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二村山とは?

標高
71.8 m
【所在地】
日本
愛知県豊明市沓掛町皿池上・峠前
位置
北緯35度4分18.6秒 東経137度0分24.5秒 / 北緯35.071833度 東経137.006806度 / 35.071833; 137.006806座標: 北緯35度4分18.6秒 東経137度0分24.5秒 / 北緯35.071833度 東経137.006806度 / 35.071833; 137.006806
【山系】
猿投-知多上昇帯
種類
隆起
二村山の位置(愛知県)

OpenStreetMap

プロジェクト 山

二村山(ふたむらやま)は、愛知県豊明市にある標高71.8メートルのである。

豊明市の最高地点であり、眼下に広がる濃尾平野岡崎平野のかなたに猿投山伊吹山地御嶽山までを一望にしうる景観は名勝として古くから知られる。歌枕ともなり、平安時代の頃から数多くの歌や紀行文の題材にされてきた。現在でも山頂から山麓にかけて、その長く風趣な歴史を物語る歌碑・石碑がいくつか残されている。

概要

自然

  • 滝の水公園(名古屋市緑区)から望む二村山(奥手中央やや左よりの丘陵)
    (2012年(平成24年)5月)

  • 峠から西方に下る山道が、かつての街道の雰囲気を最も良く伝える。
    (2012年(平成24年)5月)

豊明市の北東から南西にかけて続く緩やかな丘陵群は、豊田市藤岡地区付近から南知多町付近まで北東-南西方向に伸びる「猿投-知多上昇帯」と呼ばれる隆起帯の一部とされる。「猿投-知多上昇帯」は大府市付近を境に南北に分けられ、豊明市が立地する北部の猿投上昇帯は、この上昇帯の隆起軸と併走する活断層「猿投-境川断層」の影響を受けながら、北西側の地塊が南東側の地塊を覆い被すように隆起を続けているという。丘陵地一面の地層をみると、下部では、東海層群に属しおよそ400-250万年前に堆積したとみられる「矢田川累層」のシルト層や層などが複数の層にわたって重なり合い、その上部は砂礫層が覆い、頂上近くで更新世の「八事層」と呼ばれる赤褐色の砂礫層が散在する。 これらの丘陵地において、山麓の多くは宅地造成などのために開発され、現在残された緑地をかろうじて保持している数少ない丘陵の頂上部分のひとつが二村山である。植物・野鳥の生育地として認識されており、都市計画上では12.2ヘクタールが「二村山緑地」に指定されているほか、豊明市による用地買収も進んでいる。土壌はおおむね乾燥しているものの一部に湿地があり、崖地や急傾斜地のような変形地も見られる。全般的な植生では、高木層で落葉広葉樹針葉樹が広がり、低木層は常緑広葉樹が優勢である。ササセイタカアワダチソウによる草地、一部シュロの混在した竹林なども随所に見られる。 近世以降、人家が近い里山では一般的に、燃料や暖房、緑肥などに用いるためる枝葉・下草といった有用資源が採集され尽くしたことで荒廃した箇所が多く、二村山もまた同様の理由から、むき出しの地肌にところどころ背の低いコナラやアカマツが点在するようなはげ山であったといわれる。しかし1960年代頃より、エネルギー革命を経て燃料媒体が石油などにとって替わられ、また化学肥料が普及してきたことで、山野でのむやみな伐採や採集が収束、二村山の姿は徐々に成長した高木で覆われた緑豊かな姿に変貌している。景観保全の面では、江戸時代の頃からソメイヨシノ植樹が行われるなどされ、後年にはツツジの植栽・展望台散策路整備、近年でも北東側山麓に自然散策路が整備されるなどしている。春にはヤマザクラコバノミツバツツジなどの花が咲き誇り、初夏になると新緑が映え、秋にはコナラハゼノキタカノツメアオハダが色とりどりに紅葉するなど四季の魅力に富んでいるが、他方で柴刈りや落葉かきなどの人の手による維持が加えられなくなった雑木林では遷移が進み、低木層の常緑広葉樹や竹林の繁栄によって他の生物相の存続が危ぶまれる箇所も多くなり、計画的な伐採間引き植林などによって、行政と二村山環境保全推進協議会といった民間の団体が共同で自然の形態を保持しようとしている。 植生を詳しく見ていくと、西側山麓では、5メートル以上の高木層は大部分のコナラの中にサクラカキノキなどが混じり、おおむね落葉広葉樹が広がっている。低木層では常緑広葉樹のカクレミノ、落葉広葉樹のヤマウルシムラサキシキブの姿が見られ、林床にはネザサが一面に生え広がっている。北側山麓では、5メートル以上の高木層ではクリ・アオハダ・サクラなどの落葉広葉樹とクロマツオキアガリネズなどの針葉樹が混在する中で、竹林の進出も見られる。低木層では常緑広葉樹であるヒサカキの分布がいちじるしく、地上への光を遮っているためか林床に自生する植物は少なく、マンリョウヤブニッケイが多少見られる程度である。ごくわずかながら湿地帯があり、モウセンゴケギボウシといった希少な湿性植物が自生している。北東側山麓では、近年竹林の進出がすさまじく、他の植生への悪影響が危惧されたことを受けて2003年(平成15年)頃に大量伐採されている。高木層でハゼノキ、ヒサカキなどが少量見られるほかは、竹林伐採後に成長した低木の割合が非常に多く、イソノキカクレミノ・コナラの稚樹などが主である。一部では、スギヒノキなどの植林も行われている。

