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リチャード・ニクソンとは?


任期 1969年1月20日1974年8月9日
副大統領 スピロ・アグニュー(1969年 - 1973年)
不在(1973年)
ジェラルド・R・フォード(1973年 - 1974年)

任期 1953年1月20日 – 1961年1月20日
元首 ドワイト・D・アイゼンハワー

任期 1950年12月1日 – 1953年1月1日

任期 1947年1月3日 – 1950年11月30日

出生 1913年1月9日
アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ヨーバリンダ
死去 (1994-04-22) 1994年4月22日(81歳没)
アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ニューヨークシティ
政党 共和党
出身校 ウィッティア大学
デューク大学
配偶者 パット・ニクソン
子女 トリシア・ニクソン
ジュリー・ニクソン
署名

リチャード・ミルハウス・ニクソン(Richard Milhous Nixon, 1913年1月9日 - 1994年4月22日)は、アメリカ合衆国政治家。第37代アメリカ合衆国大統領

目次

  • 1 概要
  • 2 生い立ち
    • 2.1 幼少時代
    • 2.2 青年時代
  • 3 弁護士
  • 4 海軍時代
  • 5 政治家へ
    • 5.1 弁護士
    • 5.2 下院議員
    • 5.3 上院議員
  • 6 1952年の大統領選挙
    • 6.1 「チェッカーズ・スピーチ」
  • 7 副大統領
    • 7.1 「台所論争」
    • 7.2 アイゼンハワーとの関係
  • 8 1960年の大統領選挙
    • 8.1 共和党大統領候補へ
    • 8.2 本選
      • 8.2.1 テレビ討論
      • 8.2.2 ケネディの選挙不正への対応
      • 8.2.3 敗北
  • 9 不遇時代
    • 9.1 弁護士活動再開
    • 9.2 カリフォルニア州知事選
  • 10 1968年の大統領選挙
    • 10.1 予備選
    • 10.2 選挙戦
  • 11 第37代合衆国大統領
    • 11.1 支持基盤
      • 11.1.1 南部戦略
    • 11.2 内閣
    • 11.3 ホワイトハウス
  • 12 外交政策
    • 12.1 デタント推進
      • 12.1.1 ベトナム(インドシナ)戦争の終結
        • 12.1.1.1 選挙公約
        • 12.1.1.2 ニクソン・ドクトリンと秘密和平交渉
        • 12.1.1.3 アメリカ軍の完全撤退
    • 12.2 中華人民共和国訪問
  • 13 国内政策
    • 13.1 ドル・ショック
    • 13.2 環境対策の推進
    • 13.3 麻薬取締局の設置
    • 13.4 1972年の大統領選挙
    • 13.5 副大統領交代
    • 13.6 ウォーターゲート事件と辞任
  • 14 大統領辞任後
    • 14.1 ウォーターゲート事件の後遺症
    • 14.2 イメージの修復
    • 14.3 死去
  • 15 評価
  • 16 密約
  • 17 参考文献
    • 17.1 著書
    • 17.2 参考文献
  • 18 ニクソンに関係する作品
    • 18.1 ニクソンを描いた映画
    • 18.2 ニクソンが登場する映画
    • 18.3 ニクソンを(基として)描いたテレビドラマ
    • 18.4 ニクソンを描いた舞台
    • 18.5 ニクソンに言及もしくは関連した楽曲
  • 19 注釈
  • 20 出典
  • 21 関連項目
  • 22 外部リンク

概要

リチャード・ミルハウス・ニクソンはカリフォルニア州オレンジ・カウンティ(オレンジ郡)に生まれ、デューク大学ロースクール卒業後は弁護士として活躍し、1946年共和党の政治家に転身。下院議員上院議員を経て、1953年ドワイト・D・アイゼンハワー政権で第36代副大統領に就任し、1960年の大統領選挙ではジョン・F・ケネディに敗れたが、1968年の大統領選挙に当選して第37代アメリカ合衆国大統領に就任した。

