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ワシントンD.C.とは?

コロンビア特別区
District of Columbia

 | 
市旗 | 市章

愛称 : D.C.、特別区 (The District)
標語 : "Justitia Omnibus" (Justice for All)
"すべてに正義(公平)を"
位置

ワシントンD.C.の位置
座標 : 北緯38度53分42.4秒 西経77度02分12.0秒 / 北緯38.895111度 西経77.036667度 / 38.895111; -77.036667
歴史
首都移転 1800年
行政
アメリカ合衆国
(アメリカ合衆国政府直轄地)
コロンビア特別区
市長 ミュリエル・バウザー
(民主党)
地理
面積 | 
市域 177.0 km (68.3 mi)
陸上 159.0 km (61.4 mi)
水面 18.0 km (6.9 mi)
水面面積比率 10.2%
標高 0-125 m (0-410 ft)
人口
人口 (2010年現在)
市域 601,723人
人口密度 3,784.4人/km(9,800.0人/mi)
都市圏 5,582,170人
備考 全米都市人口第24位
その他
等時帯 東部標準時 (UTC-5)
夏時間 東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト : dc.gov

ワシントンD.C.(ワシントン・ディーシー、: Washington, D.C.)は、アメリカ合衆国首都である。

同国東海岸メリーランド州ヴァージニア州に挟まれたポトマック川河畔に位置する。

現代の主要都市としては狭隘で人口もさほど多くないが、超大国の政府所在地として国際的に強大な政治的影響力を保持する世界都市であり、また金融センターとしても高い重要性を持つ。首都としての機能を果たすべく設計された、計画都市である。

【家庭で話される言語(ワシントンD.C.)2010】

 |  |  |  | 
英語 | 
 | 85.47%
スペイン語 | 
 | 7.42%
フランス語 | 
 | 1.38%
【人種構成(ワシントンD.C.)2010】

 |  |  |  | 
黒人 | 
 | 50.1%
白人 | 
 | 35.5%
ヒスパニック | 
 | 9.9%
アジア系 | 
 | 3.8%
インディアン | 
 | 0.6%
混血 | 
 | 2.5%

目次

  • 1 呼称
  • 2 概要
  • 3 歴史
  • 4 地理
    • 4.1 市域
    • 4.2 自然
    • 4.3 気候
  • 5 町並み
    • 5.1 都市設計
    • 5.2 街路
    • 5.3 建築
  • 6 人口動態
    • 6.1 人口構成
  • 7 インディアン部族
    • 7.1 インディアン・カジノ
    • 7.2 内務省BIA
    • 7.3 インディアンによる内務省BIA本部ビル占拠
    • 7.4 インディアンによる「ロンゲスト・ウォーク」
  • 8 治安
  • 9 経済
  • 10 金融
  • 11 文化
    • 11.1 史跡・博物館
    • 11.2 舞台芸術・音楽
  • 12 マスメディア
    • 12.1 新聞
    • 12.2 放送
  • 13 スポーツ
  • 14 観光
  • 15 政治
    • 15.1 地方政府と地方政治
    • 15.2 連邦政府と国政
      • 15.2.1 代表・課税問題
  • 16 教育・医療
  • 17 軍事
  • 18 交通
    • 18.1 鉄道・バス
    • 18.2 空港
    • 18.3 高速道路
  • 19 姉妹都市
  • 20 脚注
    • 20.1 注釈
    • 20.2 出典
  • 21 関連項目
  • 22 外部リンク

呼称

法律上の正式名称は「コロンビア特別区」(コロンビアとくべつく、District of Columbia)である。

コロンビア特別領 (territory of Columbia) として1790年に創設され、1801年コロンビア特別区自治法(旧)により地方自治権を持つコロンビア特別区となった。特別区内には自治権を持つ市や郡があり、その一つが首都たるワシントン市だった。しかし1871年コロンビア特別区自治法(新)により特別区内の全ての自治体は特別区に統合された。

この歴史的な経緯から、かつての呼び名である Washington, District of Columbia がしばしば使われる。ただしこれは「コロンビア特別区のワシントン市」という意味の語句であり、かつての正式名称というわけではない。またそれゆえ、これを和訳する場合は(語順どおりにワシントン・コロンビア特別区ともするが)直訳はコロンビア特別区ワシントンとなる。

