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中曽根康弘とは?

中曽根 康弘
なかそね やすひろ
1983年1月21日アンドルーズ空軍基地にて(64歳)

【生年月日】
(1918-05-27) 1918年5月27日(100歳)
【出生地】
日本 群馬県高崎市
【出身校】
東京帝国大学法学部政治学科卒業
【前職】
内務省官僚
拓殖大学総長・理事長
【現職】
世界平和研究所会長
拓殖大学名誉総長
【所属政党】
(民主党→)
(国民民主党→)
(改進党→)
(日本民主党→)
(自由民主党→)
(無所属→)
自由民主党
【称号】
従六位
大勲位菊花大綬章
衆議院名誉議員有資格者
法学士(東京帝国大学・1941年)
フランス共和国ルイ・パスツール大学名誉博士
中華人民共和国上海交通大学名誉教授
群馬県名誉県民
正論大賞特別賞
【配偶者】
妻・中曽根蔦子
【親族】
長男・中曽根弘文
孫・中曽根康隆
【サイン】

第71-73代 内閣総理大臣

【内閣】
第1次中曽根内閣
第2次中曽根内閣
第2次中曽根第1次改造内閣
第2次中曽根第2次改造内閣
第3次中曽根内閣
【在任期間】
1982年11月27日 - 1987年11月6日
【天皇】
昭和天皇
第45代 行政管理庁長官

【内閣】
鈴木善幸内閣
鈴木善幸改造内閣
【在任期間】
1980年7月17日 - 1982年11月27日
第34-35代 通商産業大臣

【内閣】
第1次田中角栄内閣
第2次田中角栄内閣
第2次田中角栄第1次改造内閣
第2次田中角栄第2次改造内閣
【在任期間】
1972年7月7日 - 1974年12月9日
第25代 科学技術庁長官

【内閣】
第1次田中角栄内閣
【在任期間】
1972年7月7日 - 1972年12月22日
第25代 防衛庁長官

【内閣】
第3次佐藤内閣
【在任期間】
1970年1月14日 - 1971年7月5日
その他の職歴

第38代 運輸大臣
(第2次佐藤第1次改造内閣)
(1967年11月25日 - 1968年11月30日)
第7代 科学技術庁長官
(第2次岸改造内閣)
(1959年6月18日 - 1960年7月19日)
衆議院議員
(1947年4月26日 - 2003年10月10日)

中曽根 康弘(なかそね やすひろ、1918年(大正7年)5月27日 - )は、日本政治家位階従六位勲等大勲位

衆議院議員(20期)、科学技術庁長官(第725代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第3435代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第717273代)、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長自由民主党総裁(第11代)などを歴任した。対米関係上の愛称は「ヤス」。

衆議院議員連続20回当選(1947年 - 2003年)。現職は公益財団法人世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長。新憲法制定議員同盟会長。

群馬県出身。東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省に入省する。海軍短期現役制度で戦時中に海軍主計士官に転じるも、終戦後には内務省に再勤する。退官後、衆議院議員に当選。以来、中曽根派を形成するなど自由民主党内で頭角を現し、科学技術庁長官をはじめとして運輸大臣防衛庁長官通商産業大臣行政管理庁長官などの閣僚経験を経て、1982年(昭和57年)から1987年(昭和62年)にかけて内閣総理大臣を務める。国鉄電電公社専売公社日本航空の民営化を達成した事績が特に知られる。またアメリカロナルド・レーガン大統領と「ロン・ヤス」関係と呼ばれる信頼関係を構築して日米安全保障体制の強化にも努めた。

2004年(平成16年)7月19日鈴木善幸が亡くなったことにより最年長の首相経験者となり、昭和時代の歴代総理大臣の中で最後の存命者となった。歴代総理大臣の中では東久邇宮稔彦王(死去時102歳48日)に次ぐ長寿の首相経験者であり、現行憲法下で首相就任を果たした人物としては最高齢である。2018年(平成30年)5月27日には満100歳を迎えた。これも首相経験者としては東久邇宮稔彦王に続く2人目、現行憲法下で首相就任を果たした人物としては初となる。

公称の身長は178cmであり、歴代の内閣総理大臣では大隈重信の公称180cmに次ぐ第2位の長身といわれている。

目次

  • 1 略歴
  • 2 来歴・人物
    • 2.1 内務省入省まで
    • 2.2 海軍時代
    • 2.3 政治家への転身
    • 2.4 三角大福中
    • 2.5 総理大臣就任
    • 2.6 外交
      • 2.6.1 日米・日韓関係
      • 2.6.2 不沈空母発言
      • 2.6.3 ウィリアムズバーグ・サミット
      • 2.6.4 クレムリンの機密文書
      • 2.6.5 日中関係
    • 2.7 民営化推進
    • 2.8 退任
    • 2.9 リクルート事件
    • 2.10 その後
    • 2.11 政界引退後
    • 2.12 大連立構想を仲介
    • 2.13 ライフワーク
  • 3 政治姿勢
    • 3.1 憲法改正
    • 3.2 核武装
    • 3.3 小泉内閣への評価
    • 3.4 保守意識
    • 3.5 戦後政治の生き証人
  • 4 交友関係
  • 5 宗教関連
  • 6 渾名
  • 7 栄典
  • 8 家族・親族
    • 8.1 系譜
  • 9 選挙歴
  • 10 主な著作
    • 10.1 著書
    • 10.2 共著
  • 11 脚注
    • 11.1 注釈
    • 11.2 出典
  • 12 論文
  • 13 参考文献
  • 14 関連項目
  • 15 関連人物
  • 16 外部リンク