外交ではベトナム戦争からのアメリカ軍の完全撤退を実現し、当時東西対立の時代にあってソビエト連邦とのデタント(緊張緩和)を実現し、世界があっと驚いた中華人民共和国の訪問など積極的なニクソン外交を展開した。また国内経済が高い失業率・インフレ・不況とドルの信認低下の状況の中で突然ドルの金交換停止・輸入課徴金制導入・物価賃金凍結などの思い切った政策転換を発表(ニクソンショック)して、ドルの切り下げをアメリカの強いリーダーシップで実施し新しい国際通貨体制の確立に尽力した。しかし、大統領再選を目指した1972年にウォーターゲート事件を起こし、再選後の1974年に大統領辞任に追い込まれて任期中に辞職した唯一のアメリカ大統領となった。

生い立ち

幼少時代

幼少時のニクソン(右から2番目)

リチャード・ミルハウス・ニクソンは1913年1月9日にカリフォルニア州南部、ロサンゼルス近郊のヨーバリンダにて父フランシス・ニクソンと、裕福な家の出身で熱心なクエーカー教徒の母ハンナ・ミルハウス(メルハウゼン)の間に5人兄弟の次男として生まれる。父も母もアイルランドの家系である。父は結婚前はメソジスト教徒で、宗教にさほど熱心ではなかったが、母はクエーカー教徒で、父は結婚後にクエーカー教徒に改宗した。母はクエーカー教徒の中でも保守的な福音主義で厳格な躾を子どもたちに行った。

一家は東部から西部へ転々として父は大工から農夫、トロリーバスの運転手と職を変え、住所を変えながらやがて、1922年に母の実家の近くのウィッティアに引っ越し、雑貨屋兼八百屋兼ガソリンスタンドを始める。リチャードが生まれる頃はウィッティアに落ち着く前のヨーバリンダでレモン農園を経営して失敗していた。

ニクソンは回顧録などで幼少期を振り返って「貧しかったが幸せだった」と語っているが、ウィッティアでは父の店の経営は軌道に乗り、しかも母の実家が裕福であったことから、ピアノヴァイオリンを習う余裕もあるなど、当時のアメリカの平均的な家庭と比べて決して貧しいものではなかった。しかしやがて長男と四男の病気が一家の家計に重くのしかかり、父は店の土地半分を売らなければならなくなる。10歳の時には、ジャガイモの選別、野菜の配達、ガソリンスタンドのポンプ押しをして、やがて店の野菜主任そして経理主任をこなすようになった。

青年時代

四男のアーサーと長男のハロルドが相次いで小児結核を患い医療費がかさんだこともあり、ニクソンは早起きして登校前にアルバイトをこなして家計を助けた。だが二人とも早世しニクソンは「神の存在を疑った」という。しかし学校では学外活動にも熱心で、放課後にはアメリカン・フットボールの練習に励み、万年補欠ながらガッツは人一倍であった。また、弁舌の才能を発揮し、弁論大会でも好成績を収めている。

地元のウィッティア高校卒業後にハーバード大学から奨学生(tuition granted)としてのオファーを受けるが、兄弟の病などもあり地元を離れることは難しく、母方の祖父の援助を得て地元のウィッティア大学(Whittier College - クエーカー教徒の学校)に入学し、1934年に2番目の成績で卒業した。そして卒業後にデューク大学ロー・スクールに進んだ。この法科大学は南部の石油成金の億万長者が基金を寄贈し、将来有望な学生を養成するための奨学金制度を設立して全米から貧しいが優秀な大学生を募集した法律専門大学で、ニクソンは成績抜群でこの奨学金を得ている。

弁護士

デューク大学法学大学院を3番目の成績で1937年に卒業し、同年にカリフォルニア州の司法試験に合格した。そしてニューヨーク州の大手弁護士事務所への就職を希望し、サリバン・エンド・コムウェル・オフィスを受験したが東部の人間との人脈に恵まれなかったこともあり、希望していた東部の法律事務所での就職をあきらめた。この時この事務所には当時有名な法律家であったジョン・フォスター・ダレスがいて彼は16年後には、ニクソンの部下としてアイゼンハワー政権の国務長官となった。

またもう一つ大学の推薦で連邦捜査局FBIの試験を受けたが返事がなく、諦めてカリフォルニアに戻った。16年後に部下となったエドガー・フーバーFBI長官に副大統領となったニクソンが問いただしたところ、一度は採用が決まったものの、予算削減で急遽取りやめになったということであった。この後にフーバー長官とは親密な関係を築くこととなる。

