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ロバート・ウォルポールとは?

初代オーフォード伯爵
ロバート・ウォルポール
Robert Walpole
1st Earl of Orford,
ロバート・ウォルポール(ジャン=バティスト・ヴァン=ロー画)

【生年月日】
1676年8月26日
【出生地】
イングランド王国 ノーウォーク州ホートン
【没年月日】
(1745-03-18) 1745年3月18日(68歳没)
【死没地】
グレートブリテン王国 ロンドン
【出身校】
ケンブリッジ大学キングス・カレッジ
【所属政党】
ホイッグ党
【称号】
初代オーフォード伯爵、初代ウォルポール子爵、初代ホートン男爵、ガーター勲章ナイト(KG)、バス勲章ナイト(KB)、枢密顧問官(PC)
【配偶者】
(1)キャサリン
(2)マリア
【親族】
ロバート・ウォルポール(父)、第2代タウンゼンド子爵(義弟)、第2代オーフォード伯(長男)、エドワード・ウォルポール(次男)、第4代オーフォード伯(三男)
【サイン】

初代首相
(第6代 第一大蔵卿)

【在任期間】
1721年4月4日 - 1742年2月11日
国王
ジョージ1世ジョージ2世
第3代 第一大蔵卿

【在任期間】
1715年10月10日 - 1717年4月12日
【国王】
ジョージ1世
庶民院議員

【選挙区】
キャッスル・ライジング選挙区
キングス・リン選挙区
キングス・リン選挙区
【在任期間】
1701年1月11日 - 1702年7月
1702年7月3日 - 1712年1月
1713年 - 1742年2月6日
貴族院議員

【在任期間】
1742年2月6日 - 1745年3月18日

初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール(英語: Robert Walpole, 1st Earl of Orford, KG, KB, PC1676年8月26日 - 1745年3月18日)は、イギリス政治家貴族

1701年ホイッグ党庶民院議員に当選して政界入り。高い討論力で頭角を現し、ホイッグ党政権(あるいはホイッグ党参加政権)で閣僚職を歴任した。1720年南海泡沫事件の後処理を指揮。事件後にはホイッグ政権の最大の有力者となり、1721年第一大蔵卿に就任した。与党を統制して閣議を主宰し、議会の支持を背景に政治を行ったため(責任内閣制)、この時期の彼を最初の「イギリス首相」とするのが一般的である。巧みな政治手腕で議会を掌握し続け、20年に及ぶ長期安定政権を築いてイギリスが商業国家として躍進する土台を築いた。1733年のタバコ消費税法案の挫折で求心力を落としはじめ、1741年総選挙で与党の議席を大幅に減らしたため1742年に退陣した。

目次

  • 1 概要
  • 2 生涯
    • 2.1 生い立ち
    • 2.2 政界入り直後の野党期(1701-1705)
    • 2.3 政府への参加(1705-1711)
    • 2.4 汚職容疑でロンドン塔に投獄(1712)
    • 2.5 ハノーヴァー朝成立で政権復帰(1714-1717)
    • 2.6 スタナップ政権に対する野党期(1717-1720)
    • 2.7 政権復帰と南海泡沫事件(1720-1721)
    • 2.8 初代首相(1721-1742)
      • 2.8.1 政敵を排除して権力強化
      • 2.8.2 言論統制
      • 2.8.3 外交
      • 2.8.4 経済政策
      • 2.8.5 消費税法案の挫折
      • 2.8.6 ジェンキンスの耳の戦争
      • 2.8.7 退任
    • 2.9 余生と死去
  • 3 人物・評価
  • 4 栄典
    • 4.1 爵位
    • 4.2 勲章
  • 5 家族
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典
  • 7 参考文献
  • 8 外部リンク

概要

1676年にイングランドホートンに地主の三男として生まれる。イートン校を経てケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学。兄が死去したため、代わりにウォルポール家の財産を相続した(生い立ち)。

