黒人の従業員とプレーすることもあった。

地元フレンチリックのスプリングス・バレー高校在籍時、学年が上がるとともに頭角を現していった。4年生の時には1試合平均で30得点、20リバウンドを上げ、各地の大学からスカウトされるようになった。

高校時代に背番号33を使うようになり、以後大学、プロを通じて同じ番号を使った。

大学時代

高校卒業後はインディアナ大学に進学。バスケットボールチームの監督はボビー・ナイトだった。バードはこの大学になじめず、一ヶ月たたないうちに大学を去り帰郷する。地元にいた1年間、町の清掃員として働き Northwood Institute という短大に通った。バードが故郷にとどまっていた1975年に離婚していた父が自殺した。バード自身はこの時期に結婚し、離婚を経験した。

その後、バードは再び大学への進学を決心し、数多くの大学からスカウトがバードのもとを訪れ、インディアナ州立大学に進むこととなった。インディアナ州立大学の最初の1年は編入生だったためプレーしなかったが、2年生以降の3年間で平均30.3得点、13.3リバウンドを記録。4年生の時にはチームを無敗でNCAAトーナメントの決勝まで導き、インディアナ州立大学シカモアズはシンデレラチームとして脚光を浴びた。決勝では同じく人気を集めていたミシガン州立大学スパルタンズと対戦。以降ライバルと目されるようになるマジック・ジョンソンと初めて戦い、バード率いるシカモアズは敗れた。この試合はNCAA決勝戦としては歴代最高の視聴率を記録している。

バードは4年生時の1979年ネイスミス賞とウッデン賞を受賞している。また1977年には大学生バスケットボール世界大会の全米代表に選ばれた。

バードは大学2年のときにソフトボールで遊んでいて、右手の小指と人差し指を複雑骨折している。何事にも基本に忠実なバードがゴロを両手で捕球しようとしたためであるといわれる。バードの人差し指はボストンのトレーナーによると、“ハンマーで叩き潰されたようにグチャグチャ”であるという。バードはシュートにおいて、大変なハンディを練習で克服した。バードの性格を物語るエピソードであり、あの美しい放物線を描くシュートもこの怪我と無縁ではないといわれている。しかしながら、本人もその骨折以来シュートタッチの感覚が元に戻ることはなかったと語っている。

ボストン・セルティックス

キャリア初期

1978年ボストン・セルティックスの社長兼ジェネラル・マネージャーだったレッド・アワーバックによりドラフト1順目6位で指名された。当時バードはインディアナ州立大学の3年生で中退の意図はなかったが、同大学に編入する以前インディアナ大学に属していた時からは4年目になっており、ドラフト規則の盲点を突いたアワーバックの機転による指名だった。バードはインディアナ州立大学を卒業した翌シーズンよりセルティックスに参加した。

1年目のシーズン、バードはチーム成績を前年の29勝53敗から61勝21敗まで引き揚げるのに大いに貢献し、ルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)に選ばれた。また新人ながらオールNBAファーストチームに選出された。同賞をバードは1988年まで連続で受賞することになる。この年のプレイオフでは、セルティックスはカンファレンス・ファイナルでフィラデルフィア・セブンティシクサーズと対戦し、1勝4敗で敗退した。優勝したのはロサンゼルス・レイカーズで、大学時代のライバルマジック・ジョンソンはファイナルMVPに選ばれた。

翌1980-1981シーズンに、セルティックスはトレードでロバート・パリッシュを、ドラフトでケヴィン・マクヘイルを獲得した。フロントコートに厚みを増したセルティックスは、レギュラーシーズンをリーグ1位タイの62勝20敗で終えた。プレイオフに進んだセルティックスはシカゴ・ブルズを3戦で退け、セブンティシクサーズを7戦で下してNBAファイナルに進出した。NBAファイナルではモーゼス・マローン率いるヒューストン・ロケッツと対戦した。競った展開となったシリーズ第1戦の第4クオーターで、バードは、シュートを放って外れると悟ったバード自身がベースライン右手に駆け出し、リングに弾かれたボールを空中で取りそのままシュートして決めると言う後に有名になるプレーを見せた。この試合をセルティックスは98対95でものにし、シリーズ全体も4勝2敗で制したセルティックスは5年ぶりに王者に返り咲いた。