略歴

来歴・人物

内務省入省まで

1919年、1歳の中曽根

群馬県高崎市材木商・中曽根松五郎の二男として生まれた。生家は関東有数の材木問屋「古久松」である。敷地は3ヘクタールもあって、そこに住居と工場があり、働いている職人が中曽根の学生時代には150人、住み込みの女中が20人ぐらいは常時いたという。

地元の小学校へ進学後、旧制高崎中学旧制静岡高校を経て東京帝国大学法学部政治学科へ進む。

同大学を卒業後、内務省に入省。同期入省組に早川崇小沢辰男大村襄治らがいた。

海軍時代

海軍時代の中曽根

短期現役制度(第六期二年現役主計科士官)に応募し、海軍経理学校にて初任教育を受け、1941年(昭和16年)4月18日附で海軍主計中尉に任官。同年8月11日附で青葉型重巡洋艦1番艦「青葉」(第一艦隊、第六戦隊所属)に配属される。高知県土佐湾沖の太平洋で訓練を受けた。

同年11月20日、第二設営班班員に補職 。11月26日に広島県呉市呉鎮守府(司令長官豊田副武大将、参謀長中島寅彦少将)に到着。同鎮守府参謀長より第二設営隊の主計長に任命され、工員3000名と海軍陸戦隊の糧食・弾薬・資材、零戦一式陸上攻撃機の武器・燃料を調達して輸送船団に積み込むよう命令される。11月29日に出港するまで、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかったという。

11月29日、輸送船団は出発。中曽根は「台東丸」に乗船した。この船にはかなりの刑余者(前科のある者)がおり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曽根は一計を案じ、全員を甲板に集めた。この中から一番凄そうな親分肌の者を選んで班長にすると、古田と名乗る前科八犯の男と酒を呑み交わし、親分(中曽根)・子分(古田)の関係となって人心掌握に努めた。

同年12月8日太平洋戦争開戦以後、輸送船団はアメリカ領フィリピンのミンダナオ島ダバオに上陸する。上陸後、飛行場の設営がはじまるとアメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の爆撃を受けた。

次にボルネオ島バリクパパンに向かうのだが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される。日本軍輸送船団約20隻がバリクパパンの湾に進入したところ、湾内にオランダイギリス駆逐艦および潜水艦が突入してくる。こちらには軽巡洋艦「神通」がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曽根が乗船している前後左右の4隻は轟沈、さらに接近してきた敵駆逐艦から副砲や機関銃で攻撃され、輸送船も炎上する。中曽根が情況を確認すると、船倉は阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、多数の重傷者を出していた。班長も脚部ほぼ切断の重傷であり、中曽根は軍医長に託したものの、班長は部下の治療を優先させているうちに戦死した。この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの海岸で、荼毘(火葬)に付した。中曽根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる。

「 | 友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜

夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ

 | 」

当時の経験を振り返り、中曽根はこう語った。

彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。『私の体の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです。

1月24日の本海戦はバリクパパン沖海戦と呼称され、護衛艦隊旗艦は「神通」(第二水雷戦隊旗艦)ではなく同型艦の軽巡洋艦「那珂」(第四水雷戦隊司令官西村祥治少将)、泊地に突入してきた敵艦はオランダ・イギリスの艦艇ではなくアメリカ海軍の駆逐艦4隻(ジョン・D・フォード、ポープ、パロット、ポール・ジョーンズ)、沈没艦は潜水艦により輸送船1隻、米海軍駆逐艦により輸送船3隻と哨戒艇1隻で、船尾に被弾した輸送船は「朝日山丸」(死傷者約50名)、マカッサル海峡で沈んだ輸送船は空襲による「南阿丸」1隻である。 中曽根はその後も主計科士官として従軍。1943年(昭和18年)8月18日附で、中曽根主計大尉は高雄海軍施設部部員(高雄警備府)に任命される。 1944年(昭和19年)11月1日、中曽根は横須賀鎮守府附となる。 終戦時の階級は海軍主計少佐であった。

首相就任後、戦争に関しては1985年10月29日衆議院予算委員会での東中光雄委員との質疑応答において、皇国史観には賛成しない、東京裁判史観は正当ではない、対米英と対中対アジアで認識が異なる、国民の大多数は祖国防衛のために戦い、一部は反植民地主義、アジア解放のために戦ったと4点を挙げた。さらに中国、アジアに対しては侵略戦争だったが、アメリカイギリスとは普通の戦争だった、中国、アジアには侵略、韓国には併合という帝国主義的行為を行ったので反省し詫びるべきと答えた。

