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三木武夫とは?

三木 武夫
みき たけお
内閣官房内閣広報室より
公表された肖像写真

【生年月日】
1907年3月17日
【出生地】
日本 徳島県板野郡御所村
(現:阿波市)
【没年月日】
(1988-11-14) 1988年11月14日(81歳没)
【死没地】
日本 東京都
【出身校】
明治大学専門部商科卒業
明治大学法学部卒業
【所属政党】
(協同民主党→)
(国民協同党→)
(国民民主党→)
(改進党→)
(日本民主党→)
自由民主党
【称号】
正二位
大勲位菊花大綬章
衆議院名誉議員
法学士(明治大学・1937年)
【配偶者】
三木睦子
【子女】
長女:高橋紀世子
長男:三木啓史
次男:三木格
【親族】
森矗昶(岳父)
森曉(義兄)
森清(義弟)
森美秀(義弟)
森英介(義甥)
松崎哲久(義甥)
【サイン】

第66代 内閣総理大臣

【内閣】
三木内閣
三木改造内閣
【在任期間】
1974年12月9日 - 1976年12月24日
【天皇】
昭和天皇
第4代 環境庁長官

【内閣】
第2次田中角榮内閣
第2次田中角榮第1次改造内閣
【在任期間】
1972年12月22日 - 1974年7月12日
国務大臣(副総理)

【内閣】
第1次田中角榮内閣
【在任期間】
1972年7月7日 - 1972年12月22日
第95・96代 外務大臣

【内閣】
第1次佐藤第3次改造内閣
第2次佐藤内閣
第2次佐藤第1次改造内閣
【在任期間】
1966年12月3日 - 1968年10月28日
第27代 通商産業大臣

【内閣】
第1次佐藤第1次改造内閣
第1次佐藤第2次改造内閣
【在任期間】
1965年6月3日 - 1966年12月3日
その他の職歴

第10代 科学技術庁長官
(1961年7月18日 - 1962年7月18日)
第6代 経済企画庁長官
第5代 科学技術庁長官

(1958年6月12日 - 1958年12月31日)
第17・18代 運輸大臣
(1954年12月10日 - 1955年11月22日)
第51代 逓信大臣
(1947年6月1日 - 1948年3月10日)
衆議院議員
(1937年5月1日 - 1988年11月14日)

