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世界恐慌とは?

1936年3月にドロシア・ラングカリフォルニアにおいて撮影した『移民の母』の一枚 。7人の子供を抱えて極貧生活を送っていたこの32歳の母親は、後年に フローレンス・オーウェンズ・トンプソンと判明した。
アメリカでは、大恐慌時に生まれた第二次世界大戦後のベビーブーマーの親にあたる世代の人々は、リスクを回避する傾向が非常に強いという調査結果が出ており、それは景気が良くなっても変わらず、一生続いたとされている。

世界恐慌(せかいきょうこう)とは、世界的規模で起きる経済恐慌(英語: world economic crisis/panic)である。ある国の恐慌が次々と他国へと波及し、世界的規模で広がる事象を世界恐慌という。

世界初の例は、クリミア戦争が終結した時に穀物価格が急落したことにより1857年に起こった1857年恐慌である。

戦間期に重要な位置を占めるものとして、通史的には1929年に始まった世界大恐慌をさす。大恐慌とも。この記事は通史でいう世界恐慌を述べている。

目次

  • 1 世界農業恐慌
  • 2 投資信託による大衆化
  • 3 1929年10月
  • 4 証券パニックから世界恐慌へ
  • 5 アメリカの経済政策
    • 5.1 古典派経済学とペコラ委員会
    • 5.2 住宅所有者貸付公社
    • 5.3 各地のスタンプ貨幣
    • 5.4 ニューディール始末
  • 6 アメリカを除いた各国の状況
    • 6.1 イギリス
    • 6.2 イタリア
    • 6.3 フランス
    • 6.4 ドイツ
    • 6.5 ソ連
    • 6.6 日本
    • 6.7 中華民国
  • 7 世界恐慌期の各国工業生産の推移
  • 8 世界恐慌前後の各国貨幣用金の分布状況の推移
  • 9 社会科学における解釈とその影響
    • 9.1 政治経済学
    • 9.2 経済学
  • 10 脚注
    • 10.1 注釈
    • 10.2 出典
  • 11 参考文献

世界農業恐慌

第一次世界大戦1920年代のアメリカは、大戦への輸出によって発展した重工業投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。合衆国では鉄道石炭産業部門でも過当競争が起こり、自然独占が進もうとしていた。もっとも原油生産量にかぎっては、恐慌の前後ともにメキシコを除いた全世界でおおむね単調増加したし、こと1921-29年にわたるベネズエラの増産はロシアペルシャを終盤で追い抜くものであった(シュルンベルジェを参照)。

そんな時代の入り口では土地の需要が逼迫した。合衆国では農地モーゲージ負債が増加して農業恐慌が深刻化した。1864年国法銀行法(National Bank Act 1864)は不動産抵当貸付を禁じていたが、連邦準備法(Federal Reserve Act)が条件付で認めた。5年を超えない期間で、改良されかつ抵当に入っていない農地を抵当にその担保評価額の半分を融資の上限とし、貸し手においては貸付総額が資本金および剰余金の1/4あるいは定期預金の1/3を超えないとするものであった。1913年6月から1923年6月の間に国法銀行の不動産抵当貸付は7700万ドルから4億6300万ドルに増加した。州法銀行の場合は元々16.2億ドルであったのが18.18億ドルに増えた。恐慌時、農地モーゲージ負債の約60%が北東中央部と北西中央部に集中した。1916年から1920年にかけて農地評価額がモーゲージ負債と共に上昇した。典型的な場合において、小作農は自作農に頭金を払い土地を購入、生命保険会社から農地評価額の半分を借りて、さらに商業銀行からも第二順位モーゲージとして借り入れ、自作農に残額を支払った。この第二順位モーゲージを組むときに小作農は農地評価額を越える負債を抱えることもあった。返済が進んでも毎期の利払額が減らなかったので、融資は5-6回も更新された。ここで農産物価格が低下した結果を示すと、1920年から1924年に農地モーゲージ貸付の債務不履行は29%に達した。競売が農地評価額を下落させた。売れないときは金利と租税支払を肩代わりした。そんな商業銀行が農地モーゲージから都市モーゲージへ撤退してゆき、連邦土地銀行(Federal Land Banks)と株式土地銀行(Joint Stock Land Banks)が30年以上の期間設定で農地モーゲージを担うようになった。これらの登場により生保が持ち直し、マクファーデン法(McFadden Act)が不動産抵当貸付総額につき定期預金の1/2へ規制緩和するまで、融資額を伸ばしつづけた。都市モーゲージなら大丈夫かと、相互銀行・商業銀行・生保・貯蓄貸付組合すべてが、1929年の証券市場暴落まで貸付残高を伸ばした。その経過において、生保が商業銀行から収益性不動産抵当貸付のシェアを奪っていった。次節の投信も手伝って、向こう見ずな設備投資が物とサービスの供給過剰をもたらした。都市モーゲージ貸付も債務不履行が増大した。1922-3年から1927-9年の間に抵当流れ率は5.2%から16.2%へ増加した。金融機関別では生保が特に割合が高かった。全体的には、都市モーゲージにおいても利払額が減らない貸付が抵当流れとなりやすかった。

