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ヴィリー・ブラントとは?

ヴィリー・ブラント
Willy Brandt
ヴィリー・ブラント

【生年月日】
1913年12月18日
【出生地】
ドイツ帝国自由ハンザ都市リューベック
【没年月日】
(1992-10-08) 1992年10月8日(78歳没)
【死没地】
ドイツラインラント=プファルツ州ウンケル
【所属政党】
ドイツ社会民主党(1930-1931)
ドイツ社会主義労働者党(1931-1946)
ドイツ社会民主党(1948-1992)
【配偶者】
アンナ・カルロータ・トルキルゼン
ルート・ベルガウスト
ブリギッテ・ゼーバッハー
【サイン】

第4代連邦首相

【内閣】
ヴィリー・ブラント内閣
【在任期間】
1969年10月21日 - 1974年5月7日
連邦大統領
グスタフ・ハイネマン
連邦副首相 兼 外務大臣

【内閣】
クルト・ゲオルク・キージンガー内閣
【在任期間】
1966年12月1日 - 1969年10月20日
西ベルリン市長

【在任期間】
1957年10月3日 - 1966年12月1日
その他の職歴

社会主義インターナショナル議長
(1976年 - 1992年)
ドイツ社会民主党党首
(1964年 - 1987年)
ノーベル賞受賞者
受賞年:1971年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:東ドイツを含めた東欧諸国との関係正常化を目的とした、彼の東方外交に対して

ヴィリー・ブラント(Willy Brandt1913年12月18日 - 1992年10月8日)は、ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の政治家。第4代連邦首相(1969年 - 1974年)。ドイツ社会民主党 (SPD) 党首(1964年 - 1987年)。リューベック出身。

概要

労働者の家庭に生まれ第二次大戦前にドイツ社会民主党に所属し、その後に党を離れたが反ナチス活動ノルウェーに逃れ、戦後は西ドイツの社会民主党に戻り、西ベルリン市長となって、1958年のベルリン危機、1961年のベルリンの壁の建設に対処し、1964年に社会民主党党首となった。1966年にキリスト教民主(社会)同盟との大連立内閣を組んでキージンガー内閣で外相となり、1969年秋に自由民主党と連立内閣を組み、戦後初の社会民主党党首として首相に就任した。在任中は積極的な東方外交を展開して、東西の緊張緩和を進め、東ドイツとも基本条約を結んで両ドイツ間の懸案を少しずつ解決していくことを示した。1971年ノーベル平和賞を受賞したが、1974年に秘書のギュンター・ギヨームが東ドイツ国家保安省の潜入させていたスパイと発覚した(ギヨーム事件)により首相を辞任した。後に社会主義インターナショナル議長(1976年 - 1992年)を務めた。

経歴

生い立ち

ヴィリー・ブラントの生い立ちはかなり複雑で、私生児であることから、政敵の攻撃を受けることが多かった。1961年夏のベルリンの壁建設の時も当時のアデナウアー首相に選挙演説で出生のことを揶揄されたりしたが、ブラントは一切ごまかそうとせず、かえって周囲の評価を高めた。

本名はヘルベルト・エルンスト・カール・フラーム (Herbert Ernst Karl Frahm) で、1913年12月18日、リューベックで生まれ、父はヨーン・メラー、母はマルタ・フレームであった。2日後にリューベックの出生登録簿に生まれた男子の名前と母のみの登録がされ、婚外子であった。

教会も私生児には冷たく、近所のルター派教会は私生児であることを理由に洗礼を授けることを拒んだため、母マルタ・フラームは1914年2月26日、市内の離れた場所にある同じルター派の聖ローレンツ教会に幼子を連れて行きブラントはここで洗礼を受けた。

母マルタ・フレームの父(ブラントの祖父)はルートヴィッヒ・ハインリヒ・カール・フラームで母はヴィルヘルミーネと呼ばれたが、このブラントの母方の祖母はブラントが生まれる数週間前に亡くなった。そして母マルタは祖父ルートヴィッヒの実子ではなくヴィルヘルミーネが未婚時に生まれた娘であった。しかしルートヴィッヒは父親としてマルタを育て、そしてマルタが生んだブラントの父親代わりとなって幼少期にはパパと呼ばれ、ブラントの高校卒業証書でも父親と記入されていた。やがて第一次世界大戦で、祖父ルートヴィッヒは徴兵で戦線に赴き、4年後の大戦の終わりで戻り、1919年に10歳年下のドロテーア・シュタールマンと再婚した。そして母マルタの方も息子を養うため厳しく働かねばならなかった。そして1926年に左官職人頭のエミール・クールマンと結婚した。この時マルタは32歳でブラントは13歳であった。母はマルタ・クールマンとなり、やがて異父弟ギュンター・クールマンが生まれている。母マルタは「余り気張らない質で自然に愛着を持ち教養を渇望していた」とされ、「太り気味だが活発」であったとブラントは後に語っている。1969年8月に75歳で亡くなったが、これはブラントが首相に就任する2カ月前であった。