三木 武夫(みき たけお、1907年(明治40年)3月17日 - 1988年(昭和63年)11月14日)は、日本政治家

徳島県出身。内閣総理大臣(第66代)などを歴任した。衆議院議員当選19回、在職51年。称号及び栄典は、正二位大勲位、衆議院名誉議員など。

目次

  • 1 来歴・人物
  • 2 生涯
    • 2.1 出生と出自
    • 2.2 少年期から青年期
      • 2.2.1 小学校から商業学校時代
      • 2.2.2 明治大学専門部商科時代
      • 2.2.3 明治大学法学部入学と外遊、留学
    • 2.3 戦前の代議士時代
      • 2.3.1 神風候補
      • 2.3.2 帝国議会デビュー
      • 2.3.3 日米友好への尽力
      • 2.3.4 時局同志会、翼賛議員同盟と三木
      • 2.3.5 結婚と森コンツェルン
      • 2.3.6 翼賛選挙非推薦での当選
      • 2.3.7 翼賛選挙後の三木
      • 2.3.8 戦前の三木の生活について
    • 2.4 終戦から保守合同まで
      • 2.4.1 引退の撤回と第22回衆議院議員総選挙
      • 2.4.2 協同民主党への参画
      • 2.4.3 協同民主党の実権掌握
      • 2.4.4 国民協同党結党
      • 2.4.5 公職追放危機の回避
      • 2.4.6 初入閣、そして連立与党の党首として
      • 2.4.7 幻の三木内閣
      • 2.4.8 国民民主党結成と外交・防衛問題
      • 2.4.9 改進党結成と芦田との対立激化
      • 2.4.10 日本民主党参加と保守合同
    • 2.5 自民党の有力議員として
      • 2.5.1 1956年総裁選での活躍
      • 2.5.2 石橋政権における三木と岸の後継選出
      • 2.5.3 岸政権、安保改定
      • 2.5.4 党近代化、三木答申
      • 2.5.5 幹事長として佐藤後継指名への関与
      • 2.5.6 通産大臣、外務大臣時代
        • 2.5.6.1 東南アジア外交
        • 2.5.6.2 ベトナム戦争の収束への取り組み
    • 2.6 自民党総裁候補として
      • 2.6.1 男は一度勝負する
      • 2.6.2 私は何ものをも恐れない、ただ大衆のみを恐れる
      • 2.6.3 重宗参議院議長追い落とし
      • 2.6.4 日中関係と1972年総裁選
      • 2.6.5 副総理兼環境庁長官として
      • 2.6.6 田中角栄からの離反
      • 2.6.7 自民党時代、首相就任までの三木の生活など
    • 2.7 首相時代
      • 2.7.1 三木政権発足の経緯
        • 2.7.1.1 田中政権の瓦解
        • 2.7.1.2 椎名裁定
        • 2.7.1.3 難航した組閣
      • 2.7.2 三木政権の施策
        • 2.7.2.1 公職選挙法、政治資金規正法改正と自民党総裁選改革問題
        • 2.7.2.2 独禁法改正と自民党内からの反発による断念
        • 2.7.2.3 党内主流派との妥協
        • 2.7.2.4 スト権スト問題
        • 2.7.2.5 ライフサイクル計画
        • 2.7.2.6 防衛計画の大綱と防衛費対GNP1パーセント枠の閣議決定
        • 2.7.2.7 対米関係など三木の外交政策
      • 2.7.3 ロッキード事件と三木おろし
        • 2.7.3.1 ロッキード事件の勃発
        • 2.7.3.2 三木おろしの開始と世論の猛反発
        • 2.7.3.3 田中逮捕と三木おろしの激化
        • 2.7.3.4 内閣改造と党役員人事
        • 2.7.3.5 更に続く暗闘
      • 2.7.4 総選挙敗北による退陣
      • 2.7.5 首相時の三木の生活と政治スタイル
      • 2.7.6 三木政権の位置づけ
    • 2.8 首相退任後の三木
      • 2.8.1 権力闘争が続く自民党と三木
      • 2.8.2 三木派の解散と河本派の結成
      • 2.8.3 政治浄化への執念と軍縮議連会長就任
      • 2.8.4 議員在職50年と死去
    • 2.9 葬儀と栄典
  • 3 人物と評価
    • 3.1 政治理念、政治姿勢について
    • 3.2 政治手法について
    • 3.3 協同主義、中道主義と三木
    • 3.4 官僚との関わりについて
    • 3.5 政治改革について
    • 3.6 交友関係など
    • 3.7 徳島県政への影響力
      • 3.7.1 影響力の確立と変遷
      • 3.7.2 阿波戦争
      • 3.7.3 徳島県政への影響力低下
    • 3.8 趣味
  • 4 家族・親族
  • 5 年表
  • 6 演じた俳優
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 参考文献
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

来歴・人物

1907年(明治40年)3月17日徳島県板野郡御所村(後の土成町、現在の阿波市)に農商人の家の長男として誕生。明治大学法学部在学中に遊学し、英米自由主義社会を肌で体感、また独伊ソなどの全体主義国家への反感も身を以って実感する。

明治大学卒業直後の第20回衆議院議員総選挙に無所属で出馬して当選、以降死去まで51年間連続在任する。帝国議会では日米対立の緩和に奔走し、翼賛選挙翼賛政治体制協議会の非推薦候補として戦う。戦後は保守系政党を渡り歩き、党幹部或は大臣を数多く歴任、保守合同後の自由民主党でも自前の派閥を持ち、有力政治家の一人として認知される。