略してワシントンD.C.と呼び、米国ではWashington、The District、または単にD.C.とも通称する。日本語ではワシントン市首都ワシントン、または単にワシントンと呼ぶことも多い。

"D.C." は "District of Columbia"(コロンビア特別区)の頭文字で、南アメリカコロンビア共和国と同様、クリストファー・コロンブスにちなんだ名である。日本語では、このワシントンD.C.のことは単に「ワシントン」と呼んでも、ワシントン州のことはワシントンD.C.との混同を避けるため常に「州」を付けて「ワシントン州」と呼ぶのが一般的である。

漢字による当て字は華盛頓で、華府と略す。

概要

タイダルベイスン畔の日本桜

ポトマック川の北岸に位置し、南西をバージニア州に、その他の方角をメリーランド州に接している。2010年度国勢調査による人口は601,723人で全米24位だが、労働時間帯には近郊からの通勤者により人口100万を超える。ワシントンD.C.を中心に、メリーランド州、バージニア州北部、ウェストバージニア州の最東部2郡を併せた地域を一般に「首都圏」または「メトロポリタン」と呼んでいるが、その人口は5,582,170人(2010年国勢調査)で、全米7位である。また、北東に約65キロメートルの地には人口620,961人(2010年国勢調査)を抱えるメリーランド州の最大都市ボルチモアが位置している。このボルチモアといわゆる首都圏を併せたワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏の人口は8,572,971人(2010年国勢調査)を数え、全米4位の規模である。

アメリカ合衆国憲法1条により、各州とは別に、恒久的な首都としての役割を果たすため連邦の管轄する区域が与えられている。アメリカ合衆国三権機関(大統領官邸(「ホワイトハウス」)、連邦議会(議会議事堂)、連邦最高裁判所)が所在し連邦機関が集まる他、多くの国の記念建造物や博物館(スミソニアン博物館など)も置かれている。

中心部には高さ169メートル(約555フィート)のワシントン記念塔がある。

同市のナショナル・モールにおける博物館群は質・量ともに世界でもトップクラスであり、観光資源にもなっている。ポトマック川の入り江であるタイダルベイスンの畔にあるの木々は、アメリカ合衆国内で有数の桜の花見の名所となっており、毎年全米桜祭りが開催される。

172か国の大使館に加え、世界銀行国際通貨基金 (IMF)、米州機構 (OAS)、米州開発銀行、汎アメリカ保健機関 (PAHO) の本部も置かれている。労働組合ロビイスト、職業組合など、各種団体の本部もある。

連邦議会がワシントンD.C.における権限を有している。連邦議会に関してワシントンD.C.は、下院に本会議での投票権を持たない市代表(代議員)を選出しているものの、上院議員の議席は与えられていない。ワシントンD.C.が州であると仮定し他の州と比較すれば、面積ではロードアイランド州に後れて最下位、人口では最下位から2番目(最下位はワイオミング州)であるが、人口密度では1位、州民総生産では35位、また黒人の比率では1位であり、国全体のマジョリティ(非ヒスパニック系白人)とマイノリティとは反転している。

2011年現在、ワシントンD.C.においては死刑制度が廃止されている。アメリカのシンクタンク2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界17位の都市と評価されており、アメリカの都市ではニューヨークロサンゼルスシカゴサンフランシスコに次ぐ5位である。

歴史

詳細は「ワシントンD.C.の歴史」を参照
ワシントン記念塔(手前)とホワイトハウス(奥)

アメリカ合衆国憲法第1条第8節第17項によって、連邦議会にアメリカ合衆国の首都を設立する権限が与えられた。同条によれば、「ある州が譲渡し、連邦議会が受諾することにより、合衆国政府の所在地としての地区(ただし10マイル四方を超えてはならない)」が認められた。ジェームズ・マディソンは、1788年1月23日の『ザ・フェデラリスト』第43篇で、合衆国の首都は、その持続と安全のため、各州からは別個のものとすべきだとして、連邦の管轄する区域の必要性を説明した。1783年には、フィラデルフィアに置かれていた連邦議会に対し、兵士らの暴動により攻撃が加えられたことも、合衆国政府が安全に配慮する必要性があることを強調することとなった。