そして父ヨーン・メラーについて、ブラント自身が本当の父親を知ったのは戦後になってからで、母マルタに思い切って手紙で問い合せた時に母から送ってきたメモ用紙に書いていた名前がヨーン・メラーであった。1949年5月に姓名変更の申請手続きをした時に、ブラントはこの名前を父親欄に記入している。そして1961年6月に当時西ベルリン市長として東西対立の狭間で苦悩していた時期に、ゲルト・アンドレ・ランクという人物から手紙が来て、実父の消息を知った。実父は第一次世界大戦で記憶能力が損なわれ、戦後は会計係として働き1958年にハンブルクで亡くなっていた。そして「並外れた深い人間味の持ち主で、周囲の人々に強い印象を与える品格の持ち主」であり、「穏やかで円満で思慮深い人」であったという。ブラントは父親についてほとんど何も語らず、75歳になって書いた「回想録」で初めてこのことを明らかにした。

優秀な学業成績

育ての親でもある母方の祖父ルートヴィッヒ・ハインリヒ・カール・フラームはいろいろと面倒を見てくれたが、必ずしも父親代わりにはなれなかった。しかし第一次大戦から帰還した祖父がいることで行動や指針の面で頼りになる男性を身近にもって、6歳以降にブラントは成長していく。そして祖父ルートヴィッヒはトラック運転手として働き、ブラント少年に和やかな子ども時代を過ごさせ、社会主義的な労働運動への道に導き、専門の養成教育が受けられるようにして、その性格形成に大きく関わった一人である。

ブラントは聖ローレンツ少年中等学校で7年間通い、1927年にレアール・シューレに1年間学び、その後大学進学をめざすレアール・ギムナージウムへと進んだ。1920年代に労働者の子弟で高等教育機関に進学できるのは、ほんの僅かな数であった。1932年2月26日に高等学校課程の修了試験アビトゥーア試験に合格し、「秀」の評価を受けた。

青年活動から政治活動へ

しかしブラントは高校生の時には政治に参加していた。祖父ルートヴィッヒがドイツ社会民主党(SPD)党員で市議会議員選挙にも出馬したことがあり、ブラントは労働者スポーツの子どもクラブに入り、その後労働者マンドリンクラブに入り、そして14歳で自分の居場所を社会主義の青年運動に見出し、やがて社会主義労働者青少年団に入った。これはワンダーフォーゲルボーイスカウトをミックスしたような団体であったと後にブラント自身が語っていたが、生涯を通してそうした青年運動が自分にとって連帯の体験、家庭の代用そして個人的な能力テストの基盤として大きな意味を持っていた、と述べて自然やキャンプ生活、野外のキャンプファイヤーで唄うのが好きな青年であった。そして16歳の時、1929年8月27日にリューベックの社会民主党機関誌『民衆の使者』に記事を寄稿し、翌1930年に17歳でドイツ社会民主党(SPD)に入党する。学校に通う間も地元機関紙に繰り返し寄稿し、その編集長であるユリウス・レーバーの影響を受けた。だが少年時代から急進左派に属していたブラントは、1931年10月にレーバーや社会民主党(SPD)と決別し、ドイツ社会主義労働者党(SAP)に入党したことで、レーバーの世話で受けるはずだったSPDの奨学金が受け取れなくなったため、ブラントは大学進学を諦めて地元の造船所で働いた。そして地元の機関誌『民衆の使者』の編集からも1931年10月に去っている。ただこの『民衆の使者』の編集は若い彼にとって理想的な職業訓練の場となった。この『民衆の使者』編集部の同僚は後に「この若い社会主義者は官憲の反応を意に介さず、自分の考えをはっきりと述べる勇気と率直な姿勢に少なからぬ人たちが感銘を受けて、目立つ存在であった。」と語っている。

