このキーワード
友達に教える
URLをコピー

中日ドラゴンズとは?

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2013年1月)
 | 
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2016年7月)

中日ドラゴンズ
会社名 株式会社中日ドラゴンズ
創設年度 1936年
ロゴデザイン

所属リーグ

セントラル・リーグ


歴代チーム名

本拠地
ナゴヤドーム(愛知県名古屋市東区)
(パノラマ写真)

収容人員 36,650人(ナゴヤドーム、プロ野球開催時)
フランチャイズの遍歴

永久欠番


獲得タイトル
アジアチャンピオン(1回)

2007


日本一(2回)

リーグ優勝(9回)


成績(タイトル以外)
アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)

2007


日本シリーズ出場(10回)(太字は勝利した年)

クライマックスシリーズ(6回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

3勝3敗




球団組織
オーナー 白井文吾
運営母体 中日新聞社
監督 森繁和

中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ、英語: Chunichi Dragons)は、日本プロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。

愛知県保護地域とし、同県名古屋市東区にあるナゴヤドーム専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は同市中川区にあるナゴヤ球場である。

目次

  • 1 球団の歴史
    • 1.1 1リーグ時代
    • 1.2 セ・リーグ加盟
    • 1.3 第1次天知監督時代
    • 1.4 野口監督→第2次天知監督時代
    • 1.5 杉下監督時代
    • 1.6 濃人監督時代
    • 1.7 杉浦監督時代
    • 1.8 西沢・水原監督時代
    • 1.9 与那嶺監督時代
    • 1.10 中監督時代
    • 1.11 近藤監督時代
    • 1.12 山内監督時代
    • 1.13 第1次星野監督時代
    • 1.14 第1次高木監督時代
    • 1.15 第2次星野監督時代
    • 1.16 山田監督時代
    • 1.17 落合監督時代
    • 1.18 第2次高木監督時代
    • 1.19 谷繁監督時代
    • 1.20 森監督時代
  • 2 所属選手・監督・コーチ
  • 3 チーム成績・記録
    • 3.1 試合、勝敗、勝率に関する記録
    • 3.2 その他の記録
  • 4 歴代本拠地
  • 5 チームの特徴
  • 6 チームスローガン
  • 7 応援スタイル
    • 7.1 2013年まで
    • 7.2 2014年以降
    • 7.3 ジェット風船
  • 8 デザイン
    • 8.1 球団旗の変遷
      • 8.1.1 名古屋軍時代
      • 8.1.2 中部日本ドラゴンズ - 名古屋ドラゴンズ時代
      • 8.1.3 第2次中日ドラゴンズ(現在の中日ドラゴンズ)時代
    • 8.2 ロゴマーク
    • 8.3 ユニフォームの変遷
      • 8.3.1 名古屋軍・産業軍時代
      • 8.3.2 中部日本軍 - 中日ドラゴンズ(1954年 - 1959年)時代
      • 8.3.3 中日ドラゴンズ(1960年 - 現在)時代
        • 8.3.3.1 1960年 - 1968年
        • 8.3.3.2 スカイブルー基調ユニフォーム使用時代(1969年 - 1986年)
        • 8.3.3.3 ドジャース型ユニフォーム使用時代(1987年 - 2003年)
        • 8.3.3.4 落合監督時代(2004年 - 2011年)
        • 8.3.3.5 第2次髙木監督時代(2012年 - 2013年)
        • 8.3.3.6 谷繁監督時代(2014年 - 2016年)
        • 8.3.3.7 森監督時代(2017年 - )
  • 9 歴代監督
  • 10 永久欠番
  • 11 マスコット
    • 11.1 球団マスコット
    • 11.2 関連マスコット
  • 12 チア・ドラゴンズ
  • 13 主な歴代の球団歌・応援歌
    • 13.1 球団歌
    • 13.2 応援歌
  • 14 主なキャンプ地
    • 14.1 現在
    • 14.2 過去
  • 15 主催する地方遠征について
  • 16 放送
    • 16.1 関連番組
    • 16.2 放映権
      • 16.2.1 概要
      • 16.2.2 ラジオ
      • 16.2.3 テレビ
      • 16.2.4 インターネット
  • 17 スポンサー
  • 18 キーワード
    • 18.1 延長28回
    • 18.2 変則ダブルヘッダー
    • 18.3 長嶋茂雄の引退試合と優勝パレード
    • 18.4 ケビン・ミラー問題
    • 18.5 ドミニカ共和国とのつながり
    • 18.6 選手全員の出場選手登録の抹消
    • 18.7 一部中日ファンらによる広島戦での原爆煽りの悪質な野次
  • 19 関連書籍
  • 20 脚注
    • 20.1 注釈
    • 20.2 出典
  • 21 関連項目
  • 22 外部リンク