投資信託による大衆化

ダウ平均株価の指数を表すグラフ

アメリカの株式市場1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。投資家は個人であっても株式等を担保とする信用取引により、容易に金銭を借金すことができた。株式分割だけでなく投資信託の普及も大衆の市場参加を加速させていた。投信会社等は持株会社を同一のグループに複数設けてレバレッジをかけるようなこともしていた。

イーヴァル・クルーガーサミュエル・インサル金融帝国ジャズ・エイジを演出していた。公共事業全体が投信の津波にさらわれたのである。1928年には生命保険会社も優先株への投資を認められた。翌年にかけての投信会社増加率がピークに達した。これが主な要因となり、ダウ平均株価は1924-29年の5年間で5倍に高騰した(最終年下半期込み)。

生命保険会社については前節モーゲージの保有主体として言及したが、述べたように優先株投資も可能となると、その金融活動は投資信託に限りなく近づいた。その原動力を知る手がかりは20世紀初頭からの動態にある。いわゆる三大生保が1906年のアームストロング法によりポートフォリオの強制解体に処されてJPモルガンクーン・ローブの軍門に下った。このプロセスを全て書くことはできないが、次の事件は注目に値する。1915年にデュポンが439万ドルの資金でJPモルガンに参加し、エクイタブル生命(The Equitable Life Assurance Society, 現アクサ)の経営に協力する意思表明を行い、1918年に相互組織への変更体制が整い、1925年には少数株の買い取りが完了して、エクイタブル生命は完全な相互会社となった。三大生保の再編成が進む間にメットライフプルデンシャル・ファイナンシャルが、デビットカードのもとになるデビットシステムを売りに台頭した。この振興二社は団体保険の八割強を占めるほど成長して、1928年に他8社を抱きこんだ保険料カルテルを実現した。同年に優先株投資の解禁された背景には、彼らの牽引する生保業界から当局に対する圧力があったのである。

経済史ではJPモルガンが有名すぎるために投信・生保の保有銘柄は電気事業関連が注目されがちである。しかしヴァイマル共和政の賠償支払を促すために化学工業を国際的に振興する仕組みができていたことも忘れてはいけない。クローズド・エンド型の投信会社にはデュポンのクリスティアナ・セキュリティーズ(Christiana Securities)、ベルギー系のソルベー・アメリカン・インベストメント、そしてIG・ファルベンインドゥストリーアメリカンIGケミカルといった、欧州と関係の深いものが存在した。クローズド・エンドの投信会社でレバレッジをかけているタイプは、1927年から保有銘柄を減らしてきていた。

1927年ジュネーブで行われた世界経済会議では、恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審議・採択された。商業では関税引き下げ、工業ではコストダウン目的の産業国有化、独占禁止と生産調整の国際協定、農業では方法の改良と資金の貸付について議論された。しかし、決議そのものは各国議会から無視されてしまっていた。1927年、合衆国での新外国普通株発行額はおよそ183億ドルであったが、翌年688億ドルに跳ねあがった。

前段に見るよう、投信や国際会議の事情通は一般大衆より対応が早かったようである。世界恐慌の兆しがフロリダにあった。そこは1920年代半ばから、空前の勢いで不動産への投機が流行し、泡のように土地の価格が上昇していた。1926年9月18日ハリケーンが襲い(1926 Miami hurricane)、翌月に第二弾が到来した(1926 Havana–Bermuda hurricane)。

それらは土地バブルをつつき割って、1927年に主な不動産会社を倒産させた。1928年フロリダで31件の銀行が倒産した。1929年には57件にも達した。市は公債だけで不動産事業を遂行しようとしていたが、財政的な裏づけというのが実は、ゴールドマン・サックスがつくったような投信ピラミッドに公共事業を連結させるという手法であった。目論見は自然災害で吹き飛んだ。

