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ロンドンとは?

ロンドン
London
グレーター・ロンドン
Greater London
シティ・オブ・ロンドンの景観
タワーブリッジ/ロンドン・アイ
ウェストミンスター宮殿

 | 
紋章


座標: 北緯51度30分28秒 西経0度07分41秒 / 北緯51.50778度 西経0.12806度 / 51.50778; -0.12806
【国】
イギリス
構成国家
イングランド
地域
ロンドン
地区
シティ32の特別区
ローマ人による建設 西暦50年
行政
【- 行政機関】
大ロンドン庁
- 地方議会 ロンドン市議会
- 市長 サディク・カーン(労働党)
【- 市長官邸】
シティ・ホール
- イギリス国会
- ロンドン議会
- ヨーロッパ議会 74選挙区
14選挙区
ロンドン選挙区
面積
【- グレーター・ロンドン】
609mi (1,577.3km)
標高 | 79ft (24m)
人口 (2013年)
【- グレーター・ロンドン】
8,416,535 人
- 都市部 | 9,787,426人
- 都市圏 | 15,010,295人
等時帯
グリニッジ標準時 (UTC+0)
- 夏時間 英国夏時間 (UTC+1)
郵便番号
E, EC, N, NW, SE, SW, W, WC, BR, CM, CR, DA, EN, HA, IG, KT, RM, SM, TN, TW, UB, WD
住人の呼称
ロンドンっ子 (Londoner)
【民族構成
(2005年推計)】
民族別

【ウェブサイト】
www.london.gov.uk

ロンドン(英語: London [ˈlʌndən] ( 音声ファイル))はグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国およびこれを構成するイングランドの首都。イギリスヨーロッパ域内で最大の都市圏を形成している。ロンドンはテムズ川河畔に位置し、2,000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)に当たる地域にあった。シティの市街壁内の面積は約1平方マイルあり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。少なくとも19世紀以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている。ロンドンは市街地の大部分はコナベーションにより形成されている。ロンドンを管轄するリージョンであるグレーター・ロンドンでは、選挙で選出されたロンドン市長ロンドン議会により統治が行われている。

ロンドンは屈指の世界都市として、芸術、商業、教育、娯楽、ファッション、金融、ヘルスケア、メディア、専門サービス、調査開発、観光、交通といった広範囲にわたる分野において強い影響力がある。また、ニューヨークと並び世界をリードする金融センターでもあり、2009年時点の域内総生産は世界第5位で、欧州域内では最大である。世界的な文化の中心でもある。ロンドンは世界で最も来訪者の多い都市であり、単一の都市圏としては世界で最も航空旅客数が多い。欧州では最も高等教育機関が集積する都市であり、ロンドンには大学が43校ある。2012年ロンドンオリンピック開催に伴い、1908年1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催となり、同一都市としては史上最多となる。

ロンドンは文化的な多様性があり、300以上の言語が使われている。2011年3月時点のロンドンの公式の人口は817万4,100人であり、欧州の市域人口では最大で、イギリス国内の全人口の12.7%を占めている。グレーター・ロンドンの都市的地域は、パリの都市的地域に次いで欧州域内で第2位となる8,278,251人の人口を有し、ロンドンの都市圏の人口は1200万人から1400万人に達し、欧州域内では最大である。ロンドンは1831年から1925年にかけて、世界最大の人口を擁する都市であった。2012年マスターカードが公表した統計によると、ロンドンは世界で最も外国人旅行者が訪れる都市である。