カリフォルニアに戻ったニクソンは地元のウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職し、やがて1939年には自らの弁護士事務所を開業した。そして弁護士として活動中の1940年6月11日に、演劇サークルで知り合ったネバダ州出身の高等学校教師セルマ・キャサリン・ライアン(愛称パット)と結婚した。

結婚後の1941年12月に、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃でアメリカが対日参戦した時に、首都ワシントンの連邦物価統制局に就職して、リチャードとパットはワシントンD.C.に居を移すこととなった。

海軍時代

アメリカ海軍時代のニクソン少佐

1941年12月に、アメリカも参戦した第二次世界大戦の太平洋戦線では、アメリカ軍は真珠湾攻撃で太平洋艦隊が手痛い損失を受けたうえに、ニクソンの地元のカリフォルニア州南部に日本海軍の艦艇による砲撃を受けたほか、日本軍機による爆撃を受けるなど、各地で日本軍に対し劣勢に立たされていた。

そのような状況下で、1942年6月にニクソンは士官募集に応募して海軍に入隊した。海軍への入隊後には、海軍士官としての通常の訓練を受けたものの、修士号のみならず弁護士資格を持つことや、物価統制局での勤務経験があることから一般の戦闘要員とはならず補給士官に任命された。

入隊後はしばらくアメリカ国内のアイオワ州の基地で勤務した後に、1943年5月より、日本軍と死闘が繰り広げられていた南太平洋戦線のニューヘブリデス諸島に配属された。やがて戦線の移動とともにフランスニューカレドニアなどへ転属され、主に戦線へ軍需物資を補給する補給士官として前線にほど近い戦場で兵站業務に就いた。

1944年7月にはブーゲンビル島の前線より国内に帰還してカリフォルニア州アラメダの海軍航空基地に勤務し、その後1945年1月にはアメリカ東部のフィラデルフィアの基地への移転を命じられ、そこで5月のドイツ降伏、8月の日本降伏で終戦を迎えた。この海軍勤務時代に後にニクソン政権の国務長官となるウィリアム・P・ロジャーズと知り合っている。

また海軍にいる間にポーカーを覚えたニクソンは、「アメリカ海軍きってのポーカーの名手」としてつとに知られ、前線時代を中心に1945年8月15日の終戦までに賭けポーカーで1万ドル以上を稼いだといわれている。

政治家へ

弁護士

第二次世界大戦の終結に伴い、少佐で海軍除隊後にペプシコ社の弁護士になり、ペプシコーラの世界進出に協力。「アメリカの産業を保護する」という大義名分のもとに各国の炭酸市場での販路拡大活動に活躍し、さらに国際的な弁護士の看板はヨーロッパ日本で人脈を築くのにも役立った。しかしこの仕事を通じて知り合ったアメリカをはじめとする各国の政治家の倫理観の低さに本気で呆れていたという。

下院議員

上院議員選挙時のニクソン

そして1946年に母校であるウィッティア大学の総長や、母の知人のバンク・オブ・アメリカウィッティア支店長ら地元有力者からの推薦を受け、地元のカリフォルニア州の第12下院選挙区から共和党候補として立候補した。このニクソンの立候補に対して妻のパットは当初反対したものの、その後女性票を獲得するために自ら集会であいさつ回りをするなどの献身的な支えもあり、民主党選出で、労働組合をその主な支持基盤とする現職のジェリー・ヴアリスを破り下院議員に選出された。

同じ年の選挙で、マサチューセッツ州で民主党から立候補したジョン・F・ケネディも初当選し、この2人は南太平洋地域で従軍した海軍の退役軍人出身という共通の経歴から、議員活動では友好的な関係を築いた。

下院議員となったニクソンは、下院非米活動委員会のメンバーとなり、ウィリアム・P・ロジャーズなどの協力を受けて、東西冷戦でソ連との緊張激化の中で当時「赤狩り」旋風を巻き起こしていた共和党上院議員ジョセフ・マッカーシーとともに、元共産党員でソ連にアメリカの機密情報を流したとされたトルーマン政権の高官アルジャー・ヒスについて、当初事実無根というヒスの証言を受けて他の議員が追及しなかった中で唯一人追及の手を緩めず、ついに偽証罪に追い込んだことで「反共の闘士」として彼の名が全米に知れ渡った。