山の様子

二村山概略図(2017年(平成29年)7月現在)
アクセスと登山口

外縁部は、南・南東側に二村台の住宅地、西側及び北側に藤田医科大学付属病院の関連施設、北東側に愛知県道220号阿野名古屋線を挟んで豊明市営の勅使墓園などがそれぞれ立地し、北辺は名古屋市緑区に接している。
二村山へのアクセスは、2013年(平成25年)1月現在、公共交通機関では名鉄バスか豊明市運営のひまわりバスを利用する。名鉄バスでは、名古屋鉄道名古屋本線前後駅からは「藤田医科大学病院行き」あるいは「地下鉄徳重行き」あるいは「赤池駅行き(藤田医科大学病院・地下鉄徳重経由)」に乗車した場合、名古屋市営地下鉄桜通線徳重駅からは「前後駅行き」に乗車した場合、それぞれ「勅使台口」で下車すると二村山の東側登山口が間近にある。ひまわりバスでも、前後駅からひまわりバス1号または2号の「藤田医科大学病院行き」に乗車し、「二村山」または「勅使台口」で下車する。自家用車等で訪問する場合、愛知県道220号沿いにある「勅使台口」のバス停留所からほど近くに二村山駐車場があり、ここに駐車して脇の東側登山口から徒歩で進入するのが一般的である。ただし、二村山には登山道が複数あり、自動車では二村台7丁目住宅地内にある南東側の二村山入口から進入して峠まで行くことが可能であり、また徒歩においては東西南北いずれの方面にも狭い登山口が随所に存在することからさまざまな方面からのアクセスが可能である。

登山道

かつての鎌倉街道の道筋を踏襲するとされる南東部の二村山入口からの登山道は、コンクリート舗装の急坂を登ると小峠と呼ばれる高みにまずは落ち着く。左手に豊明神社の境内があり、右手に自然広場・二村山緑地散策路へと続くこの地点からうっそうとした山林に囲まれた尾根道が続く。まもなく舗装が途切れて砂利道となるが、それでも自動車1台が通うだけの道幅はあり、沿道右手には2件ほどの一般住宅と「雲興寺」と呼ばれる小堂が立地している。なお沿道左手にはかつて老人憩いの家が存在したが、2002年(平成14年)末に発生した不審火による火災で焼失し、現在は敷地が残るのみである。山道ではまもなく左側と右側にそれぞれ2本ずつ分岐が生じており、左側向かって手前の分岐は豊明市立双峰小学校北側裏手からの二村山登山道、奥手の分岐は鎌倉街道本道と見なしうるような小道である。右側分岐のうち手前の分岐は二村山駐車場へと下る遊歩道、奥手の分岐は「鳳山堂」と呼ばれた廃屋へと続く廃道のような状態となっている。