1928年ブラジルコーヒーの過剰生産による恐慌が起こった。南アメリカ投資のあった分は、1893年恐慌に類似する。

1929年10月

1929年6月からヤング案成立に向けてハーグで国際会議がスタートした。

1929年7月30日の報道によると、ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出しであった。記事によると請求されている資産のうち、およそ500万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命のときから不法に預けられているものである。

1929年8月9日、連邦準備制度公定歩合を6%に引き上げた。同年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、のちにジョセフ・P・ケネディは、ウォール街の有名な靴磨きの少年が、投資を薦めた事から不況に入る日は近いと予測し、暴落前に株式投資から手を引いたと述べた。

1929年9月26日、イングランド銀行が金利を引き上げ、アメリカの資金がイギリスへ流れた。

ニューヨークウォール街の群衆

そのような状況の下1929年10月24日(木曜日)10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出た。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。

シカゴバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺した者はこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(英語: Black Thursday)」と呼ばれた。翌25日(金曜日)の13時、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。

週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、更に10月29日、24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態となった。当日の出来高は1638万3700株に達し、株価は平均43ポイント下がり、9月の約半分になった。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になった。

10月29日(火曜日)は後に「悲劇の火曜日(英語: Tragedy Tuesday)」と呼ばれた。投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めた。1928年アメリカ市場の投信株の取引高は1万株しかなかったが、翌年に11万株を超えた。そして、アメリカ合衆国の経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も、連鎖的に破綻することになる。

過剰生産による、アメリカ工業セクターの設備投資縮小に始まった不況に金融恐慌が拍車をかけ、強烈な景気後退が引き起こされた。産業革命以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。しかし1930年代における世界恐慌は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった。

証券パニックから世界恐慌へ

1930年9月、国際連盟金委員会による報告書が公表された。

1930年10月、ブラジルでカフェ・コン・レイテに対する暴動とクーデターが起こり、ヴァルガス時代が到来した。

1930年12月、フランス植民地金融社Société financière française et coloniale (SFFC) が倒産の危機に瀕した。政府、インドシナ銀行ラザール・フレール、それにベルギー総合会社が育てたユニオン・パリジェンヌ、そしてオリエンタル・バンクをセイロンで苦しめた200家族ウォルムズ銀行が救済融資に動いた。 フランス植民地金融社は1920年にオクタヴ・オンベルグ(1876-1941)とラザール・フレールがつくった。 これの子会社には太平洋戦争勃発2週間ほど前、デュポン、BPERE で2016年を騒がせているエドモン・ロチルド、そしてヴァレリー・ジスカール・デスタンの父親エドモンが参加した。1949年末にフランス植民地金融社はSociété financière pour la France et les pays d'Outre-Mer (SOFFO) と名を変えて、アフリカのフラン基軸通貨圏におけるインドシナ銀行系列の基金として活動した。

1931年1月、ボリビアデフォルトした。そして他の南米諸国も次々と債務不履行に陥った。

同年5月11日オーストリアの大銀行クレジットアンシュタルトが破綻した。この銀行は1855年ロスチャイルド男爵により設立された。クレジットアンシュタルトは株価暴落に伴う信用収縮の中で突然閉鎖したという。東欧諸国の輸出が激減し経常収支が赤字となり、旧オーストリア帝国領への融資が焦げ付いたこと、加えて政府による救済措置が適切に行われなかったことが破綻の原因となった。3月の独墺関税同盟の暴露に対するフランス経済制裁により、オーストリア経済は弱体化していた。

クレジットアンシュタルトの破綻を契機として、5月にドイツ第2位の大銀行・ダナート銀行(「ダルムシュテッター・ウント・ナティオナール」)が倒産し、7月13日にダナート銀行が閉鎖すると、大統領令でドイツの全銀行が8月5日まで閉鎖された。ドイツでは金融危機が起こり、結果多くの企業が倒産し、影響はドイツ国内にとどまらず東欧諸国、世界に及んだ。金本位制の元で、経済危機はそのまま経済の根幹を受け持つ正貨(金)の流出につながる。7月のドイツからの流出は10億マルクイギリスからの流出は3000万ポンドだった。さらに数千万ポンドを失ったイングランド銀行1931年9月11日金本位制を停止し、第一次世界大戦後の復興でやっと金本位制に復帰したばかりの各国に衝撃を与えた。イギリスは自国産業保護のため輸入関税を引き上げ、チープマネー政策を採用した。ポンド相場は$4.86から$3.49に引き下げられた。ブロック経済政策は世界中に波及し、第二次世界大戦の素地を作った。

一般的には米国の株価暴落がそのまま世界恐慌につながったとされている。しかし、ベン・バーナンキをはじめとする経済学者は異なる見解を示している。以下枠内が内容であり、その事実認識は国際連盟からの報告に依拠している。

1929年のウォール街の暴落は米国経済に大きな打撃を与えた。しかし当時は株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内にとどまっており、当時の米国経済は循環的不況に耐えてきた実績もあった。不況が世界恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったためであった。(中略)暴落の後、米国には金が流入していたが、FRBはこれを不胎化させ、国内のマネーサプライの増大とは結び付けようとしなかった。これにより米国では金が流入しているにも関わらずマネーサプライが減少し続けた。その為金本位制をとる各国は金の流出を抑えるために金利を引き上げざるを得なかった。こうした国々はマネーサプライを増やすことができずに次々と不況に陥った。特に金本位制を取っていたドイツやオーストリアや東欧諸国は十分な金準備を持たず、また第一次世界大戦とその後のインフレにより金融システムが極めて脆弱な状態であった。その為、米国やフランスへの金流出により金準備が底をついてしまい、金融危機が発生した。

当時の米国大統領、ハーバート・フーヴァーの「株価暴落は経済のしっぽであり、ファンダメンタルズが健全で生産活動がしっかり行われている(ので大丈夫)」という発言は、一定程度真実であったが時遅く救いにはならなかった。

アメリカの経済政策

世界恐慌初期の取り付け騒ぎ時にニューヨークのアメリカ連合銀行に集まった群衆
アメリカ合衆国の経済史#世界恐慌: 1929年-1941年」も参照

古典派経済学とペコラ委員会

共和党フーヴァー大統領古典派経済学の信奉者であり、国内経済において自由放任政策や財政均衡政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。1931年クレディタンシュタルトの倒産を受けて6月からフーヴァーモラトリアムを施行した。合衆国内の銀行は9月に305行が、10月に522行が閉鎖した。9月中旬から10月末にかけてヨーロッパへ金が流出したが、連邦準備制度から出ていった金は総額7億5500万ドル相当であった。この年の純輸出5億ドル超を差し引いての結果であった。流出を防ぐために連邦準備制度は公定歩合を10月9日に1.5%から2.5%に、16日には3.5%に引き上げた。

1932年3月にペコラ委員会が発足し、やがてジャック・モルガンのインサイダー取引を暴いた。同年後半から1933年春にかけてが恐慌の底辺であり1933年の名目GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止した。家を失い木切れで作った掘っ立て集落は恨みを込めて「フーバー村」と呼ばれ、路上生活者のかぶる新聞は「フーバー毛布」と言われた。景気が底を打って、クローズド・エンド型もとい財閥の投信会社は、電力・ガス事業から資本を引揚げ、その保有銘柄を一般産業に分散し、結果として保有銘柄数を増やした。

住宅所有者貸付公社

連邦準備制度の成立から、中央準備市銀行のバンカーズ・バランスは対預金総額比を下げ続けていたが、横ばいとなる1920年代でも三割を維持した。1920年代に不動産抵当貸付を積極的に行った地方銀行と準備市銀行は、1933年2月取り付けに応じるためニューヨークのコルレス銀行から銀行間預金を大量に引き出した。ニューヨーク市銀行は一般の預金者による預金払い戻しに加えて、銀行間の引き出しも被ったのである。この金融システムに沿って、不動産抵当貸付を焦げつかせた銀行からニューヨークへ倒産が連鎖した。貯蓄貸付組合が保有する資産は流動性が低かったので、組合は商業銀行からのコールマネーで補っていた。1929年後半と1930年代初め、商業銀行は組合への短資供与を断るようになった。むしろ組合から貸しはがそうとした。組合はどんどん倒産した。相互貯蓄銀行は銀行間預金をあてにしなかったので小規模な倒産にとどまった。連邦住宅貸付銀行が設立されても不動産市場の崩壊は止まらなかった。そこで住宅所有者貸付公社(Home Owners' Loan Corporation)が創設された。寛大にも、公社は自社債を焦げついたモーゲージと交換した。もっとも債務者にとっては依然として毎期の利払が減らない方式であった。まさにこのころが非農地不動産抵当流れのピークであった。

各地のスタンプ貨幣

1932年10月、ハワーデン(Hawarden, Iowa)が代用通貨を発行した。これは取引するたび3セントの印紙を貼るスタンプ貨幣であった。モデルとなった本来の自由貨幣は周期的なスタンピングで減価し流通を促進するものであった。しかしハワーデンの代用貨幣は長く保有しても減価しないので消費させる仕組みを欠いていた。それでもアメリカで発行されたスタンプ貨幣は、使うときまで減価しないハワーデン方式を踏襲することが多かった。実施は短期間であったが、無担保貨幣でも信用次第で流通することを証明した。本来の自由貨幣はロングアイランドのフリーポート(Freeport, New York)で失業対策委員会が3種類の通貨単位で5万ドル分を発行した。元来の自由貨幣を導入することはカンザス・アイオワの州議会でも検討され、法律も整備された。

1933年2月18日、アラバマ出身のバンクヘッド上院議員(John H. Bankhead II)は、緊急のとき連邦政府も代用通貨の発行を認める法案を提出した。4日後インディアナ州の下院議員ピーテンヒル(Petenhill)も提出した。これらは実施されることがなかった。自由貨幣で年金基金を再建する計画もあったが(Ham and Eggs Movement)、州議会で否決された。本来の自由貨幣、支払うときだけスタンプが押される貨幣およびその他をふくむ緊急通貨を、アーヴィング・フィッシャーが理論的に支えていた。彼がディーン・アチソンに緊急通貨を後押しするよう打診した。しかしアチソンは地方分権につながることを危惧し、後述のルーズベルト大統領と協議した。1933年3月4日、ルーズベルトは緊急通貨を禁止した。

ニューディール始末

ニューディール政策によりアメリカの経済は一時的ではあるが回復傾向に転じた。写真は活気が戻りつつある1935年のニューヨーク

民主党フランクリン・ルーズヴェルトは、修正資本主義に基づいたニューディール政策を掲げ、1932年の選挙に当選し大統領となった。ルーズベルトは公約通りテネシー川流域開発公社を設立、更に農業調整法全国産業復興法を制定した。ニューディール政策はその後労使双方の反発があり、規模が縮小されるなどした。それでも記録的なものとなり、フーバー政権の1930会計年度の歳出予算は対GDP比3.4%程度だったが、1934年にルーズベルト政権は10.7%まで引き上げた。

農業調整法のトマス附属書は、大統領がマネーサプライを増やそうとするとき連邦準備制度の連邦公開市場委員会に30億ドルまで米国債を買わせることができるようにした。資金は財務省の発行するグリーンバックという政府紙幣であった(greenbacks)。これは金銀比価にルーズな金銀複本位制であった。欧州各国が第一次世界大戦で合衆国に負った債務の一定額を銀貨で弁済する便宜がはかられたのである。

1930年代後半には再び危機的な状況となった。多くの労働組合が賃金の切り上げを要求、実質賃金の切り上げ(ワグナー法)は他の大勢の労働者の解雇につながった。1936年、すでにインフレ傾向にあったことを警戒したFRBは金融引き締めに転じ預金準備率を2倍に引き上げた。米国の債務残高はGDP比40%という前代未聞の水準に達したため、ルーズベルト大統領とヘンリー・モーゲンソー財務長官は財政均衡に舵をきった。1936-38年にはGDP比5.5%の財政赤字を解消した。しかしこの1937年の財政支出大幅削減予算により1938年は不況になり、実質GDPは11%下がり失業率は4%上昇し、「ルーズベルト不況」と呼ばれることになる。アメリカのGDPは1936年に恐慌前の水準に回復したものの37年不況により再び34年の水準まで逆戻りして、1941年まで恐慌前の水準に回復することができなかった。ニューディール期間中財政支出赤字の対GNP比が10%を超えた年は2度である。アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。太平洋戦争が起こり、連邦政府はようやく見境のない財政支出を開始し、また国民も戦費国債の購入で積極財政を強力に支援した。1943年には赤字が30%を超えたが失業率は41年の9.1%から44年には1.2%に下がった。しかしダウ平均株価は1954年11月まで1929年の水準に戻らなかった。

アメリカを除いた各国の状況

世界恐慌時の各国の一人あたり国民所得

未曾有の恐慌に資本主義先進国は例外なくダメージを受けることになったが、その混乱の状況や回復の過程・速度については各国なりの事情が影響した。植民地を持っている国(イギリス・フランス)やアメリカは金本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自国通貨と産業の保護に努めたが、必ずしも成功しなかった。ソビエト連邦や日本、ドイツといった全体主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から脱したが、全体主義政党や軍部の台頭が宗主国諸国との軋轢を生んだ。この中で経済政策で対応し、かつ満州を経済圏として持った日本のGDP1934年に恐慌前の水準に戻った。

恐慌の発生以降も各国での通貨問題を解決するための多くの試みがなされたが恒常的な協調体制が構築されたわけではなく、結局外為相場の国際的調整は第二次世界大戦後のIMF設立を巡る議論の中に送り込まれることとなった。第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた軍縮と国際平和協調の路線は一気に崩れ、第二次世界大戦への大きな一歩を踏み出すこととなった。

イギリス

世界恐慌のあおりでシティ・オブ・ロンドンの債権は焦げついた。即座に短資が逃げ、イングランド銀行には兌換のため人が殺到した。ここで二つの報告書が提出され、ポンドの安定とシティの権威を揺さぶったのである。報告書の一つをマクミラン報告という。1929年、金融産業委員会(通称マクミラン委員会)が設置された。スコットランド出身の元裁判官であるマクミラン卿(Hugh Macmillan)が座長となり、英国の経済実態を精査して、ジョン・メイナード・ケインズを主筆に報告書を作成した。マクミラン報告は、シティの資本がイギリス国内の産業に振り向けられず海外投資へ傾いていたことを糾弾した。もう一つをメイ報告書という。1931年2月にメイ委員会が設置された。保険業界の重鎮であったジョージ・メイ(George May)が座長となり、財政収支展望と歳出削減案を提示することになったのである。作成されたメイ報告書が「抜本的な」歳出削減案の必要性を唱えた。世界の投資家と内外の世論が報告書に解釈を与えた。ポンドは国内へ投下されないから、この価格を伝統的なデフレ政策で支えても財政赤字を免れないというのである。金本位制の瓦解は時間の問題となり、空前の金流出がおこった。

労働党マクドナルド内閣失業保険の削減など緊縮財政を敷くがその政策から労働党を除名され、代わりに保守党自由党の援助を受けてマクドナルド挙国一致内閣を組閣する。それとほぼ同時期の1931年9月21日、ポンドと金の兌換を停止、いわゆる金本位制の放棄を行った。なおイギリスが金本位制の放棄を行ったのをきっかけに金本位制を放棄する国が続出、1937年6月にフランスが放棄したのを最後に国際的な信用秩序としての金本位制は停止した。

勢力にかなりの蔭りが出ていたイギリスでは広大な植民地を維持していくことができずウェストミンスター憲章により自治領と対等な関係を持ち、新たにイギリス連邦を形成した。イギリスはこれを母体にブロック経済政策を推進していくことになる。ただしインド帝国はブロック経済下でも東アジアと密接な経済関係にあったことが知られる。

イタリア

イタリア#敗戦まで」も参照

イタリアは元々第一次世界大戦直後から経済混乱に陥りミラノ株式取引所も不振が続いていたため、逆に世界恐慌の影響はほとんど受けず、多くのイタリア人は株価大暴落の知らせを聞いても、「ああそうか」というだけで今までどおり暮らしていたと言う。

1861年に統一されたばかりのイタリアは第一次世界大戦で領土を獲得できると期待していたが徒労に終わった。イタリアでは共産主義と国粋主義の対立が長引いていたが、ムッソリーニの組閣によりファシスト党の一党独裁が始まって以降、イタリアでは共産主義者の大半は国外に逃亡し、ストライキによる鉄道の遅延は解消された。ファシストは古代ローマの栄光を取り戻すことを目指していたが、現実のイタリアは荒廃しており、国民が豊かになるためのチャンスは他国へ移民することであった。ファシスト政権は公共土木工事と産業統制による中小企業の整理統廃合に注力し、政権は独身者への課税と母親への褒賞により出生率は向上した。

フランス

フランスは第一次大戦の賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日にルール地方を占領していた。フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。1924年6月、ガストン・ドゥメルグが大統領となった。1926年から翌年にかけて景気後退を示すような諸指標がみられたが、1927年春以降改善に向かい、フランスの工業生産は1930年まで上昇した。

1928

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出典:wikipedia
2018/10/17 20:36

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