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ローマとは?

ローマ
Roma

 | 
旗 | 紋章

【行政】

【国】
イタリア

ラツィオ

ローマ
CAP(郵便番号) 00118~00199
【市外局番】
06
ISTATコード 058091
識別コード
H501
分離集落
Ostia, Ostia antica, Acilia, Vitinia, Infernetto, Trigoria, Piana del sole, Casal palocco, castel di leva, Villaggio prenestino, Castelverde, Corcolle, La storta-olgiata, Massimina, valle santa.
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
地震分類
zona 3 (sismicità bassa)
気候分類
zona D, 1415 GG
【公式サイト】
リンク
【人口】

【人口】
2,863,322 人 (2014-01-01)
【人口密度】
2227.7 人/km
【文化】

住民の呼称
Romani
守護聖人
聖ピエトロ(San Pietro)と聖パオロ(Paolo)
祝祭日
6月29日
【地理】

【座標】
北緯41度53分35秒 東経12度28分58秒 / 北緯41.89306度 東経12.48278度 / 41.89306; 12.48278座標: 北緯41度53分35秒 東経12度28分58秒 / 北緯41.89306度 東経12.48278度 / 41.89306; 12.48278
【標高】
20 (0 - 377) m
【面積】
1,285.30 km
ローマの位置


ローマ県におけるコムーネの領域

ポータル イタリア

ローマ(: Roma: Roma)は、イタリア首都欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県コムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。

目次

  • 1 概要
  • 2 紋章
  • 3 地理
    • 3.1 隣接コムーネ
  • 4 歴史
    • 4.1 起源
    • 4.2 発展
    • 4.3 ローマ帝国
    • 4.4 文化の中心地
    • 4.5 統一イタリアの首都
    • 4.6 現在
  • 5 行政
  • 6 気候
  • 7 経済
  • 8 観光
  • 9 聖地として
  • 10 商業施設
  • 11 文化
  • 12 交通
    • 12.1 道路
    • 12.2 公共交通
    • 12.3 航空
  • 13 姉妹都市
  • 14 関連項目
  • 15 参考文献
  • 16 脚注
  • 17 外部リンク

概要

イタリアの首都で政治、経済、文化の中心地である。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。そして昔のローマの大国さを表した「ローマは一日にして成らず」という諺もある。また、領土を持たないマルタ騎士団の本部、マルタ宮殿がコンドッティ通り68にあり、治外法権が認められている。

2014年現在の人口は約286万人で、イタリアで最も人口が多い都市である。2010年都市的地域の人口では271万人であり、世界128位である。 かつてのローマ帝国の首都であったため西洋文明圏を代表する都市のひとつであり、カトリック教会の中枢であり、そしてまたその美しさから『永遠の都』と称される。

2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第32位の都市と評価されており、イタリアの都市では第1位であった。

観光都市としての側面もあり、2012年には7,800,000人の観光客が訪れた。後述の「観光」、「聖地として」も参照。

紋章

ローマ市の盾形の紋章に書いてある「SPQR」の文字は、ラテン語で「元老院とローマの市民」の略称で、ローマ帝国時代には、領域内のあらゆる地で公共物に刻んだ。

今でも、ローマ市内に残るローマ帝国時代の遺跡や当時の建造物の他、現在のローマ市の盾形の紋章に使用されていることから、ローマ市内を走るバスタクシーマンホールの蓋にも紋章が入れられている。

地理

ティレニア海にそそぐテヴェレ川河口から25kmほどさかのぼった位置にあるイタリアの首都で、ラツィオ州の州都でありローマ県の県都。伝説によれば、ローマは紀元前753年、テヴェレ川東岸の「ローマの七丘」のひとつ、パラティーノの丘に建設されたという。七丘とは、パラティーノアヴェンティーノカピトリーノクイリナーレヴィミナーレエスクイリーノチェリオの丘をさしていた。しかし考古学的には、紀元前1000年にはすでに人が定住していたことが証明されている。歴史的に由緒のある地区は意外に狭く、そのほとんどがテヴェレ川東岸にある。ローマの過去の栄光をしめす記念建造物の大部分はこの地区にある。

隣接コムーネ

隣接するコムーネおよびそれに相当する区域は以下の通り。

歴史

主要記事:Storia di Roma(伊語) History of Rome (英語)

起源

狼の乳を吸うロームルスとレムスの像

伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロームルスレムスにより建てられた。ロームルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロームルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる。

考古学的には、この地に人々が居住したのはもっと早く、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼると考えられている。恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしく、紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡はパラティーノの丘で発見された。

他にもエスクイリーノの丘やクイリナーレの丘にも集落があったものと思われる。当時のローマは低地は湿地帯で居住に向かず、丘の上に竪穴式木造家屋を建てて住む数千人の人々が小麦を栽培して生活していた。

