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亀井静香とは?

亀井 靜香
かめい しずか
2010年6月24日渋谷駅での街頭演説にて

【生年月日】
(1936-11-01) 1936年11月1日(82歳)
【出生地】
日本 広島県庄原市
【出身校】
東京大学経済学部卒業
【前職】
警察庁長官官房調査官
【所属政党】
(自由民主党→)
(国民新党→)
(無所属→)
(反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党→)
(減税日本・反TPP・脱原発を実現する党→)
(日本未来の党→)
(みどりの風→)
無所属
【称号】
警視正(警察庁退官時)
経済学士(東京大学・1960年)
【親族】
亀井郁夫()
【公式サイト】
亀井静香公式Webサイト
内閣府特命担当大臣(金融担当)

【内閣】
鳩山由紀夫内閣
菅内閣
【在任期間】
2009年9月16日 - 2010年6月11日
第64代 建設大臣

【内閣】
第2次橋本内閣
【在任期間】
1996年11月7日 - 1997年9月11日
第69代 運輸大臣

【内閣】
村山内閣
【在任期間】
1994年6月30日 - 1995年8月8日
衆議院議員

【選挙区】
(旧広島3区→)
広島6区
【当選回数】
13回
【在任期間】
1979年10月8日 - 2017年9月28日

亀井 靜香(かめい しずか、1936年11月1日 - )は、日本警察官僚政治家階級警視正(警察庁退官時)。通常は新字体で亀井静香と表記。

衆議院議員を13期務め、運輸大臣(第69代)、建設大臣(第64代)、自由民主党政務調査会長(第43代)、国民新党代表(第2代)、内閣府特命担当大臣(金融担当)などを歴任した。

目次

  • 1 概要
  • 2 来歴
    • 2.1 生い立ち
    • 2.2 上京
    • 2.3 警察庁
    • 2.4 自由民主党
    • 2.5 国民新党
      • 2.5.1 金融・郵政改革担当大臣
      • 2.5.2 外国人参政権
      • 2.5.3 選択的夫婦別姓制度
      • 2.5.4 郵政改革法案
      • 2.5.5 内閣総理大臣補佐官
      • 2.5.6 国民新党分裂、離党へ
    • 2.6 新党構想と所属政党の変化
    • 2.7 無所属、政界引退へ
  • 3 人物像
    • 3.1 交友関係
    • 3.2 小泉政権について
    • 3.3 エピソード
  • 4 政治資金
  • 5 政策
    • 5.1 経済政策
    • 5.2 取調べの全面可視化に反対
    • 5.3 大型公共事業
    • 5.4 マスメディア
    • 5.5 カジノ
    • 5.6 外国人参政権・人権救済侵害法案に反対
    • 5.7 選択的夫婦別姓制度
    • 5.8 脱原発
  • 6 家系
  • 7 所属している団体・議員連盟
  • 8 役職
  • 9 著書
  • 10 関連項目
  • 11 脚注
  • 12 外部リンク

概要

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年1月)

東京大学経済学部を卒業後、サラリーマンを経て警察庁に入庁。警察庁長官官房調査官を最後に退官。退官時の階級は警視正(特進を含まない階級)。退官後、衆議院議員になり、長らく自由民主党に所属。運輸大臣建設大臣自由民主党政務調査会長を歴任。

自民党内の派閥では清和会(福田赳夫安倍晋太郎三塚博派)に所属していたが、平沼赳夫中川昭一らとともに離脱し、亀井グループを旗揚げ。後に亀井グループと政策科学研究所(旧渡辺派)を合併させ、新たに志帥会(村上・亀井派)を結成、会長を務めた。

2001年自由民主党総裁選挙には中曽根康弘首相や志帥会の全員一致推薦で立候補を表明していたが、総裁候補の一人であった小泉純一郎が総裁選の応援を要請。小泉と政策協定を結び、亀井は本選を辞退した。その後は小泉の応援にまわり、小泉総裁誕生に貢献。しかし、政策協定は小泉によって反故にされている。