翌1981-1982シーズン、セルティックスはリーグ最高の63勝19敗の成績をあげ、次の1982-1983シーズンには56勝26敗とリーグ3位となった。しかしプレイオフではセブンティシクサーズやミルウォーキー・バックスに敗れてNBAファイナル進出を果たせなかった。1982年はレイカーズ、1983年はセブンティシクサーズが優勝した。1981年に優勝した時、バードはセルティックスがしばらく連覇できるだろうと考えたが、現実にはカンファレンスのライバルだったセブンティシクサーズに行く手を阻まれ、大学以来のライバルと目されていたマジック・ジョンソンのレイカーズには水を開けられていた。

なお、バードはジャンプができない白人選手の代表のように言われることがあるが、のちに本人がビデオを見て驚いていたように、この時期のバードは試合中にダンクをすることもあった。

キャリア中期

1983-1984シーズン、セルティックスは62勝20敗で、リーグ最高の成績となった。シーズン平均24.2得点、6.6アシスト、10.1リバウンドを記録したバードはシーズンMVPに選ばれた。プレイオフでセルティックスはワシントン・ブレッツニューヨーク・ニックス、バックスを下してNBAファイナルに進出した。一方ウエスタン・カンファレンスからはレイカーズが勝ち上がった。

大学時代のNCAA決勝で対戦していたラリー・バードとマジック・ジョンソンは、プロ入り以降それぞれイースタン・カンファレンスとウエスタン・カンファレンスの強豪で中心的な選手となっていたが、両者がNBAファイナルで争うのはこの時が初めてだった。メディアやファンのみならず、全米が注目する中で両ライバルは対決することになった。

ボストンで行われたシリーズの緒戦、レイカーズのカリーム・アブドゥル=ジャバーの活躍もあり、セルティックスは109対115で敗れた。続く第2戦ではジェームズ・ウォージーの活躍により終盤でレイカーズがリードを奪うが、セルティックスのジェラルド・ヘンダーソンスティールにより試合は延長に入り、これをものにしたセルティックスがシリーズを1勝1敗のタイに持ち込んだ。ロサンゼルスに舞台を移した第3戦、マジック・ジョンソンがNBAファイナル記録となる21アシストをマークし、セルティックスは104対137で大敗を喫した。試合後、普段は言葉少ないバードがマスコミに対し「我々は腰抜けのようなプレイをした」「このチームにはハートがない。12人分の心臓移植をすべきだ」と自分とチームを強く批判した。第4戦で、バードの発言に鼓舞されたセルティックスは奮闘した。マクヘイルがレイカーズのカート・ランビスを転倒させたこと、バードとアブドゥル=ジャバーの接触などで乱闘寸前になるほど荒れた試合となったが、終盤にマジック・ジョンソンがミスを繰り返し、試合はシリーズ2度目の延長に突入した。セルティックスは延長を制し、シリーズは再びタイとなった。続く第5戦、熱波に襲われたボストンでの試合で、バードはフィールドゴールを20本中15本成功させ、34得点をマーク。セルティックスは3勝目を上げた。ロサンゼルスで行われた第6戦では、アブドゥル=ジャバーの活躍などでレイカーズが勝利。シリーズは3勝3敗のタイに持ち込まれた。

ボストンで行われた最終の第7戦では、セルティックスの各選手が活躍し、111対102でセルティックスが勝利。シリーズ平均27.4得点、14リバウンド、2スティールを記録したバードはファイナルMVPに選ばれた。

続く1984-85シーズン、セルティックスはリーグ最高の63勝19敗の成績で終え、バードは再びシーズンMVPに選ばれた。このシーズンのバードの平均28.7得点はリーグ2位、10.5リバウンドはリーグ8位、スリーポイントシュート成功率は42.7%でリーグ2位だった。シーズン中のアトランタ・ホークス戦では、生涯最高となる60点を記録した。一方、前シーズンの雪辱に燃えていたレイカーズはリーグ2位の62勝20敗の成績を残した。両チームはプレイオフを勝ち上がり、2年連続でNBAファイナルで対戦した。セルティックスは緒戦に大勝したものの、その後は一進一退の攻防となった。ボストンで行われた6試合目を100対111で落とし、4勝2敗でレイカーズの優勝が決まった。セルティックスがホームで優勝を奪われるのはチーム史上初めてのことだった。

