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ルイジアナ州とは?

ルイジアナ州
State of Louisiana
État de Louisiane



(州旗) | (州章)
州の愛称: ペリカンの州
Pelican State
州都
バトンルージュ
【最大の都市】
ニューオーリンズ
州知事
ジョン・ベル・エドワーズ
公用語
法的根拠はないが事実上は英語。1974年発布の州憲法では、フランス語などマイノリティ言語の保存・発展が尊重されている。
面積
- 総計
- 陸地
- 水域 全米第31位
135,382 km²
112,927 km²
21,455 km² (15%)
人口(2010年)
- 総計
- 人口密度 全米第25位
4,533,372
40.5人/km²
【合衆国加入
- 順番
- 加入年月日】

18番目
1812年4月30日
時間帯
UTC -6
DST -5
緯度
北緯29° - 33°
経度
西経89° - 94°
【東西の幅】
210 km
【南北の長さ】
610 km
標高
-最高標高
-平均標高
-最低標高
163 m
30 m
-2.5 m
【略称 (ISO 3166-2:US)】
US-LA
【ウェブサイト】
ルイジアナ州政府
【上院議員】
デイヴィッド・ヴィッター
ビル・カシディ

ルイジアナ州(: State of Louisiana)は、アメリカ合衆国南部である。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第31位、人口では第25位である。 州都バトンルージュ市、最大の都市ニューオーリンズ市である。元フランス領であったが、1812年、アメリカ合衆国の州になった。民法には大陸法の影響が色濃く残っている。また州の下の行政区画として、他州で用いられるカウンティ(county、郡)のかわりにパリッシュ(parish、キリスト教小教区を意味したが、現在は行政小教区 civil parishで、日本語ではカウンティ相当として「郡」と訳している)が用いられるのもフランス植民地時代の影響である。パリッシュがカウンティ相当として使われるのはアメリカではルイジアナ州のみである。

州内幾つかの都市圏では、多文化、多言語の遺産が残っており、18世紀に領域を支配したフランス(本国およびアカディア)やスペイン(ヌエバ・エスパーニャ)の混合文化に強く影響され、また先住民であるインディアンや、西アフリカから奴隷として連れてこられたアフリカ系アメリカ人の文化の影響も見られる。19世紀初めにアメリカ合衆国の領土となり、アングロサクソン系のアメリカ人が流入して州に昇格する前に、アメリカ合衆国の他州とは幾分異なった文化が形成され、今日に繋がっている。

【家庭で話される言語(ルイジアナ州) 2010】

 |  |  |  | 
英語 | 
 | 91.26%
スペイン語 | 
 | 3.30%
フランス語 | 
 | 2.79%
【人種構成(ルイジアナ州) 2010】

 |  |  |  | 
白人 | 
 | 60.3%
黒人 | 
 | 32.0%
ヒスパニック | 
 | 4.2%
アジア系 | 
 | 1.5%
インディアン | 
 | 0.7%
混血 | 
 | 1.6%

州名の由来

ルイジアナ(Louisiana)という地名は、フランス王ルイ14世(Louis XIV、在位:1643年〜1715年)に由来する。ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールが、ミシシッピ川の流れるこの領域をフランス領と宣言したときに、ラ・ルイジアーヌ(La Louisiane)と名付けた。The 接尾辞の-ana(ないし-ane)はラテン語の接尾辞で「特定の個人、対象または場所に関するもの」を指す。したがって、大まかに言えば「Louis」+「ana」で「ルイに関するもの」を意味することになる。フランス領ルイジアナはフランス植民地帝国の一部として、現在のモービル湾からカナダとの国境の北にまで延び、カナダ南西部の小部分を含んでいた。