尾根道も左側奥手の小道も、残り50メートルほど進んでたどり着くのがと呼ばれる南北60メートル、東西25メートルほど、標高62.6メートルの広々とした平坦地であり、曹洞宗久護峯平野山聖應禅寺の飛地境内でもあって、参拝者の自動車はここまで進入することが可能である。峠地蔵尊など3体の地蔵菩薩像を安置した地蔵堂、その左隣にも1体の地蔵菩薩像を安置した小堂があり、小休憩所やトイレなどもある。毎年4月8日には、この地蔵堂前で釈迦の生誕を祝す「花まつり」が催され、甘酒などが振る舞われる。また、1972年(昭和47年)に豊明市制施行記念として催され、現在では毎月第1日曜日の午前に開催されている「市民歩け歩け運動」は、市民が各自の自宅からこの二村山峠を目指して歩く運動である。
平坦地の南端部分で上記の小道がさしかかるのが二村山峠であり、源頼朝の歌碑、「みかわ-鎌倉街道-なるみ」と刻まれた石柱、そしてここがいにしえの鎌倉街道であったことを示す石碑が立っている。なお、この峠へは二村山南西麓からの登山道も延びており、麓側は愛知中部水道企業団二村山配水場脇の入口となる。

鎌倉街道とその周辺

他方、峠から北西に向かい下ってゆく山道が、石柱の示すところの「なるみ」方面に向かう街道の道筋であったとされ、西麓に至る300メートルほどの区間が現在では昔日の詩風を最も深く感じさせる林道となっているが、藤田医科大学の立体駐車場ゲート脇に至ったところで途切れてしまう。なお、道が途切れてしまう手前付近に北側へと抜ける細い山道が分岐しており、山道を進むと藤田医科大学溝内の車道の脇に行き着く。名古屋市緑区域内の二村山への登山口は、ここが唯一であると思われる。
本来の鎌倉街道は現在の藤田医科大学病院の敷地内をそのまま西走していたと考えられ、やがて「濁池(にごりいけ)」と呼ばれる池に達する。江戸時代に造成されたため池が多い豊明市にあって濁池は中世以前から存在する古い池だと考えられるが、平安・鎌倉時代から存在していたかどうかは定かではない。街道はこのまま池の北側を回ったといわれる一方、文政年間(1818年-1830年)の孫目村古地図では濁池南側の堤防道を「鎌倉」と記しており、堤防の補強後に南回りのコースが整備されたと考えられる。そして堤防道をそのまま進むとやがて愛知用水に達し、まもなく名古屋市緑区内に入ってゆく。

展望台山道・山頂

峠地蔵尊の平坦地の北西端にはさらに北西に延びる展望台山道があり、沿道右手には「伊藤両村先生之碑」をはじめとした各時代のさまざまな謂われを持つ石碑が建てられている。そして登り切ったところが南北40メートル、東西15メートルほどの平坦地となった山頂部であり、豊明市の最高地点でもある標高71.8メートルを示す三等三角点のほか、二村山展望台、「大嘗祭悠紀歌(だいじょうえゆきうた)碑」、「切られ地蔵尊」、「岳輅(がくろ)の歌碑」、東屋などがやや密集する園地となっている。この頂上へは二村山駐車場からの登山道から直接アクセスすることも可能であり、また愛知県道220号の名古屋市-豊明市境界線付近にある北側登り口から登山した場合、二村山展望台の直下に登りつく。

歴史的背景

古代

二村山を含めた現豊明市域に相当する地域は、古来の律令体制下において尾張国の一部をなし、尾張国を構成していた8郡の中では山田郡に属していたという。承平年間(931年-938年)成立の『和名類聚抄』(巻第6郷里部第11)に記載のあるところの山田郡とは「船木(ふなき)」・「主恵(すえ)」・「石作(いしづくり)」・「志誤(しだみ)」・「山口(やまぐち)」・「加世(かせ)」・「両村」の7郷及び「餘部(あまるべ)」、「駅家(うまや)」、「神戸(かんべ)」で構成され、一般的には、このうち両村郷(ふたむらのごう)が二村山という地名の名残となった元と考えられている。両村郷の所在地も二村山南麓の沓掛町周辺とする見方が大勢のようである。

  • 和田山郷土歴史館所蔵の駅鈴

  • 宿鹿嶋社拝殿
    (2012年(平成24年)5月)