イギリスの首都とされているが、他国の多くの首都と同様、ロンドンの首都としての地位を明示した文書は存在しない。

目次

  • 1 歴史
    • 1.1 地名
    • 1.2 先史時代・古代
    • 1.3 中世
    • 1.4 近世
    • 1.5 近現代
  • 2 行政
    • 2.1 政府機関
  • 3 地理
    • 3.1 範囲
    • 3.2 都市の地位
    • 3.3 地勢
    • 3.4 気候
    • 3.5 地区
  • 4 街並み
    • 4.1 建物
    • 4.2 公園・庭園
  • 5 統計
    • 5.1 民族
    • 5.2 宗教
  • 6 経済
    • 6.1 金融・サービス業
    • 6.2 工業
    • 6.3 農業
    • 6.4 観光
  • 7 交通
    • 7.1 道路
    • 7.2 バス・トラム
    • 7.3 鉄道
    • 7.4 地下鉄
    • 7.5 空港
    • 7.6 ロープウェイ
    • 7.7 自転車
    • 7.8 港湾・水上交通
  • 8 教育
    • 8.1 高等教育
    • 8.2 公立学校・その他
  • 9 文化
    • 9.1 アクセント
    • 9.2 レジャー・エンターテイメント
    • 9.3 文学・映画・テレビ
    • 9.4 博物館・美術館
    • 9.5 音楽
  • 10 スポーツ
  • 11 姉妹都市・提携都市
  • 12 脚注
  • 13 文献
  • 14 外部リンク

歴史

en:History of London」も参照

地名

ロンディニウムの範囲

ロンドンの語源ははっきりとしていない。古代の名称はその典拠が2世紀からのものに見られる。121年にロンディニウムの記録があり、ロマーノ・ブリティシュ文化が起源である。最初期の説は今日では軽視されているジェフリー・オブ・モンマスブリタニア列王史である。名称の説の一つにルッドから仮定されるもので、主張によればこの王が街を占領しKaerludと名付けたとしている。

1898年以降は「Londinosと呼ばれる男の所有する土地」を意味するケルト語に語源を求めるのが一般的であったが、この説は否定されている。1998年、言語学者のリチャード・コーツは古ケルト語の(p)lowonidaを語源とする説を提示した。(p)lowonidaとは、「渡るには幅が広すぎる川」を意味し、ロンドンを東西に貫通するテムズ川を指すものとして提案されている。ケルト語の形でLowonidonjonとなり、これが集落名になったとした。しかしながら、この説は大きな修正を必要とした。可能性としてウェールズ語の名称が英語から借用されたものに戻り、基礎から元の名称を再構築して使用することが困難であると言う可能性も排除できない。1889年まで"London"の名称は公式にはシティ・オブ・ロンドンにのみ適用されていたが、カウンティ・オブ・ロンドンを表すものとなり、現在ではグレーター・ロンドンを表すものとなっている。

漢字表記は「倫敦」が用いられるが、明治期前後には「龍動」と記載した例もある。現代中国語をピンイン式でアルファベット表記すると、倫敦は「lundun」で、龍動は「longdong」となる。龍動と表記したのは、清国から伝わった外来表記であった可能性がある。

先史時代・古代

ロンドン周辺にはケルト系のブリトンの集落跡が点在した形跡が確認される。最初の大きな開拓地はローマ帝国によって43年に創建された。この開拓は17年間続いたが、61年ころブーディカが率いるイケニ族により強襲され焼き討ちされた。また一説には紀元前1103年頃、トロイ王族の孫ブルートゥスがトロイヤ人の一団を率いてイタリヤから移住、「ニュー・トロイ」としてロンドンが建設されたという。紀元前1200年前後のトロイ崩壊後、トロイ王族のアイネイアースはトロイの移民を率いてイタリアに移住、ラテンの王ラティヌスの娘と結婚。ブルートゥスはアイネイアースの孫である。

その次の都市は繁栄し、紀元100年にそれまでブリタニアの首都であったコルチェスターから取って代わった。2世紀のローマ支配のロンドンは6万人の人口があった。

最近の2つの発見によりロンドンは考えられていたよりも古くから人が住んでいたことが分かった。1999年に青銅器時代の橋がヴォクスホール・ブリッジの北側の砂浜で発見されている。この橋はテムズ川を渡っていたか、今は無い川の中に浮かぶ島を渡っていた。樹木学では紀元前1500年に遡る木材が使われている。2010年には紀元前4500年に遡る大きな木材で築かれた建物がヴォクスホール・ブリッジ南側の砂浜で発見された。中石器時代のもので機能は分かっていないが、50m×10mの範囲で30cmの干潮時に見ることができる。この2つの構造物は南岸のテムズ川とエッフラ川が自然に合流する地点にあり、ローマ時代のシティ・オブ・ロンドンの上流4kmの場所にある。これらの構造体を構築するのに必要な労働力、貿易、安定性などから少なくとも数百人規模のコミュニティがあったことを示している。

中世

1300年頃、シティの範囲は市街壁内に収まっていた。
世界遺産のウエストミンスター寺院の絵画 (Canaletto, 1749 A.D.)