球団の歴史

株式会社中日ドラゴンズ
CHUNICHI Dragons Company, Limited
種類
株式会社
【本社所在地】
日本
460-0008
愛知県名古屋市中区四丁目1番1号
(中部日本ビルディング)
【設立】
1936年1月15日
(名古屋軍として設立)
業種
サービス業
法人番号
1180001037972
【事業内容】
日本プロ野球興行事業、野球振興事業、商品企画販売イベント事業など
【代表者】
オーナー 白井文吾
代表取締役社長 矢野博也
球団代表 西山和夫
【主要株主】
中日新聞社
【外部リンク】
中日ドラゴンズ
特記事項:1960年2月に株式会社中日ドラゴンズに商号変更。

1リーグ時代

横浜に大リーグ選抜軍が来日した1934年読売新聞社大日本東京野球倶楽部を日本のプロ野球球団として結成。それから遅れること2年、1936年1月15日新愛知新聞社を親会社として名古屋軍(なごやぐん)が誕生した。河野安通志を総監督 (ゼネラルマネージャー) に迎え、池田豊が監督に就任。明治大学中根之、アメリカ人で捕手バッキー・ハリス、内野の名手・芳賀直一、日系アメリカ人の高橋吉雄、主将の桝嘉一、スローボーラー・森井茂らが初期メンバー。上述のメジャーリーグ選抜軍来日時に、読売新聞社社長・正力松太郎が新愛知新聞社の田中斎に名古屋でのプロ野球球団結成の働きかけを行ったのが球団誕生の契機。新愛知新聞社傘下の國民新聞社でも大東京軍を結成。当初、読売の正力松太郎が推し進めていた日本職業野球連盟(現在の日本野球機構の源流)とは別個に、独自リーグの大日本野球連盟を組織して各地に同様の球団を4球団結成し、配下には3Aに相当する下部組織を作るなどの、当時としては先進的な構想を抱いていたが頓挫。結局、上記の既存の2球団が正力が設立した日本職業野球連盟に加盟することとなった。当初の商号は名古屋軍が株式会社大日本野球連盟名古屋協会、大東京軍が株式会社大日本野球連盟東京協会であり、大日本野球連盟構想の名残が見られる。2月5日、日本職業野球連盟が結成された。

1937年、河野が球団を去りイーグルスを結成すると、中根、ハリス、高橋らが後を追い、池田も混乱を嫌って監督を辞職。後任監督は桝嘉一。主力が抜けたことでチームは低迷し、慢性的な選手不足の戦前職業野球において、大沢清西沢道夫松尾幸造村松幸雄など好成績を残す選手が隙無く台頭したが、チームの総合力は東京巨人軍や大阪タイガースに及ばなかった。

1942年、戦時下の新聞統廃合令でこの球団の親会社である新愛知新聞社と1940年まで活動した名古屋金鯱軍の親会社である名古屋新聞社が統合し、中部日本新聞社が発足。合併に伴う本社人件費の増大により球団経営見直しの声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。また、新聞社の営利事業兼営が認められなくなったため、中部日本新聞社取締役の大島一郎(旧新愛知新聞社の創業家出身)が個人的に出資して1943年のシーズンを終えることはできたが、大島個人の財力には限界があり、名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、1944年2月5日に球団を理研工業(旧理化学研究所を母体とする理研コンツェルンの一企業)の傘下に入れ、選手を同工業に就職させた。球団名を産業軍(さんぎょうぐん)に改称し、選手は工場で勤労奉仕をする傍ら試合を行った。名古屋軍の選手も他球団同様例外なく多くが兵役に駆られ、神風特攻隊で戦死した石丸進一をはじめ、戦禍に散った。

1945年11月、大島が球団スポンサーに再度就任し、1946年2月1日のリーグ戦再開に伴って中部日本新聞社が経営に復帰。株式会社中部日本野球倶楽部を設立し、球団名を中部日本(ちゅうぶにっぽん)として再出発。球団愛称中部とした。同年、現役遊撃手の杉浦清が監督に就任し、球団史上初の選手兼任監督となっている。