一貫して派閥の寄せ集め状態の自民党の体質からの脱却、党の近代化を訴え、時の政権、党執行部とも衝突を繰り返した。1974年田中角栄の金権政治が暴露され田中が失脚すると、三木の「クリーンさ」が田中と対照的で有権者受けするとみなされて、首相に擁立される。周囲は田中の「金権」イメージ一掃のための中継ぎの予定であったが、三木は政治改革を行おうとして田中やその後継の大平正芳らと対立、自民党は分裂・下野寸前に陥る。結局第34回衆議院議員総選挙で自民党は過半数割れの惨敗を喫す。三木は保革伯仲を招いた責任をとって在任2年で退陣、自民党は70年代後半の混迷期に入る。

以降も一貫して政治改革を訴えるとともに、晩年は中曽根康弘の軍拡路線に反旗を翻すなど、世界平和に向けた活動も行った。最晩年の2年ほどは、病で政治活動もままならなかった。1988年(昭和63年)11月14日、81歳で死去。

大政翼賛会や田中角栄などの大勢力と対立し、一貫して小規模の政党・派閥を渡り歩きながら首相にまで上り詰めたため、バルカン政治家の代表格とされる。

生涯

出生と出自

阿波市内にある三木武夫の生家。建物は戦後建て替えられたもので、2013年には空き家となっている。

三木が生まれた徳島県板野郡御所村は、北側の香川県との県境をなす讃岐山脈から、南を流れる吉野川へ降る扇状地が形成された場所にあり、水が伏流して得にくいために水田よりも畑が多い土地柄であった。土地はどちらかというとやせており、生産性は決して高くはなかったが、江戸時代からサトウキビ小麦などが栽培され、養蚕なども行われていた。三木の生まれた当時、御所村から最も近くの町は吉野川を渡った鴨島町(現・吉野川市)であり、徳島市へは鴨島から徳島線などを利用した。つまり三木の故郷は大都市や町ではなく、当時日本各地にあった農村地帯であった。

三木武夫は徳島県板野郡御所村吉田字芝生(後の土成町、現・阿波市土成町吉田)に1907年(明治40年)3月17日、三木久吉、タカノの長男として生まれた。久吉は、御所村の近くにあった柿原村(現・阿波市)に農家を営んでいた猪尾六三郎の次男として生まれ、一時期大阪で就労した後、御所村の地主芝田家のもとで働いていた。そこで御所村宮川内の農家、三木時太郎の娘として生まれ、幼い頃から芝田家に奉公に出ていた三木タカノと知り合い、婚姻した。久吉とタカノは婚姻後、妻タカノの三木姓を名乗り、主である芝田家から家などを与えられて分家した形となった。芝田家は当時御所村一の地主として知られており、芝田家から家と土地を与えられた分家は他に何軒かあって、芝生の集落は芝田家とそれぞれの分家を中心として構成されていた。

そのような御所村で、久吉は農業と肥料商を営んでいた。肥料は硫安大豆粕、ニシンなどを扱っており、肥料以外にも酒、米、雑貨なども扱っていた。つまり三木の実家は農村のありふれた農商人であり、旧家や豪農などではなかった。武夫は久吉33歳、タカノ38歳の時に生まれた一人っ子であり、両親の愛を一身に受けながら成長した。特にタカノは武夫の健康管理について常に注意を怠らなかった。

少年期から青年期

小学校から商業学校時代

御所村尋常高等小学校卒業時の三木武夫。

1913年(大正2年)4月、御所村尋常高等小学校入学。当時の三木は同級生から「小柄で病気がちでおとなしい」、「一本気で融通が利かない」、「一人っ子、外面が悪く独善的で協調性に欠ける」などと回想されており、おとなしいものの我が強い子どもであったようだ。三年時には27日間欠席したと記録されていて、病気がちであったという回想は確かなようで、また恩師であった教師の談によれば、算数が得意であったが成績はクラスで三番から四番程度で、級長になったことは無いといい、飛びぬけて優れた小学生ではなかった。しかし三木は小学校時代から「お話の時間や学芸会では目立つ」、「弁論が上手い」、「近所の子どもたちに演説を聞かせていた」など、後に国会などで雄弁で鳴らすことになる片鱗を見せていた。

