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中川昭一とは?

中川 昭一
なかがわ しょういち
2006年1月 (52歳)

【生年月日】
1953年7月19日
【出生地】
日本 東京都渋谷区
【没年月日】
(2009-10-03) 2009年10月3日(56歳没)
【死没地】
日本 東京都世田谷区
【出身校】
東京大学法学部政治学科卒業
【前職】
日本興業銀行行員
(現・みずほ銀行)
【所属政党】
自由民主党(志帥会)
【称号】
正三位
旭日大綬章
衆議院永年在職議員
法学士(東京大学・1978年)
【配偶者】
妻・中川郁子
【親族】
祖父・中川文蔵(広尾町会議員])
父・中川一郎(衆議院議員・閣僚)
叔父・中川正男(広尾町会議員)
叔父・中川義雄(参議院議員)
【公式サイト】
中川昭一ライブラリ
第10代 財務大臣
内閣府特命担当大臣(金融担当)

【内閣】
麻生内閣
【在任期間】
2008年9月24日 - 2009年2月17日
第41代 農林水産大臣

【内閣】
第3次小泉改造内閣
【在任期間】
2005年10月31日 - 2006年9月26日
第3-5代 経済産業大臣

【内閣】
第1次小泉第2次改造内閣
第2次小泉内閣
第2次小泉改造内閣
第3次小泉内閣
【在任期間】
2003年9月22日 - 2005年10月31日
第27代 農林水産大臣

【内閣】
小渕内閣
小渕第1次改造内閣
【在任期間】
1998年7月30日 - 1999年10月5日
衆議院議員

【選挙区】
(旧北海道5区→)
北海道11区
【当選回数】
8回
【在任期間】
1983年12月19日 - 2009年7月21日

中川 昭一(なかがわ しょういち、1953年(昭和28年)7月19日2009年(平成21年)10月3日)は、日本政治家自由民主党に所属していた衆議院議員位階勲章正三位旭日大綬章学位法学士(東京大学)。

北海道5区小選挙区比例代表並立制導入後は北海道11区から選出され、2009年(平成21年)に落選するまで連続8期、衆議院議員を務めた。その間、農林水産大臣経済産業大臣財務大臣内閣府特命担当大臣(金融担当)を歴任したほか、党三役では自民党政務調査会長を務めた。また、超党派の北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟会長、日本会議相談役を務めた。

戦後昭和期に衆議院議員・閣僚を務めた中川一郎は父、中川の跡を引き継いで2012年(平成24年)に衆議院議員になった中川郁子は妻。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 父の死去と政界入り
    • 1.3 農林水産大臣
    • 1.4 小泉・安倍政権下
    • 1.5 福田康夫政権下
    • 1.6 麻生内閣
    • 1.7 議員落選
    • 1.8 急死
    • 1.9 死後
  • 2 政策
    • 2.1 農政
    • 2.2 経済
      • 2.2.1 国際財政・金融
      • 2.2.2 中国への警戒
    • 2.3 外交・安全保障
      • 2.3.1 対 中国
      • 2.3.2 対北朝鮮
      • 2.3.3 北方領土
      • 2.3.4 核兵器関連
      • 2.3.5 その他 安全保障
    • 2.4 教育・歴史認識
      • 2.4.1 教育論
      • 2.4.2 歴史認識
    • 2.5 その他 信条
      • 2.5.1 靖国神社
      • 2.5.2 朝日新聞
      • 2.5.3 ヤコブ病
    • 2.6 人権擁護法案
  • 3 人物
    • 3.1 人物像
    • 3.2 中川秀直との関係
    • 3.3 飲酒にまつわるもの
    • 3.4 朦朧記者会見
    • 3.5 バチカン美術館でのトラブル
    • 3.6 政治資金
  • 4 経歴
    • 4.1 略歴
    • 4.2 受賞・栄典
    • 4.3 所属していた議員連盟
  • 5 著作
    • 5.1 著書
    • 5.2 主な論文
  • 6 家族・親族
    • 6.1 中川家
    • 6.2 親戚
    • 6.3 略系図
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 参考文献
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

生涯

生い立ち

1953年(昭和28年)7月19日、東京都渋谷区宮代町(現在の渋谷区広尾)に北海道開発庁に勤務していた中川一郎と、その妻・貞子の長男として生まれた。本籍地は、北海道広尾郡広尾町。父一郎は、新婚間もなく東京に赴任していた。