以降は郵政民営化を強力に推進する小泉と対立、2005年に自民党を離党し、綿貫民輔衆議院議長を党首に担ぎ国民新党を結成。自らは代表代行に就任。2009年の第45回衆議院議員総選挙で綿貫が落選して党首を辞任したことに伴い代表に昇格。同年9月に発足した民社国連立政権鳩山由紀夫内閣では内閣府特命担当大臣(金融担当)に任命される。また、特命事項として郵政改革担当大臣も兼任し、中小企業金融円滑化法の成立に尽力した。2010年6月に発足した菅内閣でも留任したが、菅直人首相が郵政改革法案の成立を今国会で成立させるという国民新党と民主党との公約を破棄したため、組閣直後に閣僚を辞任した(後任は同党の自見庄三郎が就任)。

2011年6月、菅内閣 (第2次改造)内閣総理大臣補佐官(内閣の重要政策全般担当)に就任。しかし、首相の退陣に伴い約2ヵ月で退任。

2012年3月、消費税増税法案の取り扱いを巡り野田内閣と対立し、国民新党代表として民主党との連立政権離脱を表明。しかし、党内の連立維持派がこれを認めず、一方的に代表の解任を主張。これに対し、代表の解任は無効だと主張し、亀井亜紀子と共に国民新党を離党し無所属として活動。

野田首相が2012年11月16日衆議院を解散したのちの11月19日に、民主党を離党した山田正彦と共に「反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党(略称:反TPP)」の結成を発表。

同年11月22日に、反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党が減税日本と合流し減税日本・反TPP・脱原発を実現する党を結成すると、同党の幹事長に就任。

2012年11月28日嘉田由紀子滋賀県知事が結成した日本未来の党に減税日本・反TPP・脱原発を実現する党が合流して日本未来の党所属となるが、嘉田代表と小沢一郎の党内対立の影響で同年12月27日に離党。翌12月28日みどりの風に参加。

2013年12月31日に、みどりの風が解散したため無所属となった。

2017年10月5日に、地元である広島県尾道市にて「一緒にやっていく相棒が見つかりそうにない」などの理由から、第48回衆議院議員総選挙に出馬しないことを表明した。引退表明後の挨拶まわりでは、これまでの活動について地元の支持者から感謝された。木山耕三庄原市長は「国営備北丘陵公園の誘致にも力を貸してくださり、地元にとって頼りになる方だった」と評価している。山陽新聞は、亀井は2015年3月に全線開通した中国横断自動車道尾道松江線を含む地元に関連したインフラ整備では国とのパイプ役として存在感を発揮したとしている。

来歴

生い立ち

亀井素一・静枝夫妻の次男として広島県比婆郡山内北村(現:庄原市川北町)に、姉二人兄一人の末っ子として生まれる。

亀井は広島県内の私立修道中学校・修道高等学校に入学。高校一年生の三学期、通学定期券の購入に必要だった通学証明書の発行が有料となることに反発し、抗議活動としてビラ配りを行う。間もなくして学校側から呼び出され、教師から「ビラ配りをやめないと学校をやめさせるぞ」と脅されたため、亀井は「今すぐやめますよ」と言って高校を自主退学した。

上京

修道高校を中退後、東京大学法学部に進学していた兄の亀井郁夫を頼り上京。都立日比谷高校及び都立九段高校を受験したが不合格となり、都立大泉高校に編入し卒業。高校三年生の時は、成績が常に上位5番以内だった。

1956年東京大学経済学部に入学。駒場寮で暮らし、昼夜を問わずアルバイト生活費を稼ぐ日々を送る。家庭教師のアルバイトを1人週2回の割合で3か所こなしたこともあった。一時はアルバイトばかりに熱中して大学の授業にも顔を出さなくなっていたが、このままでは堕落してしまうと一念発起して養神館合気道を習い始める。合気道の道場で田中茂穂に出会い、田中の保守的な思想の影響を大きく受けたという。なお、在学中はマルクスエンゲルス全集や資本論を読破するもマルクス主義より合気道に傾倒し、学生運動にも参加しなかった。また、この頃、苦しむ民衆の救済に身を挺した大塩平八郎西郷隆盛の文献を愛読した。

大学内でも合気道に熱中し、これまでサークルだった合気道クラブを、正式に運動部へ昇格させた。さらに学生の合気道仲間を集めて全日本学生合気道連盟を結成し、初代委員長に就任した。

