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ロナウジーニョとは?

【名前】

【本名】
ロナウド・デ・アシス・モレイラ
Ronaldo de Assís Moreira
【愛称】
ガウショ (Gaúcho)、ロニー、ファンタジスタ
【ラテン文字】
Ronaldinho
【基本情報】

【国籍】
ブラジル
スペイン
【生年月日】
(1980-03-21) 1980年3月21日(38歳)
【出身地】
ポルト・アレグレ
【身長】
182cm
【体重】
80kg
【選手情報】

【ポジション】
FW / MF
【利き足】
右足
【ユース】

1987-1998
グレミオ
【クラブ】


クラブ | 出場 | (得点)
1998-2001
グレミオ |  44  | (21)
2001-2003
パリ・サンジェルマン |  55  | (17)
2003-2008
バルセロナ |  145  | (70)
2008-2011
ミラン |  76  | (20)
2011-2012
フラメンゴ |  33  | (15)
2012-2014
アトレチコ・ミネイロ |  45  | (16)
2014
ケレタロ |  25  | (8)
2015
フルミネンセ |  9  | (0)
通算
 | 432 | (167)
【代表歴】

1996
ブラジル U-17 | 6  | (2)
1999
ブラジル U-20 | 5  | (3)
2000-2008
ブラジル U-23 | 10  | (3)
1999-2013
ブラジル | 97  | (33)
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
 | 2008 北京 | サッカー


1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

ロナウジーニョ (Ronaldinho) こと、ロナウド・デ・アシス・モレイラ(Ronaldo de Assís Moreira, 1980年3月21日 - )は、ブラジルポルト・アレグレ出身の元サッカー選手。元ブラジル代表。ポジションはフォワード。愛称はガウショ (Gaúcho)。

バルセロナ時代には中心選手として2度のリーガ・エスパニョーラ優勝と14年ぶりとなるUEFAチャンピオンズリーグ優勝を経験し、2004年と2005年の2年連続でFIFA最優秀選手賞を、2005年にはバロンドールを受賞。ブラジル復帰後の2013年にはアトレチコ・ミネイロコパ・リベルタドーレスを制覇し、ヨーロッパと南米の両方を制した史上8人目の選手となった。またブラジル代表としては2002 FIFAワールドカップ優勝に貢献。オーバーエイジ枠で出場した北京オリンピックでは銅メダルを獲得した。

高いテクニックから生み出される独創的なプレーや、試合中にもしばしば笑顔を見せるサッカーを楽しむプレースタイルからファンタジスタと呼ばれた。

目次

  • 1 人物
    • 1.1 名前・愛称
    • 1.2 家族
  • 2 経歴
    • 2.1 幼年期
    • 2.2 クラブ
      • 2.2.1 グレミオ
      • 2.2.2 パリ・サンジェルマン
      • 2.2.3 バルセロナ
      • 2.2.4 ミラン
      • 2.2.5 フラメンゴ
      • 2.2.6 アトレチコ・ミネイロ
      • 2.2.7 ケレタロ
      • 2.2.8 フルミネンセ
      • 2.2.9 現役引退
    • 2.3 代表
  • 3 プレースタイル
  • 4 個人成績
    • 4.1 クラブ
  • 5 代表歴
    • 5.1 得点
  • 6 エピソード
    • 6.1 リバウドとの関係
  • 7 タイトル
    • 7.1 クラブ
    • 7.2 代表
    • 7.3 個人
  • 8 脚注
  • 9 参考文献
  • 10 外部リンク

