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上原浩治とは?

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百科事典に相応しくない内容の増大は歓迎されません。内容の整理をノートで検討しています。(2014年1月)

上原 浩治
読売ジャイアンツ #11

2018年、東京ドームにて

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
大阪府寝屋川市
【生年月日】
(1975-04-03) 1975年4月3日(43歳)
【身長
体重】
187 cm
87 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
投手
【プロ入り】
1998年 ドラフト1位(逆指名)
【初出場】
NPB / 1999年4月4日
MLB / 2009年4月8日
【年俸】
2億円+出来高(2018年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

【国際大会】

【代表チーム】
日本
五輪
2004年2008年
WBC
2006年
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


オリンピック
男子 野球
日本
オリンピック
 | 2004 | 野球
ワールド・ベースボール・クラシック
 | 2006 | 野球

上原 浩治(うえはら こうじ、1975年4月3日 - )は、大阪府寝屋川市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。読売ジャイアンツ所属。元メジャーリーガーで、2013年にはMLBで日本人初のリーグチャンピオンシップおよびワールドシリーズ胴上げ投手ともなった。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 巨人時代
    • 1.3 オリオールズ時代
    • 1.4 レンジャーズ時代
    • 1.5 レッドソックス時代
    • 1.6 カブス時代
    • 1.7 巨人復帰
  • 2 選手としての特徴
    • 2.1 投球フォーム
    • 2.2 球種
  • 3 国際大会での活躍
  • 4 人物
    • 4.1 ポスティング移籍問題
  • 5 詳細情報
    • 5.1 年度別投手成績
    • 5.2 タイトル
    • 5.3 表彰
    • 5.4 記録
    • 5.5 背番号
    • 5.6 代表歴
  • 6 関連情報
    • 6.1 出演
    • 6.2 書籍
      • 6.2.1 著書
      • 6.2.2 関連書籍
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク

経歴

プロ入り前

大阪府寝屋川市出身。実父が監督を務める少年野球チーム「寝屋川アスナローズ」で野球を始めた。寝屋川市立第十中学校では野球部がなかったため、同じ団地内にある「明徳アスナローズ」で野球を続けながら、陸上部に所属した。高校は自転車で通えて野球が強いという理由から東海大学付属仰星高等学校に進学した。

1、2年時は中学時代に陸上部で鍛えた脚力を見込まれて外野手を務める一方で、練習では打撃投手を務めることも多かった。3年になって投手になるが建山義紀の控えでほとんど登板機会がなく、同校も夏の府大会で敗退したため全くの無名選手であった。その頃、建山がプロ球団などから勧誘される中、上原は体育教師になる夢を叶えるため大阪体育大学への進学に備える。受験にあたっては運動能力、学力とも合格ラインに達していると自負していたが、結果は不合格であった。高校時代は建山だけではなく、ラグビー元日本代表の大畑大介とも高校の同級生であり、3人は1年時にはクラスが同じであった。

この時のショックは未だに忘れられないほど強烈なものであったが、浪人してもう一度受験することを決意。隣町の予備校(KEC近畿予備校)に通う傍らジムでトレーニングを積み、更に家計への負担を減らすために夜間は道路工事のアルバイトもこなした。この間の努力は「人生であれほど燃えた1年間はない」程だったという。またこの時期にノーラン・ライアン著の「ピッチャーズ・バイブル」を読んでトレーニングしていた。翌年、再度大体大を受験し合格、野球部に入った。1年半ぶりの投球は上原自身が驚くほど球威が増しており、監督の中野和彦が球速を測らせたところ146km/hを記録した。

学生時代に、珠算初段、中高の教員免許(体育)を取得している。

その年の阪神大学リーグでは主戦投手として優勝に貢献。大学選手権でも好投し、プロのスカウトから注目されるようになった。大学3年時の1997年日米大学野球選手権大会では大会タイの14三振を奪って、メジャー球団の関心を惹いた。この大会で速球が通用したことでプロでやっていく自信が芽生えたという。日本代表に選ばれた同年8月の第13回インターコンチネンタルカップ決勝で、当時国際大会151連勝中だったキューバ相手に先発して勝利投手となり、この年のインターコンチネンタル最優秀投手賞を受賞。秋の大阪経済法科大学戦では1試合21奪三振を記録。これはリーグ記録として残っている(2010年現在)。4年時の姫路獨協大学戦ではノーヒットノーランを達成した。大学4年間で通算リーグ優勝5回(1年春、2年春秋、3年秋、4年春)、36勝4敗、最優秀投手賞4回、特別賞2回という成績を挙げた。通算36勝と完封13はリーグ記録。