律令体制下で整備された中路東海道には30里(約16キロメートル)ごとに駅家があり、『延喜式』(巻28兵部省駅伝条)によれば、尾張国には馬津(まつ)(現:津島市)・新溝(にいみぞ)(現:名古屋市中区)・両村の3駅が設定されている。各駅では人馬の継立、宿泊場所の提供、給食などを行う駅舎をかまえ、永勤とされる駅長(うまやおさ)の統制のもと、駅子がその手足となって働き、駅の運営のための駅田が開墾され、駅戸(うまやべ)で飼育された駅伝馬が厩(うまや)に常駐していたものとみられる。こうした駅家のひとつとして両村駅が両村郷内に存在したとされ、駅家の所在地及び周辺経路についてはっきりしたことは分かっていないが、馬の常駐先である厩ははじめ二村山南西麓の「間米(まごめ)」にあり、後に二村山南麓の「まやど」に移転したという。間米という地名は「馬籠(うまごめ)」が転訛したものといわれ。「まやど」は馬宿(うまやど)のことを指すといい、戦前まで地名が残っていたとするこの場所は、現在でいう愛知県道220号阿野名古屋線にある皿池交差点の付近とされる。駅家そのものの推定地も、間米(まごめ)、「まやど」、後年鎌倉街道の宿場があったとされる宿(しゅく)・本郷(ほんごう)などが候補に挙がっている。他方、沓掛町上高根(かみたこね)の行者堂と呼ばれる付近で8世紀中頃の軒丸瓦の遺物が出土したことは(上高根行者堂遺跡)、当時瓦葺きの建物が官庁しか存在しえなかったはずであることを考慮すると、駅家がこの地に存在した可能性も示唆されている。一方、周辺経路については、駅家の候補地を中継する間米(まごめ)-二村山-本郷(ほんごう)-上高根(かみたこね)という経路を古代東海道の道筋と見なし、すなわちその沿路のいずれかの場所に駅家が所在したとも推定できるが、上高根(かみたこね)を中継すると考えられる街道として近年、平針(ひらばり)-白土(しらつち)-若王子(にゃこうじ)-上高根を経て八橋(やつはし)へと至る古道の存在も示唆されていることから、初期の東海道はこれに近い経路をたどっていたとする仮説も成り立つ。行者堂の北300メートル付近にある「洞洼洞池(どうがいどういけ)」は江戸時代初期に造成されたため池であるが、かつて「東海道池(とうかいどういけ、とうきゃーどいけ)」などと呼ばれていた頃もあるとされ、経路を想定する手がかりのひとつと見なされている。これらの仮説に立てば、間米(まごめ)・二村山・「まやど」などは東海道の経路からも駅家の所在地からもはずれることになる。

ところで、『和名類聚抄』では、両村に「布多無良(ふたむら)」という読みが万葉仮名風に記されている。この表記のあり方は『古事記』・『日本書紀』の書かれた奈良時代に属するものとされ、『続日本紀』(巻第六 元明紀三)によれば713年(和銅6年)頃に国・郡・郷の名称を好字2文字に置き換えるよう官命が下り(好字二字令)、この関連で「布多無良」が「両村」と改名したとも推測できることから、すなわち奈良時代初期以前から「ふたむら」と呼ばれ「布多無良」で示される何らかの対象、集落なり駅家なりが存在したことをうかがわせる。
なお、駅名と地名の起源は、駅名がまず地名に先んじるといわれる。ふたむらと呼ばれる地にある駅なのでふたむら駅だったのではなく、ふたむら駅の所在する土地がふたむら郷と名づいたとする理解である。それではふたむら駅の「ふたむら」が何に由来するかといえば、郷土史における古くからの推測は、ふたつの集落(村)にまつわる場所に、あるいは挟まれた場所に所在したためであるとする。豊明市内の二村山周辺には宿(しゅく)・本郷(ほんごう)・上高根(かみたこね)・間米(まごめ)といった古くからの集落が存在するわけであるが、本郷(ほんごう)と宿(しゅく)の組合せ、宿(しゅく)と間米(まごめ)の組合せなどをふたつの村に比定することが昔から行われている。ただし、これらの集落のひとつひとつが村と呼ばれるほどの規模を有していたか、たとえば律令制郷里制下における里(50戸以上)以上の規模を有していたかは判じがたい。それとは別に、鎌倉時代以降にそれぞれ宿場として発達する「鳴海(なるみ)」及び「沓掛」の地に、奈良時代にすでにある程度の規模の村落が形成されていたと見なし、その狭間に存在していたことから両村と名付けられたとする考え方もあるが、推測の域にとどまる。また、『和名類聚抄』にある「駅家」を「両村」の支郷と見なすという考え方によれば(すなわち両方駅家の前にある「餘部」という語句が両村にかかるという考え方)、駅家立地によって付近で多角的に発展した集落の戸数が50戸を越えたために行政的な分村がなされ、ふたつの村が並び立ったことで両村の名が浮上してきたとするものである。