翌1985-1986シーズン開幕前にセルティックスはかつてのMVPセンタービル・ウォルトンを獲得した。バード、ケヴィン・マクヘイル、ロバート・パリッシュに加え、セルティックスのフロントコートはさらに厚みを増した。シーズンに入るとセルティックスは快進撃を続け、人々はこのチームを史上最強と呼ぶようになった。シーズン成績は67勝15敗で、勝率は8割を超えた。ホーム戦の40勝1敗、勝率97.6%はNBA史上最高成績である。バード自身は平均得点25.8(リーグ4位)、フリースロー成功率89.6%(同1位)、平均スティール数2.02(9位)、平均リバウンド9.8(7位)、スリーポイントシュート成功率42.3%(4位)でスリーポイント成功数82本(1位)と多くのカテゴリーでリーグ上位に入った。シーズンが終了するとバードはシーズンMVPに選ばれた。3年連続でシーズンMVP獲得はビル・ラッセルウィルト・チェンバレンに次いで史上3人目であり、センター以外の選手ではバードが初めてであった。セルティックスはプレイオフをNBAファイナルまで11勝1敗の成績で勝ち上がり、ロケッツと対戦した。6試合に渡ったファイナルで、バードはシリーズ平均24得点、9.5アシスト、9.7リバウンドとトリプル・ダブルに近い数字を残し、最終戦となった第6戦では、29得点、12アシスト、11リバウンドとトリプルダブルを記録した。4勝2敗でセルティックスはロケッツを下し、バードはファイナルMVPに選ばれた。

翌1986-1987シーズン、バードの平均得点はリーグ4位の28.1得点、アシストとリバウンドの平均はそれぞれ7本と9本を超える高い水準だった。フィールドゴールとフリースローの成功率はそれぞれ50%と90%を超えた。ビル・ウォルトンの出場試合数は怪我のため10試合にとどまり、チームは59勝23敗でリーグ2位だった。プレイオフの1回戦でセルティックスはブルズを3勝0敗で一掃したものの、続くカンファレンス・セミファイナルでは合計3回の延長を含めて7戦までもつれての際どい勝利となった。カンファレンス・ファイナルでは、成長著しいデトロイト・ピストンズと対戦した。ボストンで行われた最初の2戦ではセルティックスが勝利、デトロイトで行われた続く2戦はピストンズが勝ちを収め、2勝2敗のタイでシリーズ第5戦の舞台は再びボストンに移った。ピストンズが107対106とリードして試合終了まで残り数秒という時点でピストンズボールのスローインとなったが、アイザイア・トーマスのインバウンズパスをバードがインターセプトし、最後はデニス・ジョンソンがゴールを決めて土壇場で逆転を果たし、セルティックスの3勝2敗となった。このスティールは、1965年ジョン・ハブリチェック1984年ジェラルド・ヘンダーソンのスティールとならび、ボストン・セルティックスの歴史上有名なスティールの一つとなった。続く2試合はそれぞれホームチームが勝利し、セルティックスがNBAファイナルに進出。4年間で3度目のレイカーズとの対戦となった。

NBAファイナルでは、ロサンゼルスで行われた最初の2戦をレイカーズが勝利。続くボストンでの3戦目をセルティックスが勝利した。第4戦の終盤、残り12秒の時点でバードのスリーポイントシュートによりセルティックスがリードを奪うが、コート外に出たボールをマジック・ジョンソンが中央に進め、フックシュートを放ち残り2秒でレイカーズが再逆転した。最後の瞬間にバードが放ったシュートはリングから落ち、シリーズはセルティックスの1勝3敗となった。続く第5戦はセルティックスが大勝したものの、ロサンゼルスに戻った第6戦をセルティックスは落とし、レイカーズの優勝が決まった。バードのセルティックスがNBAファイナルに進んだのはこの年が最後であり、バードとマジック・ジョンソンが優勝を争ったのはこれが最後となった。