1998年のドラフトでは横浜高校松坂大輔と並ぶ目玉と目された。大学時代は地元の大阪近鉄バファローズがマークしていたが、国際大会の活躍で注目度を上げたことで、メジャー4球団を含む複数球団が獲得に乗り出し、最終的にメジャーリーグベースボール(MLB)のアナハイム・エンゼルス読売ジャイアンツによる争奪戦となった。一時はエンゼルス入りに傾いたが、大学2年の時から熱心に勧誘し続け、他球団が松坂獲得を狙う中でも一貫して上原を熱望していた巨人が、巨人ファンであった上原の父親をまず説得。その後、本人が悩んでいるときに、父親から誘われ同行すると、その場にいたのが、当時巨人の監督を務めていた長嶋茂雄であった。本来、ルール上ではプロ監督とアマチュア選手の接触は禁止されてはいるが、「抜け道」の形で「偶然に顔を合わせ、同席した」。上原本人は喜ぶどころか逆に困惑し、父が巨人ファンであることを知っていただけに「巨人って、そこまでやるのか…」という気持ちが膨らんだ。上原は迷いながらも巨人を逆指名し、1位で入団した。入団会見では「メジャーでやるにはまだ自信がないから、日本を選んだ」と述べ、悔しさを滲ませた。背番号は19を希望。これは、大学受験に失敗して浪人生活を送った19歳の1年間を忘れないようにという意味が込められている。

巨人時代

2006年

1999年は毎週日曜日に登板するというローテーションが組まれていたため、「サンデー上原」と呼ばれた。前半戦で新人では37年ぶりの12勝を挙げるなど5月30日から9月21日まで、歴代4位タイとなる15連勝を記録。新人投手の記録としては1966年堀内恒夫が記録した13連勝を33年ぶりに更新する。

10月5日のヤクルトスワローズとの最終戦では、すでに中日ドラゴンズの優勝が決まった後の消化試合であったため、注目はタイトル争いとなり、各チームに所属する松井秀喜が41本、ロベルト・ペタジーニが42本と、本塁打王を激しく争い、松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けた。ここで上原も、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチからの敬遠の指示に従いストレートの四球で渋々歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を思いっきり蹴り上げ、目に浮かんだ涙をユニフォームの袖で拭った。なお、この年、ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取り、9回の4打席目では再び勝負し適時打を浴びた。また上原自身も当時中日の野口茂樹と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっており、2失点完投勝利で20勝目を挙げた。

このシーズンは20勝4敗の好成績を残し、両リーグを通じて1990年斎藤雅樹以来9年ぶり、新人投手としては1980年木田勇以来19年ぶりの20勝投手となった。最多勝利最優秀防御率最多奪三振最高勝率の投手主要4部門を制し、史上10人目、新人としては史上3人目の投手4冠を達成。また、新人王沢村賞も受賞する。自分自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は(鈴木啓示の座右の銘「草魂」より)、松坂大輔の「リベンジ」と共に1999年の流行語大賞に選ばれた。

2000年7月2日広島東洋カープ戦で右太もも肉離れを起こし登録抹消。7月27日には川崎市内で自家用車を運転中にオートバイと接触事故を起こし、オートバイの男性が重傷を負った。この事故について球団から厳重注意の上謹慎10日間の処分を受け、業務上過失傷害書類送検され罰金30万円の略式命令を受けた。これによりアサヒ飲料十六茶」のCM契約も打ち切られ、この事故や転倒なども重なって、シーズンは9勝7敗に終わった。同年の日本シリーズ(対福岡ダイエーホークス)では、第3戦に先発し、チームの1勝目と同時に自身のシリーズ初勝利を挙げ、その後のチームの4連勝で日本一を果たした。