三木武夫幼少時の勉強机。土成歴史館にて撮影。

1920年(大正9年)4月、徳島県立商業学校(以下、徳商)入学。これは実家が肥料商であったため、家業である商業を学ぶ商業学校への進学をしたためであった。順当にいけば前年の大正8年4月に進学しているはずであり、一年遅れの徳商入学となった。入学が遅れた理由としては小学校や徳商の同級生らから、入学試験に落ちて浪人した、補欠合格はしたものの自信が持てず留年した、あるいは眼の病気のためとの証言があってはっきりしない。当時、徳島中学校と並ぶ難関中等学校であった徳商の入学試験に際し、タカノは小学校教師に毎晩の特別の補習を依頼し、補習終了まで別室で待っていた。

徳商に入学した三木は、徳島市前川町にあった第二宿舎に入寮し寄宿生活を始めた。三木は時々宿舎を抜け出し、カフェで飲酒したり無声映画を見たりする硬派グループのリーダーとなったと伝えられている。久吉にねだってコダックの小型カメラを購入してもらい、カメラ悪用の疑いで久吉が学校に呼び出されたこともあった。

徳島県立商業学校時の三木武夫。

三木の徳商での成績について詳細は不明であるが、中位であったと言われている。徳商時代、三木は弁論で存在感を見せるようになる。中学一年時に弁論部に入部するとたちまち頭角を現して弁論部キャプテンとなった。徳島県下青年学生雄論大会などで得意の雄弁を見せ、第一席となったこともあると伝えられている。また徳島で成長した賀川豊彦の講演を聞いてその弁論術に感動し、永井柳太郎の雄弁術に感激したというエピソードも残っている。

徳商では野球部強化のための資金集めと商業実習を兼ねて、ワイシャツや毛布などを販売する校内バザーを行うことが慣例となっていたが、1925年(大正14年)7月、バザーの会計に不正があるとの疑いが生じ、四年生を中心として校長の追放運動が発生した。三木は一年留年しており、当時最高学年の五年生であったが、運動の主要メンバーとなった。三木は得意の弁論を駆使して校内を説いて回り、校長にも直接談判した。そして四年生全員が連判状に署名した上で、学校を休んで眉山の茂助ヶ原に集結し、気勢を上げるという事態に発展した。その結果、生徒と保護者の代表がバザーの会計監査を行うことになったが、不正は明らかにならなかった。最終的に三木と他の一名の生徒が一連の騒動の首謀者とされ、退学処分となった。この事件では三木の雄弁が悪い結果をもたらしたことになる。

久吉は退学処分を受けた三木を厳しく叱りつけ、タカノは近親者に対して子の行く末を案じると漏らしていた。三木本人も徳島に居たたまれなくなり、叔父らを頼って大阪の布施市(現・東大阪市)へ向かい、1925年(大正14年)9月、私立中外商業学校(現・兵庫県立尼崎北高等学校)に編入することになった。中外商は1922年(大正11年)3月に認可され、同年5月から授業が開始されたという三木の編入当時はまだ歴史の浅い学校であった。当初大阪市北区玉江町にあった仮校舎まで歩いて通学していたが、同年12月には尼崎市塚口に新校舎が完成したのを機に、塚口まで通学するようになった。徳島の名門校から無名に近い学校への転学を余儀なくされた挫折感や、故郷徳島を離れた孤独感に苛まれた三木を支えたのはやはり得意の弁論であった。大正14年の近畿中等学校弁論大会で三木は第一席となっている。1926年(大正15年)3月、中外商を卒業。