なお、この年にオールスター期間に開催されるスリーポイントコンテスト (Long Distance Shootout) に優勝しており、1988年まで3連覇した。

キャリア末期

1987-1988シーズンになるとバードは30歳になっており、チームの主力も年齢が上がっていた。そして、ビル・ウォルトンが怪我のためシーズンの全試合を欠場するなど、怪我が目立つようになった。1987-1988シーズン、バードの平均得点は29.9得点でリーグ3位だった。アシスト数とリバウンド数も6.1アシスト、9.3リバウンドと依然として高い水準だったが、バードの得点が多いことはセルティックスのオフェンスがバランスを欠いていたということでもあった。プレイオフのカンファレンス・セミファイナルで、セルティックスはホークスと対戦、最終第7戦までもつれる展開となった。バードは第7戦前に記者たちに勝利を公約し、ホークスのドミニク・ウィルキンスが47得点を挙げるが、バードは第4クオーターだけで20得点を挙げ、118対116でセルティックスがカンファレンス・ファイナルに駒を進めた。カンファレンス・ファイナルではピストンズと対戦し、合計で3回の延長を含む6試合の末、セルティックスは敗れた。

翌1988-1989シーズン、バードはかかとに出来た骨の突起を除去する手術を受け、出場試合は6試合にとどまり、デビュー以来毎年選出されてきたオールNBAファーストチームも9年連続で途切れた。セルティックスのシーズン成績は42勝40敗に終わり、バードを欠いたチームはプレイオフの1回戦でピストンズに3敗しシーズンが終了した。1989-1990シーズンのバードは平均で24.3得点、7.5アシスト、9.5リバウンドの成績を残したもののチームは52勝30敗でカンファレンス4位、リーグでは8位だった。プレイオフでは1回戦でニックスに2勝3敗で敗退した。1990-1991シーズン、かねてからの背中の痛みが悪化したため、バードは22試合欠場し、平均得点は20点を割ることになった。プレイオフでは1回戦でインディアナ・ペイサーズと対戦し3勝2敗で辛勝したものの、続くカンファレンス・セミファイナルではピストンズに2勝4敗で敗退した。シーズン後、バードは背中の手術を受けた。

1991-1992シーズン、バードの背中の痛みは収まらず、45試合の出場にとどまった。全米放送された3月のポートランド・トレイルブレイザーズ戦では2度の延長でトリプル・ダブルを達成する快挙を成し遂げたが、プレイオフのカンファレンス・セミファイナルでクリーブランド・キャバリアーズに3勝4敗で敗退し、バードの最後のシーズンが終わった。この年の夏、ドリームチームの一員として1992年バルセロナオリンピックに出場した後、バードは引退を発表した。

個人成績

略称説明
GP | 出場試合数 | GS | 先発出場試合数 | MPG | 平均出場時間
FG% | フィールドゴール成功率 | 3P% | スリーポイント成功率 | FT% | フリースロー成功率
RPG | 平均リバウンド数 | APG | 平均アシスト数 | SPG | 平均スティール
BPG | 平均ブロック数 | TO | 平均ターンオーバー数 | PPG | 平均得点
太字 | キャリアハイ |  | リーグリーダー |  | 優勝シーズン