憲法は新たな首都の場所を特定していなかったが、マディソン、トーマス・ジェファーソン及びアレクサンダー・ハミルトンの3人は、1790年、首都を南部に置くことを条件に、合衆国が州の発行した戦時負債を肩代わりするとの合意に達した(後に1790年協定として知られる)。

ピエール・シャルル・ランファンによるワシントン市の計画図

1790年7月16日、首都立地法により、新しい恒久的な首都がポトマック川河畔に置かれることになり、詳細はジョージ・ワシントン大統領により選定されることとなった。当初の形は、合衆国憲法により認められていた通り、一辺が10マイル (16 km) のダイヤモンド型で、100平方マイル (260 km) であった。新首都建設のためメリーランド州バージニア州が領土の一部を割譲し、新しい「連邦の市」はそのうちポトマック川の北岸に建設されることとなった。もっとも、同じ100平方マイルの地区内にはすでに2つの独立した自治体(1749年に設立されたアレクサンドリア市と、1751年に設立されたジョージタウン市)があった。1791年9月9日、この連邦の市はジョージ・ワシントンに敬意を表してワシントン市と命名され、この100平方マイルの地区全体はコロンビア区 (Territory of Columbia) と名付けられた(コロンビアは、当時合衆国を指す詩的な名称として使われていた言葉である)。連邦議会は、1800年11月17日、ワシントンで最初の議会を開催した。

1801年のコロンビア特別区基本法 (The Organic Act) により、正式にコロンビア特別区が編制され、アレクサンドリア市、ジョージタウン市、ワシントン市を含む連邦の管轄地域全体が、連邦議会の排他的支配下に置かれた。さらに、特別区内で自治体に組み込まれていない領域は、二つの郡 (county) に組織された。すなわち、ポトマック川北岸のワシントン郡と南岸のアレクサンドリア郡である。同法制定後は、特別区内の市民はメリーランド州やバージニア州の住民ではなくなり、議会の代表権もなくなることとなった。

19世紀のフォード劇場。1865年リンカーン大統領暗殺の場となった。

米英戦争の中、1814年8月24日から25日にかけて、イギリス軍がアメリカ軍によるヨーク(現在のトロント)焼き討ちの報復として首都を焼き討ちした。議会議事堂財務省ホワイトハウスはこの攻撃の中で焼かれ、破壊された。ほとんどの政府の建物は速やかに修復されたが、議事堂は大規模な建設工事が行われ、1868年になって初めて完成を見た。

1830年代、特別区の南にあるアレクサンドリア郡は、より内陸に位置しチェサピーク・オハイオ運河に面したジョージタウン港との厳しい競争などにより経済的に落ち込んでいた。当時、アレクサンドリアは奴隷貿易の主要な市場であったが、奴隷廃止論者が首都における奴隷制を終わらせようとしているとの噂が流れた。富をもたらす奴隷貿易ができなくなることを避ける目的もあって、1846年、アレクサンドリアのバージニア州への返還の可否について住民投票が行われ、可決された。同年7月9日、連邦議会は、特別区のうちポトマック川より南の領域(約100km)をバージニア州に返還することに同意した。この土地は現在はアーリントン郡に属し、アレクサンドリア市の一部をなす。この結果、ワシントンD.C.は頂点を北に向けた正方形のうち、南西部の川に区切られた区画を除いた形をなすことになった。なお、その4年後、1850年協定により、特別区内における奴隷貿易(奴隷制そのものではない)が禁止された。

ワシントンは、1861年の南北戦争勃発までは小さな町であった。南北戦争によって合衆国政府は大きく膨張し、それにより町の人口も著しく増大した。解放奴隷の大量の流入もこれに寄与した。1870年までに、特別区の人口は、13万2000人近くにまで増えた。しかし町の成長にもかかわらず、ワシントンの道路は未舗装であり、基本的な衛生設備もないなど、条件が非常に悪かったため、首都を別の場所に移転することを提案する連邦議会の議員もいた。

