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与謝野馨とは?

與謝野 馨
よさの かおる
2009年4月24日アメリカ合衆国財務省にて (70歳)

【生年月日】
(1938-08-22) 1938年8月22日
【出生地】
日本 東京府東京市麹町区
(現: 東京都千代田区)
【没年月日】
(2017-05-21) 2017年5月21日(78歳没)
【出身校】
東京大学法学部第3類卒業
【前職】
日本原子力発電社員
衆議院議員中曽根康弘秘書
【所属政党】
(自由民主党(志帥会→無派閥)→)
(たちあがれ日本→)
(無所属→)
自由民主党
【称号】
正三位
旭日大綬章
法学士(東京大学・1963年)
【公式サイト】
与謝野馨Official Web Site
第11代 財務大臣
内閣府特命担当大臣
(金融)

【内閣】
麻生内閣
【在任期間】
2009年2月17日 - 2009年9月16日
内閣府特命担当大臣
(経済財政政策少子化対策男女共同参画)

【内閣】
菅第2次改造内閣
【在任期間】
2011年1月14日 - 2011年9月2日
第74代 内閣官房長官
拉致問題担当大臣

【内閣】
第1次安倍改造内閣
【在任期間】
2007年8月27日 - 2007年9月26日
内閣府特命担当大臣
(経済財政政策)

【内閣】
福田康夫改造内閣
麻生内閣
【在任期間】
2008年8月2日 - 2009年7月2日
内閣府特命担当大臣
(規制改革)

【内閣】
福田康夫改造内閣
【在任期間】
2008年8月2日 - 2008年9月24日
その他の職歴

内閣府特命担当大臣
(金融経済財政政策)
(第3次小泉改造内閣)
(2005年10月31日 - 2006年9月26日)
第63代 通商産業大臣
(小渕内閣)
(小渕第1次改造内閣)
(1998年7月30日 - 1999年10月5日)
第121代 文部大臣
(村山内閣)
(1994年6月30日 - 1995年8月8日)
衆議院議員
(東京1区)
10回
(1976年12月10日 - 1979年9月7日
1980年6月23日 - 2000年6月2日
2003年11月10日 - 2012年11月16日)

與謝野 馨(よさの かおる、1938年昭和13年〉8月22日 - 2017年〈平成29年〉5月21日)は、日本政治家勲等旭日大綬章。通常は新字体与謝野と表記。

衆議院議員(10期)、衆議院議院運営委員長(第50代)、文部大臣(第117代)、内閣官房副長官通商産業大臣(第63代)、自由民主党政務調査会長(第46代)、内閣府特命担当大臣(金融経済財政政策規制改革男女共同参画少子化対策)、内閣官房長官(第74代)、拉致問題担当大臣(第2代)、財務大臣(第11代)、学校法人文化学院院長・理事などを歴任した。

来歴・人物

生い立ち

東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に与謝野秀与謝野道子の長男として生まれる。父・秀(しげる)は歌人与謝野鉄幹晶子夫妻の二男で外交官(戦前は外務省情報部長、調査局長などを経て在外公館勤務)。

生後すぐに父が北京に赴任し、0歳で北京に移る。日本に帰国した4歳の頃、祖母の晶子が死去している。祖父の鉄幹は馨が生まれる3年前に死去して会っておらず、晶子との思い出も殆どなく、祖父母は身内ではなく、教科書に載っている歴史上の人物であるような気がすると自身の著書で著している。父は戦時中にベルリンの日本大使館に勤務していたが、日本に残された家族の生活は困窮し、無賃乗車で母とともに交番へ連れて行かれたこともあったという。戦争末期に東京大空襲に遭遇している。港区立麻布小学校卒業後、麻布中学校に進学。

父がエジプト勤務になったときは、カイロ郊外・ヘリオポリスのイングリッシュスクールに編入学している。このころ、自分が敗戦国の国民であることを強烈に感じ、日本の文化・経済を一流にしたいという想いが生まれたという。その後、イギリスのオックスフォード大学への進学を目指し、一次試験までパスするが、考えを変えて日本に帰国。麻布高校に編入学し、平沼赳夫の同級生となる。東大受験に失敗するが、平沼によれば卒業式で表彰されるような優等生だった。駿台高等予備校(現駿台予備学校)で1年間の浪人を経て東京大学文科Ⅰ類に入学。いわゆる全学連世代だが、学生運動は一切関わらなかった。駒場時代は授業に失望して文学書を濫読。学生時代の記憶に残る本として有島武郎の「カインの末裔」、後々まで自分の思考に影響を与えた本として、碧海純一「法哲学概論」、団藤重光「刑法綱要」などを挙げている。硬式野球部に所属し、マネージャーを務める。このときの2年後輩に新治伸治がいる。

1963年東京大学法学部第3類(政治コース)卒業(三井住友銀行特別顧問の岡田明重は東大法学部の同期)。母の知人・中曽根康弘の紹介で日本原子力発電に入社する。日本原子力発電では、当初技術部に配属され、後に外交官となる今井隆吉係長の薫陶を受け、英語専門文献の翻訳なども手がけた。後に事務系に転じ、米国での資金調達や原子力保険といった金融業務に従事していた。

会社の命により、民社党核拡散防止条約に関する訪欧調査団に原子力の専門家・通訳として同行、スイス、ユーゴスラビア、イギリス、イタリア、ドイツなどを訪問した。調査団メンバーは後の委員長佐々木良作を始め曽祢益岡沢完治渡辺朗。与謝野にとっては政治家と深く関わった第一歩であり、こうした民社党の面々とは政界入り後も親しい関係が続くことになる。佐々木と共にドイツ滞在中に中曽根康弘と邂逅、2人の政治家の食事のお供などをしたが、このことが政界入りの直接の契機となった。中曽根とは就職の斡旋以来、勉強会などを通じて親交があったが、帰国後にやはり同じ勉強会のメンバーであった渡邉恒雄を通じて秘書にならないかと誘いを受けた。

政界へ

1968年日本原子力発電を退職し、中曽根の秘書となる。この頃読んだシュテファン・ツヴァイクの「ジョセフ・フーシェ」は愛読書の一つであり、著書などでフーシェに触れることが多い。

1972年12月の第33回衆議院議員総選挙旧東京都第1区から自由民主党公認で立候補するが落選する。この総選挙では、東大1959年入学同期3人(加藤紘一田中秀征、与謝野馨)の若手候補が立候補すると週刊誌に取り上げられた。1976年12月の第34回衆議院議員総選挙に東京1区から立候補し初当選。中曽根派に所属する。

1979年第35回衆議院議員総選挙で当時の大平正芳首相が打ち出した一般消費税による逆風を受け落選したが、1980年第36回衆議院議員総選挙で、日本社会党委員長飛鳥田一雄を抜きトップ当選し返り咲いた。以後、科学技術・通商産業関係を皮切りに、通商産業政務次官、自民党商工部会長、衆議院商工委員長などを歴任し、商工族、政策通として頭角を現す。中曽根派に所属しながらも、竹下派の実力者であった梶山静六の門下ともいうべき関係を形成。梶山は自身の国対委員長、幹事長、官房長官在任時に、与謝野をそれぞれ国対筆頭副委員長、議運委員長、官房副長官と常に身近において重用し続けることになる。

1994年、自民党が政権復帰した村山内閣(自社さ連立政権)で文部大臣として初入閣。1996年、自民党単独内閣となった第2次橋本内閣では、梶山内閣官房長官の下で内閣官房副長官(政務)に就任。通例なら長官とともに総理総裁派閥から起用されるポストだが、梶山の篤い信頼のもとで、他派閥ながら橋本政権を中枢で支えた。 1998年、橋本内閣の次の小渕内閣通産大臣に就任。通産大臣でありながら、所管外(法務省管轄)の通信傍受法成立に力を注ぎ、『噂の眞相』などに「盗聴法成立の黒幕」と批判された。

落選と小泉・安倍政権での活動

2000年6月の第42回衆議院議員総選挙民主党の現職・海江田万里に敗れ、重複立候補していた比例代表東京ブロックでも復活せずに落選する。自民党は民主党に都市部を中心に議席を奪われ、「1区現象」と呼ばれる事態に陥ったが、閣僚経験者で総裁候補とも目されつつあった与謝野の落選は、1区現象の象徴として大きく報じられた。与謝野の落選について小泉純一郎は後に、「(与謝野さんが)落選していなければ自分ではなく与謝野さんが総理になっていただろう」とも述べている。

浪人時代はCS放送「朝日ニュースター」を始めマスメディアにしばしば登場、その頃誕生した小泉内閣の構造改革に当初は批判的であったが、徐々に方針転換して改革にも一定の理解を示すようになったほか、復活を期した2003年の総選挙前に派閥を離脱した。これは当時所属派閥であった志帥会における亀井静香との権力抗争に敗北し、以前に亀井が所属していた清和政策研究会の小泉首相に接近する事情もあった。

2003年11月に第43回衆議院議員総選挙で選挙区では僅差で海江田に敗れたが、比例復活で3年ぶりの国政復帰し、その後は党の金融調査会長を務める。2004年自民党政調会長に就任し、小泉首相の進める郵政民営化に尽力し、2005年9月に行われた第44回衆議院議員総選挙で、海江田に比例区での復活を許さないほどの圧倒的な勝利を収め、5年前の雪辱を果たした。2005年に発足の第3次小泉改造内閣で、内閣府特命担当大臣(金融、経済財政政策)に就任する。2006年に小泉内閣の終わり近くに景気が少し持ち直してくると、消費者物価指数がマイナスにもかかわらず、量的緩和解除のゴーサインを出した。「デフレのほうが良い。インフレは絶対悪だ。だから物価上昇率がプラスになったら悪魔である」と語っていたという。

2006年9月26日に安倍政権が発足、安倍とは通信傍受法の成立にあたって協力したほか、財界との勉強会である「四季の会」を通じて親しい関係であるため、内閣官房長官として与謝野を起用する構想があったとされるが、与謝野の官僚寄りの姿勢を警戒して、小泉が待ったをかけたという。結局自民党税調会長(税制調査会会長)に就任したが、就任直後の10月に口内に痛みを覚えるなどしたため入院し、11月に税調会長を辞任して療養生活に入った。

2007年1月初旬に退院した後も自宅療養を続け、4月13日の衆院本会議に出席し政治活動を再開し、6月8日に発売された『文藝春秋』7月号に寄せた随筆「告知」にて、喉頭癌による入院だったことを公表した。

2007年8月27日発足の第1次安倍改造内閣において内閣官房長官(拉致問題担当大臣兼務)に就任。改造にあたって安倍は菅義偉の登用を模索したが、菅の事務所費問題から断念。その後は町村信孝の就任が確実視されていたが、最終的に与謝野を官房長官に起用した。

2007年9月12日、所信表明演説直後に突如安倍が辞任表明。その後安倍は体調不良で入院という事態となった。安倍が入院しても首相臨時代理は置かれなかったが、官房長官である与謝野が官邸を事実上仕切り、「与謝野官邸」と呼ばれた。同様に党務を仕切った幹事長の麻生とともに、麻生クーデター説のやり玉の一人に挙げられ、強く批判された(その後この説はデマと判明)。同年9月26日福田康夫内閣発足に伴い官房長官・拉致担当相を退任した。

福田・麻生政権での活動

2008年9月11日自由民主党総裁選挙での立会演説にて

福田政権では自民党税制調査会の小委員長に就任。政権の指南役として薬害肝炎問題の議員立法を提案し、解決に導くなど存在感を見せる。

10月の大連立構想で、かつての中曽根・渡邉との関係からある程度の動きはつかんでいたようである。自身も大連立に肯定的な発言をしているが、特に具体的な行動は起こさなかった。福田・小沢会談の直前に小沢と囲碁で対決し、メディアから大連立に関する話し合いが行われたと報道されたが、与謝野本人は大連立とは全く関係がないと主張している。

2008年2月20日、派閥横断型勉強会「正しいことを考え実行する会」(正しい議連)の活動再開を機に、同会に参加する。8月2日、福田内閣の内閣改造(福田改造内閣)により内閣府特命担当大臣(経済財政政策規制改革)に就任。経済財政担当相在任中、福田首相の辞任表明に伴う自民党総裁選挙に出馬。財政再建を訴えて2位につけ、麻生内閣では経済財政担当相に再任した。

2009年2月17日、財務大臣金融担当大臣中川昭一が辞任したことに伴い、その後任に指名されたため、与謝野一人で経済関連3閣僚を兼任することとなった。兼任は予算成立後に解かれる予定だったが、結局7月2日の閣僚補充で経済財政担当大臣に林芳正が任命されるまで続いた。同月、実施された東京都議選で自民党が敗れたことにより党内の麻生おろしが最高潮に達すると、重要閣僚でありながら麻生の自発的辞任を求める立場に立ったが最終的に麻生内閣のもとでの衆議院解散に同意した。第45回衆議院議員総選挙では再び民主党の海江田万里に2003年以来3度目の敗北を喫するも、比例代表で復活当選。9月4日と9月5日に開かれるG20財務相・中央銀行総裁会議は病気を理由に出席しない意向を示した。

同年9月16日、麻生内閣総辞職により財務相・金融担当相を退任した。

野党時代

自民党下野後は衆議院予算委員会に所属した。2010年2月12日の衆院予算委員会において、当時の鳩山由紀夫首相の偽装献金問題を追及し、鳩山を「平成の脱税王」と呼んだ。さらに、その弟で与謝野と当選同期の鳩山邦夫の「うちの兄貴はしょっちゅうのところへ行って子分に配る金、子分を養成する金が必要だと言って金をもらっていた」という発言を引き合いに出し、鳩山を厳しく追及した。

文藝春秋(2010年4月号)で自民党執行部を批判する記事を書き、同年4月3日総裁谷垣禎一と直接会談し、4月7日付で離党届を提出。会談で与謝野は谷垣に「自民党分裂とはとらないでください、大げさに感じないでください」と述べ、会談後も記者に「“自民党の分裂ではなく、一個人・与謝野馨が去ったということだと考えてほしい”と伝えた」と述べ、自身らの離党は自民党分裂ではないとした。4月10日の午前に「反民主・非自民を貫く」と述べ、結成を予定する新党は反民主の党であるとの認識を示し、4月10日午後、平沼赳夫園田博之らとともに、新党「たちあがれ日本」の結党を正式に発表した。しかし、そんな与謝野の思いとは裏腹に4月27日、自民党党紀委員会は政党票で当選した比例選出議員であることや新党結党首謀者として他の自民党国会議員(園田博之藤井孝男中川義雄)に対して新党結党のために自民党離党を促したことを反党行為として、賛成9票・反対3票で与謝野に対して除名処分が下った。

民主党政権入り

2009年4月24日アメリカ合衆国財務長官ティモシー・ガイトナー(左)と

2010年12月に民主党政権からたちあがれ日本の連立政権参加の打診を受けたが、与謝野が賛成する中で他5人が反対し、党内で孤立。2011年1月13日、平沼代表に離党届を提出、たちあがれ日本から離党した。翌1月14日、菅再改造内閣にて、内閣府特命担当大臣(経済財政政策男女共同参画少子化対策)に就任し、新設された社会保障と税の一体改革担当大臣も兼務した。1月19日に無所属議員として衆議院会派「民主党・無所属クラブ」に入会し、再び与党議員となった。

与謝野の民主党政権参加は、除名処分にした自民党など野党から強く批判をされている。与謝野はたちあがれ日本の離党において、「私は『打倒民主党』という言葉を使った覚えはない」と弁明しているが、朝日新聞2010年4月7日に掲載されたインタビュー記事では与謝野は「打倒民主党」という言葉を使っており、与謝野のHPにも掲載されている。入閣から7ヶ月前の2010年6月16日に衆議院本会議で菅内閣不信任決議に賛成票を投じている。

2011年9月、野田内閣発足に伴い経済財政政策担当大臣を退任。同月5日、衆議院会派「民主党・無所属クラブ」を離脱。無所属議員となった。

政界引退後

菅直人内閣での閣僚退任の後、体調を崩し2012年6月から約2ヶ月間入院。その間に咽頭がんの修復手術を受けたがその影響で声を失い、筆談での会話を余儀なくされた。声のリハビリなども開始していたが早期の回復は困難なため、9月5日になって第46回衆議院議員総選挙への立候補をあきらめ、政界からの引退を表明した。水面下で自らの地盤である東京1区から立候補を予定していた新人候補の山田美樹を支援する目的で自民党への復党を打診したが、党からは「節操がなくなる」とされ、復党は認められなかった。

2013年4月、「多年にわたり国会議員として議案審議の重責を果たすとともに、内閣府特命担当大臣等として国政の枢機に参画した」功労により、旭日大綬章を受章した。

声を失った与謝野は食道発声や電気式人工喉頭を試した後にがん研究会有明病院において気管食道シャント法と呼ばれる手術を受け、2013年暮れまでに声を取り戻している。

2017年4月30日に自民党の党紀委員会は、与謝野の近年の同党への貢献を評価して与謝野の復党を了承した。国会議員として自民党を除名された人物の復党は綿貫民輔に次いで2例目となる。

同年5月24日、関係者が与謝野の死去を明らかにした。78歳没。当初は死没日が遺族の意向で公表されなかったが、同年5月30日に開かれた自民党役員連絡会で二階俊博幹事長が21日と報告している。最終的に与謝野家と自民党による合同のお別れ会を開催するに至った。

日本国政府は、同年6月16日の閣議において、正三位に叙することを決定した。

政策

政界屈指の政策通という評判
商工族として地歩を築いたが、通信傍受法制定や人権擁護法案を巡っては法務省との折衝にあたるなど、法務族議員でもある。薬害肝炎訴訟では、法務省との調整に与謝野があたり、議員立法の私案を作成、2007年12月に福田康夫が政治決断する環境を整えた。与謝野は、官僚の作成した政策を説明できる能力に長けていることから、自民党時代から「政界きっての政策通」として評価されている一方、獨協大学教授の森永卓郎は「財政再建を優先する与謝野の主張は財務省の主張そのもの」と批判している。事実「経済書は日銀OBの吉野俊彦の岩波新書を一冊読んだだけだ」と告白している。安倍晋三は当初、安倍内閣発足時に与謝野を内閣官房長官に起用する人事を構想していたが、安倍周辺が与謝野の官僚寄りの姿勢を警戒し、官僚嫌いで知られる塩崎恭久が起用されるという経緯があった(後に与謝野は第1次安倍改造内閣で官房長官として入閣)。日本銀行国債直接引き受けについて、特別な事由がある場合、国会の議決を経れば可能であり、現時点でも日銀は年に10兆円程度の国債直接引受を実施しているにもかかわらず、「法律が禁じているため、不可能だ」と発言し復興増税を推進している。
議運・国対族の自負
その一方で国会対策や議院運営に関わるポストを多く歴任し、調整面は豊富な党内外の人脈を生かした政治の動かし方に長けているとの評価もある。本人も「梶山静六門下の議運・国対族」を自認するなど、調整型政治家としての自負を持っているという。
財政再建論者
かねてから経済成長(法人税の減税による国際間競争力の強化)だけでなく消費税増税による財政再建に言及している、財政再建派、増税派。正しいことを考え実行する会の会長も務めた。いわゆる霞が関埋蔵金の活用論に対しても批判的な立場をとり、上げ潮派と呼ばれる人達と対立する立場をとる。
規制再強化
規制緩和がすべて善であるという考えは持っておらず、タクシー新規参入日雇い派遣などによる賃金格差を問題視している。
中選挙区論者
小選挙区制廃止・中選挙区制復活論者でもある。
靖国神社A級戦犯分祀論者
首相の靖国神社参拝で、靖国神社が自発的なA級戦犯分祀を行えば解決するとの観点から「日中両国に実際に起きている問題について両方が満足感を得られる解決が必要だ」との考えを示している。
外国人参政権反対
永住外国人への地方選挙権付与に反対しており、自民党時代、在日韓国人をはじめとする永住者への地方選挙権の付与は違憲であるとの見解を示す論文を執筆した。
オープンソース導入推進
元通産相であり「e-Japan重点計画特命委員会」委員長であったことから、オープンソースの活用を積極的に推進しているとされる。「私はオープンソースを一所懸命やってきた人間」と自負しており、「OSSの推進は日本の競争力向上のカギ」と主張している。Microsoft Windows偏重の弊害を指摘しており、Linuxなど他の選択肢が存在することで競争が生まれ、結果的に利便性が向上するとの持論を展開している。
小渕政権時は通商産業大臣として広瀬勝貞嶋田隆らに指示し、TRONプロジェクトやLinuxの振興策の取り纏めを要請した。小泉政権時は党内のe-Japan重点計画特命委員会にて委員長に就任し、オープンソースの利便性を生かせる政府調達ガイドラインの設定を
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出典:wikipedia
2020/03/29 15:19

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