上院議員

1950年上院議員選挙に立候補して、民主党の対立候補で女優であるヘレン・ギャーギャン・ダグラスと議席を争った。この選挙では地元の油田開発に反対するダグラスのリベラルな言動が有権者に嫌われ、また選挙の活動期間中に朝鮮戦争が勃発し反共的な風潮が強まったことも追い風となり、ダグラスに大差をつけて当選し上院議員に選出された。

しかし、この選挙の際のニクソンの言動が後々まで尾を引くこととなった。夫が左翼シンパとして有名であったが自らは「リベラル派」との評価を受けていたダグラスに対してニクソンは「共産主義者」のレッテルを貼った。そのことが多くの左派リベラル派のジャーナリストの反感を呼び、後の副大統領候補として立った際に執拗な攻撃を受ける要因となった。彼にとってはリベラル派も共産主義であり、対立候補をことごとく「共産主義者」のレッテルを貼って攻撃する戦略をとったため、民主党は「トリッキー・ディック」と呼んで反駁した。

1952年の大統領選挙

しかし、これらの活動が共和党内の保守派を中心に高い評価を受け、1952年に行われた大統領選挙において、わずか39歳でドワイト・D・アイゼンハワーの副大統領候補に指名された。この年の大統領選での顕著な出来事の1つは、当時一般家庭に普及が進んでいたテレビが大統領選挙に大きな影響力を持っていることが明らかになったことである。その最初の例がニクソンが行ったテレビ演説であった。

「チェッカーズ・スピーチ」

「チェッカーズ・スピーチ」を行うニクソン
詳細は「en:Checkers speech」を参照

副大統領候補に指名される前からニクソンは、彼に金銭的余裕がないことを知った地元の有志たちが作った支援基金団体から、政治活動資金の援助を受けていた。民主党大統領候補のアドレー・スティーブンソンも同様の資金援助を受けていたにもかかわらず、共和党に批判的であったタブロイド大衆紙ニューヨーク・ポスト紙は、共和党全国大会で副大統領候補に指名されて大統領選挙の本選に入った1952年9月18日に、このニクソンの資金援助の事のみを「ニクソンの秘密信託基金」と批判し、さらに「2万ドルを受け取った」、「物品の提供も受けた」と伝えた。さらにもともと共和党支持の「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙までがその社説で「ニクソンは辞表を提出すべきである」と主張した。

その後アイゼンハワーの選対本部はこの記事が大統領選に与える影響を憂慮し、選対本部の一部はニクソンを副大統領候補から降ろすことや、議員辞職をさせることまでを画策しはじめた。

これに対してニクソンは、「候補を降りることや議員を辞職すれば、これらの疑惑を認めてしまうことになる」と言って候補から下りることを拒否し、テレビで自ら潔白であることを訴える演説を行うこととした。1952年9月23日夜にその模様は全米にテレビ中継された。この演説の冒頭にニクソンは「今夜私は皆さんの前に、米国の副大統領候補として、またその正直さと誠実さを問われている一人の人間として立っています」と述べて、ニクソン家のありとあらゆる私財リストをさらけ出した。「カリフォルニアの両親が住んでいた家が3千ドルで借金1万ドル、ワシントンの自宅が2万ドルでそのまま借金2万ドル、生命保険が4千ドルで借金5百ドル、株と社債はゼロ、ワシントンの銀行からの借金が4千5百ドル、両親から借りた金が3千5百ドル……」自分の個人資産の詳細を事細かく説明して、いかに質素な生活をしているかを訴えた。

逆にトルーマン政権の閣僚の妻達の中には「院外活動をする人々から高価な毛皮コートを受け取った」と告発されている者がいた事を受け、横に座る妻のパットが「ミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」と言ってトルーマン政権の閣僚を皮肉るとともに、「以上が私たちの財産と負債の全てです。問題の1万8千ドルは私たちのためには使っていません」として支援基金団体から提供された資金を私的に使用したことを明確に否定した。

そして「物品の提供を受けたことはない。しかし例外がある。娘二人がを飼いたいと言っていたことを耳にしたテキサス州の支援者からコッカースパニエルをもらった。けれど6歳の長女トリシアが『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはありません」と述べ、さらに「自分が副大統領候補を辞退するべきか否かについての意見を、共和党全国委員会に伝えてほしい」と訴えた。