2001年は、4月13日の横浜ベイスターズ戦で左太ももの肉離れを起こして一時離脱し、後半戦では右ひざの故障もあり、2年ぶりに二桁勝利を記録したが、防御率は自身最低となる4.02に終わった。

2002年は自身初の200イニング登板を達成し、17勝5敗の好成績で最多勝と沢村賞、ベストナインを獲得、西武ライオンズとの2002年の日本シリーズ第1戦に先発し、12奪三振・1失点完投勝利の快投でチーム史上初で1990年の西武以来12年ぶりの4連勝ストレート勝ちでの日本一に貢献し、優秀選手賞を獲得。シーズン後に行われた日米野球にも選出され、バリー・ボンズから3打席連続三振を奪い、メジャーリーグのスカウトからの注目を集める。11月29日にはアフガニスタンの子どもたちへの支援金として200万円を当協会事務局長に手渡した。

2003年7月20日から8月29日にかけて7試合連続完投勝利を挙げるなどして最多勝争いに加わり(最終的には20勝の井川慶)、2年連続で200イニング登板達成、16勝5敗であった。

2004年はキャンプで右足を痛め、開幕には間に合ったが、最初の6試合で平均球数130球以上を記録、さらに5月に左足を怪我してローテーションを1回飛ばし、膝に負担がかからないようにコンパクトなフォームに変更した。同年シーズンでの登板数は22試合にとどまったが、リーグ3位の13勝を記録し、防御率はリーグ唯一の2点台となる2.60で2度目の最優秀防御率を受賞。9月14日には元モデル山﨑美穂と結婚した。この年の契約更改で年俸が3億円に到達。入団6年目での3億円到達は史上最速であった。

2005年ポスティングシステムによるメジャー移籍志願を公言したために契約交渉がもつれ、キャンプ入りが遅れた。(後述)防御率リーグ3位、完投数リーグ3位、奪三振リーグ5位、投球回リーグ4位、WHIPリーグ1位など好成績を残したが、打線の援護に恵まれず、またリリーフ陣が打ち込まれたこともあって、勝敗は9勝12敗と自身初めてのシーズン負け越しを経験した。

2006年シーズン開幕前3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表に選出された。同大会ではエースとして3戦2勝の好投で優勝に貢献。準決勝ではこの大会の対戦で2敗していた韓国を相手に7回を無四球無失点の快投で勝利を呼び込んだ。また大会最多の16奪三振を記録。

シーズンでは球団史上最多、7度目(7年連続)の開幕投手を務め自身5年ぶりの開幕戦勝利をあげ、8月25日の阪神戦で、ドラフト制以降では松坂大輔と並ぶ最速タイとなる191試合目での100勝を達成したものの、8勝9敗で2年連続一桁勝利で負け越した。

この年から、巨人の財団法人骨髄移植推進財団への支援開始をきっかけに、自身も骨髄バンクへの登録を呼びかける活動を始めた。6月に自らも骨髄バンクに登録し、試合前のイベントなどで登録を呼びかける。また、シーズンオフには東海大学医学部付属病院へ訪問し、病気の子供達にクリスマスプレゼントを渡している。

2007年は故障により出遅れたため、8年連続での開幕投手及び9年連続開幕一軍スタートを逃した。プロ入り初の開幕二軍スタートとなった。序盤に抑えの豊田清の不調が重なったことでこの年は抑えとして起用されることになった。5月2日中日ドラゴンズ戦でプロ初セーブを挙げた。8月5日には球団史上初の4日連続セーブを記録し、8月29日のヤクルト戦では球団新記録及びプロ野球タイ記録の月間11セーブを挙げた。9月26日の中日戦でも球団新記録となる31セーブを達成。最終的には32セーブを挙げ、MVP投票でも2位の評価を受けた。プロで20勝を挙げ30セーブを記録した投手は江夏豊に次ぎ史上2人目であった。中日ドラゴンズとのクライマックスシリーズ・2ndステージでは第2戦・第3戦に登板したものの、シーズンにもなかったビハインドの場面に登板。レギュラーシーズンで12試合登板無失点7セーブを記録していた中日打線にも李炳圭にソロ本塁打を浴びるなど追加点を許し、3連敗でのクライマックスシリーズ敗退後はベンチで号泣した。オフには初めて巨人の後輩(西村健太朗)を伴い自主トレを行った。