反ナチス活動

1933年1月30日にナチス政権が誕生し、2月27日に国会議事堂が炎上し、共産党も社会民主党もドイツ社会主義労働者党(SAP)も活動が禁止され、党指導者も解党方針を出したが党員の一部は反発して3月11日にドレスデンで秘密裡に集まり党の存続を決め、党事務所をノルウェーオスロに置くこととし、その事務所の責任者を決めたが直後に逮捕されたため、この時まだ20歳前であったブラントを責任者としてオスロに送り込むことになった。1933年4月1日から2日にかけてブラントはリューベック北方20キロの港から船でドイツを離れて、まずデンマークに向かった。身に付けていたものは下着数枚と『資本論』第1巻と祖父がくれた100マルクの現金であった。祖父ルートヴィッヒとはこれが永遠の別れとなった。そして1歳下の女性ゲルトルート・マイヤーが彼を追っていた。

オスロでの党活動

デンマークに到着後コペンハーゲンで数日滞在した後にノルウェーのオスロに向かった。そしてオスロで党組織再建のための活動に従事し、遅れてこの1933年夏にゲルトルート・マイヤーがオスロに来て、二人は一緒に住むことになった。このゲルトルート・マイヤーはその3年後の1936年2月にノルウェー人「グナル・ガースラント」と偽装結婚してノルウェーの国籍を取得して、以降ドイツへの連絡役を無難にこなした。このブラントとゲルトルート・マイヤーは1939年春まで一緒にいたが結婚はしなかった。そして名目上の夫であるグナル・ガースラントはブラントを支援し仲間として旅行やスポーツなどの活動に積極的に参加し、そして1936年に危険なベルリンへの潜入のために偽造パスポートに自分の名前を使わしてくれた人物であった。ブラントはまたこのオスロ仲間の一人から警察の追及を避けるためにオスロ大学に籍を置くことを勧められて、学籍登録して歴史学を専攻した。そしてこのオスロ大学でアンナ・カルロータ・トルキルゼンというノルウェー人女性と知り合った。

ブラントのオスロでの任務はドイツ社会主義労働者党(SAP)のノルウェー海外事務所を設立し、同時に外国における党の青年同盟の活動をコーディネートすることであった。そして彼の折衝相手はノルウェー労働党であり、この党はブラントを経済的支援をして、またブラントが警察の手で故国へ送還されるのを防いでくれた。ただ当時のオスロのドイツ外交部には「フラーン(Frahn)という名のアジテーターが登場している」という1933年8月9日付けのメモがあった。ノルウェーでの滞在許可が下りた時に政治的活動はしないとの条件が付けられていたが、ブラントはそれに従うつもりはなく、1933年4月11日付けのノルウェー労働党の機関紙に寄稿記事を書き始め、さまざまなペンネームを使って、やがてオスロに集まった亡命者のための新聞の活動を展開して、このオスロにいる時代にジャーナリストとして活躍していった。そしてこの時に“ヴィリー・ブラント”を名乗り、やがてオランダフランスパリベルギーそして元のドイツのベルリンを訪ね、ベルリン滞在中はノルウェー人になりきり、ノルウェー語なまりのドイツ語を話していた。

1936年のクリスマス直前にブラントはベルリンを去ってチェコスロバキアを訪ね、ここでユダヤ系オーストリア人ブルーノ・クライスキーと知り合った。その後ポーランドを経てオスロに戻ったが、すぐにドイツ社会主義労働者党指導部からバルセロナに行きスペイン内戦の状況についての報告を求められて、1937年2月にスペインに向かい、そしてこのスペイン内戦の取材活動を行った。ここでブラントは左翼陣営内の争いを見て、コミンテルンの横暴を知り、それは後々まで忘れることはなかった。1937年6月にスペインを離れパリに到着し、ドイツ社会主義労働者党指導部の拡大会議に出席してスペイン内戦の報告を行った際に、「己に同質化しようとしないあらゆる勢力を殲滅しようとするコミンテルン」を非難し「国際的な労働運動はコミンテルンのその種の攻撃を防ぐ必要がある」と述べて「インチキな手段、下品な中傷、虚偽、テロルという手段を阻止しなけらばならない」と述べた。このスペイン内戦でブラントがスターリン主義の共産主義相手になめた経験は、社会民主主義でも急進派であったブラントを主流派に再び接近する重要なインパクトとなった。またブラントのその後の政治的な経歴にとって決定的な部分となったのはノルウェー労働党であった。早くにコミンテルンから離れ1939年までに路線転換して、改革政策で労働者階級の利害と要望に応え成果を上げていることをブラントは学んだ。