歴史

詳細は「ルイジアナ州の歴史」および「フランス領ルイジアナ」を参照

前史時代

16世紀にヨーロッパ人がルイジアナ州となった地域に到着する以前、数千年前から先住民であるインディアンが住んでいた。現在のモンロー市に近いワトソン・ブレイク遺跡は、北アメリカでは最も初期にマウンドと呼ばれる塚が築かれた場所であり、アメリカ大陸で最古とされる複合的な構造物があった場所である。11のマウンドで構成されるこの遺跡は約5,400年前、紀元前3500年頃に建設された。中古期のケイニーとフレンチマンズ・ベンド遺跡は5,600年ないし5,000年前のものと推定されており、狩猟採集を行っていた部族が季節を選んで州北部で組織化され、複合的な構造物を建設したことを示している。リンカーン郡のヘッジペス遺跡は少し新しく、5,200年ないし4,500年前のものと推定されている。

それから2,000年近く後、後古期で最大かつ最も良く知られた遺跡であるポヴァティ・ポイントが建設された。現在のエップス村がその近くで発展した。ポバティ・ポイント文化は紀元前1500年頃にその頂点を迎えた可能性があり、北アメリカでは最初の複合構造物を造り、おそらくは最初の部族文化を創った。この文化は紀元前700年頃まで続いた。

ポヴァティ・ポイント文化の後、チューラ期のチェフンクト文化とレイクコーモラント文化が続いた。これはウッドランド期のこの地方での姿だった。チェファンクト文化は、この地域で初めて大量の土器を生み出した。これらの文化は西暦200年頃まで続いた。ウッドランド中期は南部と東部でマークスヴィル文化として、また北西部ではフーシュマリーン文化で始まった。マークスヴィル文化はアボイルズ郡のマークスヴィル前史インディアン遺跡からその名前が得られた。これらの文化はオハイオ州イリノイ州のホープウェル文化と同時期のものであり、ホープウェルの交易網の中に入っていた。南西方向の人々との交流で弓と矢がもたらされた。この時代に最初の墳墓が建設された。世襲的政治と宗教の指導力を高めるために、儀式の中心として最初の壇状マウンドが建設されると、政治的な権力が統合され始めた。西暦400年までに南部ではベイタウン文化と共にウッドランド後期が始まったが、この地域の文化史に起きた変化の一つに過ぎなかった。人口が劇的に増加し、文化と政治の複雑さを増したという強力な証拠がある。コールズ・クリーク遺跡はウッドランド初期の墳墓の上に建てられており、特権階級が出現してその先祖を象徴的かつ物理的に崇めさせ、その権威を強調したとする学説がある。ルイジアナ地域でのミシシッピ期では、プラークミン文化とカドー・ミシシッピ文化が現れた。この時期は広範にトウモロコシ栽培が採用された時である。ミシシッピ州西部とルイジアナ州東部におけるミシシッピ川河谷下流域のプラークミン文化は、西暦1200年頃に始まり、1400年頃まで続いた。この文化の例としては、ルイジアナ州ウェストバトンルージュ郡のメドラ遺跡や、ミシシッピ州のエメラルド・マウンド、ウィンタービル遺跡、ホリーブラフ遺跡がある。

プラークミン文化はミズーリ州セントルイスに近いカホキア遺跡に象徴されるミシシッピ文化中期と同時代である。この文化に所属していた人々はナチェズ族やタエンザ族の先祖と考えられている。西暦1000年までに周北西部のフーシュ・マリン文化はカドー・ミシシッピ文化へと進化していた。カドー・ミシシッピ文化は、現在のオクラホマ州東部、アーカンソー州西部、テキサス州北東部、ルイジアナ州北西部など広い範囲に広がっていた。考古学調査によって、この文化は前史時代から現在まで途切れずに続いており、前史時代とヨーロッパ人による最初の接触時のカド族の直接先祖とカド語を話す人々、および現在オクラホマ州にいるカド族との繋がりは疑問の余地の無いものとされている。

現在ルイジアナ州の多くの地名、例えばアチャファライア、ナケテシュ、カドー、ホウマ、タンジパホア、アボイルは、様々なインディアン言語で使われていた単語の音訳である。