2008年4月4日FA権を取得。翌年のメジャーリーグ移籍を目指すことを7日に表明。巨人の球団代表清武英利からは「全力を上げて慰留する」と同時に「今までよく我慢してくれた」という労いの言葉が贈られた。シーズンではかねてから希望していた先発ローテーション復帰を果たすも5試合に登板して4敗、防御率6.75と不調が続いたため、4月27日付で一軍登録抹消。故障以外ではプロ入り後初となる二軍落ちを経験した。二軍では小谷正勝コーチなどと調整・投球修正を続けていた。7月に北京オリンピック日本代表監督である星野仙一からの代表招集要望で一軍に緊急復帰し、セットアッパーとして登板するも、本来の調子を取り戻すことはできなかった。しかし星野から「日本代表に最も必要な男」と国際試合での相性・経験を見込まれ、代表に選出された。一軍でも尾花高夫投手コーチと遠投に取り組むなど、引き続き投球修正を続け、原監督には精神的な部分での問題を指摘され、ビハインドでの救援や、僅差で二死からの救援など、段階を上げながら試行錯誤を重ねた。前半戦最終戦、五輪代表合宿合流前の最後の試合となった7月29日、8回1点差から登板し1イニング無失点、その後4点差となったことで9回も続投して3三振に抑え、この年の一軍初セーブを記録した。前年の2007年に代謝異常の難病を患っていた少年と「元気になったら東京ドームでキャッチボールをする」と約束。8月28日の東京ドームでの横浜戦の試合前に約束は実現し、少年はその試合で始球式を務める。この様子はその年の24時間テレビで放送された。この試合では約4ヶ月ぶりの先発復帰を果たし、先発投手として693日ぶりの勝利を上げた。その後も尻上がりに調子を上げ、北京五輪後は7試合で4勝1敗。唯一の敗戦もソロ本塁打での1失点のみで防御率2.08という好成績で巨人の逆転優勝に貢献した。西武との日本シリーズでは第1戦(11月1日)に先発したが、負け投手となる。10月以降の敗戦は自身初であった。第5戦にも先発したが、3回2失点で降板。しかしチームが逆転勝ちしたため敗戦は免れた。

日本時代に2回の沢村賞を受賞したが、複数回の沢村賞を受賞したのは11人で、平成に入ってからは斎藤雅樹、上原、斉藤和巳田中将大前田健太の5人しかいない(2017年シーズン終了現在)。また、前年に73本塁打を放った全盛期のバリー・ボンズを日米野球で三打席連続三振に抑えたり、国際試合負け無し、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振をそれぞれ複数回獲得するなど、球界を代表する投手として活躍した。

11月14日、FA宣言を行い、正式にメジャーリーグ挑戦を表明。SFX社のマーク・ピーパーを代理人に迎えた。

オリオールズ時代

2009年1月6日にボルチモア・オリオールズと2年契約で基本合意。13日に2年1000万ドル+出来高600万ドルで正式に契約を交わし、同球団初の日本人選手となった。背番号は巨人時代と同じ「19」に決まった。

オリオールズ時代(2009年)

2009年は開幕から先発ローテーション入りし、4月8日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャーデビューし初勝利を挙げた。しかし、同年5月23日のワシントン・ナショナルズ戦では脱水症状からくる左太もも裏の痛みを訴えて降板し、27日にも痛みが再発したためDL入りしたのに続き、6月23日のフロリダ・マーリンズ戦では右ひじに違和感を訴え途中降板し、28日に精密検査で右ひじ腱の部分断裂が判明し再び故障者リスト入り。監督のデーブ・トレンブリーは復帰後はリリーフに転向させる意向を示唆していたが、約8週間リハビリを続けたものの回復にはさらに長くかかり、9月上旬にシーズン中の復帰を断念した。結局、MLBの1年目は前半戦に先発登板した12試合のみとなった。