5世紀初期にはローマは事実上、ロンドンを放棄している。6世紀からアングロ・サクソン人ルンデンヴィックで知られる開拓地がローマ人の古い街の僅かに西に築かれ、これは現在のコヴェント・ガーデンロンドンで、人口は10,000人から12,000人程度に達した。 ただし、宗教的な中心地はカンタベリーであり、この側面でだけはロンドンは後塵を拝することになる。フリート川の河口には漁業や交易で栄えた港があったと思われるが、ヴァイキングからの防衛上の見地から、かつてのローマ人の市街壁を用いるため、東のロンディニウムへの移動を強いられた。ヴァイキングの襲撃は増加の一途をたどり、886年アルフレッド大王デーン人の指導者であるガスラムウェドモーアの和議を締結するまで続いた。アングロ・サクソン人のルンデンヴィックLundenwicは「旧市街」を意味するエアルドヴィックEaldwicと改称され、現在のシティ・オブ・ウェストミンスターオールドウィッチにその名を残している。10世紀、すでに国内最大の都市となり、貿易面でも最も重要な都市となっていたロンドンは、イングランド統一によりさらに政治面での重要性も高めた。さらにこの頃、ウェセックスの伝統的な中心地であるウィンチェスターとの競合にも直面した。

11世紀エドワード懺悔王ウェストミンスター寺院を建設し、シティより少し上流の地であるウェストミンスターに居住した。この見地に立てば、ウェストミンスターはシティの政府機能を担う立場を着実に奪っていったといえる。1066年クリスマスの日、ヘイスティングズの戦いで勝利し、イングランドを征服したノルマンディ公ギヨーム2世は1066年のクリスマスの日に、ウェストミンスター寺院イングランド王ウィリアム1世として即位した。ウィリアム1世はホワイト・タワー(後のロンドン塔)をシティの南東に建設し、市民を威圧した。1097年ウィリアム2世はウェストミンスター寺院に程近い場所に、ウェストミンスター宮殿の基礎となるウェストミンスター・ホールを建設した。12世紀、それまで国中を移動していた宮廷に同伴していた中央政府の各機関は次第に一箇所に固定化し、規模を増大させ、洗練されていった。多くの場合、政府機関はウェストミンスターに集中したが、国庫の機能はロンドン塔に置かれた。ウェストミンスターが首都として政府機能を果たす一方、シティは自治機能を有するイングランド最大の商業都市に発展していた。シティはその経済力を背景として、12-13世紀に市長を選出する権利や独自の法廷を持つ権利を獲得し、14世紀半ばからは市参事会を選出し、王権から独立した高度な自治都市としての独立を保持した。人口は1100年に18,000人、1300年までには100,000人程にまで成長していた。

14世紀半ばにはペストが発生し、人口は3分の1程度減少した。1381年ワット・タイラーの乱が発生した。

近世

ロンドン大火

テューダー朝の時代、宗教改革に伴うプロテスタントへの移行が次第に進むにつれ、教会の私有化が進んだ。ネーデルラント周辺地域へは未加工のウール生地が海上輸出された。生地の主たる用途は、大陸ヨーロッパの富裕層向けの衣服であった。しかし、当時のイギリスの海運会社は北西ヨーロッパ以外の海にはほとんど進出しなかった。イタリア地中海への商業ルートは、通常アントウェルペンまたはアルプス山脈経由であった。海上輸送ではイタリアやドゥブロヴニクの貿易商と同様、ジブラルタル海峡を経由した。1565年オランダとイギリス間の貿易再開は、瞬く時に活発な商取引をもたらした。1566年王立取引所が設立された。重商主義は進展し、イギリス東インド会社を初めとする勅許会社が設立され、貿易は新世界へと拡大した。ロンドン港は北海において重要性を増し、国内外から移住者が来航した。1530年の人口は推計で50,000人、1605年には225,000人に上昇した。