新宿区立落合第一小学校から麻布中学校・高等学校に進学した。中学受験時、母・貞子は昭一を塾や家庭教師に頼らせず、参考書を用いての自学のみで合格させたという。麻布時代には、それまで行っていたサッカーを大学受験のために止めたが、心臓肥大を患うこととなった。家では護憲派の学者・宮沢俊義の話をし、父・中川一郎に激怒されたことがあるという。

現役生の頃に合格した慶應義塾大学経済学部へいったん入学したものの約1年間で退学、高校卒業から2年を経た1974年(昭和49年)、東京大学文科一類に再入学し、専門課程では、同大学の法学部政治学科政治学を学ぶ。

東大法学部卒業後の1978年(昭和53年)4月、日本興業銀行に入行、その後約5年間に渡って同行に勤めた。

父の死去と政界入り

1983年(昭和58年)1月、自由民主党衆議院議員在職中だった父・一郎が急死。

日本興銀を退職し、同年12月に行われた第37回衆議院議員総選挙に、自由民主党の公認を得て北海道5区から立候補した。弔い選挙となったこの選挙には、父・中川一郎の側近として秘書を務めていた鈴木宗男も立候補した。2人による後継争いは、マスコミから「骨肉の争い」ともいわれた。

この選挙で中川はトップ当選し、自由民主党の公認が得られなかった鈴木も下位で初当選した。就任後は自由革新同友会(旧中川一郎派)に所属、その後は清和会(福田赳夫安倍晋太郎三塚博派)→亀井グループ→志帥会(江藤亀井派→亀井静香派→伊吹文明派)と、農水系・保守派の議員として歩んだ。

1989年(平成元年)、農林水産政務次官に就任。

農林水産大臣

1998年(平成10年)に小渕内閣が発足すると、中川は農林水産大臣として初入閣し、その後小渕第1次改造内閣まで同職を務めた。

父・中川一郎は初代・農林水産大臣であり、農林水産省の銘板も父の揮毫によるものであったが、大臣就任後に初登庁した中川は、その銘板に向かって一礼し、「しっかりやれって親父が言っているみたいだ」との感想を述べた。

小泉・安倍政権下

2003年(平成15年)9月に組閣された小泉再改造内閣経済産業大臣に就任した。中国による東シナ海ガス田問題に対応した。帝国石油に試掘権を与えるなど、中国には強い姿勢で交渉を行っていた。同職には2005年(平成17年)10月まで留まった。中川は経済産業大臣の後に農水大臣を務めた。同内閣では一連の小泉改革に貢献するとともに、大臣としてはメキシコフィリピンとの自由貿易協定 (FTA) 締結などの成果をあげ、大韓民国を「ホワイト国」に認定した。中川は小泉純一郎からの信頼が厚く、小泉からファーストネーム(「昭一」)で呼ばれる数少ない国会議員の一人となっていた。

他方、小泉が進めた郵政民営化には賛成しながらも、平沼赳夫をリーダーとする郵政民営化法案への造反組に対しても半ば同情的だった。中川と平沼とは、銀行員時代からの兄弟のような間柄であり、初めて選挙に立候補した際には応援に駆けつけた。また、中川は2003年(平成15年)、それまで自身が務めていた拉致議連会長職に後任として就任するよう、安倍晋三とともに平沼に三顧の礼をもって打診した経緯がある。

2006年(平成18年)の自由民主党総裁選挙では、当時内閣官房長官だった安倍を支持し、安倍総裁誕生の後には同党政調会長に就任した。

2007年(平成19年)、政府税制調査会会長・本間正明愛人問題に際しては、「道徳の問題」と断じ、本間辞任への流れを作った。また、2007年度予算案の衆議院採決において、民主党解任決議案を多発して抗戦、多くの自民党議員がこれを「大義なき抵抗」と批判したのに対して、中川は「民主党は、本当に採決を阻止したいならもっと徹底的に抵抗するべきだった」という主旨の講演を行った。

同年8月の第1次安倍改造内閣人事ないし自民党役員人事では重要ポストへの起用が確実視されていたが、結果的には入閣や党重要役員への就任はなかった。

福田康夫政権下

2007年(平成19年)9月、首相・安倍晋三が健康問題等を理由に辞意を表明したことを受け、直ちに麻生太郎“首相”実現に向けての活動を開始した。直後に麻生と会談して支持を伝え、総裁選立候補のための推薦人の一人となった。選挙戦では麻生に同行し、他の応援議員らとともに東京・新宿駅前での街頭演説などにも参加したが、結果は福田康夫が勝利し、同月福田康夫内閣が発足した。

同月、所属派閥の領袖であった伊吹文明自民党幹事長に就任、中川が伊吹派(志帥会)会長代行を務めることとなった。その後中川は中曽根康弘らを講師として招いた政策勉強会を開催したほか、同年11月には、保守派の議員で集まる勉強会「真・保守政策研究会」を設立するにあたってのまとめ役を務めた。この会への参加者の多くは直前の総裁選における麻生の支持者であり、翌年の自由民主党総裁選挙において麻生が選出される原動力の一つとなった。

また、同月、中川は東トルキスタンの人権活動家・ラビア・カーディルと会談し、中国による東トルキスタンウイグル人弾圧に対する強い懸念を示している。

麻生内閣

2008年(平成20年)9月、首相・福田康夫の辞意表明に伴い、自由民主党総裁選挙が行われることとなった。直ちに中川は、福田政権下で自由民主党幹事長を務めていた麻生太郎への支持を明かし、所属派閥・伊吹派(志帥会)としても麻生支持が確認された。

選挙の結果、4人の対立候補を退けて麻生が当選。麻生内閣が組閣され、中川は財務大臣内閣府特命担当大臣(金融担当)に就任した。この頃、志帥会では、中川の兄貴分であった亀井静香や平沼赳夫が派閥から離れ、また、領袖の伊吹文明も総裁候補とは成り得なかったため、小泉内閣の5年間で一貫して党7役(広報本部長、組織本部長)や閣僚(経産大臣農水大臣)として重用され、安倍政権では引続き党三役(政調会長)、さらに麻生政権でも財務・金融担当大臣を務めることになった中川が、同派では今後の総裁候補として最有力と目されるようになっていた。

翌年2月、中川はG7財務大臣・中央銀行総裁会議出席のためにイタリアローマを訪れたが、この会議の後の記者会見における、呂律が回っていない、酩酊しているかのような姿が注目された。この様子は各メディアで大きく取り上げられ、猛批判を浴びることとなった中川は釈明を行ったが、3日後には大臣職を辞すこととなった(詳細は後述)。

議員落選

大臣辞職から約半年後の2009年(平成21年)8月、第45回衆議院議員総選挙が行われ、中川は現職選挙区であった北海道11区から再選を目指して立候補した。中川は謝罪回りに奔走するとともに、断酒宣言を行い、麻生や安倍らも応援のために選挙区入りし、民主党農業政策日本国旗への侮辱などを批判した。しかし、民主党の石川知裕(翌2010年1月に政治資金規正法違反で逮捕)に敗れ、比例北海道ブロックにおいて惜敗率3位に留まり、比例復活もならず落選した。同選挙では民主党が大勝して政権交代を実現、落選後の会見で中川は、「私には何の力もなくなったが、みなさんにご恩返しをしたい。」と述べた。

翌月中川は、自身のウェブサイトで、「今後新たに決意を持って進んでいきます。発信していきます。『日本が危ない』から」と記したものの、健康は優れず、腰痛風邪に悩まされるとともに、不眠症のため睡眠薬を服用する状況であったという。

急死

同年10月4日、東京都世田谷区の私邸2階の寝室で倒れているところを、郁子夫人によって発見された。東京消防庁による救急搬送先で死亡が確認されたが、実際の死亡日時は発見前日の10月3日と推測されている。56歳だった。死因について、その後遺族は弔問客に急性心筋梗塞と説明していたとされるが、実際の死因の特定は行政解剖の結果待ちとなった。同月27日、新たに発足した鳩山由紀夫内閣閣議において、中川に対する正三位および旭日大綬章の追贈を決定したが、その授与は同年10月3日付とされた。

産経新聞』と『十勝毎日新聞』は特集記事を組み、中川の死を悼んだ。法名は「青邦院釋昭尊」。郁子夫人と長女が「清い政治を貫いた」との意味を込めて命名、鎌倉の高僧の承諾を受けた。通夜告別式は2009年(平成21年)10月8日9日に東京都港区元麻布麻布山善福寺にて自民党と中川家の合同葬として執り行われ、元首相・安倍晋三、前首相・麻生太郎、当時の首相・鳩山由紀夫等多くの政界関係者も参列した。

告別式では、自民党総裁谷垣禎一が弔辞を述べた。続いて中川が所属していた志帥会(伊吹派)会長・伊吹文明の弔辞

日本、自民党にとって大きな損失。保守主義は、人間の作り上げた良き伝統的規範や自己抑制、矜持(きょうじ)に期待する政治思想。あなたの政治的無念を晴らすためにも、自民党は正しい保守のあり方を体系的に理解し、保守政党として国民の信頼を取り戻す努力を誓う。 — 伊吹文明

そして、友人代表・安倍晋三の弔辞と続く。「今日も、いつも通り“昭一さん”と呼ばせて頂きます」と始まり、

昭一さんは常にリーダーだった。自虐的な歴史観を正し、子供たちが日本に生まれたことに誇りを持てる教育に変えたい一心で教科書問題にも取り組んだ。困難な問題に立ち向かい、世の中を変えていく戦う政治家の姿を学んだ。
最愛の奥様と夢だったエジプト旅行に来週出発すると聞いていた。
郁子さんは昭一さんと の幸せな日々を胸に、中川家を守っていくと思う。 — 安倍晋三

同16日には、北海道帯広市の北海道ホテルにおいて「哀惜の会」が開催され、盟友であった麻生太郎が弔辞を述べた。

昭ちゃん。まさかあなたの弔辞を13歳も年上の私が読むことになろうとは。(中略)「政治家我が身無念と思えども、国の為なら本懐なり」。貴方にこの言葉を贈りたい。(中略)我々は、中川先生の遺志を継ぐ義務と責任がある。「死せる中川生ける保守を走らす」。これが貴方が最も望んでいることだろう。残された我々は、歯を食いしばって頑張る。 — 麻生太郎

死後

さらに、憲政記念館では追悼集会が行われ、約3000名が出席したほか、四十九日の法要には親族、関係者など50人以上が集まった。

四十九日法要の忌が明けた同年11月28日後援会組織「十勝連合後援会」が解散を決定、他の地区後援会も順次解散・縮小することとなった。同年末、中川のウェブサイトには、支持者に対する感謝の言葉が郁子(ゆうこ)夫人の署名で掲載されたが、2010年(平成22年)1月に、同ウェブサイトから発表された『故 中川昭一先生カレンダー2010』には、日本全国から大量の注文が殺到し、完売の後、追加受付が行われるほどとなった。

中川の死から3年後、2012年に行われた第46回衆議院議員総選挙で中川の妻・郁子が北海道11区から自民党候補で出馬。新党大地に鞍替えしていた石川知裕を破り当選した。

政策

アメリカ合衆国農務長官(当時)のマイク・ジョハンズ(左)と
2008年5月2日、アメリカ合衆国農務長官のエドワード・トマス・シェーファー(左)と

中川は、農政を中心に、郵政制度、放送電波政策、財政政策文教政策北方問題北朝鮮問題など幅広く政策に通じていた。

信条・政策を共有する国会議員である安倍晋三麻生太郎の「AA (ダブルエー)」は、中川を加えて「ANA」とも称された。さらに平沼赳夫を加えて「HANA(ハナ)」、または「花の会」、中川、麻生に菅義偉甘利明を加えて「NASA(ナサ)」とも呼ばれた。

農政

宇野内閣農水水産政務次官小渕内閣と小泉内閣で農林水産大臣と、農林水産行政のポストを歴任した中川は、典型的な農水族議員として知られた。

小泉政権下で経済産業大臣を務めた際にも、農業作物の輸出入にも関わる自由貿易協定 (FTA) 交渉に携わることになったが、ここでは農作物の輸入自由化に強固に反対する多くの農林族議員らの反発を抑えつつ、メキシコフィリピンとの協定合意に至った。

続く第3次小泉改造内閣では農林水産大臣に横滑りし、引続きWTOの通商交渉を行った。同職に在職中にはBSE(狂牛病)問題に直面する。2006年(平成18年)5月、アメリカ農務長官(当時)マイク・ジョハンズと会談した際、アメリカ国内で牛検査体制が縮小・中止となる動きを告げられた中川は「安全性よりもルールの問題。ルールも守れないのか」とアメリカを批判、同国産牛肉輸入再開に渡って日本側が要求する厳格な検査の継続を求めた。また、2008年(平成20年)5月にはアメリカを訪問し、農務長官(当時)エドワード・トマス・シェーファーとの会談では、同国産牛肉の輸入再開に対する懸念を示した。

2009年(平成21年)の衆議院選挙では、マニフェストに「日米FTA(自由貿易協定)の推進」と明記した民主党を批判、「民主党が政権を取れば十勝は壊滅する。それでもいいのか。これまで十勝を守ってこられたのは私だからだ」と訴えたものの、同党候補に敗れて落選した。また、同選挙の結果、民主党への政権交代が行われた。

経済

2008年10月10日 (EDT)、アメリカ合衆国財務省での先進7ヶ国財務相・中央銀行総裁会議にて(前列の右から3番目)
IMF専務理事のドミニク・ストロス=カーンと2009年2月14日

銀行勤務歴のある中川は、財政・金融に明るかった。小泉内閣での経済産業大臣や、麻生内閣での財務大臣内閣府特命担当大臣(金融担当)などを歴任し、住専問題や税制改正にも関わった。

経済産業大臣時代、政府系金融機関の統合問題では財務大臣(当時)の谷垣禎一とともに政策金融の重要性を訴え、首相小泉純一郎経済財政担当大臣郵政民営化担当大臣竹中平蔵(いずれも当時)と対立したことがあった。また、財界などが求める法人税減税には賛成の立場を取り、2兆円の法人税減税を提唱していた。

さらに、財務大臣職は、世界的な金融危機下となり、日本国内市場に対する危機回避策として、政府保有株の売却凍結・空売り規制強化・ドル供給オペ拡充・無制限のドル貸し出しなどを行った。

国際財政・金融

IMFへの緊急融資
財務大臣就任後間もない2008年(平成20年)10月、先進7ヶ国財務相・中央銀行総裁会議に出席した中川は、国際通貨基金(IMF)に新興・中小国向けの新たな緊急融資制度を設けることを提案、各国から高い評価を受けた。この「中川構想」には、ブラジルを始めとする中南米諸国が、これを歓迎することを公式に表明、その後実際にウクライナベラルーシパキスタンが、「中川構想」に基づく緊急融資を受けることで救済された。
翌2009年(平成21年)2月にはアメリカ合衆国財務長官ティモシー・フランツ・ガイトナーと会談、同国が検討する「バイ・アメリカン条項」に懸念を示したうえ、保護主義の排除で一致した。続いて行われたG7会議では、各国間での保護主義的な施策への牽制が日本主導で行われ、特に同会議の開催国であったイタリアのメディアがそれを高く評価した。麻生内閣はIMFへの緊急融資について、「IMFが市場で資金調達をするための担保として米国債を提供し、日本政府は財政負担なしに利益だけを得られる」と説明した。
日本からの資金拠出と高評価
日本は、新興・中小国の救済のために、IMFに外貨準備金の一部を拠出する取り決めに署名した。その額(1,000億米ドル)は、IMF加盟国による資金提供としては過去最大規模であり、IMF専務理事のドミニク・ストロス=カーンは、「日本による融資は、これまでの人類史上で最大規模のものだ」という謝意を表明した。

中国への警戒

2006年(平成18年)4月、当時の経済産業大臣親中派である二階俊博(前任の大臣は中川自身)による東アジア包括的経済連携協定(東アジアEPA)構想について、「これは中国の参加を想定しているが、2005年(平成17年)春に中国で起きた反日デモにおいて、一般人や民間企業が襲われたことの総括もできていない(状態では時期尚早)」と反対した。中川はまた、「日本は中国と経済連携協定締結の努力をするべきではない。なぜなら中国は日本国民の安全を保証できないからだ」とした。

同年6月、日本政府が凍結していた中国向け円借款の再開を決めたことについても中川は、「なぜ中国に対し、また援助するのか。正直言って分からない」と、親中的な政策に異議を唱えた。

外交・安全保障

外交や国家観においては保守本流を貫き、拉致問題解決のための積極的な活動でも知られた。

対 中国

経済産業大臣時代、中国との東シナ海ガス田問題では法的・理論的根拠を崩さず、帝国石油に初めて試掘権を与えた。中国が要求した共同開発についても、日中中間線より中国側でも日本の試掘を認めることを前提にするよう再三要求した。

2007年(平成19年)、「日本は後20年もすれば、中国の省になっているかもしれない」と発言、北京オリンピックを契機とした軍拡路線・経済

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出典:wikipedia
2019/09/22 23:11

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