明治大学専門部商科時代

1929年、明治大学雄弁部にて活動。

中外商卒業後、三木は進学を希望する。家業を継いでもらいたいと考えていた両親は当初進学に反対した。三木はまず旧制高等学校を受験するが不合格であった。郷里で失意に沈んでいた三木に中学の同級生が「まだ明治大学の受験が残っているので一緒に受けてみないか?」と誘った。一年浪人して勉強するよりも良いのではと考えた三木は、さっそく友人とともに上京して明大の試験を受け合格し、1926年(大正15年)4月、旧制明治大学専門部商科に入学した。当時の東京は2年半前の関東大震災による壊滅的な被害からの復興途上であり、明大も、学生、教職員、校友らが協同で復興に取り組んでいた。また入学前年に記念館が竣工し、入学した年には専門部に女子部が開設されるなど、学内は活気に満ちていた。また明治大学の建学の精神は「権利自由、独立自治」であり、活気に溢れ自由な校風の中、これまでの挫折続きの学生生活から一変し、三木は学生生活を満喫することになる。

三木は本郷、巣鴨、下高輪などで下宿生活を送ったことが確認されている。そのうち下高輪の竹内君江家の下宿では、家主の子息竹内潔が、後に三木の秘書、そして参議院議員となる。三木の生活費などは久吉が送金していたが、久吉に金の無心をする葉書が残されているところから、十分な経済的余裕がある学生生活でなかったと思われる。また郷里の父母の健康を気遣う手紙が残されており、これは三木は故郷を離れる中で、幼少時より両親から受けた愛情を深く感じるようになっていったことを示している。

明大入学直後、三木はクラス委員に立候補する。立候補して演説する三木の姿が長尾新九郎の目につき、雄弁部に勧誘される。徳島市生まれの郷里の先輩にあたる長尾の勧誘もあり、雄弁部に入部する。長尾はその後も三木の親友として後の欧米への遊説、見学時、そして衆議院議員選挙立候補時など重要な場面で三木を支え続けた。

三木が在学していた当時、明大は立憲民政党系の影響力が強く、木村武雄などは学生院外団に所属して民政党の応援活動に従事していた。しかし三木は既成政党への応援を行うことはなく、また左翼運動に興味を示すこともなく、雄弁部の活動に専念していた。明大雄弁部の活動としては、まず全国各地で演説会を開催したことが挙げられる。三木は入学直後の1926年(大正15年)7月には、名古屋市奈良市和歌山市大阪市そして郷里の徳島県など四国各地での演説会に参加したのを皮切りに、北は樺太から南は台湾、そして朝鮮など外地で行われた演説会にも参加した。この全国各地での演説会開催は評判を呼び、明大学長の横田秀雄のもとには多くの礼状が届けられたという。もちろん雄弁部は学内でも演説会を開催しており、三木が学内での演説会に参加した際の記録が残されている。更に三木は1928年(昭和3年)、関東39大学の弁論部によって結成された東部各大学学生雄弁連盟の呼びかけ人の一人になった。同年12月には、時の田中義一内閣の思想取り締まりが各大学の弁論部にまで及ぶようになったことを抗議して、東京本郷の仏教青年館で各大学弁論部により開催された「第一回暴圧反対学生演説大会」において、三木は明大雄弁部キャプテンとして弾圧反対の演説を行っている。このような雄弁部の活動を通じて三木は他大学の弁論部員との交流が生まれた。その中には後に政官界、経済界で活躍する人材も多く、後に政界で活躍する三木の人脈形成の一つとなった。

明治大学法学部入学と外遊、留学

長尾新九郎とともにアメリカ講演旅行へ向かう三木武夫、春洋丸船上にて撮影。右が三木、左が長尾。

1929年(昭和4年)3月、明大専門部商科卒業。4月に三木は両親宛に『しばらくの時間の猶予、そしてしばらくのわがまま』を許して欲しいとの内容の書簡を送っており、明治大学法学部に入学し、更に欧米への外遊に出発することになる。