NBAレギュラーシーズン

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1979–80 | ボストン・セルティックス | 82 | 82 | 36.0 | .474 | .406 | .836 | 10.4 | 4.5 | 1.7 | .6 | 21.3
1980–81 | 82 | 82 | 39.5 | .478 | .270 | .863 | 10.9 | 5.5 | 2.0 | .8 | 21.2
1981–82 | 77 | 58 | 38.0 | .503 | .212 | .863 | 10.9 | 5.8 | 1.9 | .9 | 22.9
1982–83 | 79 | 79 | 37.7 | .504 | .286 | .840 | 11.0 | 5.8 | 1.9 | .9 | 23.6
1983–84 | 79 | 77 | 38.3 | .492 | .247 | .888* | 10.1 | 6.6 | 1.8 | .9 | 24.2
1984–85 | 80 | 77 | 39.5* | .522 | .427 | .882 | 10.5 | 6.6 | 1.6 | 1.2 | 28.7
1985–86 | 82 | 81 | 38.0 | .496 | .423 | .896* | 9.8 | 6.8 | 2.0 | .6 | 25.8
1986–87 | 74 | 73 | 40.6* | .525 | .400 | .910* | 9.2 | 7.6 | 1.8 | .9 | 28.1
1987–88 | 76 | 75 | 39.0 | .527 | .414 | .916 | 9.3 | 6.1 | 1.6 | .8 | 29.9
1988–89 | 6 | 6 | 31.5 | .471 | ... | .947 | 6.2 | 4.8 | 1.0 | .8 | 19.3
1989–90 | 75 | 75 | 39.3 | .473 | .333 | .930* | 9.5 | 7.5 | 1.4 | .8 | 24.3
1990–91 | 60 | 60 | 38.0 | .454 | .389 | .891 | 8.5 | 7.2 | 1.8 | 1.0 | 19.4
1991–92 | 45 | 45 | 36.9 | .466 | .406 | .926 | 9.6 | 6.8 | .9 | .7 | 20.2
Career | 897 | 870 | 38.4 | .496 | .376 | .886 | 10.0 | 6.3 | 1.7 | 0.8 | 24.3
All-Star | 10 | 9 | 28.7 | .423 | .231 | .844 | 7.9 | 4.1 | 2.3 | 0.3 | 13.4

NBAプレーオフ

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1980 | ボストン・セルティックス | 9 | 9 | 41.3 | .469 | .267 | .880 | 11.2 | 4.7 | 1.6 | 0.9 | 21.3
1981 | 17 | 17 | 44.1 | .470 | .375 | .894 | 14.0 | 6.1 | 2.3 | 1.0 | 21.9
1982 | 12 | 12 | 40.8 | .427 | .167 | .822 | 12.5 | 5.6 | 1.9 | 1.4 | 17.8
1983 | 6 | 6 | 40.0 | .422 | .250 | .828 | 12.5 | 6.8 | 2.2 | 0.5 | 20.5
1984 | 23 | 23 | 41.8 | .524 | .412 | .879 | 11.0 | 5.9 | 2.3 | 1.2 | 27.5
1985 | 20 | 20 | 40.8 | .461 | .280 | .890 | 9.1 | 5.8 | 1.7 | 1.0 | 26.0
1986 | 18 | 18 | 42.8 | .517 | .411 | .927 | 9.3 | 8.2 | 2.1 | .6 | 25.9
1987 | 23 | 23 | 44.1 | .476 | .341 | .912 | 10.0 | 7.2 | 1.2 | 0.8 | 27.0
1988 | 17 | 17 | 44.9 | .450 | .375 | .894 | 8.8 | 6.8 | 2.1 | 0.8 | 24.5
1990 | 5 | 5 | 41.4 | .444 | .263 | .906 | 9.2 | 8.8 | 1.0 | 1.0 | 24.4
1991 | 10 | 10 | 39.6 | .408 | .143 | .863 | 7.2 | 6.5 | 1.3 | 0.3 | 17.1
1992 | 4 | 2 | 26.8 | .500 | .000 | .750 | 4.5 | 5.3 | 0.3 | 0.5 | 11.3
Career | 164 | 162 | 42.0 | .472 | .321 | .890 | 10.3 | 6.5 | 1.8 | 0.9 | 23.8

カレッジ

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1976–77 | インディアナ州立大学 | 28 | ... | 36.9 | .544 | ... | .840 | 13.3 | 4.4 | ... | ... | 32.8
1977–78 | インディアナ州立大学 | 32 | ... | ... | .524 | ... | .793 | 11.5 | 3.9 | ... | ... | 30.0
1978–79 | インディアナ州立大学 | 34 | ... | ... | .532 | ... | .831 | 14.9 | 5.5 | ... | ... | 28.6
Career | 94 | ... | ... | .533 | ... | .822 | 13.3 | 4.6 | ... | ... | 30.3