律令体制の衰退が進むと、駅制が宿制に転じるなど駅路整備にも緩みが生じて、人馬が行き交う道筋も本来の東海道から徐々にはずれるなどの変化が見られるようになる。初期東海道について上記の平針(ひらばり)-白土(しらつち)-若王子(にゃこうじ)-上高根(かみたかね)を伝う経路の説をとれば、駅家の軒先に吊した藁沓(わらぐつ)の様子を面白く思った在原業平がここを沓掛と名づけたとする伝説の時代背景が9世紀半ばであろうこと、807年(大同2年)の銘を持つ地蔵菩薩が二村山に建立されたことは、9世紀にはすでに街道の経路が西よりに、すなわち後に沓掛宿と呼ばれる一帯や二村山山麓が新たに街道の要所として浮上してきたことを示唆するものである。上高根(かみたこね)の行者堂から西南西に向かって約1.4キロメートル、宿(しゅく)の集落内に鎮座する宿鹿嶋社が『延喜式神名帳』(927年(延長5年))に姿を現すことは、すでに10世紀前半には、産土神が鎮座するほどの地縁性の深い集落がすでに同地に生まれていたこと、また官社と見なされ記録されたことで公道の守護神的な性格も帯びていたことを物語る。そして、景勝地としての二村山が名をはせる端緒も平安時代中期頃からとみられ、天暦年間(947年-957年)編纂の『後撰和歌集』に収録された清原諸実(きよはらもろざね)の歌は、二村山を詠ったごく初期のものだと考えられている。以降、平安時代中後期・鎌倉時代を通じて題詠も含めて数多くの紀行文和歌に詠まれるようになる。

中世

  • 宮路山(山麓の赤茶色の建物は豊川市役所音羽庁舎)
    (2011年(平成23年)5月)

  • 二村山法蔵寺本堂
    (2005年(平成17年)7月)

源頼朝による鎌倉幕府の開府は、京都-鎌倉間での人々や文物の往来を頻繁にしたことで、街道の再整備もうながしたようである。この街道を鎌倉街道という。室町時代の『経覚私要鈔』(応仁二年条自京都至鎌倉宿次第)に記載のある全63宿尾張国内13宿のうち当地付近の鎌倉街道宿場として「鳴海ナルミ十五丁 沓懸クツカケ五十丁 八橋ヤツハシ二里」などとする記述があり、すなわち鳴海宿から15の距離と八橋宿から50丁の距離に成立した沓掛宿は、現在の宿(しゅく)・本郷(ほんごう)あたりであったとみられている。本郷(ほんごう)は後年町はずれに沓掛城が立地するなどし、中世時代からの寺院も多く、江戸時代から明治時代にかけては沓掛村の中心であった。他方で宿(しゅく)は、本郷の南西にあり、現在では周囲の主要道から車で進入しにくいやや孤立した感のある集落だが、宿鹿嶋社を北端として小規模な宿場町が形成されていたと見られ、「あらや」「かどや」という旅籠や、遊女などもおり、それなりの活気を呈していたという。また、いつ頃建立されたものか定かではないものの、宿鹿嶋社に残る道標石には、「北 なるみ、宮の宿、南 おくて、ちりふ、東、ふく田、ころも道、西、ぜんご道」とある。沓掛宿を北に抜けた路傍には旅人の交通安全を祈念するために十王を祀った十王堂があったといわれ、江戸時代以降に廃墟となるも現在まで字名が残っている。さらに北上すると若宮神社があり、「まやど」を経て、二村山の小峠へと到達する。

