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中畑清とは?

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中畑 清
DeNA監督時代
(2014年9月23日 横浜スタジアムにて)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
福島県西白河郡矢吹町
【生年月日】
(1954-01-06) 1954年1月6日(64歳)
身長
体重 185 cm
90 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
一塁手三塁手
【プロ入り】
1975年 ドラフト3位
【初出場】
1977年7月17日
【最終出場】
1989年10月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴


【国際大会】

【代表チーム】
日本代表
この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


中畑 清(なかはた きよし、1954年1月6日 - )は、福島県西白河郡矢吹町出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督コーチ

現役時は1980年代読売ジャイアンツ(巨人)の中心打者として活躍する傍ら、労働組合日本プロ野球選手会初代会長を務めた。引退後は巨人のコーチを務めた後、2004年アテネオリンピック野球日本代表ヘッドコーチ監督代行を務め、銅メダルに導いた。その後2012年より横浜DeNAベイスターズ初代監督(大洋ホエールズからの通算では第29代)に就任し、2015年シーズン終了まで在任した。2016年から野球解説者評論家タレント司会者に復帰。

2015年12月25日、自身の出身地である福島県西白河郡矢吹町において「名誉町民第1号」の称号が与えられた。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 現役時代
    • 1.3 現役引退後
      • 1.3.1 国政選挙への挑戦
    • 1.4 DeNA監督時代
    • 1.5 DeNA監督退任後
  • 2 選手としての特徴
  • 3 監督として
  • 4 人物
  • 5 詳細情報
    • 5.1 年度別打撃成績
    • 5.2 年度別監督成績
    • 5.3 表彰
    • 5.4 記録
    • 5.5 背番号
  • 6 関連情報
    • 6.1 著書
    • 6.2 関連書籍
    • 6.3 テレビ・ラジオ出演
      • 6.3.1 横浜DeNA監督退任後の出演番組
    • 6.4 ディスコグラフィ
    • 6.5 CM
    • 6.6 ゲームソフト
    • 6.7 登場作品
  • 7 脚注
  • 8 参考文献
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

経歴

プロ入り前

安積商業高校で三塁手、遊撃手、捕手を務め、駒澤大学では直射日光を避ける為の偏光サングラスと一本足打法で注目を浴び、2年の春には東都大学リーグで首位打者争いをする。リーグ通算82試合出場、300打数92安打、打率.307、10本塁打、51打点。1973年秋季リーグ最高殊勲選手。ベストナイン4度受賞。2度の全日本入り。

駒澤三羽ガラス(駒大トリオ)」と呼ばれた平田薫二宮至と共に1975年のプロ野球ドラフト会議の目玉となる。巨人からの1位指名が有力視され駒澤大学の合宿所に報道陣が殺到したが、銚子商業篠塚利夫が1位指名された。報道陣が帰って行くのを見て中畑は別室で将棋をしていたが、3位指名されたと聞き慌てて戻った。「高卒の人間に先に指名された」とがっかりした反面、ファイトが増したという。中畑は北海道拓殖銀行への就職が内定していたが、当時監督だった長嶋茂雄の存在などが後押しとなり、内定を辞退してプロ入りを決意。指名されなかった平田と二宮も一緒なら入団すると申し入れ、巨人もこれを受け入れた(2人はドラフト外で巨人に入団)。

現役時代

当時巨人は王貞治張本勲土井正三高田繁らが現役で活躍し選手層が厚かったため、入団後3年間は1軍での出番に恵まれなかったが、3年目オフの1978年に開催された日米野球第1戦のシンシナティ・レッズ対巨人戦で、高田に代わって途中出場してマリオ・ソトから2点本塁打を放った。この日は試合前、コンタクトレンズをなくして何も見えない状態だったが、妻が後楽園球場まで届けた新品のおかげでよく見えるようになったという。レッズ監督のスパーキー・アンダーソンは、長嶋に「あの三塁手(中畑)はハッスルしてファイティング・スピリットに溢れているのがいい。バッティングは荒削りだけど、ぜひ使うべきだ」と進言している。日米野球での活躍がきっかけとなり、1979年に一軍に定着。三塁手の高田が怪我で離脱した際に先発で起用され、高田の復帰後もレギュラーを守った。この年の新人王の資格もあったがシーズン終盤で骨折し、新人王はならなかった。