1963年のワシントン大行進リンカーン記念館リフレクティング・プールを囲む群衆

1871年のコロンビア特別区基本法 (District of Columbia Organic Act of 1871) により、連邦議会は特別区全体の新しい政府を創設し、ワシントン市、ジョージタウン市及びワシントン郡を一つの自治体に統合した。これをもって現在のワシントンD.C.が形作られ、この町が「ワシントン」と「コロンビア特別区」の両方の名前で知られているのはこのためである。同じ法律の中で、連邦議会は公共事業委員会を設立し、町の近代化に当たらせた。1873年、ユリシーズ・グラント大統領は、同委員会の最も有力なメンバーであるアレクサンダー・シェパードを新たに設置された知事職に任命した。その年、シェパードは2000万ドルを公共事業に費やし(2007年は3億5700万ドル)、ワシントンの近代化を行ったが、同時に財政を破綻させることにもなった。1874年、連邦議会はシェパードの知事職を廃止して直接統治を選んだ。更なる町の改修作業は、1901年に行われたマクミラン・プラン (McMillan Plan) を待たなければならなかった。

特別区の人口は、しばらくの間比較的安定していたが、1930年代の世界恐慌ではフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策立法により、ワシントンの官僚が増加した。第二次世界大戦で政府の活動は更に増大し、首都における政府職員の数も増加した。1950年までに、特別区の人口は80万2178人というピークに達した。

1961年、アメリカ合衆国憲法修正第23条により、ワシントンD.C.市民に初めて大統領選挙の選挙権が与えられた。コロンビア特別区全体に対して、人口の最も少ない州に与えられる、選挙人3人の定数が確保された。

公民権運動の指導者キング牧師が1968年4月4日に暗殺された後、特別区(主に北西地区のUストリート、14番ストリート、7番ストリート)で暴動が発生した。暴動は3日間続き、1万3000人以上の連邦軍とコロンビア特別区州兵がようやく鎮圧に成功した。多くの店やその他の建物が焼かれ、多くが1990年代後半に再建されるまで荒廃したままであった。

1973年、連邦議会はコロンビア特別区地方自治法 (Home Rule Act) を制定し、特別区に公選制の市長議会を導入することとした。1974年、市長の公選が行われ、1975年、行政委員会委員長であった民主党のウォルター・ワシントン (Walter Washington) が特別区初めての公選の市長、かつ特別区初めての黒人の市長となった。

1979年、マリオン・バリー (Marion Barry) が市長に選ばれ、4年間の任期を3期連続で務めた。しかし麻薬の使用が噂され、3期目の任期半ばの1991年にはFBIのおとり捜査によりクラック・コカイン所持使用で現行犯逮捕され、公判で禁固6か月の実刑判決を受けた。この不祥事でバリーは次の選挙には出馬しなかった。

1991年、次に市長となったシャロン・プラット・ケリー (Sharon Pratt Kelly) は、アメリカの大都市で初めて市長になった黒人女性である。1994年、ケリーの任期が満了すると、バリーが市長に返り咲いた。1998年、エール大学卒の弁護士、アンソニー・ウィリアムス (Anthony Williams) が市長に選ばれて2期務め、2007年1月からは2011年1月までアドリアン・フェンティ (Adrian Fenty) が市長を務めている。 2011年1月ビンセント・グレー (Vincent C. Gray) が第6代のワシントンD.C.政府の市長に就任し現在に至っている。

1995年までに、市は債務超過のため支払不能になりかけていた。これを受けて、連邦議会はコロンビア特別区財政管理委員会を設立し、市のすべての支出を監督させることとした。特別区は、2001年9月に財政管理権限を回復し、同委員会の活動は中止された。

2001年9月11日、テロリストがアメリカン航空77便をハイジャックし、ワシントンD.C.郊外のバージニア州アーリントンにある国防総省(ペンタゴン)に航空機を突入させた。ユナイテッド航空93便もホワイトハウスまたは連邦議会議事堂のいずれかを標的としていたが、同機はペンシルベニア州シャンクスヴィル近くで墜落した。ペンタゴンへの攻撃が行われた場所には、2008年9月11日、ペンタゴン記念館がオープンした。