16世紀ウィリアム・シェイクスピアや同時代に生きたロンドンの劇作家は、イギリス・ルネサンス演劇を始めとして劇場の発展にしのぎを削った。テューダー朝が終わりを告げる1603年まで、ロンドンはまだ非常に小規模な都市であった。1605年ジェームズ1世の暗殺計画を企てた火薬陰謀事件が発生した。17世紀初頭や1665-1666年にはペストが流行し、100,000人または人口の5分の1が死亡した。1666年、シティのプディング・レーンにてロンドン大火が発生し、市内の家屋の約85%が焼失した。建築家ロバート・フック指揮の下、ロンドン再建に10年の歳月を要した。1708年クリストファー・レンの最高傑作であるセント・ポール大聖堂が完成した。ハノーヴァー朝の時代には、メイフェアを始めとする新市街が西部に形成され、テムズ川には新たな橋が架橋され、南岸の開発が促進された。東部では、ロンドン港がテムズ川下流のドックランズに向かって拡張された。

1762年ジョージ3世バッキンガム・ハウスを手中に収め、以後75年間に渡って同邸宅は拡張を続けた。18世紀、ロンドンの犯罪率は高く、1750年にはロンドン最初の専業の警察としてバウストリートランナーズが設立された。総計で200件以上の犯罪に死刑判決が下され、小規模な窃盗罪でも女性や子どもが絞首刑に処された。ロンドンで生まれた子どもの74%以上は5歳未満で死亡していた。コーヒー・ハウスが意見を交わす社交場として流行したのに伴い、リテラシーの向上やニュースを世間一般に広める印刷技術が向上し、フリート・ストリートは報道機関の中心地となっていた。

1777年サミュエル・ジョンソンによる言葉を記す。「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与えうるもの全てがあるから。」

近現代

第二次世界大戦時、ドイツによる空襲を受けたロンドン

1831-1925年頃、ロンドンは世界最大の都市であった。著しく高い人口密度によりコレラが大流行し、1848年に14,000人が死亡、1866年には6,000人が死亡した。特に、1854年8月の大流行は『ブロード街の12日間』というノンフィクションにまとめられている。1855年に、首都建設委員会が設立される。渋滞が増加し、首都建設委員会はインフラ整備を監督した。世界初の公共鉄道ネットワークであるロンドン地下鉄が開通している。首都建設委員会は1889年ロンドン郡議会になり、ロンドン最初の市全域を管轄する行政機構として機能した。第二次世界大戦時、ザ・ブリッツを始めとするドイツ空軍による空爆により、30,000人のロンドン市民が死亡し、市内の多くの建築物が破壊された。終戦直後の1948年ロンドンオリンピックが初代ウェンブリー・スタジアムにて開催され、同時に戦後復興をわずかに果たした。

1951年フェスティバル・オブ・ブリテンサウス・バンクにて開催された。1952年ロンドンスモッグの対応策として大気浄化法 (1956)が掲げられ、「霧の都」と揶揄されたロンドンは過去のものとなったが、大気汚染の問題は未だに残されている。1940年代以降、ロンドンには大量の移住者が流入した。多くはイギリス連邦加盟国の出身者である。内訳としてはジャマイカインドバングラデシュおよびパキスタン出身者で、ロンドンに欧州屈指の多様性をもたらす要因となっている。