初の規定打席に到達した1980年の秋、長嶋が監督を辞任し王も引退。入れ替わるように1981年、大学野球のスター選手で中畑と同じ三塁手の原辰徳が入団したが、新監督の藤田元司ら首脳陣は原を二塁にコンバートさせた。しかし中畑はシーズン途中怪我で戦線離脱。その間に原が三塁にコンバートされ、二塁には元々守備には定評のあった篠塚が入り、.357という高打率を記録しレギュラーに定着。一塁には山本功児が入ったが、中畑が戦線復帰すると山本に代わり一塁に収まり、その後も一塁手として出場することになった。この年巨人は1973年のV9以来の日本一を奪回し、中畑も規定打席に到達したシーズンでは自己最高打率の.322、16本塁打、66打点という成績をあげた。

1983年、守備走塁コーチの末次利光が最終戦で3割前後の選手の打率を1打席ごとに電卓で計算し、3割に乗ったところで交代させたため、打率は3割ジャストであった。この点を指摘された中畑は「3割だけは契約更改の席の印象が変わるので勘弁してほしい。その代わり、もし自分がタイトル争いをしたら絶対休まない」と返答した(実際に中畑は駒澤大学時代に最終戦まで出場して首位打者を逃した経験があった。プロでは1987年に篠塚、正田耕三落合博満らと一時首位打者争いをしたが、結局タイトルは獲得できなかった)。同年の日本シリーズでは西武ライオンズに3勝4敗と敗れたもの、第3戦で森繁和からサヨナラヒット、第6戦で杉本正から一時は逆転となるタイムリー三塁打を放ち3打点をマークし優秀選手賞に選ばれた。

1984年、オールスターゲームで第2戦、第3戦にまたがる2打席連続本塁打を放つ。 また、公式戦では不振の原に代わりシーズン途中には4番を任され自己最多の31本塁打を記録した。

1985年、前年監督へ就任した王貞治を「ワン公」と呼び批判した取材オフレコテープの存在が問題となる。のちに電話で謝罪し、王から「何も聞かなかったことにする」と許されている。王政権下では長嶋第一次政権に若手だった選手が主力を担っており、そのことによる派閥争いが度々雑誌、新聞媒体で記事にされた。また、同年11月5日には日本プロ野球選手会労働組合としての認可を受けた事に伴い労組としての初代会長へ就任した。

1987年は途中怪我で戦線離脱するが、首位打者を狙えるほどの打率を残していたため、復帰後規定打席に達するまでは打席数を稼ぐために1番打者として起用された(首位打者は篠塚が獲得)。

1989年、監督復帰した藤田により三塁への再コンバートが試みられたが、シーズン序盤、甲子園での試合中に牽制球で一塁に戻った際に指を痛め、長期戦線を離脱。その間に三塁は一塁から岡崎郁が、また一塁も外野から駒田徳広が定着したこともあり、定位置を失った中畑はこの年終盤に早々と引退を表明した。リーグ優勝を決めた試合(大洋戦・横浜スタジアム)で二塁打を放った際に球場に起こったウェーブについて、のちに、自分が日本の球場で最初に起こしたもの、と発言している(もっとも、この試合の前日の試合でウェーブが起こっており、この試合でも8回表で中畑の2打者前の中尾孝義の打席でウェーブが起こっている)。チームのシーズン最終戦となった10月13日のヤクルト戦で途中出場し宮本賢治から本塁打を打つ。さらに現役最後の試合となった同年に行われた近鉄との日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)では、吉井理人から本塁打(この後、もう1打席回ったが、最終打席は三塁フライに終わった)を放ち、有終の美を飾った。

現役時代サヨナラ本塁打を3本放っているがすべて対中日戦である(1982年4月22日、三沢淳から、1983年5月8日、牛島和彦から、1986年8月7日、杉本正から)。

現役引退後

引退後は日本テレビラジオ日本スポーツニッポン野球解説者評論家を経て、1993年から巨人の監督に復帰した長嶋監督の下で打撃コーチに就任。

しかし、前年好調だった打撃陣が一転して1993年はチーム打率が12球団最下位に終わり、また駒田の横浜へのFA移籍にあたり中畑との確執がその原因として取り沙汰されるなど、コーチとしての評価は低かった。翌1994年は一塁ベースコーチとして、ムードメーカーの役割に徹した。チームはリーグ優勝・日本一になったが同年オフに退団。その後は再び日本テレビ、ラジオ日本、スポーツニッポン野球解説者・評論家となり、日本テレビでスポーツニュースのキャスターも務めた。

2004年アテネオリンピック野球日本代表のヘッドコーチを務め、監督の長嶋茂雄が病床に伏してからはチームの指揮を執った。本大会では、国際オリンピック委員会の規定により長嶋の監督登録が認められなかったため正式に監督に就任したが、オーストラリアに準決勝で敗退し、銅メダル止まりに終わった。中畑は、敗因を当時中日の監督だった落合が協力を拒んだせいにしていたが、落合は負けたのは中畑の野球に問題があったからと後の講演会で中畑を批判している。なお、代表は対戦するまでオーストラリアを「やりやすい相手」と見ていたが、捕手で元中日のニルソン(日本在籍時の登録名はディンゴ)には日本での経験を生かして研究されて下に見られていたことを敗戦後に知ったと後のインタビューで明かしている。さらに、中畑は対戦相手国の代表チームの試合の視察には行かず、観光に行ったり他の競技の試合を観戦していたことが後に報じられている。同オフ、巨人から助監督を要請されたが固辞した。

国政選挙への挑戦

2010年5月9日には、たちあがれ日本が同年7月に執行の第22回参議院議員通常選挙の立候補者として擁立する方針であると報じられ、5月11日にたちあがれ日本の代表である平沼赳夫、共同代表の与謝野馨が同席する中、正式に出馬表明記者会見を行った。7月11日の投開票の結果、111,597票を獲得し同党内で2位になるも同党が比例区で1議席(片山虎之助)しか獲得できなかったため落選。翌年の8月末に離党したが、後に「結果的に受からなくてよかった」と発言している。その真意を問われ、「(議員になっていれば、)震災の後に自由に支援に故郷を訪れることができなかっただろうから」と述べている。

DeNA監督時代

中畑清(2012年3月10日、西武ドームにて)

2011年12月9日、新しくGMに就任した巨人時代の先輩の高田繁からの要請で、DeNAに買収された横浜DeNAベイスターズの監督に就任。

自身の誕生日でもある2012年1月6日に就任会見を行い、会見の中での発言の「熱いぜ!横浜DeNA」が正式にチームのシーズンスローガンとなった。58歳にして監督初就任となった。しかし開幕から低迷が続き、この年優勝した巨人には4勝18敗2分けと大きく負け越した上に、巨人戦のビジターゲームでは1勝もできずに終わるなど前年度よりさらに勝率を下げ、最下位に終わった。12月5日、妻の仁美を子宮頸がんのため亡くした。

2013年中日ドラゴンズからエンジェルベルト・ソトホルヘ・ソーサトニ・ブランコの3人を獲得するなど補強をしてシーズンに臨んだ。ブランコはここ2年苦しんだ故障から脱却して本塁打を量産し、ソーサもセットアッパーとして奮闘し、抑えの山口俊が不調になるとソーサを起用した。だがまたしても巨人戦で大きく負け越すなど低調な戦いが続き、9月24日の阪神戦に敗れ、チームのクライマックスシリーズ進出の可能性がなくなり、試合後に監督辞任を示唆するコメントをしたが、10月3日に2014年度の続投が決定した。最終的には東京ヤクルトスワローズが最下位となり、6年ぶりに最下位を脱出し5位でシーズンを終えた。また、中日、阪神、ヤクルトの3球団には勝ち越した。

2014年は打線強化としてオリックスバファローズからアーロム・バルディリスを獲得した。だがチームは前年同様の低調な戦いが目立った上、前年の首位打者のブランコの故障、抑えのソーサの故障やブランコに変わり一軍に昇格して低打率ながら13試合に出場時点で10打点と活躍していた中村紀洋から采配批判され懲罰降格させるなど主力選手の離脱が響いた。一方で前年抑えから中継ぎに降格してこの年も中継ぎで不振だった山口を7年ぶりに先発に再転向させた。9月2日の阪神戦で暴力行為で退場処分、審判員への度重なる暴力行為が問題視され、労組審判支部から球団へ抗議文が送られ、GM補佐の山下大輔(当時)から説明を受けた。 チームは浮上のきっかけを掴めず2年連続5位に終わったが、9月までCS争いに加わり、借金を1桁に抑えるなど、チーム力が確実に上がったと感じられるシーズンだった。また、8年連続で負け越していた巨人に9年ぶりに勝ち越した。なおこの年のセ・リーグ全チームの順位は前年と全く変化がなかった。

2015年は監督就任4年目を迎えた。球団史上、同一監督が連続して4シーズン以上指揮を執るのは1968-1972年の別当薫以来43年ぶり、また1978年の横浜移転後では監督15人目(大矢明彦が二期務めたため16代目)にして初となった(愛称名がベイスターズになってからでも初)。この年は序盤は一時首位になるなど好調だったが交流戦で急失速し、3勝14敗1分けと大きく負け越したのを機にリーグ戦再開後も勢いは失ったままの戦いが続き、3年ぶりに最下位でシーズンを終えた。

成績不振の責任を取って今季限りで辞任する意向を固め、10月2日に南場智子オーナーに正式に辞意を伝えた。

DeNA監督退任後

2016年以降は、日本テレビ解説者・スポーツニッポン評論家に復帰。さらに、TBSテレビテレビ東京の野球中継にもゲスト解説者として出演している。同年12月、巨人OB会副会長に就任。

選手としての特徴

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この現役時代の選手としての特徴に関する文献や情報源が必要です。出典を明記するためにご協力をお願いします。(2013年5月)

入団間もないころ、監督の長嶋茂雄から「調子はどうだ?」と尋ねられた中畑は「まあまあです」と返事をしたところ、それを聞いていたコーチの土井正三から「まあまあなんて言うやつを監督が起用するか?絶好調と答えろ!」と叱られた。それ以来、中畑は何を聞かれても「絶好調!」と答えるようになり、「絶好調」が中畑の代名詞となった。

まだ若手時代の1978年7月。江夏豊と対した打席の途中でコーチから「(江夏のリズムを狂わす意図で)ボールを替えてもらえ」と指示された為、ボールの交換を要求すると江夏から「10年早いんだ!」と一喝された。迫力に圧倒された中畑は、頭よりも高いボール球を振って三振。すぐに二軍落ちとなった。コーチが余計な事を言わなければ良かったと回顧している。

自称「元祖自打球王」。自打球避けのレガースを最初にミズノに発注したのは自分だったと言っている。

一塁手として1982年から1988年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。その一方で、江川卓の登板する試合に、よく守備で足を引っ張っていたので、江川から「150キロの牽制球」を投げられたこともあった。また、中畑を三塁から一塁へコンバートした藤田元司監督は、後年、中畑がサード向き、原はファースト向きの性格でありながら原をサードに、中畑をファーストにしたのは最大の失敗だったと語っている。

監督として

就任当時、開幕前から「守れない選手は使わない」をチーム方針として、守備を重視したチーム作りを徹底して行うことを表明していた。また、機動力を使うことも明言し、盗塁、エンドラン、スクイズなどを積極的に行なっている。この機動力を使った野球は就任1年目の頃は「せこいぜ野球」と呼称されていた。就任2年目あたりから送りバントも多用するようになり、2014年にはリーグ最多犠打を記録している。 また、オーダーを固定することは少なく、好不調で選手や打順を入れ替えることが多かった。

投手陣は基本的に投手コーチにほぼ一任しているが、小刻みな継投を好み、シーズンののべ登板数の日本記録を作った前任監督の尾花高夫とは異なり、先発投手はイニングを引っ張る傾向が強い。特に三浦大輔にはかなりの信頼を置いており、2012年はリーグ最多の6完投をさせている。

試合後の監督インタビューは、勝った試合はもちろん、敗れた試合でも行っていた。またチームの勝利時のヒーローインタビューはベンチでチームメンバー全員で聞く事にしている。

また、野球は集団スポーツであることから全員の気持ちが一つにならないとそのチームは機能しないというポリシーを持っており、成績が奮わない選手や見込みがない選手に対しては見限ったり、チームの和を乱す行為を嫌っているなどのシビアな側面も持っており、DeNA監督時代はその姿勢を見せていた。

  • 2013年には石川雄洋に厳しい姿勢を見せた。石川はこの年の序盤は打撃不振もあったが、円陣の輪に入らなかったり、首脳陣との話し合いをしても主将にも拘らず、態度の悪さが目立ったことで2軍に降格させた。
  • 2014年には宮崎遠征のため、羽田空港から出発する際、抑え投手を務めていたホルヘ・ソーサが足を引きずりながら現れたことで激怒し、ソーサの帯同を認めず、1軍登録を抹消した。
  • 中村紀洋に対しては2012年と2014年の2度に渡って采配を批判され、2軍に降格させた。一度目は2012年8月15日の阪神タイガース戦では中村の打席で内村賢介が盗塁したが、中村はこの盗塁を内村に激怒した。だが内村に対しては首脳陣からグリーンライトの権利を与えているため、中村の叱責は采配批判にあたり、中村の登録を抹消した。二度目は2014年5月6日の巨人戦で、中村がコーチに「場面によっては走者を動かさず打席に集中させてほしい」と相談したが、これを采配批判とみなして登録を抹消した。中畑はこの中村の相談を「チーム方針に従わない言動」と判断した。この抹消以降中村を1軍に昇格させることはなかった。結果的にシーズン終盤に中村は戦力外通告を受けてDeNAを退団した。このような問題行動がありながらも球界での貢献度が高かったことからDeNA球団は10月に1軍に昇格させて引退試合と引退セレモニーを提案したが中村は現役続行を希望したためこれを固辞した。
  • 梶谷隆幸筒香嘉智荒波翔山崎康晃など才能を認め育てると決めた選手は使い続けた。岡田彰布は「戦える、勝てるチームの土台を作ったのは高く評価するべきだろう。」、江本孟紀は「筒香と心中すると言って育てたのは評価する。弱点の投手陣に目を向けても井納と心中するとでも言っておけば良かったのに。」と述べている。中畑が監督を辞任した翌年2016年は、後任監督のアレックス・ラミレス監督が、これらの若手選手の活躍もあり、シーズン負け越ししながらも、10年ぶりAクラスとなる3位に入りCS初進出を果たし、2017年はシーズン勝ち越しで日本シリーズまで進出した。

結果的には4年間でシーズン勝ち越しにはならなかったが、長期間30以上もの負け越しが続いていたチームを大きく立て直す事に成功した。

人物

愛称は「絶好調男」、「ヤッターマン」など。

1953年(昭和28年)度生まれのプロ野球選手(梨田昌孝落合博満真弓明信吹石徳一など)による親睦会「プロ野球28会」(にっぱちかい)の会長を務めている。

2012年12月、長年中畑を支えてきた妻・仁美(59歳)が癌のために死去した。以来、東京調布市にある100坪の豪邸で、一人暮らしをしている。長男(2016年・38歳)が調布市内でホルモン焼き肉店の店長をしており、友人たちと共に週に1〜2度、長男の店を訪れて飲み食いしている。友人たちとカラオケにも行く。

中畑家は陸奥石川氏の一族で、前九年の役石川有光の子の九郎光幹が中畑と称したことからはじまる(『白河古事考』)。戦国時代にはその系統の国神城主の中畑晴辰(はるとき)が抵抗したために、豊臣秀吉から改易されて、浪人・土農の落ち武者狩りで討たれた(広瀬蒙斎『白河風土記』)。中畑はその晴辰の子孫である。

祖父の代に、横浜戸塚で土木業を営み、成功したものの、瓦工場に商売替えした後、失敗し息子の辰雄を含む一家とともに帰郷した。清は貧しい少年時代を過ごした。彼は後に「米に牛乳のせる生活体験したらどんなつらい生活でも耐えられるよ」と語っている。

その後、郷里での牧畜業で成功した結果、父辰雄にグローブを買ってもらったのがきっかけで、野球を本格的に目指すことになる。

ウイニングイレブンでは、スウェーデン代表を使用する。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S

1977 | 巨人 | 7 | 5 | 5 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .400 | .400 | .400 | .800
1978 | 5 | 3 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .333 | .333 | .333 | .667
1979 | 100 | 352 | 333 | 42 | 98 | 18 | 3 | 12 | 158 | 45 | 4 | 4 | 6 | 3 | 7 | 0 | 3 | 46 | 8 | .294 | .312 | .474 | .787
1980 | 124 | 503 | 459 | 61 | 123 | 15 | 2 | 22 | 208 | 57 | 10 | 8 | 7 | 4 | 28 | 1 | 5 | 53 | 11 | .268 | .315 | .453 | .768
1981 | 109 | 440 | 416 | 55 | 134 | 17 | 7 | 16 | 213 | 66 | 10 | 2 | 0 | 3 | 19 | 3 | 2 | 37 | 7 | .322 | .352 | .512 | .864
1982 | 124 | 510 | 468 | 56 | 125 | 24 | 5 | 25 | 234 | 78 | 4 | 3 | 0 | 3 | 37 | 2 | 2 | 71 | 10 | .267 | .322 | .500 | .822
1983 | 114 | 446 | 416 | 53 | 125 | 20 | 2 | 15 | 194 | 68 | 13 | 1 | 2 | 5 | 22 | 3 | 1 | 39 | 5 | .300 | .333 | .466 | .800
1984 | 130 | 550 | 493 | 78 | 145 | 30 | 1 | 31 | 270 | 83 | 4 | 1 | 0 | 2 | 51 | 2 | 4 | 64 | 12 | .294 | .364 | .548 | .911
1985 | 125 | 526 | 490 | 71 | 144 | 32 | 2 | 18 | 234 | 62 | 7 | 3 | 2 | 3 | 30 | 1 | 1 | 39 | 11 | .294 | .334 | .478 | .812
1986 | 127 | 484 | 447 | 57 | 122 | 29 | 2 | 14 | 197 | 69 | 7 | 5 | 2 | 6 | 27 | 3 | 2 | 67 | 10 | .273 | .313 | .441 | .754
1987 | 110 | 413 | 371 | 37 | 119 | 23 | 1 | 6 | 162 | 40 | 6 | 3 | 7 | 5 | 29 | 1 | 1 | 46 | 13 | .321 | .367 | .437 | .804
1988 | 124 | 478 | 444 | 46 | 131 | 36 | 2 | 10 | 201 | 46 | 5 | 4 | 4 | 1 | 28 | 5 | 1 | 35 | 18 | .295 | .338 | .453 | .790
1989 | 49 | 128 | 113 | 8 | 25 | 6 | 0 | 2 | 37 | 6 | 0 | 2 | 2 | 0 | 12 | 3 | 1 | 24 | 2 | .221 | .302 | .327 | .629
【通算:13年】
1248 | 4838 | 4458 | 564 | 1294 | 250 | 27 | 171 | 2111 | 621 | 70 | 36 | 32 | 35 | 290 | 24 | 23 | 523 | 108 | .290 | .334 | .474 | .808
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度
球団
【順位】
試合
勝利
敗戦
引分
勝率
ゲーム差
チーム
本塁打 チーム
打率 チーム
防御率 【年齢

2012年 | DeNA | 6位 | 144 | 46 | 85 | 13 | .351 | 41.0 | 66 | .233 | 3.76 | 58歳
2013年 | 5位 | 144 | 64 | 79 | 1 | .448 | 23.0 | 132 | .262 | 4.50 | 59歳
2014年 | 5位 | 144 | 67 | 75 | 2 | .472 | 14.5 | 121 | .253 | 3.76 | 60歳
2015年 | 6位 | 143 | 62 | 80 | 1 | .437 | 14.5 | 109 | .249 | 3.78 | 61歳
【通算:4年】
575 | 239 | 319 | 17 | .428 | Bクラス4回

表彰

記録

初記録
節目の記録
2010Happy Mail