ロシア連邦(ロシアれんぽう、露: Российская Федерация , 英: Russian Federation)、通称 ロシア(露: Россия , 英: Russia)は、ユーラシア大陸北部に位置する連邦共和制国家。首都はモスクワ市。
ロシアの歴史は、3世紀から8世紀までの間にヨーロッパで認識され始めた東スラヴ人の歴史に始まる。9世紀、ヴァリャーグの戦士の精鋭およびその子孫により設立・統治され、キエフ大公国の中世国家が誕生した。988年、東ローマ帝国から正教会を導入し、次の千年紀のロシア文化を特徴づける東ローマ帝国およびスラブ人の文化の統合が始まった。キエフ大公国は最終的には多くの国に分裂し、キエフ大公国の領土の大部分はモンゴルに制圧され、遊牧国家ジョチ・ウルスの属国になった。モスクワ大公国は次第に周辺のロシアの公国を再統合し、ジョチ・ウルスからの独立を獲得し、キエフ大公国の文化的・政治的な遺産を支配するようになった。18世紀までにモスクワ大公国は、王朝による征服・併合、シェレホフ提督による探検を通じ、史上第3位の大帝国であるロシア帝国となり、版図がポーランドから北米のアラスカまで広がった。
1917年のロシア革命後、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国がソビエト連邦最大かつ指導的な構成国となった。世界初の憲法上の社会主義国および広く認められた超大国となり、第二次世界大戦において連合国の勝利に決定的な役割を果たした。ソビエト時代には、世界初の人工衛星および世界初の有人宇宙飛行を含む20世紀のもっとも重要な複数の技術的偉業を経験した。アメリカ合衆国に双璧する大国として国際社会で重要な位置を占めたが、共産党による一党独裁の弊害が噴出するようになり、1991年にソビエト連邦の崩壊に至った。
新たにロシア連邦を国名とし、ロシアも同等の国名とされた(1992年憲法改正)。国旗は革命前の白青赤の三色旗に戻り、国連における地位などは基本的に旧ソ連を引き継いでいる。
政治体制は、ソビエト時代の共産党一党独裁制が放棄されて政党選挙が行われるようになったが、2003年以降は事実上ウラジーミル・プーチン大統領率いる与党統一ロシアの一党優位政党制になっている。複数政党制や選挙は一応存在するが、選挙から反体制派候補を排除するなどプーチン体制に有利な政治システムが構築されており、政治的意思を表明する機会に乏しい。「法の独裁」による統治をめざす強権的体質が内外から批判されており、エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界134位と後順位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも149位と後順位である(2020年度)。
経済面は、2014年時点で、ロシアの経済は名目GDPで世界第9位かつ購買力平価で世界第6位であった。鉱物およびエネルギー資源は世界最大の埋蔵量であり、世界最大の原油生産国および世界最大の天然ガス生産国のひとつである。しかし資源依存の経済体質であるため、近年は原油安で経済が停滞している。加えて2014年にクリミア併合を強行したことにより欧米から経済制裁を受けて更なる打撃を受けている。
外交軍事面ではロシアは核保有を認められた5大国のひとつであり、世界最大の大量破壊兵器保有量がある。ロシアは列強および国際連合安全保障理事会常任理事国であり、独立国家共同体の指導国であるだけでなく、G20、欧州評議会、アジア太平洋経済協力、上海協力機構、ユーラシア経済共同体、欧州安全保障協力機構、世界貿易機関加盟国である。かつてG8加盟国でもあったが、2014年にクリミア併合を強行したことでG8の参加資格を停止された。
地理としてはロシアの国境は、北西から南東へ、ノルウェー、フィンランド、エストニア、ラトビア、ともにカリーニングラード州と隣接するリトアニアおよびポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、ジョージア、アゼルバイジャン、カザフスタン、中華人民共和国、モンゴル国、朝鮮民主主義人民共和国と接する。海上境界線としては、日本とはオホーツク海・宗谷海峡・根室海峡・珸瑤瑁水道、アメリカ合衆国アラスカ州とはベーリング海峡で接する。ロシアの面積は1,707万5,400kmで世界最大であり、地球上の居住地域の8分の1を占める。2012年時点で、ロシアの人口は1億4,300万人で世界第9位である。国土が北アジア全体および東ヨーロッパの大部分に広がることに伴い、ロシアは11の標準時を有し、広範な環境および地形を包含する。
ロシア連邦(Российская Федерация、ラテン文字転写: Rossíjskaja Federátsija など、発音:ラッスィーイスカヤ・フィディラーツィヤ、IPA: [rɐˈsʲijskəjə fʲɪdʲɪˈratsɨjə] 発音)。ロシア語では略号のРФ(RF)も使われる。英語表記は Russian Federation 。
ロシア連邦憲法第1条第2項でロシア連邦とロシア(Россия、Rossíja、ラッスィーヤ、[rɐˈsʲijə] 発音)は同じ意味としており、ロシア語においてもロシア連邦の意味でロシアが使われることがある。
ロシアの国名は、現代のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名Ῥωςから派生したῬωσσία(現代ギリシャ語ではΡωσία)。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀のイヴァン4世(雷帝)のころに使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝(インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」、現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後に別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった。
前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代ごろからギリシャ語風の(つまりほかのヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。。現代日本語の漢字表記は露西亜で、略称は露。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語のОрос(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜(魯西亞)という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間の最初の条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の日本政府は、ロシア側の希望を受け入れ表記を露西亜(露西亞)とした。。
今日のロシア人はさまざまな民族の混血によって成立しているためその起源をひとつに絞ることはできないが、国家や文化、言語の変遷において「ロシア民族」の祖となる人々は、北東ルーシと呼ばれる地域に古くから居住していた。その地に暮らした東スラヴ系の諸部族はフィン系の民族と隣接しており、言語や文化、習慣において大きな影響を受けた。やがてその多くは同化し、ほかの地域の東スラヴ人とは異なる文化を築いていった。ロシア人には、モンゴロイドに由来するフィン・ウゴル系遺伝子(Y染色体ハプログループN系統)もある程度見られる。
北東ルーシには、ノルマン人ではないかと推測されている、民族系統不明の人々「ヴァリャーグ」が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行った。862年にはヴァリャーグの長リューリクが大ノヴゴロドの公となり、町は東ローマ帝国との貿易拠点として発展した。後代に書かれた原初年代記には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。9世紀後半にヴァリャーグはドニエプル地方に拠点を移した。そのため、それから13世紀にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっているキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境化し、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった。ヴァリャーグの支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴルによって征服され、キプチャク・ハン国の支配下に入った。その混乱の中で、それまでキエフにあった府主教座はウラジーミル・ザレースキイへ移された。
数多くいるルーシ諸公の1人に過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にキプチャク・ハン国の支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い大公国となった。のち、モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア・ツァーリ国と自称するようになった。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその専制政治を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱(動乱時代)に陥った。モスクワ大公国の主要貴族(ボヤーレ)たちはツァーリの宮廷の権威を認めず、士族民主主義の確立していたポーランド・リトアニア共和国を慕った。この民主派のボヤーレたちはポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、共和国軍とともにモスクワを占領した。一方、ツァーリ派の貴族や商人たちは政商ストロガノフ家の援助でニジニ・ノヴゴロドにおいて義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡ってローマ・カトリック主義のポーランド国王兼リトアニア大公が信教自由主義のポーランド・リトアニア共和国議会と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増した。そして1612年、ドミートリー・ポジャールスキーとクジマ・ミーニンの指揮の下、モスクワ市内のクレムリンに駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、11月1日して撃破、モスクワを解放した。この、民主派に対するツァーリ派、およびローマ・カトリックに対するロシア正教会の勝利は、21世紀現在でも国民の祝日となっている(11月4日)。ここで中世ロシアは終わり、ロマノフ朝の成立とともに近代ロシアが始まることになる。
1613年にロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。17世紀末から18世紀初頭にかけて、ピョートル1世(大帝)は急速な西欧化・近代化政策を強行し、新首都サンクトペテルブルクの建設(1703年)、大北方戦争(1700年 - 1721年)での勝利を経てロシア帝国の基盤を築いた。彼の時代から正式に皇帝(インペラートル)の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。1762年に即位したエカチェリーナ2世はオスマン帝国との露土戦争(1768年 - 1774年、1787年 - 1792年)に勝利するとともに、ポーランド分割に参加し、欧州での影響力を増加させた。彼女の治世においてロシアはウクライナとクリミア・ハン国を併合し、名実ともに「帝国」となった。また、大黒屋光太夫が彼女に謁見したことにより、アダム・ラクスマンが日本に派遣(詳細は「北槎聞略」参照)され日露関係史が実質的に始まった。
アレクサンドル1世の治世において1803年に勃発したナポレオン戦争に参戦し、1812年にはナポレオン・ボナパルト指揮のフランス帝国軍に侵攻されたが、大損害を負いながらもこれを撃退し、戦後はポーランド立憲王国やフィンランド大公国を支配して、神聖同盟の一員としてウィーン体制を維持する欧州の大国となった。国内でのデカブリストの乱やポーランド反乱などの自由主義・分離主義運動は厳しく弾圧された。
1831年に始まるエジプト・トルコ戦争以降は、ロシアの南下政策を阻むイギリスとの対立が激化し、中央アジア、アフガニスタン、ガージャール朝ペルシア(現・イラン)を巡って、露英両国の駆け引きが続いた(グレート・ゲーム)。1853年に勃発したクリミア戦争ではイギリス・フランス連合軍に敗北し、帝国の工業や政治、軍事全般の後進性が明確になった。1861年に皇帝アレクサンドル2世は農奴解放
2021/01/28 09:56 HAPPY Wikipedia
あなたの考える「ロシア」の意味を投稿しよう
ロシアスレッド一覧
「ロシア」のスレッドを作成する