人物

名前・愛称

ニックネームのロナウジーニョとは、本名のロナウド(葡:Ronaldo)に縮小辞-inhoがついたものであり、「小さなロナウド」の意である。これは、ブラジル代表選出当時に既にロナウド・ルイス・ナザーリオ・デ・リマがいたことから、区別の為にロナウジーニョと呼ばれたものである。また、ロナウド・ルイス・ナザーリオ・デ・リマ自身も1996年アトランタオリンピックにおいてブラジル代表に選出された際にはロナウジーニョとして登録されており、ロナウジーニョでも紛らわしかったことから、ガウーショとも呼ばれる。ガウーショとは南米のカウボーイを意味し、リオグランデ・ド・スル州サンタカタリナ州などブラジル南部地域出身者の気質を表わした語であり、ロナウジーニョ自身の出身地に基づいたものである。

Ronaldinhoは、日本語ではナウジーニョと発音・表記される。出身地であるポルト・アレグレなどの南部では、R発音は昔のポルトガル語発音であるラ行も多いが、現在ブラジルではリオなどの北部を中心として広い範囲でブラジルポルトガル語からR発音はハ行で読むのがほぼ一般的になりつつある。したがって日本でもナウジーニョというネイティブに近い表記・呼称もある。

なお、本記事ではロナウジーニョで統一する。

家族

ロナウジーニョの代理人でもある、実兄のロベルトは、1999年アシスという登録名でコンサドーレ札幌に在籍していた。幼いころに父親を発作で亡くし、それ以来、ロベルトが父親代わりとなっていた。

元々は貧しい家庭環境だったが、兄のロベルトがグレミオとプロ契約したことで、6歳の時にプール付きの豪邸に移り住んでいる。ロナウジーニョの回想のなかの「家の中で椅子や犬を相手にドリブルの練習をしていた」という話からも、広々とした家に住んでいたことが窺える。

経歴

幼年期

ロナウジーニョは1980年3月21日、父ジョアン・アシスと母ミゲリーナ・モレイラの3番目の子としてブラジル、リオ・グランデ・ド・スル州の州都ポルト・アレグレ 。人口150万人のこの町は先住民とポルトガルからの入植者の他、スペイン、アフリカ、イタリア、ポーランド、ウクライナ、ロシア、ユダヤなど多数の移民が暮らしを営み、それぞれの文化が複雑に融合した独特の雰囲気を持った町で、住民はガウーショ(カウボーイ)と呼ばれていた。帝王切開でロナウジーニョを取り上げた担当医は彼の右足に違和感を覚え、整形外科医の診察を受けるよう両親に進言したという。家は貧しく、両親は共働きであったため、ロナウジーニョの面倒は主に祖母アルベルティーナと姉デイジや多くの親戚が見ていた。10ヶ月を数える頃には歩き始め、父はロナウジーニョにサッカーボールとサッカーシューズを買い与えた。以降サッカーに夢中になったロナウジーニョは、家の中や中庭で兄ロベルトや4匹の飼い犬を相手にサッカーの技術を高めていった。

7歳になると州立アルベルト・トーレス小学校へ入学したが、翌年に兄ロベルトがグレミオとの間でプロ契約を締結し、クラブチームから新しい住居が提供されることとなったため、その引越しとともにグアルージャの州立ランゲンドンク初等教育学校へ転校している。ジョアンは早い段階でロナウジーニョの才能を見抜いていたとされており、ロベルトがグレミオと契約を交わした際に、指導者に「将来、超一流の選手になるはずの子が家にいます。ロナウドと言います」と伝えている。

クラブ

グレミオ

ロナウジーニョはグレミオの下部組織でサッカーを始め、1998年のコパ・リベルタドーレスでトップチームデビューした。2001年にはイングランドのアーセナルFCがロナウジーニョとの契約に興味を示したが、彼はEU圏外選手であり、イギリスの労働許可証の取得条件を満たさなかったため、この移籍話は破談となった。同年にはスコティッシュ・プレミアリーグセント・ミレンFCにレンタル移籍することを検討したが、偽造パスポート事件に巻き込まれたために取りやめとなった。

パリ・サンジェルマン

2001-02シーズン

2001年、フランス・リーグ・アンパリ・サンジェルマンFCと5年契約を結んだ。移籍金は500万ユーロ。パリ到着後、背番号21を与えられ、ブラジル代表のアロイジオ (Aloísio José da Silva)、ミケル・アルテタジェイジェイ・オコチャなどが在籍する攻撃陣の一員に加わった。2001年8月4日のAJオセール戦 (1-1) で途中出場してリーグ戦デビューし、2001-02シーズン前半戦は先発出場と途中出場を交互に繰り返した。10月13日のオリンピック・リヨン戦 (2-2) では途中出場し、79分に移籍後初得点となる同点弾をペナルティキックで決めた。ウィンターブレーク後のASモナコ戦 (1-2)、スタッド・レンヌFC戦 (2-1)、RCランス戦 (1-1)、FCロリアン戦 (5-0) では4試合連続得点を記録し、2002年3月16日のトロワAC戦 (3-1) では残留争いに苦しむ相手から1試合2得点を記録した。4月27日のFCメス戦 (2-0) でシーズン最後のゴールを挙げ、移籍初年度のリーグ戦は9得点でシーズンを終えた。同シーズンはクープ・ドゥ・ラ・リーグでもチームに大きな影響を与え、ラウンド16のEAギャンガン戦ではハーフタイムに途中出場して後半だけで2得点を挙げた。チームは準決勝に進出し、準決勝でFCジロンダン・ボルドーに敗れた。プレーでは移籍初年度から健闘したが、「サッカーよりもパリでの夜遊びで注目を集め、ブラジルでの休暇から予定通りに帰国しない」と主張するルイス・フェルナンデス監督との確執によって台無しとなった。

2002-03シーズン

2002年夏には背番号を10に変更し、2002-03シーズンに臨んだ。2年目のシーズンは1年目と比較して失望の残るシーズンであったが、それでも見事な成績を残した。2002年10月26日、オリンピック・マルセイユとのル・クラスィク (3-1) で2得点を挙げた。最初の得点は直接フリーキックによるもので、カーブしたボールは壁の横を通り抜けてベドラン・リュンジュ (Vedran Runje) が守るゴールに吸い込まれた。スタッド・ヴェロドロームで行われたアウェー戦でも得点し、3-0で快勝した。クープ・ドゥ・フランス準決勝のFCジロンダン・ボルドー戦 (2-0) では2得点を挙げ、再び称賛を集めた。22分に先制点を決め、81分にはGKウルリッヒ・ラメが適切なポジション取りをしていたのにもかかわらず、頭を抜くチップシュートを決めて試合を締めくくった。これらの活躍で、パリ・サンジェルマンFCの観客にスタンディング・オベーションを贈られた。クラブにとって不幸なことに、決勝のAJオセール戦 (1-2) ではロナウジーニョ自身もチームも本来の調子を出せず、ロスタイムのジャン=アラン・ブームソンの得点に屈した。2002-03シーズンのリーグ戦は11位と失望の順位に終わり、欧州カップ戦出場権を逃したことで、ロナウジーニョは他クラブへの移籍希望を明らかにした。

バルセロナ

FCバルセロナでのロナウジーニョ
2003-04シーズン

当初、FCバルセロナジョアン・ラポルタ会長はデヴィッド・ベッカムの獲得を公約していたが、ベッカムはレアル・マドリードに移籍したため、FCバルセロナはロナウジーニョの獲得争いに参加し、マンチェスター・ユナイテッドFCよりも高額な3000万ユーロのオファーを提示して獲得に成功した。アメリカのワシントンにあるロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムで行われたACミランとの親善試合でデビューし、その試合で1得点を挙げて2-0で勝利した。2003-04シーズン前半戦には負傷離脱していた時期もあったが、復帰後はチームをリーグ戦2位に導いた。

2004-05シーズン

2004年12月20日にはFIFA最優秀選手賞を受賞し、2004-05シーズンには移籍後初のリーグ優勝を果たした。2005年3月8日、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦・チェルシーFC戦セカンドレグ (2-4) では2得点を挙げたが、2試合合計4-5で敗退が決まった。

2005-06シーズン

2005年9月にはFIFPro年間ベストイレブンFIFPro年間最優秀選手賞を受賞し、同年にはUEFA年間最優秀選手賞も受賞した。さらに、FIFA最優秀選手賞の投票では956点を集め、2位のフランク・ランパード(306点)に3倍以上の大差をつけて2年連続で受賞した。2005年11月19日、レアル・マドリードとのエル・クラシコ (3-0) では2得点を挙げた。勝利を決定づける2点目を決めると、アウェーでのダービーマッチにもかかわらずレアル・マドリードのファンからスタンディング・オベーションが贈られた。2006年1月には3年連続でUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。UEFAチャンピオンズリーグ準々決勝・SLベンフィカ戦セカンドレグでは先制点を決めた。準決勝のACミラン戦ファーストレグではリュドヴィク・ジュリの決勝点をアシストし、2試合合計1-0で決勝に駒を進めた。5月26日に行われた決勝ではアーセナルFCを2-1で下して優勝を果たした。決勝の2週間前にはセルタ・デ・ビーゴに1-0で勝利してリーガ・エスパニョーラ2連覇を決めており、キャリア初の2冠を達成した。全公式戦を通じて自己最多の26得点を挙げ、UEFAチャンピオンズリーグの大会最優秀選手に選ばれた。

2006-07シーズン

2006年11月25日のビジャレアルCF戦では2度目となるオーバーヘッドキックでの得点を決め、FCバルセロナでのリーグ戦得点数が50点に達した。このビジャレアル戦での得点は少年時代から夢見ていたゴールであると後に語っている。12月にはFIFAクラブワールドカップに出場し、準決勝のクラブ・アメリカ戦 (4-0) では1得点1アシストの活躍を見せたが、決勝のSCインテルナシオナル戦 (0-1) に敗れて準優勝に終わった。この大会でロナウジーニョはブロンズボールに輝いた。SCインテルナシオナル戦の翌日にはFIFA最優秀選手賞が発表されたが、2006 FIFAワールドカップで優勝したイタリア代表のキャプテンであるファビオ・カンナヴァーロ、準優勝のフランス代表のキャプテンであるジネディーヌ・ジダンに次ぐ3位に終わった。2007年1月、最多となる29万票以上を集めてUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに3年連続で選出された。エル・クラシコ (3-3) で負傷し、3月13日のチャリティマッチには出場できなかった。

2007-08シーズン

2008年2月3日のCAオサスナ戦に出場し、FCバルセロナでの公式戦通算200試合出場を達成した。しかし、2007-08シーズンは全体的に負傷に苦しめられ、4月3日には右足の筋肉断裂により一足早くシーズンを終えた。5月19日、ラポルタ会長は「ロナウジーニョは新たなチャレンジを必要としている」と発言し、トップ選手としてやっていくためには移籍が必要であると主張した。6月6日、マンチェスター・シティFCタクシン・シナワットオーナーはロナウジーニョの獲得に興味を示した。6月28日、ロナウジーニョとリオネル・メッシはベネズエラで開催された人種差別撲滅のための親善試合でそれぞれのチームのキャプテンを務め、試合は7-7の引き分けに終わった。彼は2得点2アシストを記録したが、この試合がFCバルセロナの選手としての最後の試合となった。2010年のジョアン・ガンペール杯前日、FCバルセロナのファンと選手たちに対して「FCバルセロナでの5年間が最高の時期であった」とする手紙を公開した。

ミラン

ACミランでプレーするロナウジーニョ
2008-09シーズン

2008年7月、ロナウジーニョはマンチェスター・シティFCからの移籍金2550万ポンドのオファーを拒否し、イタリア・セリエAACミランと3年契約を結んだ。年俸は約510万ポンド(650万ユーロ)であり、移籍金は約1450万ポンド(1850万ユーロ)と考えられている。希望の背番号10は既にクラレンス・セードルフが着けていたため、生まれ年の1980年に因んで背番号80を選んだ。9月28日、インテルとのミラノ・ダービー (1-0) で初得点を挙げた。10月19日のUCサンプドリア戦 (3-0) では初の1試合2得点を記録した。11月6日、UEFAカップグループリーグのSCブラガ戦では93分に決勝点を挙げた。2008-09シーズンは全大会を通じて32試合に出場して10得点した。良好なスタートを切った後、コンディション不良に苦しんで途中出場が多くなり、ACミランでの初年度は失望に終わった。

2009-10シーズン

2009-10シーズン序盤はベンチから試合開始を迎えることも多かったが、その後調子を取り戻し、攻撃的ミッドフィールダーから馴染み深い左ウイングに役割を変え、このシーズンのチームの最優秀選手と言ってもよい活躍を見せた。2010年1月10日、アウェーでのユヴェントスFC戦 (3-0) では2得点を挙げた。翌週の1月17日に行われたシエナ戦 (4-0) では、1点目をペナルティキック、2点目をコーナーキックからのヘディングシュート、3点目を20ヤードの距離からのミドルシュートで決め、移籍後初のハットトリックを達成した。1月16日には移籍後初めてのUEFAチャンピオンズリーグの試合となるマンチェスター・ユナイテッドFC戦に出場し、序盤に得点してリードを得たが、ポール・スコールズウェイン・ルーニー(2点)に得点を許して最終的に2-3で敗れた。4月13日、カルチョ・カターニア戦 (2-2) でマルコ・ボリエッロの得点をアシストし、アシスト数はリーグトップの14に達した。5月15日にはホームでのユヴェントス戦 (3-0) で2得点を記録し、ライバル相手に1シーズンで計4得点を記録した。この試合はレオナルド監督のACミラン監督としてのラストマッチとなった。なお、2008-09シーズンもペナルティキックを1度失敗していたが、2009-10シーズンは3度もペナルティキックを失敗している。

2010-11シーズン

2010年夏にマッシミリアーノ・アッレグリ監督が就任し、4-3-3フォーメーションではなく主に4-3-1-2フォーメーションが採用された。2010-11シーズン開幕戦のUSレッチェ戦 (4-0) ではキレの良いプレーを見せたが、役割が変更になると徐々にフェードアウトし、シーズン前半戦は11試合出場無得点に終わった。

フラメンゴ

フラメンゴでプレーするロナウジーニョ(2011年2月)

2011年冬にはアメリカのロサンゼルス・ギャラクシー、ブラジルのSCコリンチャンスSEパルメイラス、イングランドのブラックバーン・ローヴァーズFCなど様々なクラブがロナウジーニョに関心を示した。特に幼少時代を過ごしたグレミオから強い関心を示されたが、2011年1月11日にCRフラメンゴと2014年末までの契約を交わし、1月13日に行われたお披露目では2万人以上のファンに迎えられた。2月6日のボアヴィスタSC (Boavista SC) 戦 (3-2) で移籍後初得点を記録し、2月27日に行われたタッサ・グアナバラ (Taça Guanabara) 決勝の同一カード (1-0) では右足での直接フリーキックで決勝点を決め、トロフィー獲得に貢献した。CRフラメンゴにとっては19度目の同大会制覇であり、2ヶ月後にはリオ・グランデ・ド・スル州選手権タッサ・リオ (Taça Rio) でも優勝を果たした。

2012年5月31日にフラメンゴとの契約を一方的に解除した。

アトレチコ・ミネイロ

2012年6月、アトレチコ・ミネイロへ移籍。契約はシーズン終了まで。2013年7月25日、クラブ史上初のコパ・リベルタドーレス制覇を達成し、史上8人目となる欧州&南米王者に輝いた。モロッコで行われたFIFAクラブワールドカップ2013では準決勝と3位決定戦に出場し、2得点を挙げた。