戦時下の活動

国籍剥奪

1938年9月にナチスドイツは51名の国籍剥奪者リストを発表し、その中に「フラーム、ヘルベルト・エルンスト・カール 1918年12月18日生まれ リューベック」という記述があった。この前年5月にパリのドイツ大使館にヘルベルト・フラーム某なる者がフランスと北の国々との間を亡命者組織のための伝令役として行き来しているとのメモが届いていたが、まもなくこの人物がヴィリー・ブラントと同一人物であることを掴んでいた。ブラントにとってノルウェーに国籍の取得申請をするしか選択肢はなかった。そして彼はここでノルウェー国籍を取得する。この時にオスロ大学で知り合ったアンナ・カルロータ・トルキルゼンと再会し彼女も力づけてくれた。ブラントよりも10歳年上の彼女はノルウェー人の父とドイツ人の母の間にケルンで生まれ、知的で文学的な興味の持ち主でこの時はオスロの比較文化研究所で秘書として働いていた。

第二次大戦勃発

翌1939年8月24日にブラントは信じられない思いで独ソ不可侵条約が締結されたことを知った。スターリンヒトラーが手を結んだことで、ブラントはヤーコブ・ヴァルヒャー党首に手紙を送り「今や革命勢力としてのソビエトをヒトラーと並ぶ第一級の反動勢力」と非難し、スターリンを過大に評価することの危険性を述べてソ連で起こっていることは恐るべきことだ、と書いて国内における血の粛清にも触れて、「社会主義は真にその名に値する政策を実行しようとするなら、自由とデモクラシーに基づくものでなかればならない」と述べた。これが「民主主義的社会主義」という理念を誕生させ、20年後の1959年にドイツ社会民主党がそれまでの階級政党から大衆政党に路線転換したゴーデスベルク綱領を採択した。ブラントは1986年に「社会主義はデモクラシーによってのみ実現されるものであり、デモクラシーは社会主義によって実現するのだ」と語っている。そのほぼ1週間後にナチスドイツはポーランドに侵入し、英仏両国は宣戦布告し第二次大戦が始まった。そしてソ連も東からポーランドに侵入した。

スウェーデンに亡命

そして翌1940年4月8日にカルロータから妊娠を打ち明けられ、また初めてノルウェーで自著を刊行したその日の次の早朝、ドイツ軍がノルウェーとデンマークに侵攻した。ノルウェーがドイツ軍に占領されたとき、ブラントは捕虜になるが、ノルウェー軍の軍服を着て正体がばれずに6月には釈放されて、スウェーデンに向かった。しばらくしてまたもう一度オスロに戻るが1941年の初めにストックホルムに滞在し、5月にオスロからスウェーデンに来たカルロータと結婚した。この時に彼が所持していた身分証明書は本来の「フラーム」の名前であったので、カルロータと「フラーム」の姓でストックホルムで暮らし、同年10月30日に女の子を出産してニーニャと名付けた。しかしカルロータとの結婚生活はわずか2年で破局で終わった。

スウェーデンは中立国の立場であったが公安警察はたびたびブラントを逮捕・拘留した。ただロンドンに移ったノルウェーの亡命政府が彼の国民証明書を交付して、スウェーデンでは彼はノルウェー人として認められて国内での活動は比較的自由に出来てジャーナリストとして記事を書き、4冊の著書も書いた。1941年6月22日にドイツは突然ソ連を急襲し、ドイツ人亡命者の状況も根本的に変化した。そしてこの当時の中立国の首都ストックホルムは世界各国の秘密諜報機関の暗躍の場であり、ブラントはノルウェーの友人からの情報をソ連、イギリス、アメリカの情報機関に情報提供したりしていた。

1941年10月9日にブラントは亡命SPD(ナチスに活動禁止を命じられた社会民主党が当初はプラハに、そしてその後にパリに移っていた)に加入することを明らかにした。この時にアメリカに亡命していたドイツ社会主義労働者党(SAP)のメンバーは驚き、党首のヤーコプ・ヴァルヒャーも「面目を潰されるような一撃」と受け取った。