発展

紀元前7世紀頃には都市国家としての整備が進んだ。パラティーノの丘とカンピドリオの丘の間に排水路が設けられ、湿地を乾燥させた場所には公共の施設フォロ・ロマーノが作られた。ここはローマの政治・経済の中心へと発展した。またカンピドリオの丘にはユピテル神殿が建設された。これら土木・建築様式はエトルリアギリシアの影響が見られ、それらの地から技術が導入されたと考えられる。

王政ローマ期に当たる紀元前6世紀の王セルウィウス・トゥッリウスの頃には、防衛の石垣セルウィウス城壁がローマを覆うように建設されたと伝わる。ただし考古学的調査ではこの城壁は紀元前4世紀前半頃であり、史実的にガリア人がイタリア半島に進出した時期と重なるため、これらへの備えで作られたという説が有力である。

共和政ローマ期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都としてますますローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場(チルコ・マッシモ)が建設されたのもこの頃と言われる。紀元前312年からはローマ街道の敷設が、また同じ頃から水需要の増加に対応するローマ水道の建設が始まった。

ローマ帝国

フォロ・ロマーノは、古代ローマの中心部「フォルム・ロマヌム」の遺跡である。

ローマ帝国の首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した。しかし皇帝ネロ統治時の64年に市域の1/3を焼失するローマ大火が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。こうしてローマは整然とした町並みを手に入れた。

そしてこの頃、ローマ帝国は隆盛を極めた。皇帝ウェスパシアヌス在位期の69-79年には火災復興事業が盛んに行われ、5万人を収容可能なコロッセオ石灰石を用いた化粧が施され、剣闘士の戦いなどの催しが行われた。さらに石灰岩と火山灰を混ぜたローマン・コンクリートが発明され、パンテオンなど様々な建物が次々と建設され、ローマは大帝国の首府にふさわしい都市となった。ここには、皇帝が権威を示し民衆の支持を得るために、都市建築を用いたことも影響している。この栄華は皇帝ディオクレティアヌスが拠点をニコメディアに移すまで続いた。

286年にディオクレティアヌスによってローマ帝国の行政区画が東西に分けられた後は西ローマ帝国に属したが、西ローマ皇帝は拠点をミラノラヴェンナに置いたため、ローマの政治的重要性は大きく低下した。5世紀には西ゴート人ヴァンダル人の掠奪を受けて衰微し、476年に西ローマ皇帝の地位が消滅した後は東ローマ皇帝によってイタリア領主に任命されたオドアケル東ゴート王の支配下に入った。

6世紀中頃、イタリアを統治していた東ゴート王が東ローマ帝国に滅ぼされ、ローマは再びローマ皇帝の支配下となった。だが、度重なる戦争で荒廃し、歴代の東ローマ皇帝はローマ維持には努めたものの、重要視はしなかった。ローマを訪れた最後の東ローマ皇帝は663年のコンスタンス2世であるが、この人物以外にローマを訪れた東ローマ皇帝はいない。この時期のローマは、宗教的にはともかく、政治的、軍事的にはラヴェンナ総督府の影響下にあった。

しかし、751年にランゴバルド族の攻撃によりラヴェンナが陥落。ローマも脅かされることになる。ローマ教皇ステファヌス3世は、教義問題で対立する東ローマ皇帝コンスタンティノス5世ではなく、フランク族ピピン3世に救援を求め、結果、東ローマ帝国から独立を果たす。

文化の中心地

この後は『シャルルマーニュの寄進状』によれば800年にカールによりローマ教皇に寄進されたとされるが、この文書は今日では偽書とする見解が優勢である。15世紀半ば以降、ローマ教皇領の首都として栄え、ローマはルネサンス文化の中心地となった。教皇ニコラウス5世の時代には、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれた。おもな芸術家や建築家はローマで活動するようになり、15世紀末にはローマはフィレンツェにかわってルネサンスの一大中心地となり、ミケランジェロブラマンテラファエロなどの芸術家が教皇のために仕事をした。しかし1527年、ハプスブルク家の傭兵軍による、いわゆる「ローマ劫掠」によって、この都の盛期ルネサンスは終わりをつげた。なお、家屋が雑然と密集した中世の都市形態が近代化されはじめたのは、16世紀末の教皇シクストゥス5世の時代で、ポポロ広場から市の中心部にむかって3本の道路を開き、広場や泉をつくり、フェリクス水道を修復した。サン・ピエトロ大聖堂の丸屋根が完成したのもこの時代である。 対抗改革期のローマを特徴づけるバロック様式は、17世紀の建築物に多くみられる。ベルニーニボロミーニのような彫刻家と建築家が、この時代にローマの外観をかえていった。18世紀のローマは、教皇の支配のもとで比較的穏やかな時代をむかえていた。スペイン階段などにみられる18世紀前半のロココ様式の建物は、やがて新古典主義の建物にかわった。1797年ナポレオン1世はローマを占領し、多数の貴重な美術品を持ち去ったが、ウィーン会議の後、ローマはふたたび教皇領となった。