1947年のニックネーム導入にあたり、3月10日当時のオーナーだった杉山虎之助(中部日本新聞社社長)の干支であるの英訳「ドラゴン」から球団名を中部日本ドラゴンズ(ちゅうぶにっぽんドラゴンズ)に改称し、服部受弘が野手に投手に大車輪の働きをみせて戦後すぐの球団を支え、2位に終わる。しかし、オフの11月1日付で解雇された赤嶺が退団すると、赤嶺を慕う加藤正二古川清蔵金山次郎小鶴誠ら11選手も退団し、藤本英雄も巨人に復帰。またしてもチーム力が低下。退団した赤嶺一派は各球団を渡り歩き、赤嶺旋風と言われる混乱を巻き起こした。

1948年に、球団名を中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ)に改称。オフに木造の中日球場が完成。翌シーズンより球団初の本拠地として使い始めた。1949年天知俊一が監督に就任し、杉下茂が入団。西沢道夫が打者として中日に復帰。1949年シーズンオフ、日本プロ野球はセントラル・リーグパシフィック・リーグに分裂、2リーグ制となり、中日はセ・リーグに所属することになる。

詳細は「プロ野球再編問題 (1949年)」を参照

セ・リーグ加盟

1950年

5月25日大リーグに倣い球団と球場を同一経営することとなり、中日球場を経営していた株式会社中日スタヂアムに合併され、商号が名古屋野球株式会社となり、この年は8球団中2位に終わる。

1951年

この年西日本パイレーツが、パ・リーグの西鉄クリッパースに吸収合併されたことでセ・リーグは、7球団体制になる。1月25日、名古屋野球株式会社から株式会社名古屋野球倶楽部が分離。2月6日より名古屋鉄道(名鉄)が球団経営に参加し、球団名も名古屋ドラゴンズ(なごやドラゴンズ)に改称。名鉄と中日新聞が隔年で経営することとなり、この年は名鉄が経営を担当。8月19日に試合中の火災で全焼した中日球場(中日球場で予定されていた残りの試合は鳴海球場などに変更して行われた)は、オフに鉄筋コンクリートで再建された。この年は、優勝した巨人に大差をつけられての2位。

1952年

中日新聞社が経営し、巨人・大阪との優勝争いの末、僅差で3位に終わる。

1953年

名古屋鉄道が経営し、大洋ホエールズ松竹ロビンスが合併し、セ・リーグは6球団体制となる。このシーズンは3位に終わる。

第1次天知監督時代

1954年

前年12月19日に今後は中日新聞が球団経営を行うと決定していたのを受け、1月14日に株式会社中部日本野球協会に商号を変更して、球団名も中日ドラゴンズに戻した。1月30日には、名古屋鉄道が球団経営から撤退した。

監督は、天知俊一が3年ぶりに復帰した。天知監督は選手からの人望が篤く、監督を親分に見立て「天知一家」と俗称された。西沢道夫・杉山悟・杉下茂・石川克彦らが主力となり、活躍した。7月25日、大阪球場での対阪神戦は、観客が球場に乱入し、放棄試合が宣告された。8月31日、中日球場の巨人戦はNHKがテレビで初の中継をした。10月19日に2位の巨人が敗れたことで初優勝達成。その日は東京遠征の移動日であり、監督・選手らは横浜駅到着後、電報で優勝を知ることとなった。この年の観客動員は109万7千人で、球団史上初めての100万人を突破している。日本シリーズでは、西鉄ライオンズを相手に4勝3敗で初の日本一達成。しかし、この年のオフに天知は体調不良を理由に監督を退任し、中日球団の副代表に就任した。

野口監督→第2次天知監督時代

1955年

選手兼任監督として、野口明が就任したが、優勝した巨人と15ゲーム差の2位。

1956年

優勝した巨人・2位の大阪と僅差で3位。

1957年1958年

1954年に日本一に導いた天知俊一が監督に復帰したものの、3位が続いた。1958年オフ、この年の選抜高校野球大会において83奪三振で奪三振の大会記録を作った板東英二が入団。

杉下監督時代

1959年

エース杉下茂が監督に就任。球団の方針により30歳以上の選手が全員解雇となり、杉下も選手兼任が認められなかった。同時に西沢道夫の15番と服部受弘の10番が永久欠番に制定される。 伊勢湾台風による中日球場水没で公式戦の一部を他会場に振り替える。伊奈努児玉泰大矢根博臣ら若くて威勢のいい投手陣に、野手は捕手で入団した新人の江藤慎一を一塁で起用、入団2年目の前田益穂を三塁や遊撃に抜擢した。この年は、優勝した巨人と10ゲーム差、大阪と同率の2位。