1701年に父が議席を持っていた選挙区から立候補して庶民院議員に当選。ホイッグ党に所属して時のトーリー党政府に対して野党として論争を挑み、高い討論力を見せつけて庶民院内で急速に頭角を現した(政界入り直後の野党期(1701-1705))。1705年総選挙で与野党の議席が伯仲化した結果、ホイッグ党議員が閣僚に登用されるようになり、ウォルポールも海軍本部委員会委員、ついで戦時大臣に就任した。しかしその後世論のホイッグ批判の高まりや1710年総選挙のホイッグの敗北などによりホイッグ閣僚が次々と辞任に追いやられ、彼も1710年10月に辞職した(政府への参加(1705-1711))。その後再び庶民院でトーリー政府批判を展開したが、政府に危険視され、1712年1月には汚職行為を働いたとされて議会の議決によりロンドン塔に投獄された。しかしこれにより反政府派から英雄視され、ホイッグ党内で権威を高めた(汚職容疑でロンドン塔に投獄(1712))。

1714年ハノーヴァー朝ジョージ1世が即位するとトーリーが退けられてホイッグ政権が創設され、ウォルポールも陸軍支払長官に就任。また議会において前トーリー政権責任追及の中心人物となり、前政権首脳陣をジャコバイトとして徹底糾弾し、ホイッグ一党優位体制の確立に貢献する。1715年には第一大蔵卿に就任してホイッグ政府の最有力閣僚の一人となる。しかしその後国王やジェイムズ・スタナップのハノーヴァー優先外交を批判したことで1717年4月には下野に追い込まれた(ハノーヴァー朝成立で政権復帰(1714-1717))。

その後スタナップ政権に対して激しい野党活動を展開し、それに耐えかねたスタナップは、1720年6月にウォルポールを陸軍支払長官として再登用した(スタナップ政権に対する野党期(1717-1720))。直後に発生した南海泡沫事件ではバブル発生当時政権におらず責任追及される立場にない閣僚として後処理を指揮した。この事件中に多くのホイッグ有力政治家が辞職に追い込まれたり、死去したりしたため、ウォルポールが主導権を握る政権が誕生することになった(政権復帰と南海泡沫事件(1720-1721))

1721年4月に第一大蔵卿に就任。閣議を主宰して他の閣僚を統制し、議会の与党議員も統制して議会の支持を基盤にした最初の閣僚という意味でこの時期のウォルポールを「初代イギリス首相」とするのが一般的である(初代首相(1721-1742))。政権内ライバルを失脚させたり、トーリー党や反政府派にジャコバイトのレッテルを貼って野党活動をけん制することで議会を掌握し続けた。1722年総選挙1727年総選挙では政府機密費を流用して買収に励んだ結果、大勝を収めた(政敵を排除して権力強化)。勃興期のジャーナリズムに対しては言論統制に努め、買収や言論弾圧を盛んに行った。1737年には演劇検閲法を制定して言論統制を演劇に拡大し、ヘンリー・フィールディングらの反政府演劇を弾圧した。ジャコバイトの海外連絡の監視も強化した(言論統制)。こうした政敵排除によって「ロビノクラシー」「パクス・ウォルポリアナ」と称される強力な安定政権を樹立することができた。

外交面では議会の不安定化を嫌って戦争回避の平和外交に努めた(外交)。経済政策も議会統制の観点から行い、土地税減税・国内商工業振興・塩税など、議会に影響力を持つ地主・ブルジョワを優遇し、議会に影響力を持たない貧民から絞り取る路線を目指した(経済政策)。1733年には土地税減税を続けるべくタバコ消費税導入を目指したが、一般消費税への拡大や徴税官の立ち入りを恐れたイギリス商人層が反発し、議会の野党活動が高まり、法案は挫折。直後の1734年総選挙も与野党の議席差が約100議席に縮まる結果となり、ウォルポールの議会統制力に陰りが見え始めた(消費税法案の挫折)

1739年には議会の反スペイン感情の高まりでスペインに対してジェンキンスの耳の戦争に及ぶことを余儀なくされたが、ウォルポール自身は戦争指導に消極的だったので政治指導力を落としていった(ジェンキンスの耳の戦争)。さらに1741年総選挙で与野党の議席差は20議席以下にまで縮まった。その後、召集された議会での採決に僅差で敗れたため1742年2月をもって辞職した。退任とともにオーフォード伯爵に叙せられた(退任)。1745年3月18日にロンドンで死去した(余生と死去)。

ウォルポールの20年に及ぶ長期安定政権はイギリスを商業国家として躍進させ、後の大英帝国の基礎となったと評価されている。他方、総選挙の度に政府機密費を流用して買収・接待に励んだため、金権政治をもたらした人物との批判もある(人物・評価)。

生涯

生い立ち

1676年8月26日、イングランド東部ノーフォークの寒村ホートンに生まれる。父は地主で後に庶民院議員も務めるロバート・ウォルポール。母はその夫人メアリー(旧姓バーウェル)。夫妻は19人もの子供を儲けており、ウォルポールはそのうちの第5子・3男であった。

ウォルポール家は貴族でこそないが、13世紀まで系図を遡れる旧家であった。

イートン校を経てケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学した。跡継ぎになる前には父から聖職者になる事を望まれていたというが、大学在学中の1698年に長兄エドワードが急死し、次兄バーウェルもそれ以前の1690年大同盟戦争におけるビーチー・ヘッドの海戦で戦死していたため、急遽彼がウォルポール家の跡継ぎとなった。父の体調も悪化していたので、父の命令で地主業の勉強に専念すべくケンブリッジ大学を退学してホートンへ戻った。

父の勧めで1700年7月30日に裕福な材木商人ジョン・ショーター(John Shorter)の娘キャサリンと結婚したが、彼女は我がままであり、後にうまくいかなくなる。同年11月18日に父が死去し、財産を相続した。

政界入り直後の野党期(1701-1705)

1701年1月11日に父が議席を持っていたキャッスル・ライジング選挙区から初当選し、ホイッグ党所属の庶民院議員となる。翌1702年7月にはキングス・リン選挙区から選出され、以降40年にわたってこの選挙区の議席を維持する。

1702年3月、ステュアート朝最後の君主アン女王が即位した。スペイン王位継承問題をめぐる英仏の対立や、フランスがアン女王の異母弟でジェームズ2世の遺児ジェームズ・フランシス・エドワード(ジャコバイトが擁立する王位僭称者)を真のイングランド王・スコットランド王と認定したことなどでイングランド国内の対仏気運が高まり、同年5月にも女王はフランスに宣戦布告した(スペイン継承戦争)。女王はトーリー党中心の戦時体制を構築し、シドニー・ゴドルフィン(後の初代ゴドルフィン伯爵)が政治、初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルが軍事、ロバート・ハーレー(後の初代オックスフォード伯爵=モーティマー伯爵)が庶民院を主導する三頭政治が展開された。

庶民院入りしたばかりのウォルポールは、トーリー政府に対して野党として論争を挑み、高い討論力でたちまち院内の主導的人物となった。1705年1月にはトーリー右派が推し進めようとした官職法案の否決にホイッグを動員するうえで大きな貢献を果たしている。

政府への参加(1705-1711)

ウォルポールが敵対したトーリー党政権首脳の初代オックスフォード伯爵=モーティマー伯爵ロバート・ハーレー(ジョナサン・リチャードソン画)。

1705年6月の総選挙の結果、トーリー党が267議席、ホイッグ党が246議席を獲得し、与野党の議席が伯仲化した。これによりアン女王はホイッグ政治家の一部を政府に登用する必要に迫られた。

ホイッグの若きエースとして評判だったウォルポールは元海軍卿オーフォード伯爵エドワード・ラッセルと親しかったこともあって海軍本部委員会の委員の一人に任命された。グレートブリテン王国成立(スコットランド併合)後の最初の議会である1707年の議会では、庶民院の海軍批判が激しかったが、ウォルポールの巧みな答弁のおかげで政府は戦費の承認を取り付けることに成功した。

この頃、閣内ではホイッグ党への譲歩を目指すゴドルフィンとホイッグへの強硬姿勢を崩さないハーレーの対立が深まっていたが、スコットランド併合で45人のホイッグ議員が生まれ、以降ホイッグが議会の多数派状態になっていたため、ハーレー批判が強まり、1708年2月にハーレーは辞職に追い込まれた。この際にハーレー派の戦時大臣ヘンリー・シンジョン(後のボリングブルック子爵)も一緒に辞職し、その後任として海軍弁護で功績をあげたウォルポールが就任した。

1708年5月の総選挙はホイッグ党が大勝したが、1710年の国教会聖職者ヘンリー・サッシェバレルの裁判の影響で民衆の非国教徒やホイッグ党への批判が高まり、逆にトーリー党が支持を集めるようになった。アン女王もこれに影響されて、1710年8月にはゴドルフィンを解任し、ハーレーを実質的な政府首脳に再登用した。さらに1710年10月の総選挙ではトーリー党が圧勝した。

こうした情勢からホイッグ閣僚の辞職が相次ぐようになり、ウォルポールも1710年10月に戦時大臣を辞職することになった。ウォルポールを高く評価していたハーレーは、彼を政権に引きとめ、ウォルポールは1月から兼務していた海軍会計長官にしばらく留任した。しかし結局ウォルポールはハーレーへの協力を拒否したので1711年1月に完全下野することになった。

汚職容疑でロンドン塔に投獄(1712)

ウォルポールを自らの政治的立場の継承者とした初代ゴドルフィン伯爵シドニー・ゴドルフィン(ゴドフリー・ネラー画)

アン女王やハーレーらトーリー党政権はフランスとの講和を目指したが、ウォルポールら野党ホイッグがそれに反対した。1711年12月5日に召集された議会でウォルポールは講和反対の動議を庶民院に提出するが、先の総選挙でトーリー党が多数を占めている議会だったので否決された。

トーリー政府はマールバラ公とウォルポールを講和・政権運営に邪魔な存在との認識を強めた。ウォルポールは当時すでにホイッグ党の大物議員の一人であり、庶民院においてトーリー政府大臣シンジョンと渡り合える唯一の存在だったためである。1711年12月21日からの会計審査委員会でマールバラ公とウォルポールの汚職容疑の調査が行われた。調査の結果、ウォルポールは軍馬のに関する契約の際に知人が1000ポンドの公金を着服するのを助けたとされ、1712年1月17日の議会の議決により議会追放とロンドン塔投獄の懲罰を受けた。ウォルポールは獄中のまま補選で再選されているが、議会は対立候補の訴えに基づいて当選無効にしている。

汚職行為自体は事実だったが、それは当時の服務基準から考えると重い物ではなく、この投獄は政治的弾圧の要素が強かったという。ウォルポール自身も自らを政党間争いの犠牲者と捉え、復讐を誓ったという。獄中のウォルポールのもとにはマールバラ公夫妻やゴドルフィン、第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーなど野党有力者が次々と駆け付けて来てくれた。また同年7月8日に釈放された際には「殉教者」としてホイッグ党内で英雄視された。

釈放後にウォルポールはマールバラ邸で病気療養中のゴドルフィンを訪ねたが、この際にゴドルフィンはウォルポールを自らの継承者と認め、マールバラ公夫人サラに対して「貴女があの若者を見捨てるようなことがあり、魂が墓場から地上に戻ることが許されるなら、私は貴女の前に現れて叱って見せる」と述べたという(ゴドルフィンはこの直後の9月15日に死去した)。

ハノーヴァー朝成立で政権復帰(1714-1717)

ホイッグ政権を誕生させたイギリス王・ハノーファー選帝侯ジョージ1世(ゴドフリー・ネラー画)。

1714年8月にアン女王は崩御し、ハノーファー選帝侯ゲオルク1世がジョージ1世としてイギリス国王に即位してハノーヴァー朝が始まった。内部にジャコバイトを抱えるトーリー党を嫌うジョージ1世は、9月から10月にかけて政府の入れ替えを行い、初代ハリファックス伯爵チャールズ・モンタギュージェイムズ・スタナップ、ウォルポールの義弟に当たる第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンドらを中心としたホイッグ党政府が創設された。ウォルポールもこの政府で陸軍支払長官に任じられている。

スタナップやタウンゼンド子爵が国務大臣としての入閣であったことを考えると、その二人に並ぶ有力者と目されていたウォルポールにしては低い地位のポスト配分であったといえるが、同職は役得が多く、彼もこの時期に多額の財産を築き、ホートンの屋敷を立てなおしたり、ロンドンの屋敷に美術品を買い込んだり、我ままな妻を満足させたりすることができた。