ヨーロッパ人による探検と植民地化

ルイジアナ地域図

1528年スペインパンフィロ・デ・ナルバエスが率いた探検隊がミシシッピ川河口に到達した。1542年にはエルナンド・デ・ソトのスペイン探検隊が、ルイジアナの北部と西部を通り(カド族やトゥニカ族と遭遇した)、その後の1543年にはミシシッピ川を下ってメキシコ湾に達していた。しかしスペインはその後長い間この地域を放置したままだった。17世紀後半、フランス人とフランス系カナダ人の遠征隊が地域支配と宗教及び交易の目的を持ってミシシッピ川とメキシコ湾岸に拠点を築いた。

1682年、フランス領カナダから南下したフランス人ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがこの地をルイ14世にちなんでルイジアナと命名した。1699年、カナダから来たフランス軍人ピエール・ル・モワン・ディベールヴィルが、最初の恒久的開拓地であるモーレパ砦を今日のミシシッピ州ビロクシ近くのオーシャンスプリングスに設立した。この時までに、ミシシッピ川河口にもラ・バリーズ(フランス語で航路目標の意)という小さな砦を建設していた。1721年には川を航行する船を導くために、木造の高さ62フィート (19 m) の灯台のような構造物を建設した。フランス領ルイジアナはミシシッピ川流域からカナダに至る広大な領域であるが、実際にはいくつかの交易拠点の網の目によって構成されていた。フランスの開拓地には2つの目的があった。すなわちスペイン領テキサスにおけるスペインとの交易を行うことと、ルイジアナへのスペインの進出を阻止することだった。オールド・サンアントニオ道路(スペイン語でエル・カミノ・レアル・デ・ロス・テハス、「テキサスの王道」)の北端にできた開拓地のナケテシュはすぐに河港および街道の交わる町として栄え、川沿いに広大な綿花王国が生まれた。農園主は大型のプランテーションを造り、成長する町には瀟洒な家を建設した。これはニューオーリンズなど他の町でも繰り返された。

フランス系アカディア人は、ルイジアナ州南部の特にアチャファライア盆地など湿地に入植し、ケイジャンと呼ばれるようになった

ルイジアナのフランス開拓地からさらなる探検が行われ、ミシシッピ川やその主要支流沿いに、ルイジアナから北に、今日のセントルイス周辺のイリノイ・カントリーと呼ばれた地域にまで前身基地ができた。

当初はアラバマ州モービルとミシシッピ州ビロクシが植民地の首都として機能していた。フランスは交易面と軍事面でミシシッピ川の重要性を再認識し、1722年、フランス領ルイジアナの首府をニューオーリンズ市(フランス語でヌーヴェル・オルレアン、つまり新オルレアン)に移した。この時から約80年間、ニューオーリンズからフランスとスペインが交互に植民地帝国の支配を行った。1720年、ドイツ人移民が、今日ジャーマン・コーストと呼ばれるミシシッピ川沿いの地域に入植した。

北米ではフレンチ・インディアン戦争と呼ばれる七年戦争の結果、フランスはカナダ植民地と(ニューオリンズ付近を除く)ミシシッピ川以東の地をイギリスに割譲し、残りのニューオーリンズ市及びミシシッピ川以西も1762年のフォンテーヌブロー条約でスペインに譲渡された。なおカナダ東部沿海アカディア植民地(現ノヴァスコシア州ニューブランズウィック州プリンスエドワードアイランド州)のフランス系住民は、1765年に英国王に対する忠誠表明を拒んで強制追放され、ルイジアナ南西部の現在アケイディアナと呼ばれる地域に大挙して移住し、ルイジアナのフランス系人口を飛躍的に増大させた。これらアカディア人の子孫はケイジャンと呼ばれている。スペインはカトリック教徒の移民を得ようとしていたので、アカディアからの移民を歓迎した。スペイン領カナリア諸島からもイスレニョと呼ばれた島人が1778年から1783年の間に移住してきた。

スペインを支配したナポレオン1800年サンイルデフォンソ条約で、ルイジアナをスペインから取り戻したが、これはその後2年間秘密にされていた。1803年、ナポレオンは財政上の必要性などからアメリカ合衆国売却した。ルイジアナは1762年から1800年までスペイン領だったが、この間行政官はスペイン人であったにも関わらず新規のスペイン人入植者はほとんどなく、フランス系社会が存続した。つまりルイジアナ州はフランス系植民社会としての歴史を100年以上もっていたことになる。

奴隷制度の拡大

1709年、フランスの資本家アントワヌ・クロザーが、メキシコ湾からイリノイまで広がるフランス領ルイジアナの商業独占権を獲得した。イギリスの歴史家ヒュー・トーマスは「この利権で毎年アフリカから黒人という積荷を運んで来ることが可能になった」と記した。

1803年にフランスがルイジアナをアメリカ合衆国に売却すると、隣接するミシシッピ州に黒人奴隷を連れてくるのと同じくらい容易にルイジアナにも連れて来られるようになった。ただし、当時それは違法だった。19世紀初めのルイジアナの砂糖の生産量は少なく、比較的少数の奴隷がその生産に従事していたが、プランテーション所有者が奴隷を購入して無給で働かせたので、間もなく一大生産地になった。奴隷はアフリカからサウスカロライナ州に連れてこられ、その後にルイジアナへと売買された。アメリカ合衆国の新しい領土では奴隷制度を違法とする連邦法があり、下院議員ジェイムズ・ヒルハウスや論客のトマス・ペインがこの法を強制するよう要求したが、奴隷は少ないコストで大きな利益を生む資源だったので、ルイジアナに広まっていった。最後のスペイン知事は、「ルイジアナで奴隷制なしにやっていくのは事実上不可能であり」、奴隷を使うことで「繁栄と富に向かって大きな一歩を踏み出した」と記していた。

自由黒人女性と混血の娘、18世紀のコラージュ、ニューオーリンズ

ルイジアナ州初代知事のウィリアム・C・C・クレイボーンは、白人の自由労働者はここの不健康な気候では働かないので、奴隷の強制労働が必要だと語った。ヒュー・トーマスは、クレイボーンは人身売買を廃止する責務を負っていたにもかかわらずそれを実行することができなかったと記した。

ハイチ移民とその影響

フランスのルイジアナ全権公使ピエール・クレマン・ド・ローサーは「サン=ドマングアンティル諸島の植民地の中で、その精神性と慣習が最もルイジアナに影響を与えたと記した(1718年)。

ルイジアナとその母体になったカリブ海の植民地は18世紀に親密な関係を築き、海洋貿易、資本と情報の交換、植民者の移住が盛んだった。その始まりからハイチ人はルイジアナの政治、市民、宗教、文化に大きな影響を与えた。植民地の役人は、島での反奴隷制度陰謀や蜂起に反応して、1763年、サン=ドマングの奴隷の入国を禁じた。サン=ドマングの反乱はアメリカ独立戦争フランス革命の時代を通じて、ルイジアナの奴隷貿易と移民政策に影響を与え続けた。

1763年から1800年までルイジアナを統治したスペイン人も、これら2つの民主闘争を怖れた。治安攪乱と見なすものを抑圧し、その植民地を民主革命の広がりから孤立させるような無益な試みにおける破壊工作を禁じた。1790年5月、国王令によって、奴隷であろうと自由人であろうと西インド諸島からの黒人の入国を禁じた。その1年後、サン=ドマングで世界史の中でも最初の奴隷による革命が成功し、ハイチの建国につながった。

サン=ドマングの革命で、様々な人種の人々が大量に植民地を脱出した。フランス人は奴隷を連れて逃げた。自身が奴隷所有者でもあった自由有色人種も逃亡した。さらに1793年には主要都市であるカプ=フランセ(現在のカパイシャン)の3分の2を焼き尽くす大火が発生し、1万人近い人々が永久に島を離れた。革命に続く時代には、外国の侵略や内乱があり、さらに多くの人々が逃亡した。多くの者は東のサントドミンゴ(現在のドミニカ共和国)、あるいはカリブ海の近くの島に移動した。白人であれ黒人であれ多くの人々は北アメリカの、特にニューヨークボルティモアフィラデルフィアノーフォークチャールストンサバンナ、あるいはスペイン領フロリダに移動した。しかしルイジアナほどこれらの難民から影響を受けた土地は無かったといえる。