1960年

2月に商号を株式会社中部日本野球協会から株式会社中日ドラゴンズに変更。投手陣が崩れ、優勝した大洋と9ゲーム差の5位。杉下監督は退任し、大毎に移籍した。

濃人監督時代

1961年

濃人渉が監督に就任し、ブリヂストンタイヤより入団した新人・権藤博の活躍で巨人に1ゲーム差と迫るが惜しくも2位。

1962年

日本プロ野球で初めて、元大リーガーのドン・ニューカムラリー・ドビーを入団させるが3位。

杉浦監督時代

1963年

優勝した巨人と2.5ゲーム差の2位。全球団に勝ち越しながら優勝を逃したのはセ・リーグ初。

1964年

開幕カードとなった大洋3連戦で30失点したのが響き、3月の9試合を2勝7敗と開幕ダッシュに失敗。以降も立ち直れず、2リーグ分立後初めてとなる最下位に終わる。なお、同シーズン途中からは西沢道夫が監督を務めた。

西沢・水原監督時代

1965年-1967年

西沢監督の下で3年連続2位と健闘する(1967年に西沢が監督を途中休養し、近藤貞雄が監督代行を務めたが2週間ほどで復帰)。

1968年

キャンプイン直前に西沢監督が十二指腸潰瘍の悪化により辞任、杉下茂が監督に復活。4月20日から5月1日まで9連勝するが翌日から8連敗を喫するなどチーム状態が安定せず。5月16日、ノースリーブユニフォームが登場した阪神戦で連敗が止まるが、5月29日から11連敗。6月12日に止まったものの翌日から連敗。3回目の7連敗となった6月24日に杉下監督が解任。本多逸郎二軍コーチが監督代行となるものの8月24日から再び11連敗を喫するなど立ち直る気配が見られず、2リーグ分立以降初めて同一リーグの全球団に負け越しての最下位となる。オフに元巨人東映監督の水原茂が監督に就任。ドラフトでは1位で星野仙一、3位で大島康徳、6位で竹田和史、9位で島谷金二と、後に1974年の優勝に主力として活躍する選手を獲得。

1969年-1971年

1969年から元巨人の水原茂が監督就任するが4位→5位→2位と今ひとつ伸びなかった。しかし水原監督下で育った選手が1972年以降大きく開花し、1974年の優勝につながっていく。

与那嶺監督時代

中日スタヂアム時代のナゴヤ球場は中日新聞社の関連会社・株式会社中日スタヂアムが運営していたが、1970年代頃からほかの事業がうまくいかず経営が悪化。1973年に社長が三重県の志摩海岸で自殺していたのが発見され、倒産していたことが発覚(倒産後発生した同社の不渡手形をめぐる恐喝・殺人事件については中日スタヂアム事件を参照)。当時東海地方に主催試合を行える球場がなかったためたちまち本拠地消失の危機を迎えてしまったが、債権者の同意を得て1974年・1975年のシーズンを乗り切ることができた。そして、1976年に中日新聞社と中日のグループ会社で地元の中継権を持つ中部日本放送東海テレビ放送東海ラジオ放送、地元・愛知県および名古屋市の財界の雄、トヨタ自動車工業中部電力など東海地方の有力企業が共同出資し、新たな運営会社・株式会社ナゴヤ球場が設立されて中日スタヂアムの運営を引き継ぎ、球場名もナゴヤ球場と改称され1996年まで本拠地運営した。

1972年1973年

1972年から与那嶺要ヘッドコーチが監督に昇格。与那嶺監督、近藤貞雄ヘッドコーチともに巨人から中日に放出された経験があるため、巨人に対しては闘志をむき出しにし、2年連続で勝ち越してV9巨人を苦しめた。

1974年

髙木守道星野仙一松本幸行トーマス・マーチン谷沢健一らが活躍し、巨人のV10を阻止して20年ぶり2回目のリーグ優勝を果たした。しかし日本シリーズではロッテオリオンズに2勝4敗で敗退。