三木は長尾から国際性を身につける必要性を説かれ、米国への遊説旅行に勧誘されていた。長尾は、まだ若い頃、兄の田所多喜二とともに米国に渡り、苦学をした経験があった。法学部入学直後の6月、『明治大学駿台新報』には長尾と三木がハワイ、米国本土へ遊説旅行へと出発することが紹介されている。遊説旅行の費用は自己負担であり、三木は企業などからの援助、新聞社の特派員として記事執筆、そしてやはり両親からの援助などで多額の費用を賄うことになった。出発前には長尾、三木両人の故郷である徳島で『欧米遊説記念大演説会』を開催し、明大学長からの許可書、指導協力の依頼状を携え、9月27日、米国へ旅立った。

米国在住経験がある長尾とともに、三木はハワイ到着後、現地在住の明大の校友会や日系人の支援を受けながら、精力的な講演活動を開始する。ハワイでの活動後、長尾と三木は米国本土に上陸、やはり現地の校友会、日系人たちの援助を受けつつ、サンフランシスコロサンゼルスなどカリフォルニア州内、その後デトロイトシカゴニューヨークなどで公演を行った。デトロイトではフォード・モーターを一日かけて見学したり、また発明家のトーマス・エジソンと面会するなど、講演活動以外にも見聞を広めていった。

長尾新九郎とともに米国・欧洲各国に遊説、見学旅行を行った際に三木武夫が使用したカバン。土成歴史館にて撮影。

約一年間に及ぶ米国遊説旅行終了後、三木は欧洲へ渡った。米国の講演旅行と異なり、欧洲はほぼ三木の単独行であった。欧洲は講演活動ではなく見学旅行であり、三木は英国ドイツフランスイタリアソ連などを回った。折しも外遊と世界恐慌の時期が重なっており、米国では大勢の失業者が発生している状況を目の当たりにし、続いて英国でも深刻な影響を実感した。

三木は欧洲歴訪中、ベニート・ムッソリーニファシスト党統治下のイタリア、ヨシフ・スターリン支配下のソ連、そしてアドルフ・ヒトラーによるナチス台頭前夜のドイツを見て、ファシズムスターリニズムなど全体主義の強権に強い違和感を抱いた。一方スイスジュネーブで行われた国際連盟の軍縮会議で、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアンが行った平和を訴える演説に感銘を受けた。三木は一年あまりの欧米旅行で、米国の自由、民主政治、そして平和の重要性、そしてファシズムと共産主義による強権支配の問題性を認識し、三木の人生そして政治活動に大きな影響を与えることになる。

1930年(昭和5年)11月、シベリア鉄道経由で満州里へ向かい、北京を通って日本に帰国した。帰国した後、さっそく明大法学部に復学するものの、三木はすぐに米国留学を計画することになる。留学の意図は語学を身につけ、交際感覚を磨くためとも言われているがはっきりとはしない。1931年(昭和6年)6月に、明大を卒業して故郷徳島に戻った長尾宛の書簡によれば、当初三木は明大野球部の米国遠征時にマネージャーとして同行し、米国で弁論活動なども行うことを計画していた。しかしこの計画は実現せず、結局翌7月に明大から『大学など学校調査研究のため、二年間の欧米出張を命ず』との内容の契約書、辞令が交付された。

1932年(昭和7年)5月、米国へと向かった。米国行きに際し、当初三木は片道分の旅費しか持っていかなかったと伝えられている。講演活動を行えばお金は何とかなると考えたためのようであるが、三木の意図とは相違して、講演活動での収入では生活もままならなかった。現地日系の新聞社の記者、ロサンゼルスの日本語学校での小学校教師などを行ったが、学業を行いながらの生活は経済的にかなり苦しく、米国留学時代、親友長尾に宛てた手紙の多くは生活費に関するものであった。そのような中で三木は著書の出版を計画し、更にはロサンゼルスオリンピックに際して日本製の日傘を輸入し、また米国製中古機械を日本へ輸出する計画などをもくろんだりもした。

経済的に苦しみながらも、三木は南カリフォルニア大学アメリカン大学に通学した。1936年(昭和11年)4月にはアメリカン大学からマスター・オブ・アーツ(文学修士)の学位を受けたと伝えられている。明大からの学校調査研究のためという渡米契約についても、1932年(昭和7年)11月の時点で中西部の大学は視察し、続いて東部の大学視察を行う予定である旨が報告されており、大学側に明大に留学生部ないし日本語専修科の設置、そしてアメリカ在住の日系二世を明治中学校に編入させるアイデアを提案している。