地理

市域

ワシントンD.C.の航空写真。市街東部から西南西方向を望む。写真中央が連邦議会議事堂、左下が連邦最高裁判所。右上の細長い白い塔はワシントン記念塔ホワイトハウスはその右手に位置するが写っていない。議事堂から右斜め上方へ延びる舗装道路(ペンシルベニア通り)の先にある。また、議事堂から記念塔を経てポトマック川に至る細長い緑地はナショナル・モールと呼ばれる。ペンタゴンは写真左上の川向こうに写っている。

ワシントンD.C.は、全部で68.3平方マイル (177 km) の市域を有し、そのうち61.4平方マイル (159 km) が陸地、6.9平方マイル (18 km, 10.16%) が水面である。特別区は、当初100平方マイル (260 km) の面積を有していたが、1846年に南の一部をバージニア州に返還したため、この面積となっている。現在の市域は、メリーランド州から割譲された領域のみから成っている。そのため、ワシントンD.C.は南東・北東・北西をメリーランド州に、南西をバージニア州に囲まれている。特別区内には、三つの大きな天然の河川がある。ポトマック川、アナコスティア川、ロック・クリークである。アナコスティア川とロック・クリークはポトマック川の支流である。

合衆国首都設置法は、ワシントン大統領に、東はアナコスティア川の河口までの範囲で新しい首都の正確な位置を選ぶ権限を与えた。しかし、ワシントン大統領は、区の南端にアレクサンドリア市を含むようにするため、この連邦の領域の境界を南東に動かした。1791年、連邦議会はワシントン大統領の選んだ区域を認めるため、合衆国首都設置法を修正し、これによりバージニアから割譲された領域も含まれることとなった。この場所は、多くの利点を有していた。ポトマック川は特別区まで航行可能であり、船による交通が可能であった。また、アレクサンドリアとジョージタウンの既成の港は、市にとって重要な経済的な基盤を提供した。さらに、内陸の特別区は、北西部領土に近かった。1791年から1792年にかけて、アンドリュー・エリコットとベンジャミン・バネカーが特別区の境界を調査し、1マイルごとに境界石を設置した。その多くが今も残っている。

一般に伝えられるところとは異なり、ワシントンD.C.は沼地を埋め立てて建設されたわけではない。確かに二つの川とその他の小川に沿って湿地が広がっていたものの、特別区の領域のほとんどは農地と樹木に覆われた丘から成っていた。特別区内で、自然の状態で最も高い地点は、海抜125メートルのテンリータウンである。最も低い地点は海水面と同じポトマック川である。ワシントンD.C.の地理的な中心点は、北西地区の4番ストリートとLストリートの交差点付近に位置する。

自然

チェサピーク・オハイオ運河。ジョージタウン近くを通る。

アメリカ合衆国国立公園局は、ロック・クリーク公園、チェサピーク・オハイオ運河自然歴史公園、ナショナル・モール、セオドア・ルーズベルト島、アナコスティア公園など、ワシントンD.C.の自然生育地のほとんどを管理する。国立公園局による管理外の重要な自然生育地としては、農務省の管轄である国立森林公園があるのみである。ポトマック川の上流(ワシントンD.C.の北西)にはグレイト・フォールズ (Great Falls) がある。19世紀には、輸送船の交通がこの滝を迂回できるようにするため、ジョージタウンに端を発するチェサピーク・オハイオ運河が用いられた。

1965年、リンドン・ジョンソン大統領はポトマック川を「国の恥」と呼び、1966年の清流回復法 (the Clean Water Restoration Act) の必要性を訴える材料とした。現在では、この川は活気のある暖水漁業の場となっており、自然に繁殖したハクトウワシも川岸に戻った。高度に都市化した景観にもかかわらず、ワシントンD.C.は、都市における野生生物の管理、外来種の管理、都市流水の回復、都市流水における水エコロジーなどの研究の中心地となっている。国立公園局の都市エコロジーセンターは、この地域における専門的知見と応用科学を提供する場となっている。