ケレタロ

2014年9月、リーガMXケレタロFCに加入した。2015年6月20日にメキシコのケレタロを退団した。

フルミネンセ

2015年7月11日、ブラジルのフルミネンセFCに入団することをクラブ公式HP上で発表した。契約期間は2016年末までで、背番号は「10番」を着用。

バルセロナSCのメンバーとして親善試合に出場したロナウジーニョ(2016年)

現役引退

フルミネンセ退団後は無所属の状態が続いたが、2018年1月16日に代理人である兄ロベルトから現役引退が発表された。

代表

ロナウジーニョ(右)とルーラ大統領
ロナウジーニョ(右)とスイス代表のマルガイラス
1999-2002

全ての年代でブラジル代表に選ばれた数少ない選手の一人である。1997年にはU-17ブラジル代表としてFIFA U-17ワールドカップで優勝し、ブロンズボールに輝いた。1999年はブラジル代表で大きな結果を残した年となった。4月にはナイジェリアで開催されたFIFA U-20ワールドカップに出場し、グループリーグ最終戦(1得点)と決勝トーナメント1回戦のU-20クロアチア戦(4-0、2得点)で計3得点を挙げた。準々決勝でU-20ウルグアイ代表に敗れ、2大会連続のベスト8に終わった。6月26日、コパ・アメリカ1999前最後の親善試合となったラトビア戦 (3-0) でブラジル代表初出場を果たし、コパ・アメリカ1999中に代表初得点を記録した。コパ・アメリカが閉幕して1週間後にはFIFAコンフェデレーションズカップ1999に招集され、メキシコに3-4で敗れた決勝以外の全ての試合で得点した。特に準決勝のサウジアラビア戦 (8-2) ではハットトリックを達成し、大会得点王と大会最優秀選手賞を同時受賞した。2000年前半にはCONMEBOLプレオリンピック大会 (CONMEBOL Men Pre-Olympic Tournament) に出場し、7試合で9得点を挙げて優勝に導いた。同年夏にはU-23ブラジル代表としてシドニーオリンピックに出場したが、優勝したU-23カメルーン代表に準々決勝で敗れた。ロナウジーニョは4試合に出場し、U-23カメルーン戦での1得点に終わった。

2002年には初めてのFIFAワールドカップとなる2002 FIFAワールドカップの代表メンバーに選ばれ、コパ・アメリカ1999を共に制したロナウドリバウドなどと共に脅威的な攻撃陣を構成した。大会を通じて5試合に出場して2得点し、更にいくつかの重要なアシストでもチームに貢献した。最初の得点はグループリーグの中国戦 (4-0) であり、次の得点は準々決勝のイングランド戦 (2-1) であった。この試合で彼は35mの距離から直接フリーキックを蹴り、デヴィッド・シーマンが守るゴールネットを揺らした。この得点の7分後にダニー・ミルズへのファールで退場処分を受けたが、フリーキックでの得点が決勝点となって準決勝進出を決めた。準決勝は出場停止であったが、決勝のドイツ戦 (2-0) には先発出場し、5度目の優勝を果たした。

2003-2006

次に参加した大会は2003年のコンフェデレーションズカップであったが、どの試合でも得点を挙げることができず、低調なプレーのブラジル代表はグループリーグで敗退した。2004年、カルロス・アルベルト・パレイラ監督は代表の主力選手を休ませるため、ロナウジーニョをコパ・アメリカ2004のメンバーに加えず、メンバーの大部分を本来なら控えの立場の選手で構成した。2005年6月にはコンフェデレーションズカップに出場し、決勝のアルゼンチン戦 (4-1) ではマン・オブ・ザ・マッチに選出された。この大会を通じて3得点を挙げ、1999年大会を含めた得点数を9得点とし、通算最多得点者のクアウテモク・ブランコと並んだ。