ただし理由は定かではないが、中世時代に書かれた紀行文の中に沓掛宿についての記述は皆無であるといわれる。そして二村山についての記述も室町時代になると、景勝地としての認識が薄まってきたためか紀行文には単に地名として登場するのみとなり、室町時代後半ともなると、二村山西麓の田楽ヶ窪という界隈が街道沿いの物騒な場所して浮上する一方、二村山の名はふつりと消えてしまう。。これらのことの理由としては、二村山の所在地についてのさまざまな混同が挙げられる。1151年(仁平元年)成立の『詞花和歌集』に収録された橘能元の歌ではその詞書に「三河国二村山」の紅葉を見てとあり、1310年(延慶3年)頃の『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』に見られる橘為仲の歌も「三河国二村山」の情景を詠ったものとされる。そして源頼朝の手になる二村山の歌は上洛の折りに宿をとったとされる宮路山山麓(現在の岡崎市本宿付近とされる)で詠まれたものという見解もある。三河三霊山のひとつである猿投山(さなげやま)、聖跡と呼ばれ秀麗な山容と頂からの風光明媚な景観をもって古くから知られる宮路山(みやじさん)三河国と遠江国の国境近くにあり歌枕としても名高い高師山(たかしさん)、古くより街道の要所であった本宿に立地する法蔵寺の裏山であり山号でもある二村山(にそんさん)などが混同されたと考えられている。やがて、二村山が属していたとされる山田郡は1548年(天文17年)から1570年(元亀元年)の間に愛知郡と春部郡(のちに春日井郡と呼ばれるようになる)に分割されて消滅し、以降二村山や沓掛宿は愛知郡に属するようになる。そして1574年(天正2年)頃から尾張国内では道路整備が始まったといわれ、このときの事業により後年江戸幕府が整備する東海道の原型が作られたと推定しうる事例が、小牧・長久手の戦いに際して岡崎を発った徳川氏の軍が境川を越えた後に「あの」に逗留したとされることである(『松平家忠日記』天正十二年三月九日丙戌)。「あの」は現在の豊明市阿野町付近を指すとみられ、東海道の現存一里塚として知られる国の史跡阿野一里塚が残る地でもある。すなわち、この頃にはすでに主幹道が沓掛・二村山よりも南下しており、往時の鎌倉街道は街道としての機能を失し、その役割を終えつつあったことがうかがえる。

近世以降

  • 平野山聖應寺山門
    (2011年(平成23年)4月)

  • 尾張名所図会』に描かれた二村山

江戸時代に入り、鎌倉海道が廃されて東海道が設置されたことで、名所としての二村山はほぼ完全に知名度を失ってしまう。しかし享保年間(1716年-1735年)頃には、峠一帯は高野山真言宗八事山興正寺の所管となっており、興正寺の元光道参という僧侶を中心にして堂宇や鐘楼などの普請がなされたとみられ、やがては一大道場の体をなすまでになったとされる。1736年(元文元年)には当地が平野山聖應寺に移管されるが、1740年(元文5年)7月16日、二村山は激しい雷火に襲われ地蔵堂が焼失、このとき同時に峠地蔵尊の首が落ちる、山頂にあった地蔵尊が袈裟切りに切断されるなどの異変も生じている。その後の1764年(明和元年)、聖應寺第8世白龍和尚の尽力により本堂が再建されている。1847年(元文5年)には聖應寺第15世栴崖奕堂(せんがいえきどう)和尚の徳を称えて有栖川宮幟仁親王が二村山にまつわる歌を下賜し、現在では聖應寺の寺宝となっている。なお、奕堂は明治維新後の1870年(明治3年)、曹洞宗大本山總持寺独住第1世に勅住して「弘済慈徳禅師」の称号と紫衣を授かっている。

仏道に通じた人の他に、二村山が人々からまったく関心を寄せられなくなったわけではない。江戸時代初期には三条西実隆1670年(寛文10年)の私撰集『雪玉集(せつぎょくしゅう)』に自身の歌を載せ、18世紀後半には国学者田中道麿が、1818年(文政元年)に江戸からへ西上していた歌人香川景樹が(『中空の日記(なかぞらのにっき)』)、それぞれ二村山にまつわる歌を残している。 そして近在の尾張国内や三河国内からも、18世紀半ばあたりから、かつての名勝地であった二村山に関心を覚え古趣に触れようとする俳人や学者が訪れるようになる。二村山にまつわる俳諧では名古屋の俳人である加藤暁台(かとうきょうたい)、その弟子で「寛政三大家」の一人としても知られる井上士朗(いのうえしろう)、井上の盟友であり尾張俳壇の重鎮として知られる岳輅などが知られる。そして19世紀中頃、尾張藩士で画家でもあった小田切春江(おだぎりしゅんこう)による色刷挿絵を織り交ぜ、各人が名所・旧跡を和歌・漢詩・俳諧などで詠みこんだ詩集『名区小景(めいくしょうけい)』が刊行され、二村山については和歌が5首、俳

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出典:wikipedia
2020/03/29 15:17

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