気候

ワシントンD.C.の気候は、ケッペンの気候区分によれば温暖湿潤気候 (Cfa) であり、これはアメリカの中部大西洋岸諸州のうち海域から離れた地域に典型的に見られる気候である。四季がはっきり分かれており、春と秋は温暖で湿度も低いのに対し、冬は低温が続き、1年に平均 420mm も降雪量がある。冬の最低気温は、12月中旬から2月中旬にかけては零下 1℃ (30°F) くらいになることが多い。まれではあるが、猛烈な吹雪が2、3年ごとにワシントンD.C.を襲い、最低気温は -15℃ を下回る。最も激しい嵐は、ノーイースターと呼ばれ、これはアメリカ東海岸全体に影響を及ぼすのが普通である。夏は高温多湿になる傾向があり、7月と8月の日中最高気温は平均 30℃ 前後(80°F台)である。夏には高温・多湿という組み合わせのため、激しい雷雨が非常に頻繁に発生し、場合によってはこの地域に竜巻を発生させることもある。

ハリケーン(熱帯低気圧)ないしそれが温帯低気圧化したものが、夏の終わりから初秋にかけてこの地域を通過することが時々ある。ワシントンD.C.は内陸に位置していることもあって、ハリケーンはここに来る頃には勢力が弱まっていることが多い。しかし、満潮・高潮・雨水が合わさることによって引き起こされるポトマック川の氾濫は、ジョージタウンやバージニア州アレクサンドリア近くにまで大規模な財産的被害をもたらすことが知られている。

記録されている史上最高気温は1930年7月20日と1918年8月6日の 41℃ (106°F) である。史上最低気温は1899年2月11日の零下 26.1℃ (-15°F) であり、これは1899年の記録的猛ふぶき (the Great Blizzard) の時のものである。32℃ (90°F) を超える日数は平均36.7日であり、氷点下になる夜は平均64.4日である。

ワシントンD.C.の気候
【月】
【1月】
【2月】
【3月】
【4月】
【5月】
【6月】
【7月】
【8月】
【9月】
【10月】
【11月】
12月 年
最高気温記録 °C (°F) 26
(79) | 29
(84) | 34
(93) | 35
(95) | 37
(99) | 39
(102) | 41
(106) | 41
(106) | 40
(104) | 36
(96) | 30
(86) | 26
(79) | 41
(106)
平均最高気温 °C (°F) 6.4
(43.6) | 8.4
(47.2) | 13.3
(56.0) | 19.3
(66.7) | 24.2
(75.5) | 29.1
(84.3) | 31.4
(88.5) | 30.4
(86.7) | 26.4
(79.6) | 20.3
(68.5) | 14.4
(58.0) | 8.3
(47.0) | 19.3
(66.8)
平均最低気温 °C (°F) -1.8
(28.7) | -0.6
(30.9) | 3.2
(37.7) | 8.4
(47.1) | 13.7
(56.6) | 19.1
(66.3) | 21.8
(71.2) | 21
(69.8) | 17
(62.6) | 10.4
(50.7) | 5.1
(41.2) | 0.3
(32.5) | 9.8
(49.6)
最低気温記録 °C (°F) -26
(-14) | -26
(-15) | -16
(4) | -9
(15) | 1
(33) | 6
(43) | 11
(52) | 9
(49) | 2
(36) | -3
(26) | -12
(11) | -25
(-13) | -26
(-15)
降水量 mm (inch) 71
(2.8) | 66
(2.6) | 89
(3.5) | 79
(3.1) | 102
(4.0) | 97
(3.8) | 94
(3.7) | 74
(2.9) | 94
(3.7) | 86
(3.4) | 81
(3.2) | 79
(3.1) | 1,012
(39.8)
降雪量 cm (inch) 14.5
(5.7) | 14.5
(5.7) | 3.3
(1.3) | 0
(0) | 0
(0) | 0
(0) | 0
(0) | 0
(0) | 0
(0) | 0
(0) | 1.3
(.5) | 5.8
(2.3) | 39.4
(15.5)
平均降水日数 (≥ 0.01 in) 9.6 | 9.0 | 10.5 | 10.4 | 11.1 | 10.7 | 10.3 | 8.2 | 8.3 | 7.7 | 8.6 | 9.7 | 114.1
平均降雪日数 (≥ 0.1 in) 3.1 | 2.5 | .9 | .1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .2 | 1.5 | 8.3
平均月間日照時間 145.7 | 152.6 | 204.6 | 228.0 | 260.4 | 282.0 | 279.0 | 263.5 | 225.0 | 204.6 | 150.0 | 133.3 | 2,528.7
出典 1: NOAA (1981-2010 normals at Ronald Reagan Washington National Airport
出典 2: The Weather Channel (extremes), HKO (sun only, 1961-1990)