留学は1936年(昭和11年)4月までの四年間に及んだ。留学時代、三木は本業の学業、大学などの教育制度調査以外に、資金を稼ぐために米国で就労を経験し、出版や貿易を企画するなど様々な体験を積んだ。また在米期間中には三木の人脈も形成され、後に三木の政策ブレーンとなった人物もいる。専門部商科時代の遊説旅行、1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)にかけての欧米旅行、そして四年に及ぶ留学は、当時の日本が一層の世界進出を果たしていくという機運の中で行われたものであるが、若い三木にとって様々な見聞、そして体験を積み重ねることとなり、更には人脈形成の一環ともなった。

留学から帰国後、三木は明大法学部に復学する。そして1937年(昭和12年)3月、卒業する。卒業後の三木の進路は全く決まっていなかった。希望としては明大の教員になることを考えていて、他に外交官、記者、そして政治の世界に身を投じようとも考えていた。当時は、弁論活動をしていた人物が政界入りすることは、珍しいことではなかった。そのような中、当時の林内閣は3月31日、突如として衆議院を解散する。三木はこの突然降ってわいたような衆議院議員総選挙に立候補する決意をした。

戦前の代議士時代

神風候補

三木は林内閣の衆議院解散、いわゆる食い逃げ解散の報を御茶ノ水の床屋で聞き、総選挙立候補を決意したと伝えられている。三木は解散直前の17日に満30歳となり、当時の衆議院議員被選挙権を得たばかりであった。また、三木の衆議院議員立候補の経緯としては、衆議院解散のニュースを聞いた時点では立候補をするつもりは無かったが、解散直後に三木のところに徳島県出身の若者が訪ねてきて立候補を要請され、どうして自分が立候補できるだろうかと難色を示した三木に対して、手弁当で応援すると重ねて立候補をすすめる青年の熱意を前に、とりあえず徳島の選挙区事情を実見して決めることにしたのがきっかけであるとの話も伝わっている。

解散の翌日、三木は郷里徳島へと向かった。徳島ではまず長尾に立候補について相談した。長尾は『一生涯政治をやるか、やるなら政治家は金をためることを考えるな…大義名分に従い、闘争心が失せたらその時点で政治家を辞めよ、その覚悟はあるか?やれ』と、政治家となるための覚悟を三木に問うた上で立候補を勧めた。三木はこの時の長尾の忠告を『私自身の自問自答のようなものであった』と述べており、初回立候補時に政治倫理の確立に尽力し続けることになる三木の原点が見いだせる。そして長尾以外の友人からも出馬を勧められ、三木は出馬の決意を固めた。長尾との相談後、三木は実家の父母を訪ねて立候補の決意を伝え、立候補に必要な供託金の納入など手続きを依頼した上で、いったん東京に戻った。4月9日、父久吉は当時の徳島2区(板野郡阿波郡麻植郡美馬郡三好郡)への立候補を届け出た。同日三木は東京から当時徳島県にあった五つの新聞社に立候補声明を航空便で送り、翌10日には明治神宮靖国神社に参拝して、『郷里の徳島二区から生涯代議士に打って出ること、これまでの多くの政治家が行ったような不浄、不純を行わないこと』を誓った後、徳島へと向かった。

三木が立候補した徳島2区は3人区であり、前職3人がいずれも立候補した。前職は57歳で当選4回の民政党所属の真鍋勝、72歳で当選5回、民政党の徳島県支部長を務める高島兵吉、そして57歳で当選8回、衆議院議長も務めた無所属の秋田清という有力候補揃いであり、立候補直前まで大学生であり衆議院議員の被選挙権を得たばかりで地方議員経験も無く、しかも徳商退学後永く徳島から離れて生活してきた三木は、当初圧倒的に不利であると予想された。