在学中に、友人だった駒場自治会の委員長がアメリカ合衆国水爆実験反対を訴えるストライキを指導したことが原因で退学処分となった。亀井はこれに憤り学校に抗議するため、駒場寮前にテントを張り、サークルの子分を引き連れてハンガー・ストライキを決行する。支援する学生からパンが投げ込まれたが、それには一切手をつけなかった。決行から1週間してドクターストップがかかったが、亀井のハンストが功を奏し、大学はその友人の退学処分を取り消した。

1960年、東京大学経済学部を卒業し、別府化学工業(現:住友精化)に入社。

しかし、報道安保闘争を見て、デモ隊に対する警察の不甲斐なさに腹を立て、「俺が警察を強くしてやる」と一念発起して警察官になることを決意。会社を退職して、国家公務員採用上級試験を試しに受けたところ、3番の成績で合格。警察官採用上級試験には5番の成績で合格した。成績優秀のため各官庁からオファーがきたが、亀井の本来の希望であった警察庁に入庁。

警察庁

1962年警察庁に入庁。鳥取県警察本部警務部長、埼玉県警察本部刑事部捜査第二課長などを歴任。

1971年、警察庁警備局極左事件に関する初代責任者となり、成田空港事件あさま山荘事件テルアビブ空港乱射事件などの陣頭指揮を執った。成田では、機動隊の総括責任者として着任した直後に東峰十字路事件が発生し、警察官3名の殉職という事態に直面している。

警察庁警備局公安第一課理事官、警察庁長官官房調査官を経て1977年に退官。

15年間警察官僚として働いたが、「いくら警察で頑張っても所詮、社会の“ゴミ掃除”だ。社会のゴミを出さないようにするには政治家になるしかない」として、政治家を志す。そして、350万円の退職金を元手に衆議院議員総選挙に立候補する決意を固める。広島県北部の有力代議士で、当時引退したばかりの永山忠則に懇願し、永山の後継指名を得て選挙に挑むことになった。

自由民主党

1979年10月、永山忠則の後継として第35回衆議院議員総選挙自由民主党公認で旧広島3区から初出馬、初当選。以後、引退まで連続当選。党内派閥では清和会(福田派)と自由革新同友会(中川派)に掛け持ちで所属した(中川派は後に福田派と合流)。

1982年10月、自民党総裁選挙に出馬した中川一郎の推薦人となる(中川は最下位で敗北)。

1985年12月、第2次中曽根第2次改造内閣運輸政務次官に就任。

1986年7月、中曽根康弘首相靖国神社参拝中止第二次歴史教科書問題などに反発し、村上正邦古賀誠らと共に保守系の政策集団である「国家基本問題同志会」を結成して座長に就任。「大韓民国との間に戦争が起こらない保証はない。」「日韓は断交すべき。」等の過激な発言で物議を醸す場面もあった。

1989年4月、自民党の中堅・若手国会議員を集めて派閥横断グループ「自由革新連盟」を結成し、白川勝彦と共同代表に就任。

1989年6月、自民党総裁選挙山下元利を擁立しようとしたため、清和会から除名

1989年8月、自民党総裁選挙に石原慎太郎を擁立するが、海部俊樹に大差で敗北。

1990年3月、衆議院農林水産委員長に就任。

1990年10月、石原慎太郎と共に清和会に復帰。

1994年2月、細川連立政権創価学会の関係を政教一致であると批判するために自民党内の勉強会「憲法20条を考える会」を結成し、同会会長に就任。

1994年6月、日本社会党野坂浩賢国会対策委員長との折衝で自社さ連立政権構築に尽力し、村山内閣運輸大臣新東京国際空港担当大臣に就任。

1994年10月、第12回成田空港問題円卓会議で運輸大臣及び新東京国際空港担当大臣として東峰十字路事件の元被告と握手を交わし、成田空港問題に一つの終止符を打つ。

1996年10月、第41回衆議院議員総選挙(初めての小選挙区選挙)に広島6区から出馬。自民党組織広報本部長として選挙に臨み、新進党新人候補の佐藤公治を破り当選。

1996年11月、第2次橋本内閣建設大臣に就任。この頃、梶山静六内閣官房長官と連携して閣内から保保連合構想を唱える。

1998年9月、森喜朗との派閥内対立により平沼赳夫などの同志21名を引き連れて清和会を離脱し、亀井グループを旗揚げ。また、中山太郎らと「日本再生会議」(中山・亀井グループ)を結成し、同グループ代表幹事に就任。

1999年3月、亀井グループと政策科学研究所(旧渡辺派)が合流し、「志帥会」(村上・亀井派)結成。同派会長代行に就任。

1999年10月、自民党政務調査会長に就任。公共事業の見直しを表明し連日深夜に及ぶ議論の末、2兆7000億円分を削減した。

2001年4月、自民党総裁選挙に出馬するが、小泉純一郎と政策協定を結び本選挙出馬を辞退、小泉の支援に回った。しかし、小泉が首相になった後、政策協定は全て小泉に一方的に破棄された。亀井は「一生の不覚だった。」とも述べている。

2001年11月、死刑廃止を推進する議員連盟会長に就任。

2003年9月、自民党総裁選挙に出馬し、小泉純一郎に次ぐ2位の139票を獲得。

2003年10月、志帥会(亀井派)会長に就任し、自民党国会議員約60名を擁する派閥の領袖となった。

国民新党

2007年11月17日、街頭演説にて

2005年8月、小泉内閣が推進する郵政民営化に反対し、自民党に離党届を提出(受理されず除名処分)。後援会からは「気が狂ったのか」と散々言われたが、小泉政権のおかしな流れをここで止めなければと思った為離党届を出した。志帥会会長を辞任。国民新党結党に参画する。

2005年9月、第44回衆議院議員総選挙において無所属(実質的には自民党執行部がバックアップ、立候補の記者会見場も自民党本部)で出馬した堀江貴文に苦戦を強いられるが、26,546票差で当選。当選に絶対的に自信があった為堀江に関しては質問された際「元気な若者でいいんじゃない」と言うぐらいで批判はしなかったが、「あれでは政治家として到底通用しません。本当に国民の生活を考えている政治家からは土の匂いがするものです。ホリエモンからは都会慣れした金の匂いしかしません」と述べている。選挙後、国民新党の代表代行に就任。

2009年8月30日第45回衆議院議員総選挙には、引き続き広島6区から国民新党公認と民主党の推薦を受けて立候補し、自民党の公認候補に67,479票の大差をつけて11期目の当選を果たした。この選挙では国民新党代表の綿貫民輔と幹事長の亀井久興がともに落選する事態となったため、選挙翌日に綿貫から代表を引き継いだ。

金融・郵政改革担当大臣

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年1月)

2009年9月16日民社国連立による鳩山由紀夫内閣の成立に伴い、内閣府特命担当大臣(金融担当)に就任した。内閣府特命担当大臣の担当事務以外に、「郵政事業の抜本的な見直し及び改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」の特命事項を担当する(郵政改革担当大臣)。

金融担当相として行った政策

その結果、2010年4月の自殺者数は警察庁発表で前年同月比18.7%の大幅減少になった。また、東京商工リサーチによると、2010年2月の企業倒産は前年同月比17.3%の激減。負債総額も64.3%減となった。しかし、この背景には2008年に起こった世界金融危機による不況からの景気回復があることも考慮する必要がある。

これらの制度をつくった動機には、小泉政権下で国内の自殺者数と倒産数が史上最多となり、亀井の知人の中小企業経営者3人が自殺したことがある。亀井は彼らから相談を受け金融機関に掛け合ったが、貸し出しも返済猶予も断られ、社長は亀井あてに悲痛な遺書を残して逝き、副社長も後を追って自殺。亀井は葬儀に行き、遺族と一緒に抱き合って泣いたが、3日後に新しい副社長が自殺した。社長になれば、今後は自分が債務を負わなければならないからだった。亀井は真っ当な経営者や従業員が無駄な死を選ばなくて済むよう、制度改革を進めた。

大臣就任早々、金融庁の検査官を集めて「これまで君たちは金融機関のための検査をやってきたが、これからは銀行が借り手企業のコンサルタントとして社会的役割を果たしているかをチェックするんだ」と訓示した。

小泉政権で労働者派遣法が変更され、派遣社員が簡単に合法的に首切り解雇できるようになっていたため、不況により首切りにあった人が激増し、住宅ローンの支払もできず、自殺者数が史上最多となった。また小泉政権で建築基準の審査を民営化したことにより耐震偽装事件などが発生、住居を失い会社も辞めさせられ、しかし住宅ローンだけが残り生活ができなくなった人を見て、個人にも金融機関に住宅ローンの支払期限を延長しなくてはならないというものだった。マスコミは、この「中小企業金融円滑化法」をモラトリアム法、亀井法などと呼んだ。

衆議院の財政金融委員会で小泉の息子進次郎が亀井の考えが「時代に逆行している」と発言した為「お父さんがおやりになったところに返っても何もいいことはない」と言い返した。

外国人参政権

2010年4月17日、永住外国人への地方選挙権付与(外国人参政権)に反対する集会に出席し、「参政権付与が日本を滅ぼす。国民新党が拒否権発動しているから今国会で成立しない」と述べた。

選択的夫婦別姓制度

郵政改革法案

2010年6月11日未明、第174回国会での郵政改革法案成立が見送られたことを受け、「公党間の約束が履行されなかった」として民主党菅内閣に激怒し、民主党との連立も解消をすると主張した。しかし、亀井久興与党にとどまってほしいと懇願され、党内の4時間に及ぶ会合後、与党にはとどまることとなる。しかし、亀井静香は閣僚を辞任、後任は同党の元郵政大臣自見庄三郎となった。議員引退後に「郵政改革の道は頓挫しました。民営化から十年が経ちましたが郵政事業は縮小し買収戦略は失敗続きでいろいろと問題が出てきていると感じます。ただ、私はすでに政界を引退した身。郵政のゆく末については後の世代に託すしかないね。」と述べている。

内閣総理大臣補佐官

2011年6月27日、菅第2次内閣内閣総理大臣補佐官(内閣の重要政策全般担当)に就任。当初、菅直人首相副総理としての入閣を打診したが固辞し、最終的には首相補佐官としての起用を了承した。同年9月5日、野田内閣の発足に伴い首相補佐官を退任。

国民新党分裂、離党へ

2012年3月に野田改造内閣消費税増税法案を閣議決定したことを巡り、連立協定違反を理由に連立政権離脱を表明。しかし、党内の多数が連立維持を主張し、国民新党副代表である自見庄三郎閣僚(金融郵政改革担当相)とて消費税増税法案に署名したため、国民新党は分裂。同年4月5日に党内の連立維持派は亀井の国民新党代表の解任を決定したが、亀井は代表解任は無効と主張している。その後、亀井は翌4月6日記者会見し、「解任は有効だとは思っていないが、私はこのまま国民新党にいるべきではない。今から、日本が立ち直って行くために、一兵卒として全力を挙げてがんばっていきたい。国民新党代表のまま離党いたします。以後はもちろん代表ではありません。」と述べ、亀井亜紀子と共に国民新党を離党した。

新党構想と所属政党の変化

国民新党離党後、旧知の石原慎太郎東京都知事と共に新党結成を図り水面下で活動し、石原と小沢一郎を連携させることを画策する。しかし、石原は小沢に対して強い嫌悪感を抱いており、この計画は頓挫する。2012年10月、石原が日本維新の会代表橋下徹大阪市長と連携して第三極運動を展開すると表明する。この際、今度は石原から亀井に対して新党参加への要請があったが、亀井は政策理念が異なる橋下との連携を図ろうとする石原を批判し、新党参加を拒否した。その後、石原は2012年10月25日東京都知事を辞任し、同年11月12日たちあがれ日本を母体とした新党「太陽の党」を結成した。一方亀井は民間人の有志らと協力して新党を結成する計画があると同年11月3日テレビ東京の番組で表明した。

2012年11月19日環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の交渉への参加反対を基軸政策にした「反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党」を、TPPに反対し民主党を離党した山田正彦と共に結成した。 同年11月22日、反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党は減税日本と合併して減税日本・反TPP・脱原発を実現する党となり、同党幹事長に就任。その後、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/12/12 10:01

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