この亡命先でユダヤ系オーストリア人ブルーノ・クライスキーと再会し、彼とは1942年9月に「民主主義的社会主義者たちの国際的グループ」(小さなインターナショナル)という国際的な集まりのサークルに一緒に参加している。このグループからは戦後に他の国で大臣、議員、外交官として活躍した人もいて、そのうちヴィリー・ブラントとブルーノ・クライスキーはほぼ同時期に西ドイツオーストリアの首相を務めている。この二人は終生の友となった。

1943年のブラントの30歳の誕生日の折りにノルウェー人のルート・ベルガウストという既婚女性と知り合った。ブラントより8歳年下でストックホルムのノルウェー大使館の報道部門に勤めていて、どちらも既婚(ブラントはこの時まだカルロータとは離婚していなかった)であったが、1944年夏頃には頻繁に会う仲となった。

1945年4月30日、ヒトラーが自殺して、5月8日にナチスドイツは無条件降伏した。ドイツ自身の未来はまだ何も分からない状態であった。

戦後

終戦後の1945年11月、ノルウェー紙の記者としてニュルンベルク裁判を取材するため9年ぶりにドイツに帰国し、そして母マルタ、継父エミール、異父弟ギュンターと再会した。ニュルンベルク裁判では占領軍政府の指示でノルウェー軍の制服を着て取材し、やがてオスロ時代の同志で後にノルウェーの外相となるハルヴァルト・ランゲの斡旋で1947年1月17日にベルリン駐留ノルウェー軍事使節団の報道担当官の職についた。しかしこうした立場では故郷ドイツの政治に働きかけをすることは出来ない認識して、同年11月に軍事使節団を辞した。

ベルリンSPD

1945年5月8日の無条件降伏後のドイツでは、6月11日にドイツ共産党(KPD)がソ連占領地区で創設され、6月15日にドイツ社会民主党(SPD)も新たに創立していた。共産党にはヴィルヘルム・ピークヴァルター・ウルブリヒトが指導者として登場し決定的役割を果たした。社会民主党は当座の指導部として中央委員会が設けられ、そのスポークスマンとしてオットー・グローテヴォールが務めた。この他に6月26日にキリスト教民主同盟(CDU)、7月5日には自由民主党(FDP)が結成されて、これらドイツの伝統的政党が復活した7月にベルリンで4党で「反ファシズム民主諸政党統一戦線」をもとにして人事・教育・警察のポストに必ず共産党員がついていたが各党平等に行政を担当した。しかし、それから1年もたたない1946年春にソ連は共産党と当時ベルリンで最も有力であった社会民主党とを統一させて4月21日に社会主義統一党(SED)が結成された。この当時社会民主党内はグローテヴォールが率いるベルリングループとクルト・シューマッハーが率いるハノーファーグループが有力勢力であった。共産党との合併に反対であったシューマッハはベルリンに赴き説得し、3月31日に共産党との合併についての全党員を対象に特別投票が行われた。結果はベルリン西側地区32,547名のうち、投票数23,755名で賛成は僅か2,937名であった。東側地区はソ連が事前に形成不利を察知して投票を途中で打ち切り、そして共産党と社会民主党との合併を強行した。グローテヴォールはシューマッハーの反対を押し切ってSPDをKPDの側につき、社会主義統一党に参加した。

1946年10月20日にベルリン市議会議員選挙が全ての政党が参加して行われ、当時の有権者約230万人(投票率92%)の選挙結果はSPD-48.7%、 CDU-22.1%、SED-19.8%、LDP-9.4%であった。この初回選挙の結果、SPDのオストロウスキーが市長に就任したがまもなくSEDへの協力を誓った念書への署名をめぐって退職を余儀なくされ、その後任に同じSPDのエルンスト・ロイターが選ばれたがソ連は拒否権を行使したため就任出来なかった。ブラントにとって、このエルンスト・ロイターはやがてユリウス・レーバー、ヤーコプ・バルヒャーの後の彼の政治的指南役となった。