統一イタリアの首都

ウィーン会議後のオーストリア帝国によるイタリア支配は独立達成にむけてイタリア人を奮起させたが、援軍とあおいだナポレオン3世によるイタリア占領はイタリア人の反発をまねき、1861年、イタリアの大部分はサヴォイア家のもとで統一をはたした(リソルジメント)。教皇の本拠地だったローマは1870年、フランス軍の撤退後、1871年イタリア王国にローマ教皇領が併合されイタリアが統一され、ローマはフィレンツェに代わって統一イタリアの首都となった。

その後1930年代にはファシスト党の独裁者、ベニート・ムッソリーニがローマ郊外にローマ万国博覧会のための新都市、EUR(エウル)を建設したが、ムッソリーニ主導による第二次世界大戦へのイタリアの枢軸国としての参戦によりEURの拡大は一時的に中止となった。

現在

現在のローマ

第二次世界大戦後には、航空機の発達により、日本をはじめとするアジアアメリカなどのヨーロッパ圏外からも多数の観光客が訪れるようになった。1970年代初めにミラノへ移るまではイタリアにおいてファッションの中心地であった。

現在はパリアテネなどと並び、ヨーロッパを代表する観光都市として親しまれている。また、イタリアの首都で政治経済文化の中心地的存在であるとともにカトリック教会の中枢でもあるほか、市内には国際機関や多国籍企業の本拠があり、イタリアを代表する大企業の本社や官公庁が立ち並ぶ世界的に重要な都市となっている。一方で公共サービスの停滞やインフラの老朽化が深刻になっている。

行政

ローマのムニチーピオ
ローマのリオーネ(黄色)
ローマのクアルティエーレ(黄色の外側)
アウグストゥス帝によるローマの14行政区(赤文字)とアウレリアヌス城壁(黒色線)

ローマはイタリア全土にあるコムーネのうちの一つで、都市規模・人口ともに最大である。市長および市議会がコムーネを管理しており、ローマにおける歴史的な政庁所在地であるカンピドリオに市庁舎は設置されている。また市庁舎の置かれる地名から、ローマ市政は「カンピドリオ」と通例呼ばれる。

行政区分では19のムニチーピオという地域に区分される。この区分は中心部への集中を分散化することを目的として創設され、各ムニチーピオは区長、および5年おきに選挙で選出される4人の議員が運営する。この行政区分は、伝統的な非行政区域の境界線を越えることがある。この歴史的な区分、リオーネは22の区域に分割され、一部を除いてアウレリアヌス城壁内の地域をさす。またローマは郊外区域、および52の農業区域を公式に指定しているが、後者は開発の対象となりやすいのが実情である。

歴史

ローマに初めて行政区を創設したのはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスで、紀元前7年のことである。それまで首都の境界線(ポメリウム)の内外程度しか区分けがなかったものを、14の行政区に分割し行政上の責任を明確にしようとした。それぞれの区には任期1年の政務官(護民官、法務官と造営官)が選出された。各区はウィクス(町)に分割され、それぞれのウィクスには解放奴隷階級の中より4名の町役人(ウィコマギステル)が選出され、主に治安と防火の責任を負った。記録によれば74年時点ではローマ全市で265ウィクスあり、帝政末期のディオクレティアヌス帝の時代には304ないし306ウィクスに増えていた。

ローマのムニチーピオ

ムニチーピオ(it)は、19の行政区に分けられる。

ローマのムニチーピオ(Municipi di Roma)」も参照
「Suddivisioni di Roma(Suddivisioni di Roma)」も参照
ローマのリオーネ

リオーネ(it)は、以下の22の行政区に分けられる。

ローマのリオーネ(Rioni di Roma)」も参照
ローマのクアルティエーレ(近隣住区)

クアルティエーレ(it)は、以下の35に分けられる。

ローマのクアルティエーレ」も参照

気候

ローマの気候
【月】
【1月】
【2月】
【3月】
【4月】
【5月】
【6月】
【7月】
【8月】
【9月】
【10月】
【11月】
12月 年
平均最高気温 °C (°F) 11.8
(53.2) | 13.0
(55.4) | 15.2
(59.4) | 18.1
(64.6) | 22.9
(73.2) | 27.0
(80.6) | 30.4
(86.7) | 30.3
(86.5) | 26.8
(80.2) | 21.8
(71.2) | 16.3
(61.3) | 12.6
(54.7) | 20.52
(68.92)
平均最低気温 °C (°F) 2.7
(36.9) | 3.5
(38.3) | 5.0
(41) | 7.5
(45.5) | 11.1
(52) | 14.7
(58.5) | 17.4
(63.3) | 17.5
(63.5) | 14.8
(58.6) | 10.8
(51.4) | 6.8
(44.2) | 3.9
(39) | 9.64
(49.35)
降水量 mm (inch) 102.6
(4.039) | 98.5
(3.878) | 67.5
(2.657) | 65.4
(2.575) | 48.2
(1.898) | 34.4
(1.354) | 22.9
(0.902) | 32.8
(1.291) | 68.1
(2.681) | 93.7
(3.689) | 129.6
(5.102) | 111.0
(4.37) | 874.7
(34.436)
% 湿度 77 | 75 |&n
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/12/08 11:12

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