町並み

都市設計

ワシントンD.C.は4つの地区に分かれる。

ワシントンD.C.は計画都市である。ワシントン市の設計は、ピエール・シャルル・ランファンの労によるところが大きい。ランファンはフランス生まれの建築家・技師・都市設計家であり、当初、軍の技師としてラファイエットと共にアメリカ植民地に来た。1791年、ランファンはバロック様式を基に基本計画を作成した。これは、環状交差路から放射状に広い街路が伸びているものであり、開かれた空間と景観作りを最大限に重視したものであった。しかし、20世紀初頭には、開放された公園と壮麗な国の記念建造物というランファンの都市計画の構想は、スラム街や乱開発された建物によって損なわれてしまっていた。その中にはナショナル・モールの中の鉄道の駅もあった。1900年、連邦議会は、ジェームズ・マクミラン上院議員率いる両院合同協議会を設置し、ワシントンD.C.の儀礼の中心地の美化に当たらせた。マクミラン計画として知られるこの計画は1901年に仕上がり、その中には連邦議会議事堂の敷地やナショナル・モールの景観再整備、新しい連邦の建物・記念館の建設、スラム街の一掃、全市を横断する新しい公園のシステムの構築が含まれていた。委員会から任命された建築家たちは市の本来の設計には手を加えなかった。建築家たちのなすべきことは、ランファンの意図したデザインの壮大な仕上げをすることであると考えられた。

夜のリンカーン記念館ワシントン記念塔、連邦議会議事堂

1899年に12階建てのカイロ・アパートメント・ビルが建設された後、連邦議会は建造物の高さを制限する法律 (the Heights of Buildings Act) を可決し、連邦議会議事堂より高い建物を建ててはならないと宣言した。この法律は1910年に改正され、建物の高さが、面する道路の幅員に20フィート (6.1m) を加えた長さを超えないよう規制された。今日、ワシントンD.C.の建物群のシルエットは低く広がっており、トーマス・ジェファーソンの、ワシントンD.C.を「低層で便利な」建物と「明るく風通しのよい」街路を備えた「アメリカのパリ」にしたいという願いに忠実である。その結果、ワシントン記念塔がずっとワシントンD.C.で最も高い建造物のままである。しかしながら、ワシントンD.C.の高さ制限は、同市で廉価な住宅が限られていることやスプロール現象による交通問題の発生の最大の原因であるとして、批判されている。ワシントンD.C.の高さ制限を逃れるため、ダウンタウンの近くとしては、ポトマック川の対岸にあるバージニア州ロズリンに高層の建物が建てられることが多い。

街路

ワシントンD.C.は四つの地区 (quadrant) に不均等に割られている。北西地区 (Northwest)、北東地区 (Northeast)、南東地区 (Southeast)、南西地区 (Southwest) である。各地区の境界を画す軸は連邦議会議事堂から放射状に伸びている。すべての通りの名称には、地区名の省略形(NWなど)が付いており、その場所を明らかにしている。市内のほとんどの地域で、街路は碁盤目状に整備されており、東西方向の通りにはアルファベットで(例えばC Street SW)、南北方向の通りには数字で(例えば4th Street NW)名前が付けられている。環状交差路から放射状に伸びる街路には、主に各州の名前が付けられており、50州すべてが名称の中に含まれている。ワシントンD.C.の街路の中には、特に注目すべきものがある。ペンシルベニア大通り は、ホワイトハウスと連邦議会議事堂を繋いでおり、Kストリートには多くのロビー団体の事務所が入居している。ワシントンD.C.には172か国の外国の大使館があるが、そのうち57の大使館はマサチューセッツ通り (Massachusetts Avenue) の地区にあり、正式名称ではないが大使館通り (Embassy Row) として知られている。

建築

2007年、ホワイトハウスはアメリカ建築家協会 (AIA) が選ぶ「アメリカ建築傑作選」で2位にランクされた。

ワシ

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出典:wikipedia
2018/08/02 06:49

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