2010年1月1日に株式会社スポーツカンパニーとマネジメント契約を結び、8月にはグリーンカードを取得。スプリングトレーニング中に左太もも裏を痛め、DL入りして開幕を迎えた。5月からリリーフとして復帰するが、6試合の登板後に右ひじ痛が再発して再びDL入りした。約1か月後の6月29日に復帰した後は、17試合登板して防御率1.80、WHIP1.10と好投を続けた。敗戦処理を含む比較的楽な場面であったが、安定した投球を続けていたことが、新しく監督に就任してオリオールズの再建に着手したバック・ショーウォルターの目に留まって暫定クローザーとして起用されることになった。8月21日のテキサス・レンジャーズ戦の9回に登板し1安打無失点に抑えメジャー初セーブを挙げた。7月16日のトロント・ブルージェイズ戦でMLB歴代4位タイの32試合連続無四球を記録。オフに250万ドルの出来高を含む総額550万ドルの1年契約を結んだ(2年目は年俸350万ドルの球団オプション)。

2011年は、ブルージェイズからケビン・グレッグがクローザー契約で加入したことにより、上原はセットアッパーを務めた。グレッグが精彩を欠いた反面、上原は、スプリングトレーニングで右ひじを痛めたが、その後は安定した投球を続け、7月まで43試合に登板し1勝1敗、防御率1.72、WHIP0.70(リーグの救援投手でトップ)という好成績を残した。また前年から続いていた連続無四球試合数は36試合にまで伸び、MLB歴代3位の記録となった。オリオールズでは上原が投げるときに「kojiコール」が起きるほど、ファンからも信頼されていた。

レンジャーズ時代

レンジャーズ時代(2012年)

2011年7月30日にトミー・ハンタークリス・デービスとのトレードで、前年にワールドシリーズ進出を果たしたテキサス・レンジャーズに移籍し、高校時代に同級生であった建山義紀とチームメイトとなった。背番号は巨人、オリオールズ時代と同じ「19」。残りのレギュラーシーズン(2011年)では打者優位の球場(後述)に対応できず、8月前半の11試合は防御率6.52、WHIP1.24を喫し、被本塁打率は3.72と大きく打ち込まれた。しかしその後は持ち直し、8月31日には55試合登板を達成し翌年の契約オプションを更新。9月は10試合の登板で防御率1.23、WHIP0.23と復調し、チームのポストシーズン出場に貢献した。シーズン通算では65試合で防御率2.35、リリーフ投手中リーグ1位のWHIP0.72、同5位の奪三振率11.77、同2位の与四球率1.25を記録した。

自身初となったポストシーズンではタンパベイ・レイズとのディビジョンシリーズ第2戦で登板を果たすも、エバン・ロンゴリアから3点本塁打を浴びた。デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第3戦でもミゲル・カブレラに本塁打を打たれ、さらに第5戦でもライアン・レイバーンに本塁打を打たれてポストシーズン史上初となる3戦連続被本塁打を記録。チームはワールドシリーズ進出を決めたが、「レギュラーシーズンは良かったのに、この3試合で成績すべてが消えた感じになった。もう1回、チャンスがほしい」と語り復調を目指したが、セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズではロースターから外れ、チームは第7戦で敗退した。

2012年1月23日にトロント・ブルージェイズとのトレードが成立したが、ブルージェイズを含む6球団に対してトレードの拒否権を持っていたため翌日に移籍を拒否し、トレードは破談となった(他の5球団は公開されていないが関係者によると「優勝の可能性が低く、家族の滞在を考慮した住環境が整いにくいところ」だという)。

同年のシーズンは、20試合の登板で防御率2.11、WHIP0.70という成績を残していたが、右広背筋を痛めて6月14日にDL入り。その後マイナーでリハビリ登板を続けていたが、右広背筋に再び張りが出て復帰が遅れ、8月26日にDLから復帰。レギュラーシーズン最終戦まで14試合連続無失点を記録し、後半戦は17試合の登板で1セーブ、防御率1.23、WHIP0.54の成績を残したが、チームは地区優勝を逃す。ESPNの1900年からの統計によると、この年のK/BB14.33は、年間35イニング以上を投げた投手ではエカーズリー1989年1990年に記録した数値に次ぐメジャー歴代3位の記録だった。本人はこの年は『一発病』の克服をテーマとしていたが、イニング数の違いはあるものの、被本塁打数は前年11本から4本へと減少した。ポストシーズンではボルチモア・オリオールズとのワイルドカードゲームの8回に登板しクリーンナップを3者連続三振の快投を見せるも、チームは敗退しディビジョンシリーズ進出を逃した。