フランスの海賊ジャン・ラフィット、1782年頃にポルトープランスで生まれ、ニューオーリンズで活躍した

1791年から1803年、1,300人の避難民がニューオーリンズに到着した。現地政府はその中に治安攪乱の意図を持った者がいないか心配した。1795年春、ポワントクーペで暴動がおき、農園主の家が焼かれた。これに続いてサン=ドマングからの自由難民ルイ・ブノワが、「植民地を破壊した革命思想に染まっている」と告発され、追放された。暴動が起きたことで農園主のジョセフ・ポンタルバは「サン=ドマングの惨事に注意し、革命の芽が我々の奴隷の間に広がらないよう」気をつけることになった。ポワントクーペとジャーマン・コーストでは不安定な状態が続き、1796年春には奴隷貿易を全的に停止する決断が下された。

1800年、ルイジアナの役人は奴隷貿易の再開について議論したが、サン=ドマングの黒人は入国を禁じることで合意した。フランス領西インド諸島の黒人と白人の暴動にも注目し「我々のニグロの間に危険な思想を宣伝している」と言っていた。彼等の奴隷は5年前よりも横柄で、始末に負えず、言うことを聞かなくなっていると見ていた。

同年、スペインがルイジアナをフランスに戻し、農園主達は革命を恐れながら生活を続けた。1803年、サン=ドマングに対する遠征の失敗が財政状態を悪化させ、軍事力を希薄にしたため、後に皇帝になったナポレオン・ボナパルトがアメリカ合衆国にルイジアナを売却した後、島で起こった事件の影響がより大きくルイジアナに影を落とすようになった。

アメリカ合衆国によるルイジアナ買収

詳細は「ルイジアナ買収」を参照

1783年、アメリカ合衆国がイギリスからの独立を勝ち取ったとき、アメリカ合衆国の懸案事項の1つはヨーロッパの強国がその西側国境に接していることであり、ミシシッピ川に無制限に渡航できるようにする必要性だった。アメリカ人開拓者が西に進むにつれて、アパラチア山脈が東に品物を運ぶときの障害になることが分かってきた。商品を運ぶ最も容易な方法は、平底船オハイオ川からミシシッピ川をニューオーリンズ港まで運び、そこから大洋航行可能な船に積み替えることだった。このルートの問題点は、ナチェズより下流のミシシッピ川は両岸ともにスペインが所有していることだった。ルイジアナにおけるナポレオンの野望は、カリブ海の砂糖貿易を中心にして新しい帝国を造ることだった。1800年のアミアンの和約により、イギリスがフランスにマルティニーク島とグアドループ島の所有権を返還した。ナポレオンはルイジアナをこれら砂糖の島にとっての中継地点、またアメリカ開拓地に対する緩衝地帯と見なしていた。1801年10月、ナポレオンは重要なサントドミンゴ島を征服して奴隷制度を再導入するために大規模な軍隊を派遣した。サン=ドマングでは奴隷革命の後の1792年から1793年に奴隷制度が廃止されていた。またフランス植民地では1794年に法と憲法で奴隷制度を廃止していた。

ナポレオンの義弟ルクレールが指揮したフランス軍が、サントドミンゴ市民で構成され奴隷制度再導入に反対する軍隊に敗れたとき、ナポレオンはルイジアナを売却することに決めた。