プレイスタイル

Bird drives to the basket

バードは他の平均的なNBA選手と比べて身体能力・運動能力には恵まれていなかった。しかし、正確な技術とゲームの流れを読む能力に長けていた。特に中距離・長距離シュート、リバウンドパス(アシスト)の技術に秀でていた。リーグ屈指のスリーポイントシューターであり、肩にボールを担ぐような独特なフォームで、多くのシュートを沈めている。バードほどの長身でこれほどまでにオールラウンドな選手は、マジック・ジョンソンくらいしかいなかった。試合の展開を正確に把握していたため、セルティックスの監督を務めていたビル・フィッチは、カメラのように毎回試合中の各場面を脳に記録するという意味でバードに「コダック」のあだ名を与えた。

スモールフォワードにしては大きい206cmの身長がありながらも跳躍力が著しく低く、ダンクシュートは助走を付けなければ満足に成功させることができなかった。走ることも苦手であり、足も遅かった。ルーキー時代には、ドリブルも利き手である右手でしかスムーズに突けず、そのドリブルも掌でひっぱたくような危なっかしいものだった。バードはNBA選手でありながら、バスケットボール自体が苦手のように思われていた。しかしバードは、尋常ではない情熱と闘争心、そしてたゆまぬ懸命な努力で徐々に眠っていた才能を覚醒させた。身体能力の低さを補って有り余るほどの、バスケットボールに必要なすべての技術を身につけた。鈍足ながらもコート上を必死に駆け回ってシュートチャンスをつくり出し、決定打となるシュートを幾度となく沈めた。バードはアウトサイドプレイを中心とする反面、ここぞという時には果敢にリバウンド争いに参戦し、ベストポジションでリバウンドをもぎ取っていた。ルーズボールにも怪我を顧みず飛び込んで行き、誰よりも必死に喰らいついていた。そのような激しい情熱を押し出すバードのハードなプレーは、観る者すべてを引き付けていた。

驚異的な勝負強さを誇り、土壇場でチームを救うプレーが数多くあった。名将として知られ、ライバルレイカーズのコーチでもあったパット・ライリーは「もし試合を決める場面でシュートをまかせるとしたらジョーダンを選ぶが、自分の生死がかかった場面でシュートをまかせるとしたらバードを選ぶ」と語っている。スティール技術とディフェンスリバウンドにも長けており、NBAオールディフェンシブセカンドチームに3度も選出されている。一方で、チャールズ・バークレーのように「バードはディフェンスが苦手だ」と評する者もいた。リーグトップクラスの選手でありながら、バードの技術は年々向上した。利き手である右手と遜色なく使える左手のシュートは、プロ入り後に上達させた技術の一つである。1986年のポートランド戦では試合前に「少なくとも第3クオーターまでは左手でシュートする」とチームメイトに宣言し、左手のシュートだけで20得点を記録した(総得点は47点)。シーズンオフには、主に実家でトレーニングを行った。ルーキー時代には酷評されていたドリブル技術も向上し、バードのポジションはスモールフォワードでありながら、ドリブル技術とパス技術に長けているために実質的にはチームのポイントガードを務めていた。これは、ポイントガードの仕事をするフォワード、ポイントフォワードの先駆けといえる。ロバート・パリッシュケヴィン・マクヘイル、そしてバードからなるセルティックスのセンターおよび二人のフォワードをNBA史上最高のフロントラインと評価する専門家も多い。

1970年代までのNBAは、ビル・ラッセルウィルト・チェンバレンカリーム・アブドゥル=ジャバーのような有力なセンタープレイヤーが試合の勝敗、チームの優劣を決めてきた。しかし、バードやマジック・ジョンソン、マイケル・ジョーダンらの登場により、ガードやフォワードの選手がゲームを支配することが可能であることが示された。この意味でバードは、NBAひいてはバスケットボールに変革をもたらした選手の一人だった。


試合中は強気な態度を取ることが多く、相手選手を挑発するトラッシュ・トーカーとしても有名であった。 1984年のセブンティシクサーズ戦では、不調だったジュリアス・アービング

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出典:wikipedia
2019/11/05 08:44

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