1715年1月の総選挙はホイッグの大勝に終わり、1715年3月に召集された新議会においてウォルポールはアン女王晩年のトーリー政権指導者を徹底的に弾劾すべき旨の勅語奉答文を提案した。トーリー政権で国務大臣を務め、親ジャコバイト的態度をとっていたボリングブルック子爵(シンジョン)は身の危険を感じ、3月下旬にもフランスへ逃亡し、「ジェームズ3世」を僭称するジャコバイトの王ジェームズのもとに身を寄せたが、これはトーリー党をジャコバイトとして糾弾するうえで格好の証拠となった。

4月9日にはウォルポールのもとにトーリー政権閣僚を追及するための特別委員会が設置され、ユトレヒト条約締結の経緯とジャコバイトの陰謀の有無についての調査が行われた。ウォルポールは6月9日にも庶民院に調査結果を提出し、その結果、ボリングブルック子爵とオックスフォード伯爵(ハーレー)の弾劾が決議され、前者は私権剥奪、後者はロンドン塔投獄となった。1715年9月に勃発したジャコバイト蜂起により、トーリーをジャコバイト扱いして排除する路線はますます強まり、唯一のトーリー閣僚だった第2代ノッティンガム伯爵ダニエル・フィンチも政権を追われ、以降長きにわたるホイッグ一党支配体制が確立される。

ウォルポールは1715年10月に第一大蔵卿に転任し、スタナップやタウンゼンド子爵、サンダーランド伯爵らと並ぶ最有力閣僚の一人となったが、この後政府内で内部分裂が発生した。特にジョージ1世が1716年7月から大陸へ出てイギリスを空けると、それに随伴したスタナップ、サンダーランド伯爵(彼は途中から国王に随行)ら大陸組と、ウォルポール、タウンゼンド子爵ら留守政府の距離が広がった。国王はハノーファー選帝侯としての立場を優先して1700年以来続く大北方戦争にイギリスの支援を得て参戦し、スウェーデンに対抗すべくフランスと関係改善することを志向したが、ウォルポールはその政策をハノーヴァー優先策として批判していた。

国王とスタナップはフランスと条約を結ぼうとしたが、ウォルポールら留守政府がこれを妨害したため、条約締結は1716年11月末までずれこんだ。国王はこれに激怒し、まず1716年12月にタウンゼンド子爵をアイルランド総督に左遷し、ついで1717年初頭の議会で政府内部の対立が露呈したことで、1717年4月にウォルポールとタウンゼンド子爵が下野に追い込まれた。

スタナップ政権に対する野党期(1717-1720)

ウォルポールと一時敵対するも彼を再登用したホイッグ政権首脳の初代スタナップ伯爵ジェイムズ・スタナップ(ゴドフリー・ネラー画)。

以降ウォルポール派ホイッグは野党として政権の中枢スタナップを批判するようになった。しかしウォルポールの狙いは、スタナップ政権を困らせて自分を再登用させるという政局の意図が大きいため「反対のための反対」に終始し、トーリー党とも平然と共闘した。たとえばウォルポール自身が主導したはずのオックスフォード伯爵弾劾に反対したり、宗教的寛容を求めるホイッグの主張を体現したものであるはずの「便宜的国教会遵守禁止法」廃止の政策にも反対した。また政府の外交政策はイギリスの利害よりハノーヴァー家の利害を優先していると批判することで、党派に属しない独立派議員の疑念にも働きかけた。

国王の貴族創家の権限を大きく制限する「貴族法案」にも「国王大権の侵害」と批判するトーリーや皇太子ジョージ(ジョージ2世、父王と仲が悪かった)と一緒になって反対し、1719年12月に同法案を否決に追い込むことに成功した

更に国王ジョージ1世がハノーファー選帝侯国から連れてきたドイツ人側近たちがイギリス政治に介入するのがスタナップにとって頭痛のタネになっていたが、1720年4月頃にはウォルポールがこのドイツ人たちと連携を図ろうとしているという噂が流れ、それを恐れたスタナップはウォルポールの再登用を決断した。ウォルポールも国王と皇太子の和解を演出して政権復帰への環境準備を整え、1720年6月には陸軍支払長官として再び政権に参加した。