1800年のルイジアナ地図

第3代アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンは、アメリカにフランスの植民地を再度樹立しようというナポレオンの計画に悩まされていた。ナポレオンがニューオーリンズを所有していれば、アメリカは通商に不可欠なミシシッピ川の出口をいつでも抑えられてしまうからである。ジェファーソンは、駐フランス全権公使のロバート・リビングストンにミシシッピ川東岸のニューオーリンズ市を購入し、アメリカの交易のためにミシシッピ川を自由に航行できるようにする交渉を行わせた。リビングストンは200万ドルまで支払う権限を与えられた。

スペインからフランスへのルイジアナ返還は公式には終わっておらず、スペインとのナポレオンの取引は、フロンティアでは秘密が保たれていなかった。しかし、1802年10月18日、ルイジアナの行政長官代行フアン・ベンチュラ・モラレスが、アメリカ合衆国からの全ての貨物についてニューオーリンズでの預託品の権利を取り消すというスペインの意図を公にした。この重要な港の閉鎖はアメリカ合衆国を怒らせ驚愕させた。西部での交易が事実上封鎖された。預託品権利の取り消しは、アメリカ人が法を濫用したこと、特に密貿易によって促進されたのであり、当時信じられたようにフランスの陰謀ではなかったというのが、歴史家の解釈である。ジェファーソン大統領はフランスとの戦争を要求する世論を無視し、ジェームズ・モンローをナポレオンへの特使として派遣し、ニューオーリンズ獲得を支援するように仕向けた。ジェファーソンは買収額の上限を1,000万ドルに上げることも認めた。

しかし1803年4月11日、フランスの外務大臣タレイランが、ニューオーリンズとその周辺地域のみならず、フランス領ルイジアナ全体の譲渡についてアメリカ合衆国が幾ら払う用意があるかを尋ねてきて、リビングストンを驚かせた。モンローとリビングストンは、ナポレオンが何時でもその申し出を撤回する可能性があること、ジェファーソン大統領の承認を得るためには数か月掛かる可能性があることで意見の一致を見たので、即座に交渉を開始すると決断した。4月30日、総面積828,000平方マイル (2,145,000 km) のルイジアナ全土を、6,000万フラン(約1,500万米ドル)で購入する契約を行った。支払額の一部はフランスが既にアメリカ合衆国から借りていた負債で相殺されることとした。支払いはアメリカ合衆国の公債で行われ、ナポレオンはそれを額面価格でオランダのホープ・アンド・カンパニーに、また100ドルにつき87.5ドルの割引価格で、イギリスのベアリングス銀行に売却した。最終的にフランスがルイジアナの代償として受け取ったのは8,831,250米ドルに過ぎなかった。イギリスの銀行家アレクサンダー・ベアリングパリでマルボワと会合し、アメリカ合衆国に行って公債を回収してイギリスに運び、現金にしてフランスに渡した。ナポレオンはこの金でイギリスに対する戦争を始めた。

ルイジアナ買収の報せがアメリカ合衆国に届くと、ジェファーソンは驚かされた。ニューオーリンズの買収に1,000万ドル遣うことを認めていたが、国土の広さを倍にするような領土を1,500万米ドルで購入するという条約が出来上がっていたからだった。ジェファーソンの政敵である連邦党は、ルイジアナ領土が価値の無いものであり、合衆国憲法では上院の承認無しに新しい領土を獲得したり条約の交渉をしたりすることは許されないと主張した。連邦党を悩ませていた真実のところは、ルイジアナ領土から新しい州ができることは避けられず、その場合には議会における西部と南部の勢力を強め、ニューイングランドを基盤にする連邦党の国政の場での影響力を削ぐことになるというものだった。ジェファーソン大統領は西方への拡大を熱心に支持しており、この条約にも確固たる支持を与えた。連邦党は反対したが、1803年10月20日、アメリカ合衆国上院はルイジアナ買収を批准した。