ブラントは、潜伏中の1936年に一時隠密に帰国したことを除けば、ほぼ12年ぶりに故国への復帰であったが、彼が戻ってきた時のドイツの政治状況は東西の対立が鮮明になった時期であった。しかも政治家としては社会民主党を離れて社会主義労働者党に加わり、社会民主主義者と共産主義者との間に位置する社会主義左派の立場で活動し、そして亡命して展望も無く1944年にこの立場を放棄して社会民主党に復党したことで政治的には挫折であった。けれどもブラントはそうした挫折をチャンスと捉え、再出発してベルリンへの新しい道を歩み始めた。そしてこの時のドイツ社会民主党はクルト・シューマッハが党首に選ばれて再建途上であったが、社会主義労働者党のヤーコプ・ヴァルヒャー党首がこの頃には東ドイツに行ったことで社会民主党内ではブラントを共産主義者と見る活動家がいて、彼の復党に反対する党員は多かった。しかしブラントは副党首エーリッヒ・オレンハウアーの推挙で1948年2月1日にベルリンの連合国占領軍との連絡員となった。

この後に、ドイツ社会民主党員として戦後の政治活動が始まったが、第二次世界大戦中に国外亡命していた事実、社会民主党を離れて社会主義労働者党に移り、その時の指導者ヤーコプ・ヴァルヒャーが戦後東ドイツの社会主義統一党に移ったこと、ナチスからノルウェーを逃れる際にノルウェーの軍服を着たこと、そしてニュルンベルク裁判でノルウェー軍の制服を着て軍事使節団に加わったこと、そして私生児であることなどが、のちに政敵に攻撃されることになる。

国籍復活・再婚・改名

ヴィリーとルート夫人(左側)(1970年)

私生活では最初の結婚相手のカルロータと娘ニーニャはオスロに住み、恋人となったルート・ベルガウストもオスロに住んでいて、彼はベルリンで一人暮らしであったが、手紙をこの3人にずっと送り続け、結局この3人の女性たちとは生涯に渡って連絡を取り合った。ブラントにとってノルウェーは第二の故郷であり、カルロータとニーニャ、そしてルートとはノルウェー語で会話していた。1947年の春にルート・ベルガウストがベルリンにやって来て1948年9月4日に彼女と再婚し、数週間後の10月4日に長男ペーターが生まれた。この時はまだルート・フラーム、ペーター・フラームの名であった。

1948年7月1日にリューベック市を管轄するシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州から国籍復活の証明書を得て、1949年5月に姓名の変更申請を出した。そして同年8月2日に認可されて、この時にヘルベルト・エルンスト・カール・フラームからヴィリー・ブラントに正式に名前が変わった。

ベルリン市議会議員及び連邦議員

ブラントがドイツ社会民主党に戻り、故郷のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の連邦議会議員候補になることを断って、ベルリンで活動を始めた頃は、ベルリンSPDではフランツ・ノイマンとエルンスト・ロイターとが党内で対立し、ブラントはロイターの側に立っていた。1949年8月にベルリン市議会でドイツ連邦共和国議会における始めてのベルリン代表議員の一人に選ばれた。同じ年にベルリンのヴィルマースドルフ支部の支部長となり、翌1950年には西ベルリン市議会議員にも当選する。この当時は彼の党内での基盤はまだ弱く、党内でのポスト争いで敗北を続けた、1952年4月の社会民主党の州委員長の選挙では193対63で敗れ、2年後も再度敗れて副委員長に収まっている。

ベルリン市議会でのSPDは1950年12月の選挙で20%の票を失い、1954年12月の選挙でも票を伸ばすことは出来なかった。しかしそれでも市議会では最大多数を占め、CDUと連立を組んで、市議会議長のポストを取っていた。そして1955年1月に市議会議長にブラントが決まった。この頃には西ベルリン市長エルンスト・ロイターが死去して、ブラントは政治的に頭角を現し始めていた。

アデナウアー首相就任

アデナウアー初代首相 (1955年)

東西冷戦のさなか、戦後ドイツでは東西ドイツに分裂して、1949年5月に建国した西ドイツは、同年8月14日に最初の連邦議会選挙を行い、社会民主党(SPD)は得票率では693万票(29.2%)・131議席を得て第1党となったもののキリスト教民主同盟(CDU)はバイエルンの姉妹党であるキリスト教社会同盟(CSU)と合せて736万票(31%)・139議席を取った。そして11.9%・52議席の自由民主党(FDP)と4%・17議席のドイツ党と連立を組み、9月15日にボンで開かれた第1回連邦議会での首相選出投票で社会民主党のクルト・シューマッハー党首を僅差で破ってコンラート・アデナウアードイツ連邦共和国初代首相となった。そしてアデナウアーは首相を辞任する1963年まで一貫して西ドイツと西側諸国との連携を目指した。