政権復帰と南海泡沫事件(1720-1721)

南海会社は1711年にスペイン領アメリカとの貿易会社として創設されたが、貿易会社としてはさほど業績は伸びず、金融会社として業績をあげている会社だった。1720年1月に3000万ポンドの国債を南海会社の株式に転換する法案が議会に提出され(4月に可決)、以降南海会社の株価は暴騰をはじめた。この余波で他にも投機的な会社が続々と設立され、常軌を逸した投機ブームがイギリスに到来した。南海会社は自社の株価つり上げを維持すべく、政府に働きかけて他の投機会社の投機を抑制する「泡沫会社禁止法(Bubble Act)」を1720年6月末に成立させたが、これによって8月から南海会社の株価も暴落し、ロンドン金融市場は大混乱に陥った(南海泡沫事件)。

政府において南海泡沫事件の事後処理を指揮したのは政権復帰したばかりのウォルポールであった。彼はバブル発生当初、政権中枢にいなかったため、責任追及される立場になく、また財政にも強い政治家として期待されていたためである。世論の責任追及の機運の高まりを受けて、議会で南海会社理事や政治家への弾劾が行われたが、ウォルポールは長年の政敵だった北部担当国務大臣スタナップや第一大蔵卿サンダーランド伯爵の擁護にあたり、「遮断幕(Screener)」と渾名される役割を果たした。

財政処理に関しては、南海会社の政府への債務の半分を公信用回復法によって免除し、残りの負債は南海会社理事や南部担当国務大臣ジェイムズ・クラッグス財務大臣ジョン・エイズラビなど弾劾された者たちからの没収財産を当てたり、年金公債と引き換えにイングランド銀行に負担させるなどして処理した。更に投資家に対する補償として所持株100ポンドについてその額の三分の一程度を加えた新株を無償交付し、その増資残高も無償交付した。南海会社から融資を受けた者は借入金の10%を返済すれば債務を免除するとした。しかしこれらの処置をもってしても結局公債を南海会社の株式に変換した人々は収入の三分の一から三分の二の打撃を受けたと言われている。

政局の上で重要であったのは、この時期にウォルポール以外の政府首脳陣がその座を去ることになったことだった。スタナップは貴族院で長時間にわたる弁明をしている際に心臓麻痺で死去し、もう一人の国務大臣クラッグスも追及前に病死した。財務大臣エイズラビは辞職のうえ庶民院除名となった。第一大蔵卿サンダーランド伯爵もウォルポールの擁護を受けたものの結局1721年4月に辞職に追い込まれており、第一大蔵卿の座をウォルポールに譲った。また死去したスタナップの後任の国務大臣にウォルポール派のタウンゼンド子爵が就任していたので、ここにウォルポールが全権を握る政権が誕生することになった。

初代首相(1721-1742)

ウォルポールの肖像画(ジャン=バティスト・ヴァン=ロー画)。

1721年4月に44歳で第一大蔵卿となったウォルポールは以降21年にわたって政権を主導することになる。この時期の彼をイギリスの初代首相と看做すのが一般的である(当初はタウンゼンド子爵との連立政権だが、1730年から単独政権)。国王は1718年以来閣議を主宰しなくなっており、ウォルポール時代にはウォルポールが閣議を主催して他の閣僚を統制していたこと、また議会の信任を背景に政権を維持していたことによる。

しかし政権発足当初のウォルポールは後世の首相のように与党を強力に支配しているわけではなかった。彼の21年にわたる政権の中で徐々に彼の支配力が強化されていき、ついには「第一大蔵卿=首相」の慣行が確立されるほどの権力を得たのである。ウォルポールの安定政権は彼のファーストネームから「ロビンの支配(Robinocracy, ロビノクラシー)」あるいは「ウォルポールの平和(pax walpoliana, パクス・ウォルポリアナ)」と呼ばれた。

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出典:wikipedia
2018/08/12 15:12

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