管轄権限移譲の式は1803年11月29日、ニューオーリンズで開催された。ルイジアナ領土はまだ正式にフランスに返還されていなかったので、まずスペインがその国旗を降ろし、フランスが国旗を掲揚した。翌日、アメリカ合衆国のジェイムズ・ウィルキンソン将軍がニューオーリンズの領有を受け入れた。1804年3月9日、セントルイスでも同じような儀式が行われた。川近くでスペイン国旗に替わってフランス国旗が揚げられた。翌日、アメリカ第1砲兵隊のエイモス・ストッダード大尉の率いる部隊が町を行軍し、砦の国旗掲揚台にアメリカ国旗を掲げた。ルイジアナ領土はメリウェザー・ルイスが代表として出席したアメリカ合衆国政府に公式に移管された。

ルイジアナ領土は1エーカー (4,000 m) あたり3セント足らずで購入され、しかも戦争も無く、一人のアメリカ人の命も失われずにアメリカ合衆国国土を2倍にした。これはその後の領土拡大で土地を購入していく先例となり、最終的にはアメリカ合衆国が太平洋にまで到達する足がかりとなった。

1812年、アメリカ合衆国の州としてのルイジアナ州が成立し、1849年に州都がニューオーリンズ市からバトンルージュ市に移された。豊饒なルイジアナの大地に綿花砂糖のプランテーションが形成され、非常に豊かな州となったが、1861年に勃発した南北戦争では南部連合に加盟して合衆国から脱退し、1862年には北軍に占領された。北軍占領中、州都はバトンルージュ市から戦略的に重要なニューオーリンズ市に置かれた。1868年、ルイジアナ州の合衆国への復帰が認められた。1901年には州内で石油が発見され、ルイジアナ州は一時重要な産油地帯となった。

地理

ルイジアナ州図
ルイジアナ湿地の航空写真
セントバーナード郡の黄色い野草の花畑
ハニー島湿地

地形

州全体がメキシコ湾大平原の一角を占め、州北部の東境は北米最大のミシシッピ川、対岸はミシシッピ州であるが、州の南部はミシシッピ川が貫通している。州の南はメキシコ湾に面し、西はテキサス州、北はアーカンソー州と接する。

州領域は北側の高台と海岸に沿った沖積平野に分けることができる。沖積平野には標高の低い沼地、海岸の湿地と海浜、および約20,000平方マイル (51,800 km) の防波列島がある。この地域は基本的にメキシコ湾に沿っており、また総延長600マイル (1,000 km) のミシシッピ川が州内を南北に貫通してからメキシコ湾に注いでいる。その支流としてレッド川とワシタ川が主なものであり、それらに数多い小流が合流している(その多くはバイユーと呼ばれている)。ミシシッピ川に沿った沖積平野は幅が10ないし60マイル (15 – 100 km) あり、その他の川に沿った地域も幅が10マイル (15 km) ほどある。ミシシッピ川はレヴィー(levee。人工の堤防と同じ語である)と呼ばれる堆積物で形成された自然堤防に沿って流れ、川に向かう土地は平均して1マイルあたり3フィート (3 m/km) の傾斜が付いている。その他の水流に沿った土地も同様な形状にある。

州北部と北西部の標高が高い丘陵地は25,000平方マイル (64,750 km) 以上の広さがある。ここは草原と森林地である。標高は川岸部や湿地で10フィート (3 m)、草原や沖積平野で50ないし60フィート (15 – 18 m) である。州内最高地点は標高535フィート (163 m) のドリスキル山である。

この地域の水流としては、西側州境をなすサビーン川、東側州境のパール川、カルカシュー川、マーメントー川、バーミリオン川、バイユー・テシュ、アチャファライア川、ビーフ川、バイユー・ラフォーシェ、コータブロー川、バイユー・ダルボン、メイコン川、テンソー川、エイミート川、チャファンクタ川、ティックフォー川、ナットルバニー川など無数にあり、船舶が航行できるものだけでもその延長は4,000マイル (6,400 km) ある。

メキシコ湾の大陸棚は、幅3マイル (5 km) が州の管轄の及ぶ範囲になっている。ただし、アメリカ合衆国の政治地理学の奇矯さから、隣接するテキサス州やフロリダ州は幅9マイル (14 km) の

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出典:wikipedia
2020/08/14 09:31

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