この放送は、その後「チェッカーズ・スピーチ」と呼ばれるほどの大きな反響を視聴者に与えるとともに、「提供された資金を私的に流用した」という批判を払拭し、いわれのない攻撃を受けるニクソンに対する同情と支持を集めることに成功した。さらに、ニクソンを引き続き副大統領候補として留めることを要求する視聴者からの連絡が共和党全国委員会に殺到したことで、副大統領候補の辞退さえ迫られていたニクソンは、引き続き副大統領候補として留まることになった。しかし、家族だけでなく愛犬までを持ち出したスピーチに対して、一部のジャーナリストから「愚衆政治的」との批判を受けることとなった。しかし最初テレビによって救われたニクソンだが、その後はテレビに躓き、最後までテレビに苦しむ政治家となった。

副大統領

アイゼンハワーと大統領就任式典に臨むニクソン
インドネシアスカルノ大統領とともに

このような逆風にあったものの、その後アイゼンハワーとニクソンのコンビは、大統領選本選で一般投票の55%、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンとジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となった。

副大統領に就任したニクソンは、初の外国への公式訪問として、アメリカに隣接し関係の深いキューバベネズエラをはじめとする南アメリカ諸国を訪問した。ベネズエラの首都のカラカスを訪問した際に反米デモが起こり、暴徒化して地元の警察でさえコントロールできなくなった状況でニクソンのデモ隊に対する沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。

またその後もアフリカ諸国への訪問(アメリカの副大統領として史上初のアフリカ大陸への訪問であった)をはじめとする、諸外国への外遊を積極的に行った。同年の10月5日から12月14日にかけて、日本中華民国韓国などの北東アジアからフィリピンインドネシアラオスカンボジアなどの東南アジア、インドパキスタンイランなどの西アジア、オーストラリアニュージーランドなどのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊を行った。この時に11月15日に戦後初の国賓として来日し、日米協会の歓迎会の席で「アメリカが日本の新憲法に非武装化を盛り込んだのは誤りであった」と述べている。

また、これより前に1954年4月16日の全米新聞編集者協会の年次大会で「万一インドシナが共産主義者の手に落ちれば全アジアが失われる。アメリカは赤色中国(レッドチャイナ)や朝鮮の教訓を忘れてはならない」と述べた。当時の有力政治週刊誌はチャイナ・ロビー活動に熱心な政治家の一人としてニクソンをあげて、1950年の上院議員選挙の際に中華民国総統蒋介石から資金の援助があったという噂を書いている。

1954年にディエンビエンフーでフランス軍が敗北した際には「フランスが撤退すればアメリカが肩代わりをする」としてインドシナ出兵論を唱えた。同じ年に中華人民共和国が中華民国の金門・馬祖両島に爆撃をした時は、中国人民解放軍への軍事的対抗を主張した。なおベトナムからのアメリカ軍撤退と中華人民共和国訪問を自ら実現するのはこれからほぼ20年後のことである。そしてこの当時中華人民共和国に結びつこうとしたインドを牽制して、対立するパキスタンに軍事援助を与えた

インドを訪問した時にネール首相と会談したが、ネールはニクソンを「原則の無い若者」として侮蔑の言葉で呼び捨てた。下院議員時代に「赤狩りニクソン」のニックネームで呼ばれ、副大統領になってもその反共主義は変らなかった。そしてやがて東西対立がまだ厳しい中でソ連を公式訪問してフルシチョフ首相とやりあうこととなった。

「台所論争」

詳細は「en:Kitchen Debate」を参照
フルシチョフと「台所論争」を行うニクソン

1959年7月24日には「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦の首都モスクワを初めて公式訪問した。これは当時の、フルシチョフ政権下におけるいわゆる「雪融け」(w:Khrushchev Thaw)にともなう緊張緩和(一時的なものではあったが)などが背景にある。このニクソン訪ソの折にフルシチョフをアメリカに招待し、そのまた返礼でアイゼンハワー大統領の訪ソを実現するためのものであった。