政治家への転身

戦後、内務省に復帰し 内務大臣官房事務官香川県警務課長、警視庁警視監察官を務める。その後退官し、1947年衆議院議員選挙に当選。以後1955年保守合同までの所属政党は、民主党国民民主党改進党日本民主党。この間、反吉田茂勢力として、自主憲法制定や再軍備を標榜し、長く野党議員として過ごしている。

1954年3月2日、一議員でありながら原子力研究開発のための予算を上程、これを通した(具体的には科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金が2億3500万円、ウラニウム資源調査費が1500万円、計2億5000万円。これが現在に至るまでの自民党の原子力是認につながっている)。1955年保守合同に際しては、長らく行動を共にした北村徳太郎が旧鳩山派である河野一派に合流したことから、河野派に属した。第2次岸改造内閣において、渡邊恒雄を介して大野伴睦の支持を受け、科学技術庁長官として初入閣。党内で頭角を現し、河野派分裂後は中曽根派を形成し一派を率いた。

1956年には「憲法改正の歌」を発表するなど、改憲派として活発に行動し、マスコミからは「青年将校」と呼ばれた。同年11月27日の日ソ共同宣言を批准した衆議院本会議において、自由民主党を代表して同宣言賛成討論を行ったが、内容はソ連に対する厳しい批判だったり「涙を呑んで渋々賛成。」等と述べたため、社会党や共産党が抗議、その結果、約50分間の演説全文が衆議院議事録から削除される異例の出来事もあった。

初当選した選挙で白塗りの自転車に日の丸を立てて運動をしたことはよく知られているが、若い頃から総理大臣を目指すことを公言し、憲法改正首相公選論の主張など大胆な発言やパフォーマンスを好んだことや、同世代の日本人としては大柄な体躯や端正な風貌もあって、早くから存在感を示していた。なお、既に1965年には福井県九頭竜ダム建設を巡る落札偽計事件(九頭竜川ダム汚職事件)に名前が挙がるなど、疑惑とも無縁でなかった。日本共産党の機関誌『しんぶん赤旗』は、行政管理庁長官時代の1980年に行われた総選挙においても、富士通日本製作所から違法献金を受け取ったと報じた。

三角大福中

第2次佐藤内閣第1次改造内閣運輸大臣第3次佐藤内閣防衛庁長官を歴任する。運輸大臣として入閣した際には、それまで佐藤栄作を「右翼片肺内閣」と批判していたのにもかかわらず入閣したため風見鶏と揶揄され、以後これが中曽根の代名詞になった。

運輸大臣時代は成田空港問題にかかわり、1968年4月6日に友納武人千葉県知事とともに新東京国際空港公団と条件賛成派の「用地売り渡しに関する覚書」取り交わしに立ち会っている。「札束を積めば農家なんてすぐ土地を売る」と反対派の訴えに耳を貸さない政治家が多い中、同年8月9日には自宅にアポなしで訪れた戸村一作反対同盟と面会している。

防衛庁長官時代には、1970年に防衛庁の事務方で権勢を振るっていた海原治が国防会議事務局長として新聞記者との懇談会で防衛計画について批判したことが、3月7日の衆議院予算委員会で取り上げられた際に、中曽根は防衛庁長官として「事務屋なので政策論を述べる地位ではない。事務局長というのは庶務課長、極端にいえば文書を集め、文書を発送するお茶汲みに過ぎない」と発言し、海原も出席していた議場を騒然とさせた。三島事件を批判する声明を防衛庁長官として出したが、三島に近い一部保守系団体や民族派勢力右翼団体などから強く批判された(中曽根は自著の中で「三島と親しいように思われていたが深い付き合いがあったわけではない」と釈明している)。1972年の殖産住宅事件では、株取得で証人喚問される。翌年に脱税容疑で逮捕された殖産住宅相互の東郷民安社長は旧制静岡高校時代からの友人であったため、親友も見殺しにすると囁かれた。

こうして要職を経験する中で、いわゆる「三角大福中」(三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫、そして中曽根)の一角として、ポスト佐藤の一人とみなされるようになっていった。佐藤後継を巡る1972年の総裁選に際しては、野田武夫ら派内の中堅、ベテラン議員や福田支持派から出馬要請を受けるが、日中問題で福田の姿勢に不満を抱いていた派内の河野洋平を始めとする若手議員が田中角栄支持に傾いていたことなどから、自らの出馬を取り止め、田中支持に回った。このことは田中が福田に勝利するにあたり決定的な役割を果たしたが、田中の買収などと後に週刊誌で憶測を呼ぶことにもなった。

第1次田中角栄内閣通商産業大臣科学技術庁長官となり、第2次内閣では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣に専任となる。三木内閣時代、自由民主党幹事長となり、福田赳夫内閣の総務会長を務めるなど党内の要職も務める。三木おろしの際には、三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。

1976年ロッキード事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。ここでも悪運の強さが幸いしたとされる。後に“(刑務所の)塀の上を歩いて内側に落ちたのが田中角栄、外側に落ち勲章までもらったのが中曽根”と揶揄された。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/10/13 00:00

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