1975年

巨人以外の5球団が入れ替り立ち替りで首位に立つ「5強1弱」のペナントレースで広島と最後まで優勝を争ったものの、「赤ヘル旋風」の前に2位で終わり連覇を逃す。

1976年

後楽園球場人工芝に全く馴染めず、後楽園での対巨人戦に全敗したのが響いて4位、Bクラス転落。シーズン終了後、近藤貞雄ヘッドコーチが辞任。

1977年

阪急との大型トレードが歴史的な失敗に終わり(放出した島谷が打率.278→.325、稲葉が3勝→17勝、獲得した森本が出場120試合→45試合、戸田が12勝→6勝)、何とか5割3位は確保したものの、与那嶺監督はこの年限りで退団する。

中監督時代

1978年

中利夫が監督になり、初年度は5位

1979年

3位とAクラス入りを果たす。

1980年

球団ワーストとなる開幕6連敗を記録するなど最下位と振るわず同年限りで辞任。この年、髙木守道が現役引退。

近藤監督時代

1981年

近藤貞雄が監督に就任。初年度は5位に終わる。

1982年

星野や木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙中尾孝義上川誠二らの若手を登用した。他の野手では大島康徳田尾安志ケン・モッカ宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な打線、継投を駆使する投手起用を見せた。シーズン後半になると巨人との優勝争いになるが、日本プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤に2位で優勝マジックナンバーが点灯。10月18日横浜スタジアムでの対横浜大洋ホエールズ最終戦は中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば巨人優勝という天王山。この試合は小松辰雄の完封勝利によって8年ぶり3度目のリーグ優勝達成。2位の巨人とは0.5ゲーム差という大接戦だった。最終成績は64勝47敗19分け(130試合)だが、全試合の半分に満たない勝利数で優勝したのは1975年阪急ブレーブスに次いで2チーム目である。また、この試合で田尾安志が大洋から5打席連続敬遠を受け、首位打者を逃した。中尾孝義がMVPを獲得した。日本シリーズ西武ライオンズと対戦、2勝4敗で敗退。この年限りで星野仙一、木俣達彦が引退。

1983年

戦力不足からチームは5位に終わり退任。

山内監督時代

1984年

前年のシーズンオフに山内一弘が監督に就任。巨人戦に14連勝するなどして、優勝した広島と3.0ゲーム差の2位となった。

1985年

球団創設半世紀となったこの年は谷沢が球団史上2人目の通算2000本安打を達成したものの、5位に終わった。

1986年

2年連続5位。山内はシーズン途中で休養に追い込まれた。開幕から監督を務めていた山内のシーズン途中での休養を受けて、シーズン終了まで髙木守道ヘッドコーチが監督を代行した。

第1次星野監督時代

1986年

シーズンオフに星野仙一が監督に就任。牛島、上川、桑田茂平沼定晴との4対1トレードにより、ロッテオリオンズから2年連続三冠王の落合博満を獲得する。享栄高校から近藤真一がドラフト1位で入団。

1987年

ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームをドジャース風に変更。新人の近藤真一が、8月9日の対巨人戦でプロ初登板初先発ノーヒットノーランを達成。5月には一時的に首位に立つも、巨人の猛烈な追い上げの前に、最終的には2位。シーズンオフに大島康徳と平野謙を放出。また、この年甲子園で春夏連覇を果たしたPL学園の主将、立浪和義がドラフト1位で入団。

1988年

4月終了時点で首位広島に8ゲーム差の最下位、7月8日に6連敗で29勝31敗2分で借金2。しかし翌日以降巻き返し、結局50勝15敗3分、勝率.769で10月7日に逆転優勝する。生え抜き監督での優勝は球団史上初。平野謙との交換トレードで西武から移籍した小野和幸が最多勝で、小松と共に先発陣を牽引。リリーフ・郭源治が44セーブポイントでMVP。立浪が新人王に輝いた。日本シリーズでは西武と対戦、第1戦・第5戦先発した小野を筆頭に第2戦の小松以外の先発投手が打ち込まれ、落合、宇野の不振もあり、1勝4敗と敗退。

1989年-1991年

1989年は3位、中尾孝義との交換トレードで巨人から移籍した西本聖が最多勝。1990年は4位とBクラスに沈むも、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/07/08 02:57

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「中日ドラゴンズ」の意味を投稿しよう
「中日ドラゴンズ」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

中日ドラゴンズスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「中日ドラゴンズ」のスレッドを作成する
中日ドラゴンズの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
無料コミックを探す
占い・診断
着メロを探す
GAMEを探す
デコメを探す
きせかえツールを探す
FLASH待ち受けを探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail