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中嶋悟とは?

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
愛知県岡崎市
【生年月日】
(1953-02-23) 1953年2月23日(67歳)
F1での経歴
【活動時期】
1987-1991
【所属チーム】
'87-'89 ロータス
'90-'91 ティレル
【出走回数】
80 (74スタート)
【優勝回数】
0
【表彰台(3位以内)回数】
0
【通算獲得ポイント】
16
ポールポジション
0
ファステストラップ
1
【初戦】
1987年ブラジルGP
【最終戦】
1991年オーストラリアGP



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レース | サーキット
関係者



中嶋 悟(なかじま さとる、1953年2月23日 - )は、愛知県岡崎市出身の元レーシングドライバーで、有限会社中嶋企画代表取締役社長。身長165cm、体重60kg。血液型B型。

日本人初のF1フルタイムドライバーで、株式会社日本レースプロモーション(JRP)の取締役会長も務める。

経歴

生い立ち

愛知県岡崎市に、4人兄姉の末っ子として生まれる。生家は約300年続く農家。父親は、航空母艦「雲鷹(うんよう)」で艦載機の整備兵をしていた軍人で、兄たちが戦死したので農業を継いだという。

岡崎市立梅園小学校岡崎市立葵中学校を経て名城大学附属高等学校に進学。

レースデビュー

高校在学中にレーシングカートを始め、数戦のレースに参加し優勝も経験。高校卒業後に自動車運転免許を取得し、アルバイト先だったガソリンスタンドに就職。後に実兄が開業したガソリンスタンドに移り、そこで資金を稼ぎながら本格的なレース活動を開始する。1973年鈴鹿シルバーカップ第1戦でレースデビュー(決勝3位)。1975年にはFL500に参戦してシリーズチャンピオンを獲得。ただこの頃は慢性的な資金不足にあえいでおり、1976年にはレース活動を辞めようかとも考えていたという。ところが同年夏、鈴鹿サーキットで行われたGCレースに参戦するためのドライバーを探していた松浦賢の目に偶然留まったことが契機となり、当時「最強チーム」との呼び声の高かったヒーローズレーシングへの加入が実現する。

ステップアップ

1977年にはヒーローズレーシングより全日本F2000/鈴鹿F2000とFJ1300に参戦。特にFJ1300ではシリーズ全7戦でポールポジション、全周回トップという圧倒的な強さでシリーズチャンピオンを獲得する。1978年には全日本F2に参戦しつつ、イギリスF3にスポット参戦。鈴鹿サーキット限定で争われる鈴鹿F2選手権でチャンピオンを獲得した。

なお1978年はイギリスF3に参戦する関係で、シーズン途中にモータースポーツライセンス日本自動車連盟(JAF)発行のものからイギリスの王立自動車クラブ(RAC)発行のものに切り替えている。当時の全日本F2選手権では「外国ライセンスのドライバーはポイント対象外」との規定が設けられており、このため中嶋の後半2戦(第5戦・第7戦)の結果はポイント対象外となってしまった。この2戦で中嶋は共に2位に入っており、通常通りのポイントを獲得していたとすると同年の全日本F2でもチャンピオンを獲得していた計算になるため、一部メディアでは「幻のチャンピオン」と評されることがある。

国内トップカテゴリー

1979年には生沢徹が結成したi&iレーシングに移籍。ただしヒーローズレーシングから半ば強引に引き抜かれる形でチームを移籍したため、ヒーローズ側の圧力により当時の全日本F2で最強エンジンと呼ばれたケン・マツウラレーシングサービス チューンのBMWエンジンの供給を受けられず、同年と1980年の全日本F2では成績が低迷する。一方で1979年には富士GCシリーズでチャンピオンを獲得した。

1981年からは生沢の伝で、前年よりF2に復帰したホンダのワークスエンジンの供給を受けられるようになり、同年と1982年には全日本F2選手権・鈴鹿F2選手権でシリーズチャンピオンを獲得。1982年にはヨーロッパF2選手権にも参戦し、緒戦で2位表彰台を獲得するが、資金不足に悩まされ成績は下降した。生沢と関係が悪化し1983年にi&iレーシングから離脱。自らの会社中嶋企画を設立するため、破格の契約金を提示したハラダレーシングに移籍する。i&iでの中嶋のドライビングを高く評価したホンダからは引き続きワークスエンジンの供給を受けていたが、チーム体制がまだ成熟しておらず同年はチャンピオンを逃した。