レッドソックス時代

リリーフ転向後、2010年は43試合で防御率2.86、13セーブ、2011年は65試合で防御率2.35、2012年は37試合で防御率1.75と、安定した成績を残してきた上原は、オフにはMLBの複数球団で争奪戦となった。12月6日にボストン・レッドソックスと総額425万ドル+出来高の1年契約(2年目は55試合登板で自動更新される年俸425万ドルの球団オプション)で合意したことが報じられ、18日に契約した。本人は決め手を、自分を最も必要としてくれている球団だと感じたこと、そしてクラブハウスに温水洗浄便座があることも良かったと語った。一方で前年地区最下位のレッドソックスの側では、GMのベン・チェリントンはどうしても必要な補強では無いと当初考えていたが、セイバーメトリクスに精通したスタッフやアドバイザーのビル・ジェームズが強く進言したため、急遽獲得に動いたと言う。この契約は後に、「レッドソックスは奇跡を捕まえた」と称された。

レッドソックス時代(2013年)

2013年レギュラーシーズンに、2010年以来トレードマークとしていたもみあげをさっぱりと剃りあげたこの年の上原は、序盤は、4月21日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で失点するまでの8試合、前年から続く22試合連続無失点を記録。6月9日のエンゼルス戦で与死球を記録したが、これがメジャー移籍後、183試合目、打者920人目にして初めての与死球であった。シーズン当初にクローザーを務めたジョエル・ハンラハンアンドリュー・ベイリー田澤純一が不調となったため、6月21日に上原が(4人目の)クローザーに指名された。上原は6月26日に指名後初セーブを挙げ、6月27日のブルージェイズ戦では、NPB/MLB通算50セーブを記録した。前半戦は44試合の登板で2勝0敗8セーブ、防御率1.70、WHIP0.76の成績を残し、MLBオールスターゲーム最終投票の候補に選ばれるまでとなった。8月13日のブルージェイズ戦でシーズン55試合目の登板に到達、翌年の契約オプションを更新した。日本人投手歴代最長の26試合連続無失点を記録し、34人連続アウトの球団記録も更新。13日も3人で抑えて記録を更新したが、次の17日のオリオールズ戦でダニー・バレンシアに三塁打を打たれ、犠飛で失点してシーズン初の負け投手となり、記録はストップした。連続アウト37人はメジャー史上10位(救援投手では2位)また同時に連続無失点試合は27試合、連続無失点イニングは30回1/3連続無失点を達成した。9月20日のブルージェイズ戦で20セーブ目を挙げてチーム6年ぶりの地区優勝を決め、MLBにおける日本人2人目の胴上げ投手となった。9月27日のオリオールズ戦では、救援投手では球団史上初となるシーズン100奪三振に到達。救援投手でのメジャー記録となるWHIP0.57を記録した。なお、このシーズンは73試合に登板した。シーズン途中からの抑え転向だったことでセーブ数こそ21と伸びなかったものの、救援投手ながらサイヤング賞投票でも10ポイントの票が入っていた。ディビジョンシリーズでは、本人が嫌な相手と語るタンパベイ・レイズと対戦。第2戦から第4戦に出場し2セーブを挙げたものの、第3戦では、同点の9回裏2死の場面で、途中から守備で入っていたホセ・ロバトンに39試合ぶりの被弾となるまさかのサヨナラ本塁打を打たれている。この打球はトロピカーナ・フィールド名物の「エイが入った巨大水槽」に叩きこまれ(球場史上3回目)、レイズの選手による初のタンクヒットとして記録された。リーグチャンピオンシップシリーズでは前年ア・リーグ王者のデトロイト・タイガースとの対戦となった。上原はこのシリーズの6試合中5試合に登板し、1勝0敗3セーブ4安打9奪三振無四球無失点という圧倒的数字で、リーグ優勝決定シリーズMVPに選ばれた。これは救援投手としてはマリアノ・リベラ(2003年)以来、MLB史上3人目の快挙であった。また、日本人では初の受賞でもあった。ワールドシリーズはセントルイス・カージナルスが相手で、両リーグの最高勝率

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出典:wikipedia
2018/08/15 04:10

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