この年の初め1月にニューヨークで「ソビエト博」が開催されて、出品された展示品は当時のソ連が誇るミサイルなどの軍事兵器を主力としたもので、対してモスクワでの「アメリカ博」の展示品はアメリカ生活文化の粋を集めたものであった。この時モスクワのソコルニキ公園で開催されたアメリカ博覧会の開会式は、ソ連首相のニキータ・フルシチョフを招いて行われた。

ニキータ・フルシチョフ首相を会場内を案内している時に、ニクソンとフルシチョフの間で、会場内に展示してあるアメリカ製の台所用品や日用品・電化製品を前にして、アメリカにおける冷蔵庫の普及と宇宙開発の遅れ、ソ連の人工衛星スプートニク」の開発成功と国民生活における窮乏を対比し、資本主義共産主義のそれぞれの長所と短所について討論となった。

この際にニクソンは、感情的に自国の宇宙および軍事分野における成功をまくしたてるフルシチョフと対照的に、自由経済と国民生活の充実の重要さを堂々かつ理路整然と語った。その討論内容は、冷戦下のアメリカ国民のみならず自由陣営諸国の国民に強い印象を残し、当時は米ソ間の「台所論争」として有名になった。

アイゼンハワーとの関係

妻パットとともに長女トリシア、次女ジュリー(腕に抱えて)をアイゼンハワーに紹介するニクソン(1952年9月10日 ワシントン国際空港にて)

アイゼンハワーの下で副大統領を務めた期間のニクソンは、1954年3月にスティーブンソンが共和党を「半分アイゼンハワー、半分マッカーシーの党」と攻撃した時に反撃役をこなし、アイゼンハワー政権においていわば「汚れ役」を押し付けられることが多かったものの、この役割を忠実にこなした。

しかしながら、アイゼンハワー大統領が1955年9月24日の心臓発作、1956年6月の回腸炎に伴う入院、また1957年11月の心臓発作の際に3度にわたって臨時に大統領府を指揮監督した。これは通常行われる正式な大統領権限の委譲は行われなかった。そして1956年の大統領選挙の時には、アイゼンハワー直々の指示により副大統領の座を降ろされそうになったものの、ニクソンに対する国民からの支持が強いことを知った共和党全国委員長レン・ホールらによって、この指示が取り消されたということもあった。

さらにアイゼンハワーがニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれたとき「まあ3週間も考えればね」と答え、このやり取りは全国に知れ渡った。これらのアイゼンハワーによる冷遇を薄々感じていたニクソンは「元々アイゼンハワーは私のことを嫌っていた」と漏らすこともあった。また、この頃はアメリカにおいて出自による差別がまだ根強く残っていたこともあり、アイゼンハワーの妻のメイミーも、貧しいブルーカラー出身のパットのことを、陰で「貧乏人」と嘲っていたと言われている。

しかし、ニクソンが大統領に就任した1968年に、娘のジュリーがアイゼンハワーの孫のデーヴィッド・アイゼンハワーと結婚するなど、アイゼンハワー家との関係はその後改善されただけでなく、より密接なものとなっていく。

1960年の大統領選挙

詳細は「1960年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照

共和党大統領候補へ

選挙中にニューヨークで歓迎を受けるニクソン

アイゼンハワーは1960年時点でもその人気は高かったものの、三選が禁じられているため、共和党は1960年の大統領選挙で新しい候補者が立つこととなった。そして副大統領であったニクソンは予備選挙に出馬することとなった。

1960年に行われた共和党予備選挙は、共和党中道左派の指導者で、ニューヨーク州知事で大富豪のネルソン・ロックフェラーが立候補の構えを見せたが、離婚歴があってこの当時では大きな不利となり、共和党の大半がニクソンを支持している情勢に、立候補を断念すると表明して、有力対抗馬ロックフェラーの撤退でニクソンは共和党の大統領候補指名争いで有利な戦いとなった。7月にシカゴで開催された1960年共和党全国大会では、アリゾナ州選出の上院議員バリー・ゴールドウォーターが10票の代議員票を獲得しただけで、ニクソンは圧倒的な支持を得て共和党の大統領候補に指名された。その共和党大統領候補指名受諾演説でニクソンは選挙期間中に50州全てを遊説することを明らかにした。