1984年にヒーローズレーシングに復帰。そのときに「車体はヒーローズが提供し、資金は中嶋企画がまかなう」という当時としては前例のない契約形態をとった。この時点でBMW勢より優位となっていたホンダエンジン、中嶋のテクニック、ブリヂストンタイヤのパッケージは当時の全日本F2選手権シリーズを制圧し、以後1986年まで全日本F2選手権で3連覇を達成する。ただしホンダがエンジン供給しない富士GCシリーズでは依然としてケン・マツウラレーシングサービスチューンのBMWエンジンの供給を受けられず、劣勢であった。

F1テストドライバー

F1マシンの初ドライブは、1982年に全日本F2の一戦である「JPSトロフィー」で優勝した副賞として、当時JPSがメインスポンサーだったロータスのテストを行ったのが最初の機会だった。

その後、前述のホンダとの良好な関係により1984年からはホンダF1のテストドライバーを務めるようになり、当時ホンダがターボエンジンを供給していたウィリアムズのマシンをドライブするようになった。のちのF1デビュー後にはこの際の経験が生かされることとなった。

WECと国際F3000

1985年と1986年にはトムストヨタに乗りル・マン24時間レース世界耐久選手権(WEC)にも参戦。特に1986年の「WEC in Japan」(富士スピードウェイ)ではトムス・86C/トヨタを駆り予選トップタイムをマークしたが、「Tカーで記録されたタイムのためにタイムは無効」とされ、ポールポジションを獲得することはできなかった。決勝は9位。

1986年にはホンダのサポートを受け、全日本F2選手権への参戦の合間を縫って国際F3000にもフルシーズン参戦した。国内選手権との同時参戦という過密スケジュールでの参戦である上、初めてのコースや時差に戸惑いながらも堅実な走りを見せ、最高位4位(1回)を含む数回の入賞という結果を残した。

メーカーとの関係

フォーミュラカーではホンダとの強い結びつきがイメージされる中嶋だが、ワークス契約はしておらず、プロレーサーとしてホンダ一辺倒だったわけではない。

デビュー当初は、マツダディーラー碧南マツダの支援を受け、ファミリアサバンナRX-3などで多くのレースに参戦していた。また、全日本F2でホンダのワークスエンジンの供給を受け参戦するのと並行して、ロータスから技術供給、および資本提携していたトヨタがF1参戦の可能性があったこともあり、1980年のフォーミュラ・パシフィック(FP)やその後のル・マン24時間レース・WEC-JAPANなどでは、トヨタ系のマシンを数多くドライブしている。

一方で日産との関係は薄く、1979年のFPで星野一義の代役として数戦に出場した程度である。一説にはこのFP参戦時に長谷見昌弘チームオーダーの件で対立し、それが中嶋から日産を遠ざけた一因といわれている。しかし、中嶋本人は『ホリデーオート』誌上でフェアレディZを思い出に残る車にあげている(そのほか、引退した翌年にゲスト出演した「さんまのまんま」でもフェアレディZが愛車であったと語っている)。

※参考資料:『F1走る魂』(海老沢泰久著、文藝春秋)

F1時代

日本人初のフルタイムF1ドライバー

34歳にしてタイプリンス・ビラに次ぐアジア人として2人目、日本人初のフルタイムF1ドライバーになる。1987年の開幕戦(ブラジルGP)でロータス・ホンダよりデビューを果たし、1991年で引退するまでの5年間、ホンダと、F1初年度のチームメイトであったアイルトン・セナと共に、当時バブル景気で沸いていた日本にF1ブームを巻き起こした。

F1での生涯成績は、出走回数80回(決勝出走回数74回)、予選最高位6位(2回/1988年メキシコGP1988年日本GP)、決勝最高位4位(2回/1987年イギリスGP1989年オーストラリアGP)、ファステストラップ1回(1989年オーストラリアGP)、総獲得ポイント16点であった。

1987年

ロータス99T・ホンダ

1984年からホンダエンジンを搭載したF1マシンのテストドライバーをつとめた後に、この年の開幕戦であるブラジルGPにロータス・ホンダよりF1デビューを果たし、7位で完走した。この年は慣れないコースの上、99Tに搭載されていた新技術であったが、構造が複雑かつ信頼性が低いアクティブサスペンションの熟成不足に苦しめられ予選で6-7列目の中団に埋もれる場面が多く見られたほか、細かなマシントラブルに苦しめられたものの、4位1回、5位1回、6位2回の合計7ポイントを獲得し、グレーデッド・ドライバー(Graded Driver / 年間で複数回入賞したドライバーに与えられる名誉)の仲間入りを果たした。なおこの年のチームメイトは、後のワールドチャンピオン、アイルトン・セナであった。

F1では若いカーナンバーがチームのエース・ドライバーに与えられることが多いが、新人の中嶋がカーナンバー11、すでにF1での実績のあるセナがカーナンバー12であった(これはセナが1985年のロータス加入時にエリオ・デ・アンジェリスのセカンドドライバーとして12番をつけ初優勝を記録していたため気に入っていた。マクラーレンに移籍した1988年も12であった)。

4位に入賞したイギリスGPでは、ホンダエンジン車による1-4位独占の一角を占めたほか、地元の日本GPでも、ベネトンのブーツェンやファビ、ブラバムのパトレーゼらと終始争い「中嶋返し」や「大外刈り」と呼ばれる鈴鹿サーキット1コーナーでのアウト側からの追い抜きを2回も決めて6位に入賞した。

マシンに関しては、期待していたほどの成果を挙げることができなかったため、この年限りでアクティブサスペンションの実戦使用を中止した。だが長い期間アクティブサスペンション開発に注力してきたこともあり、パッシブサスペンションや空力、トランスミッション等の開発が立ち遅れ、翌年以降の低迷期へと繋がっていくこととなる。中嶋のマシンにのみ、シーズンを通じて車載カメラがテスト的に搭載されたが、このことがマシンのバランスを崩す結果となり、セナが2勝のトータル57ポイントに対して中嶋は7ポイントと差はかなり大きかった。

1988年

ロータス100T・ホンダ

初年度と同じくロータス・ホンダをドライブすることになったが、チームメイトは前年度のワールドチャンピオンでウィリアムズから移籍してきたネルソン・ピケに変わった。

この年はコースに慣れたこともあり、予選でピケに並ぶタイムを度々たたき出したほか、ターボエンジンが圧倒的な優位性を持つメキシコGPや、コースを熟知していた日本GPにおける予選6位など、たびたび予選トップ10に食い込む活躍を見せた。市街地コースで開催されたモナコGPとアメリカGPでは予選落ちを喫したが、決勝レースでもトップ10内フィニッシュを繰り返し、性能で上回るフェラーリを従えてのレースや、予選で前後に着くことが多かったウィリアムズベネトンと好バトルを繰り広げることが度々あった。しかしマシントラブルが原因のリタイアも多く、開幕戦のブラジルGPで6位に入賞した以降は入賞することなくシーズンを終えた。このシーズンもチームメイトとのポイント差が大きかった(ピケ20ポイントに対し中嶋は1ポイントのみ)が、上記のように主にマシントラブルによるものであった。

当時のロータスは中嶋をセカンドドライバーと明確に割り切っていたため、チームの中嶋とピケに対する待遇差は歴然としていたが、レース中にピケを上回ることもあった。なお、ベルギーGP序盤で6位走行のピケに対し、中嶋はピケより上位の5位を走っていたものの、ほどなくしてピケに抜かれるという場面があったが、この順位の入れ替えはチームオーダーによるものではなく、自らのシフトミスの結果であったと中嶋はドライビング・ミスを認めている。

日本GPでは、開幕前日に母を亡くすという最悪の精神状態であったものの、自身の予選最高位である6位を獲得。しかしポールポジションのセナとともにスタートでエンスト、大きく出遅れたものの鬼神の追い上げで入賞まで後一歩の7位まで挽回してみせた。

シーズン序盤に来季のロータスに対するホンダエンジンの供給停止が決定されていたため、この年限りでの中嶋のロータス離脱は決定的に見えた。実際、アロウズと交渉を重ね契約寸前まで行っていたが、それぞれのスポンサーの問題で最終合意には至らなかった。そしてロータスは、マシン開発に長けているだけでなくチームスタッフとの関係も良好な上、EPSONPIAAといったスポンサーを持つ中嶋との1年間の契約延長を行った。契約延長が発表された最終戦のオーストラリアGPで中嶋は初めてTカーを与えられたが、ロータスが中嶋に対してTカーを与えたのはこのレースが最初で最後であった。

1989年

ロータス 101・ジャッドを駆る中嶋悟。
(※:2011年日本GPのイベント走行にて。)

この年も引き続きロータスでドライブすることになったが、ホンダからのエンジン供給が止まったため、非力なカスタマー仕様のジャッドにエンジンが変わり、ワークスエンジンを持つトップ4チームに比べて明らかにマシンのポテンシャルは劣っていた。また、シーズン中にティックフォード・チューンの5バルブ仕様を投入する予定だったが、トラブルが頻発したため、実戦ではフランスGPで投入されただけに留まるなど、チームの混乱が続いた。

シーズン全般的に、ピケ・中嶋ともに予選、決勝ともに中位以降に沈む事が多かったが、チームメイトのピケはシーズン中盤に新型エンジンが投入されたことで、連続入賞を果たすなど戦闘力に劣るマシンながら元ワールドチャンピオンの意地を見せ、中嶋もイギリスGP、ドイツGPやポルトガルGPなどで好走を見せたこともあった。なお、昨年予選、決勝ともに中嶋が上位争いをしたシーズン中盤のベルギーGPでは予選初日に上位に顔を覗かせたが、結局ピケと共に予選落ちを喫する結果となった。エントリーしたマシンが全て予選不通過となったのは、長い歴史を誇るロータスのチーム史上初の屈辱であった。なお、この年の中嶋は既にモナコGP、カナダGPでも予選落ちを経験しており、これがシーズン3度目の予選不通過であった。

この年の中嶋とロータスにとって最大の見せ場となったのが最終戦のオーストラリアGPであった。中嶋は激しい雨が降る中、後方23位からスタートし、1周目にスピンし最下位まで落ちたものの、スピンやクラッシュで自滅するマシンも多い中で序盤から次々順位を上げ、レース中盤以降には、ワークスのルノーエンジンを搭載し、性能に勝るマシンで3位を走行するリカルド・パトレーゼウィリアムズルノーを追い回した。スリップストリームに入るとエンジンが(前のパトレーゼのマシンが巻き上げた)水煙を吸い込みミスファイアを起こすという症状が何度も起きたため、結局パトレーゼを抜くまでには至らなかった上に、時間制限により規定周回数前にレースが終わってしまったが、自身にとって初であり、同シーズンでロータスにとっても初のファステストラップを記録し、自己最高位タイの4位に入賞した。ファステストラップは2012年中国GP小林可夢偉が記録するまでの長い間、F1において唯一アジア人ドライバーが記録したファステストラップだった。

#「雨のナカジマ」」も参照

1990年

中嶋がデモ走行するティレル・019(2015年)

監督のピーター・ウォーがチームから去るなど体制が悪化するロータスに見切りをつけ、前年の夏よりアロウズティレルオニクスなど複数の中堅チームと移籍交渉を行い、最終的にはティレルに移籍することになった(なおピケもロータスを去りベネトンに移籍した)。ティレルもカスタマー仕様のV8エンジンを搭載するかつての強豪チームだったが、チームオーナーであり監督のケン・ティレル以下堅実に運営されているチームだった。

開幕前のへレステストでは走行中にリアウィングが脱落するアクシデントでひやりとさせたが、1990年序盤に使用したティレル・018はバランスが優れたマシンであり、開幕戦アメリカGPでウィリアムズのパトレーセやブラバムのステファノ・モデナとのバトルを経て6位入賞を果たした。新車019がデビューしたサンマリノGPはスタート直後にイヴァン・カペリと接触し、マシンが2つに折れる大クラッシュに会うが無傷で生還した。

その後、シーズン中盤では6連続リタイアを喫するなど、たび重なるマシントラブルに見舞われ、完走5回という完走率の低いシーズンとなった。ポルトガルGPでは発熱のため、初めて決勝レースを欠場した。それでも、イタリアGP日本GPで6位入賞し、3回の入賞で3ポイントを獲得した。019はF1に初めて本格的なハイノーズを導入した画期的なマシンであったが、中嶋は前年型である018のハンドリング特性をより好んでいた(「確かに018よりタイムは出るんだけど、019は018よりなんか乗りにくいんだよねぇ」と語る)。チームメイトのジャン・アレジはアメリカGP・モナコGPと2度の2位表彰台を含む3回の入賞を果たすなどセンセーショナルな活躍を見せ、1991年はフェラーリへ移籍することになった。

ケン・ティレルは中嶋にアレジのような一発の速さはないものの、レースを通じての安定した走りや、ロングランでのタイヤテスト・決勝用タイヤの皮剥きのための走行など、チームに不可欠かつ地味な作業を黙々とこなす点、そしてマシン開発能力やセッティング能力などに高評価を与えており。翌1991年もティレルに残留することが早くから決まった。

1991年

ティレル020・ホンダ

昨年に続きティレルでの参戦となった。マクラーレンに2年連続ダブルタイトルをもたらしたホンダV10エンジンがティレルに供給されることが決まり、前年以上の好成績を収めることが期待された。

シーズンが開けると、開幕戦アメリカGPで5位入賞と幸先よくポイントを獲得し、第3戦サンマリノGPでは予選トップ10からスタートし、エンジントラブルでリタイヤするまで4位を走行するなど好調な出だしと思わせた。しかし、シーズンが進むにつれてティレル・020の相対的な戦闘力は低下し、結局入賞はアメリカGPのみに終わった。

低迷の原因としては、フォード・コスワースDFR V8エンジンに比べ重くて大きいエンジンを積んだことからマシンバランスが悪化し、それを補うために導入された軽量トランスミッションが信頼性不足となり、トラブルが頻発した。また、V8のフォード・コスワース・HBエンジンを搭載するベネトンピレリタイヤの開発を主導したため、V10エンジンのパワーにマッチしたタイヤを手に入れられなかった。さらに、シーズン序盤にデザイナーであるハーベイ・ポスルスウェイトがチームを離脱したため、マシン熟成作業が遅々として進まなかったことも挙げられる。

また、中嶋自身も体力と視力の衰えに悩んでおり、第9戦のドイツGPにて、このシーズンを最後に引退することを発表した。前年のモナコGPでアレジが重いステアリングをねじ伏せながら縁石を乗り越えて走るのを見て、もう自分の出番ではないと思ったという。本当は1990年一杯で止めようと思っていたが、ホンダV10の供給が決まるなど、周りが止めさせてくれない雰囲気があったので、もう1年頑張ろうと思ったという。なお、引退発表直後に行われたドイツGP予選では、このシーズンで唯一チームメイトのステファノ・モデナより速い予選通過タイムを記録している。

その年の日本GPが行われた鈴鹿サーキットは「中嶋の母国ラストラン」を見届けようとする観衆で中嶋一色に染まり、日の丸とともに「ありがとう中嶋」などの横断幕がサーキットを埋めた。最後の鈴鹿で念願の表彰台が期待されたが、スタート失敗から7位まで追い上げたところで、ステアリングのトラブルにより車が曲がらず、S字でクラッシュしてリタイアという結果に終わった。マシンを降りた中嶋はファンに手を振りながらピットへ戻った。

引退レースとなった最終戦のオーストラリアGPは、くしくも4位入賞・ファステストラップを記録した2年前と同じ、雨のアデレード市街地サーキットとなったが、レース序盤にリアをスライドさせてマシンがコンクリートウォールにヒット。26台中最初のリタイヤとなり、ここで静かにレース活動を終えた。

ドライビング

「雨のナカジマ」

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この節の内容に関する文献や情報源が必要です。出典を明記するためにご協力をお願いします。(2015年8月)

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日本国内の各選手権で活躍していたころから雨のレースを得意とし、ファンからは「雨のナカジマ」と呼ばれていた。

ロータスでの最後のレースとなった、1989年の最終戦オーストラリアGP(アデレード市街地コース)では、予選に失敗し23番グリッドからのスタートとなったものの、大雨に見舞われチャンピオン争いを行うセナや1987年のワールドチャンピオンのピケなど多くの選手がクラッシュ。最終戦とあって年間順位がほぼ確定していることもあり、セナとチャンピオンを争っていたものの、ほぼチャンピオンを確定していたプロストは危険なずぶ濡れのコースで無理に走らず棄権する他、セナも前方が見えずブラバムマーティン・ブランドルに追突してリタイアするなど、最悪のコンディションの中、戦闘力の劣るロータス101・ジャッドで上位のマシンを次々と抜き去り、日本人ドライバーとして初の、そしてチーム・ロータスとしては最後のファステストラップを記録した。

残り10周を切った時点で、3番手を走るウィリアムズ・ルノーのリカルド・パトレーゼの直後に迫り、日本人F1ドライバー初の表彰台を期待されたが、エンジンの電気系統のトラブルで抜くことができず、また2時間ルール規定にも阻まれ、結局4位に終わっている。レース後、中嶋は担当エンジニアのティム・デンシャムと抱擁した。

後年、TVのインタビューで「なぜ雨のレースが得意なんですか?」との問いに「雨だと車が滑るけど、その分ハンドルが軽くなって操縦しやすくなるから、腕力が無い自分にとって雨のレースはチャンスだった」と答えている。また、「中嶋のマシンの挙動に対する感覚の高さが、車が滑りやすい雨のレースにおけるドライビングの巧みさの理由である」という評価も受けている。毒舌で有名なイギリスのBBCの名物解説者であり、それまで中嶋に対して高い評価を与えたことのなかった元ワールドチャンピオンのジェームス・ハントは、後の1991年シーズン前に「(パフォーマンスの高いホンダエンジンを搭載したマシンをドライブしても)中嶋が表彰台に登れるはずがない」とこき下ろしたものの「だが、全戦が雨で開催されるなら、話は変わってくる」とも語っていた。

その後の1991年のサンマリノグランプリでも上位が潰れる中、予選10位より一時4番手まで順位を上げ、マクラーレンのアイルトン・セナ、ゲルハルト・ベルガー及び3番手を走るステファノ・モデナと共にホンダエンジン搭載車が1〜4位独占かというところで駆動系トラブルによりリタイヤしたが、このときもレース前半はウエットコンディションであった。

評価

「スキルはあるが体力が無い」という主旨の発言をしたF1関係者は複数存在した。

ハーベイ・ポスルスウェイト

1991年当時直線とシケインで構成されていたドイツ・ホッケンハイムリンクでの予選(ドライ)でこの年初めてチームメイトのステファノ・モデナを上回った際、当時ティレルのテクニカルディレクターであったハーベイ・ポスルスウェイト

「 | 直線で一息入れられるサーキットではナカジマは速い | 」

また予選での走りを課題と指摘し、

「 | サトルは予選ではそれほどでもない。ところが決勝レースになれば、特に後半になればなるほどラップタイムがジャン(アレジ)と同じになるほど速くなる。マシンとタイヤを労わって走りレース運びがプロフェッショナルだ。だから予選でしくじって20番くらいになって、決勝でゴボウ抜きしても驚きはしない。彼にその能力があるのはわかっている。予選で4列目や5列目付近だと決勝で思わぬことに巻き込まれるから予選をこれからもっと頑張ってほしい。 | 」
ジェームス・ハント

イギリスBBCの解説者ジェームス・ハントはF1デビュー時の中嶋を低評価していたが、

「 | 1989年の雨のアデレードでのナカジマの走りは素晴らしかった。勇気とスキルが無ければああは走れない。それで感銘を受けて以後注意深く彼の走りを観察して感じたのは、彼には繊細なテクニックがあってもF1のワイドタイヤを振り回すだけの腕力が無いということに気付いた。実際に先日彼に直接話したら、彼はたどたどしい英語で丁寧にそのことを話してくれたよ。問題は腕力だ。 | 」
ネルソン・ピケ

ロータスで2年間チームメイトだったネルソン・ピケも近い見解を示しており、

「 | サトルはフィジカル・トレーニングもだいぶやっていたようだけど、F1のコーナリングスピードは年々速くなっているから肉体的にもずっと辛い思いをしてたんじゃないか。サトルは好きなサーキットがハッキリしているタイプなんだけど、ハードなブレーキングを必要としないサーキットではスムーズでとても良い走りをするよ。 | 」

と述べ、また長所も挙げて走りを評価している。

「 | サトルの走りは決して悪くないよ。みんなが思ってるよりずっとうまい。1988年にはコースも覚えて、中低速コーナーじゃ僕の方が速いけど、高速コーナーはサトルの方が速かったくらいだ。1987年に彼だけ全戦で車載カメラが付けられてたのは不幸だった。あのカメラに彼のアクシデントはすべて映っていてリプレイされたからつまらない事故を起こす印象が残ってしまったんだよ。 | 」

元ホンダF1監督の中村良夫のインタビューに対しては

「 | 中嶋はとても速いドライバーです。必要なのは、サーキットを早く覚えることです。サーキットを完全に把握するのにちょっと時間がかかるような
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出典:wikipedia
2020/09/18 19:51

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