主として1960年代半ば以降、ロンドンは世界的なユースカルチャーの中心地となっていった。キングス・ロードチェルシーカーナービーストリートといった地域ではスウィングロンドンと言ったスタイルが流行した。流行の発信拠点としての役割は、パンク・ロックの時代に復活し1965年、ロンドンの都市的地域の拡大に伴い、管轄範囲を拡大したグレーター・ロンドン・カウンシルが設立された。北アイルランド問題に関連し、ロンドンではIRA暫定派による爆破事件が発生した。1981年ブリクストン暴動では、人種差別問題が注目を集めた。第二次世界大戦以後、グレーター・ロンドンの人口は次第に減少していった。ピーク時の1939年の推計人口が8,615,245人だったのに対し、1980年代では約6,800,000人に減少していた。ドックランズカナリー・ワーフ再開発事業に伴い、ロンドンの主要港は下流に位置するフェリクストウ港ティンバリー港に移転した。また、カナリー・ワーフ再開発事業により、ロンドンの国際的な金融センターとしての役割は増加の一途をたどった。

1980年代、高潮による北海からの海水の流入を堰き止め、洪水を防止するテムズバリアが完成した。1986年、グレーター・ロンドン・カウンシルが廃止され、ロンドンは世界で唯一、中央行政機関が存在しない大都市となった。2000年、グレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立された。ミレニアム記念事業の一環として、ミレニアム・ドームロンドン・アイミレニアム・ブリッジが建設された。2005年ロンドン同時爆破事件が発生し地下鉄車両とバスが爆破された。2012年第30回オリンピックが開催された。1908年1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催であり、同一都市としては史上最多となる。

アメリカのシンクタンク2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界1位の都市と評価された。

行政

シティ・ホール

グレーター・ロンドンは、シティ・オブ・ウェストミンスターを含む32の特別区とシティ・オブ・ロンドンにより構成されている。グレーター・ロンドンは選挙で選出されたロンドン市長ロンドン議会により構成されている。ロンドン市長は行政上の力を有し、ロンドン議会は市長が提案する年度毎の予算の可否や裁定に関して精細に調査する。グレーター・ロンドンの本庁はサザークシティーホールにあり、現在の市長はサディク・カーンである。市長の法定戦略計画はロンドンプランとして公開され、最新のものは2011年に改訂されている。

グレーター・ロンドンのうち、シティ、都心部の13区はインナー・ロンドン、その外縁部の19区はアウター・ロンドンと呼ぶ。1965年、グレーター・ロンドン全体を管轄する広域自治体としてグレーター・ロンドン・カウンシルが発足したが、1986年サッチャー政権の地方行政改革により廃止された。グレーター・ロンドン・カウンシル廃止以後、各区は「ユニタリー」と呼ばれる状態にあり、カウンティレベルの行政組織として機能していた。ところがブレア政権下の住民投票により、2000年にグレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立され、グレーター・ロンドンの市長は直接選挙で選出されるようになった。初代市長ケン・リヴィングストンはロンドンの主要な政策課題である公共の安全性の確保と交通問題に努めたが、2008年ボリス・ジョンソンとの選挙に敗れ、ジョンソンが2代目市長となった。シティは中世から自治組織を有し、ロード・メイヤーと呼ばれるロンドン市長を選出してきたが、現在ではシティの「市長」は名誉職になっている。また、英国では伝統的に大聖堂 (大寺院) がある町 (Town) を都市 (City) と呼称し、シティ・オブ・ロンドンにはセント・ポール大聖堂、シティ・オブ・ウェストミンスターにはウェストミンスター寺院が各々存在する。一方、サザークは大聖堂を有するが、16世紀からシティではなく特別区を名乗る。

特別区は一番身近な行政サービスである地区計画や学校、社会福祉援助、地域道路の整備、ゴミ収集に関して責任がある。ゴミ収集のような行政サービスはロンドン清掃事務当局等の機関を通じていくつかの特別区ごとにそれぞれ共同で行っている。2009-2010年のロンドン議会とグレーター・ロンドンを合わせた歳入歳出規模は220億ポンドで、そのうち147億ポンドは特別区、74億ポンドはグレーター・ロンドンであった。

グレーター・ロンドンの治安はロンドン市長公安室下のロンドン警視庁により担われている。シティ・オブ・ロンドンは自らの警察機構であるロンドン市警察を有している。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/12/19 16:31

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