本選

大統領選挙の本選に入る時に、ニクソンが立てた選挙戦略は、前半はペースを上げず、あまり早い段階で盛り上げることはせず、後半のある時期から一気に選挙運動のムードとペースを変えて、特に投票日の3週間前からはテレビと広告を使って盛り上げていき、そしてアイゼンハワー大統領の応援も最終段階に入ってから行うというものであった。前半から盛り上げていくと必ずどこかで中だるみがあり、最初は緩いペースからでいく予定であった。しかし9月に入ってからの序盤に突然体調を崩し、治療のため2週間入院したことで選挙日程が大幅に狂い、これが選挙運動全体に影響することになった。一方ケネディ陣営は最初から一気に盛り上げていく作戦で積極的に選挙運動を展開する間、ニクソンは病院のベッドにいた。ある人は余裕と見ていたが、8月時点での世論調査の支持率はニクソン53%、ケネディ47%であった。

テレビ討論

ニクソンとケネディ(1960年)
ケネディとのテレビ討論

そして退院後すぐに行われたのがテレビ討論会である。序盤には支持率で完全に優勢であったニクソンは、この時病み上がりで顔色が悪かったにもかかわらず「議論の内容が重要である」としてその勢いを保ったまま、得意の外交政策などで論戦してケネディに勝つ作戦であった。しかし後に「ニクソンが接戦に追い込まれ敗北した最も重大な要因は最初のテレビ討論だった」とされている。

そのテレビ討論会は1960年9月26日に第1回が開かれた。この討論会は全米で約7,000万人がテレビかラジオで視聴した。白黒テレビに映えるように黒っぽいスーツを着こなし健康的に見えたケネディに対して、グレーのスーツを着て病み上がりの顔のニクソンは視覚的には最初から不利であった。当時はまだ白黒テレビの時代で多くの視聴者には、「背景に溶け込んではっきりしない灰色のスーツを着用し、病弱に見える人が多くの汗をかいている」ようにしか見えなかった。一方のライバルであるケネディは、服飾コンサルタントが白黒テレビを意識して選んだスーツを身に付け、若く健康的に見えた。

討論をラジオで聞いた人々は「討論の内容でニクソンが勝った」と考えたが、テレビで見た人々の印象はそれとは違っていた。後にケネディ陣営はこのテレビ討論会は引き分けであったとしたが、ニクソンと互角であったということで十分な成果であった。結果的には討論内容には劣るものの、テレビ的な見栄えでケネディが勝ったとされる。なおこのテレビでの討論会は合計4回行われた。

そしてニクソンの誤算は共和党で指名を受けた時に50州全てを遊説すると述べたことで、病気のために休まざるを得なかったため選挙日程が狂い、選挙戦の一番大事な終盤に選挙人の多い重要な接戦州を回れず、遠いハワイ州やアラスカ州などを回らざるを得なかったことである。ケネディはその間に多くの接戦州を重点的に遊説して最後の逆転につながった。最終的に投票総数ではケネディとは僅差でありながら、獲得した選挙人数では303対219と差をつけられた。

ケネディの選挙不正への対応

この時の選挙において、ケネディが予備選挙中に友人のフランク・シナトラから紹介してもらったシナトラの元恋人ジュディス・キャンベルを経由して、イリノイ州シカゴのマフィアの大ボス、サム・ジアンカーナを紹介してもらいウェスト・ヴァージニア州における選挙への協力を直接要請した他、当時シナトラとマフィアの関係に注目し捜査を行っていたFBIの盗聴により、シナトラが同州のマフィアからケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたことが明らかになっている。

さらに、禁酒法時代に密造酒の生産と販売を行っていた関係から、東海岸やシカゴ一帯のマフィアと関係の深いケネディの父ジョセフも、マフィアの協力の下、マフィアやマフィアと関係の深い労働組合・非合法組織を巻き込んだ大規模な選挙不正を行っていたことが現在では明らかになっている。

これらのケネディ陣営に対するマフィアによる選挙協力のみならず、選挙終盤におけるケネディ陣営のイリノイ州などの大票田における大規模な不正に気づいたニクソン陣営は正式に告発を行おうとしたが、ニクソンが過去に精神科のカウンセリングを受けた過去がある証拠をケ

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出典:wikipedia
2020/02/07 16:56

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