三木は無所属で立候補した。三木は隣の選挙区である徳島1区から当時5回当選していた政友会の生田和平を政治の師と仰いでいでおり、徳島2区には民政党の現職代議士が2名いたものの政友会の代議士が不在であったこともあって、まず政友会からの出馬が考えられた。また三木が長年在学していた明大は民政党の影響が強かったが、当時、既成政党に対する批判が強く、三木自身も既成政党に対する厳しい批判を持っていたため、無所属での立候補を決めたと考えられている。

圧倒的不利を予想された選挙戦で、三木はまずイメージ戦略を実行した。選挙活動開始時の4月初旬、日本全土は神風号の欧亜飛行新記録樹立の快挙に沸いていた。選挙戦のために徳島へ向かった三木は、大阪からは飛行機を用いて徳島入りした。当時まだ珍しかった飛行機を利用してのお国入りは、三木と神風号を結びつけることに繋がり、地元新聞は三木のことを神風号にちなんで神風候補と呼び、三木陣営もまた神風候補と名乗った。

選挙区情勢を詳細に分析した三木は、選挙事務所を板野郡板西町(現・板野町)に置くことにした。板西町は東西に長い徳島2区の東に寄っているが、板野郡は三木の故郷であり、また板野郡の南にある麻植郡、西側の阿波郡からは立候補者がいないため、各候補の競争地になると判断し、選挙事務所を置くのに最適と判断したためである。なお、開票結果は麻植郡、阿波郡は三木が1位、板野郡はもう一人の地元候補である高島に次いで2位となり、三木の読みは的中する。

実際の選挙戦ではまず長尾の実兄で、前県議の田所多喜二が遊説部長として陣頭指揮を取った。選挙区事情に精通した田所は『徳島県は若い政治家を育てよ!』と、三木を伴って選挙区中を回った。また在京、在米生活の中で知り合った知己を積極的に応援弁士として招請した。三木の応援に参加した人物には、在米中に知り合った早稲田大学教授の吉村正や、その教え子であった石田博英がいた。東京の大学教授や外国生活経験者の応援は、三木に他の候補には見られない若さと都会性、そして国際性を身につけた人物であることを有権者に認識させる手段であった。

三木は当時の政治情勢について、これまで政党は藩閥政治を打破した大きな功績を挙げてきたが、既成政党が腐敗して国民の信頼を裏切ったため、立憲世論の政治が衰退して官僚超然内閣が続くようになったと判断していた。そのため三木は無自覚議員をなくして議員の質を上げ、政党を浄化して立憲世論の政治を取り戻すべきであると主張し、選挙遊説の中でもまず既成政党の腐敗批判と政治浄化を強調した。同様の主張は当時しばしばなされていたもので、特段真新しい主張であったわけではないが、閉塞感に覆われていた当時、まだ30歳になったばかりの新人代議士候補が既成政党の腐敗を激しく批判し、政治浄化を唱える姿は選挙民に変化への期待をもたらした。また政党の浄化と議員の資質向上という主張は、最初の国政選挙時から唱えられていたものであるが、立候補した当時の情勢と、政党が結局軍部の暴走を押し止められなかったことへの反省から、三木終生のライフワークとなった。そして三木の議員一人ひとりの資質向上を目指す考え方は、真の言論の府として議会が機能していくことを目指しており、「政党政治を量の政治とし、所属議員の数が多ければそれでよし」とするような、政党は議会の多数派を占めさえすれば良いといったやり方を批判した。この点も後に三木が田中角栄の「数は力」という考え方に鋭い批判を向けたことに繋がっていく。

初回立候補に際して三木が唱えた具体的な政策としては、選挙広報に15項目に及ぶ政策が列挙されている。政策の冒頭にはまず「国体明徴」、「日本道徳の鼓吹と共産主義絶滅」、「祭政一致」という、当時の時代背景を如実に示すようなスローガンが並んでいる。続いて議会浄化と政党の革新による真の世

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出典:wikipedia
2019/07/07 06:15

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