2006年にはドイツで開催されたワールドカップのメンバーに選ばれ、アドリアーノロナウドカカと共に構成されたマジック・カルテットの一員として全5試合に先発出場した。しかしブラジル代表は全体的に低調で、この4人組は計5点しか奪えなかった。ロナウジーニョはグループリーグの日本戦でジウベルトの得点をアシストしたが、代表キャリアの中でも最悪の大会となり、大会を通じて無得点1アシストに終わった。準々決勝のフランス戦 (0-1) では何もできず、ブラジル代表は枠内シュートを1本しか打てない体たらくで敗退が決まった。この代表チームはブラジル帰国後にファンやメディアの批判にさらされ、フランス戦の2日後の7月3日には、チャペコ (Chapecó) にあった7.5m(23フィート)ものグラスファイバーと樹脂製のロナウジーニョの彫像が過激なファンによって破壊された。この彫像は2004年にFIFA最優秀選手賞受賞を記念して設立されたものだった。同じ日、バルセロナに戻ったロナウジーニョは自宅にアドリアーノを招いてパーティを催し、ナイトクラブで早朝まで夜遊びを続けた。このことは多くのブラジルのファンに「努力の足りないブラジル代表に裏切られた」という感情を抱かせた。

2007-2010

2007年3月24日のチリ戦 (4-0) ではFIFAコンフェデレーションズカップ2005決勝以来となる得点(2得点)を決め、2年近くにも及んだ連続無得点期間を終わらせた。同年にはコパ・アメリカ2007が開催されたが、疲労のために出場免除を申し出て、ドゥンガ監督はロナウジーニョの大会欠場を許可した。10月にはエクアドルとの親善試合 (5-0) を戦ったが、数人の選手たちとリオデジャネイロの高級ナイトクラブでパーティを催し、翌朝11時にナイトクラブを出たが、メディアを避けるために車のトランクに隠れて移動したとされる。この夜遊びが原因でスペイン帰国が遅れたとして、FCバルセロナの試合では先発から外されて議論を呼んだ。

2008年7月7日、オーバーエイジ枠として北京オリンピックのブラジル代表メンバーに加わった。FCバルセロナはチャンピオンズリーグの試合に彼を出場させたいとして、初めはブラジル代表への招集を拒否しようとしたが、ACミランへの移籍が合意に達したためにオリンピックへの出場が許された。グループリーグのU-23ニュージーランド戦 (5-0) で2得点を挙げたが、準決勝でU-23アルゼンチン代表に敗れ、3位決定戦のU-23ベルギー代表に勝利して3位となった。

コンディションを取り戻した後は、2010年5月11日に2010 FIFAワールドカップのブラジル代表候補30人に選ばれ、自身も南アフリカ行きを熱望していたが、ドゥンガ監督は本大会に出場する23人のメンバーからロナウジーニョを除外した。ジャーナリストの中には、ロナウジーニョ、アレシャンドレ・パト、アドリアーノ、ロナウドのような選手を選外とすることはブラジルの伝統的なプレースタイルであるJoga Bonitoを放棄する兆しであると主張する者もいた。

2011-

2011年9月5日のガーナとの親善試合で10ヶ月ぶりに代表に復帰すると、得点こそ奪えなかったものの好調をみせ、監督のマノ・メネゼスに「彼を代表へ復帰させなければならない」と言わしめた。同年10月11日のメキシコとの親善試合では代表では4年ぶりとなる得点を挙げ、勝利に貢献した。

プレースタイル

当代最高のスキルを持つ選手と称される。高い得点能力を持つためウィングや中央のいくつもの攻撃ポジションをこなすことが出来、またミッドフィルダーでは典型的な10

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出典:wikipedia
2018/09/22 08:25

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