キリスト教社会同盟(CSU)は戦前のバイエルン国民党に発し、戦後はバイエルン州の地域政党として誕生した政党で、キリスト教民主同盟(CDU)とは組織的には別々の政党だが議会においては統一行動をとるため、CDU/CSUと表記されている。このCDU/CSU連合は第2回連邦議会選挙以降、概ね40%台の支持を得て自由民主党(FDP)などとの連立内閣を組織し、1969〜1982年及び1998〜2005年の社会民主党政権時代を除いて長期に渡って政権を担当した。

1950年6月の朝鮮戦争の勃発でアメリカは東西の緊張が高まったヨーロッパの状況から、英仏とともに西ドイツを再軍備させて東側陣営と対峙させることを狙い、欧州防衛共同体の設立を提案した。アデナウアー首相はドイツ分断が固定化されるリスクがあることを認識しながらも他の西側諸国との対等な立場を目指して参加の意思を表明した。この防衛共同体構想はフランスが議会での条約批准に失敗したため頓挫したが、西側との協調路線で特にフランスと緊密な関係を築き、経済政策や社会政策の分野でもかなりの成果を挙げた。1952年に、欧州石炭鉄鋼共同体に加盟し、西ヨーロッパに限定した欧州統合の動きに対応してやがて欧州経済共同体条約と欧州原子力共同体条約に調印し、西欧の経済統合が加速して西ドイツ経済の復興を促進させた。一方で軍事面では1955年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟して、同時に西ドイツの主権を制約していた占領規約が解消され主権国家としての地位がほぼ回復した。東西冷戦で西ドイツは西側の軍事同盟に参加することで、主権回復と再軍備を果たすことになった。そしてアデナウアーは西側共同体の一部として、やがて米ソ間の緊張緩和が達成されてヨーロッパの再統合を通してドイツの再統一が可能となると考えていた。故に1952年3月にソ連のスターリン首相からの「ドイツを再統一し、中立化・非武装化・非ナチ化して全ての占領軍は撤退する」との提案を一蹴した。

社会民主党の低迷

この間社会民主党は野党としてこれらの政策に反対して、特に西側諸国との連携そして統合についてはドイツの再統一を難しくするものとして批判した。社会民主党のシューマッハー党首も反共主義者であったがドイツ再統一の可能性を執拗に追及していた。そして後任のエーリッヒ・オレンハウアーも再統一を最重要課題に掲げ東西分断の固定化につながるアデナウアーの西側統合路線に抵抗した。しかし西ベルリン市長となったブラントは、このような党内主流の考えには与しなかった。自ら西ベルリンを指揮する立場から見れば、自由な西ベルリンの維持は西側列強の支援なしには不可能であり、それはすなわち西側共同体、あるいは西側軍事同盟としっかり結びつくことが必要であり、自由な世界の防衛に積極的に参加することを意味していた。この1950年代に社会民主党は低迷を余儀なくされた。そして1953年6月17日のベルリン暴動で西ドイツ内では西側諸国との強固な同盟関係を望んでいた人々にとっては自分たちの考えが実証されたと感じ、西ベルリンのSPD内のエルンスト・ロイターのグループも同じであり、ロイターの死後にブラントとその周囲もますます強くそう思うようになった。1953年の第2回連邦議会選挙で得票率28.2%と低迷し党員も1950年の68万人が58万人に減少した。

1956年11月にハンガリー動乱が起こり、まだベルリン暴動の記憶が生々しい西ベルリンではシェーネベルクの市庁舎前広場で抗議集会が開かれた際に激高した市民がブランデンブルク門に向かったことで、ブラントは一触即発の事態を回避するために車の上からの呼びかけて、デモ隊をうまく西地区の記念碑に誘導して、ドイツ国歌を抵抗心を込めて歌おうと呼びかけて事態を鎮静化させた。このことでブラントはベルリン市民の心に残った。だがハンガリー動乱で再統一の可能性は薄らぎ、社会民主党は訴える力を失い、1957年の第3回連邦議会選挙で31.8%169議席に上昇したが、キリスト教民主同盟と社会同盟が50.2%270議席で過半数を許した。しかしベルリンでは、エルンスト・ロイター

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出典:wikipedia
2020/06/06 02:25

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