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井口資仁とは?

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井口 資仁 (井口 忠仁)
千葉ロッテマリーンズ 監督 #6

現役時代
(2013年4月2日、QVCマリンフィールドにて)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
東京都西東京市(旧田無市)
【生年月日】
(1974-12-04) 1974年12月4日(43歳)
【身長
体重】
178 cm
91 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
二塁手遊撃手一塁手
【プロ入り】
1996年 ドラフト1位
【初出場】
NPB / 1997年5月3日
MLB / 2005年4月4日
【最終出場】
MLB / 2008年9月28日
NPB / 2017年9月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督歴

  • 千葉ロッテマリーンズ (2018 - )

【国際大会】

【代表チーム】
日本
五輪
1996年
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


オリンピック
男子 野球
 | 1996年 | 野球

井口 資仁(いぐち ただひと、1974年12月4日 - )は、東京都西東京市(旧田無市)出身の元プロ野球選手(内野手)、監督。右投右打。本名は「井口 忠仁」(読み同じ)。2018年シーズンから千葉ロッテマリーンズの監督を務める。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
      • 1.1.1 生い立ち
    • 1.2 プロ入り後
      • 1.2.1 ダイエー時代
      • 1.2.2 ホワイトソックス時代
      • 1.2.3 フィリーズ時代
      • 1.2.4 パドレス時代
      • 1.2.5 フィリーズ復帰
      • 1.2.6 ロッテ時代
    • 1.3 現役引退後
      • 1.3.1 ロッテ監督時代
  • 2 選手としての特徴
    • 2.1 打撃
    • 2.2 走塁・守備
  • 3 人物
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別打撃成績
    • 4.2 年度別打撃成績所属リーグ内順位
    • 4.3 MLBポストシーズン打撃成績
    • 4.4 年度別守備成績
    • 4.5 タイトル
    • 4.6 表彰
    • 4.7 記録
    • 4.8 背番号
    • 4.9 国際大会出場歴
  • 5 関連情報
    • 5.1 出演
      • 5.1.1 テレビ番組
      • 5.1.2 CM
    • 5.2 著書
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

経歴

プロ入り前

生い立ち

1974年12月4日東京都西東京市(旧田無市)で生まれる。童話作家の寺村輝夫の次男が、友達や近所の大人を集めて、少年野球チームの「ビクトリー」を作ったが、これに寺村の長男も参加し、寺村が監督になる。その後、「ビクトリー」に入って来たのが当時小学校4年生の井口であり、寺村は「井口君は俺が育てた。」と言う(参照:寺村輝夫)。捕手としてこの時から野球を始め、中学校まで捕手を務める。小学校の5年の時に少年野球チームの「保谷リトルクラブ」に移籍する。小学校と中学校では最高学年で主将を務める。中学校の3年の時には全国大会に出場。井口は「守備の際に使用するレガースプロテクターを着けるのが好きで、両親に買ってもらって喜んでいた一幕もありました。」と言うように当時の思い出を話していた。

國學院久我山高等学校で内野手になり、遊撃手としてプレーするようになる。2年の夏に3番・遊撃手として全国大会に出場。2年の秋から3年の夏までは主将を務め、3番・遊撃手としてプレーするが、春と夏の全国大会の出場を逃した。

その後、青山学院大学へ進学。高等学校時代に引き続いて、遊撃手としてプレーする。4年の春から4年の秋まで主将を務める。4年の時にはアメリカ合衆国で開催されたアトランタオリンピック野球日本代表に選ばれ、銀メダル獲得に貢献。この時にキューバ代表のプレーに衝撃を受けたことが後のメジャー挑戦を意識するきっかけになった。また、 同期のチームメイトである澤崎俊和清水将海倉野信次などと一緒に全日本大学野球選手権大会の優勝を始め、多くの輝かしい実績を残した。個人としても、1番・遊撃手の「青い核弾頭」として活躍し、東都大学リーグ史上唯一である三冠王や、リーグ記録となる1シーズン8本塁打などを記録。

大学通算成績は101試合出場、366打数、103安打打率.281、24本塁打、61打点、32盗塁。 東都大学通算24本塁打は現在も破られていないリーグ記録である。また、最高殊勲選手2回、ベストナイン4回の受賞の経験がある。

プロ野球の各チームの争奪戦の末、福岡ダイエーホークスを逆指名した。1996年のドラフト会議ではダイエーが1位指名で交渉権を獲得し、契約金1億円、出来高払い5000万円、年俸1300万円(金額は推定)で入団した。背番号は「7」に決まった。青山学院大学のチームメイトでは澤崎が広島東洋カープ1位(逆指名)、清水が千葉ロッテマリーンズ1位(逆指名)でそれぞれ指名され、同一チームから同時に3人のドラフト1位選手が出た。

プロ入り後

ダイエー時代

1997年
3月のオープン戦で右足首を捻挫したために開幕には間に合わず、5月3日の対近鉄バファローズ戦で2番・遊撃手として一軍で初出場。1回裏のプロ初打席山崎慎太郎から一軍での初安打となる左前安打を放ち、4回裏の3打席目では山崎から一軍での初本塁打となる左越え満塁本塁打を放つ鮮烈なデビューを飾った。外国人選手を除き、新人選手のデビュー戦での満塁本塁打はプロ野球史上初の快挙だった。しかし、順調な滑り出しとは裏腹に、その後は低打率に苦しみ、主に下位打線で起用されるようになった。年末にはアメリカ合衆国ハワイ・ウインターリーグ松中信彦らと一緒に派遣され、ウェストオアフ・ケーンファイアーズに留学という形で所属した。
1998年
開幕当初は1番として起用されたが、その後は9番など下位打線に回ることが多かった。打率はリーグ最下位となる.221と低迷したものの、リーグ12位の21本塁打を放ち、「恐怖の9番」と言われた。また、7月5日の対ロッテ戦では吉田篤史からランニング本塁打を放った。
1999年
開幕からクリーンアップや1番を任されるものの、その後は低迷し、例年と同様に下位打線で起用されるようになる。打率はリーグ最下位の.224に終わったものの、優勝争いの中でサヨナラ打を3度記録するなど、勝負強さを発揮した。9月8日の首位攻防となる対西武ライオンズ戦では西崎幸広からサヨナラ満塁本塁打を放ち、試合前に西武が敗れてマジック1で迎えた9月25日の対日本ハムファイターズ戦でも金村暁から決勝本塁打を放つなど、ダイエー初のリーグ優勝、日本シリーズ優勝に貢献した。
2000年
この年も下位打線を任されていたが、レギュラーシーズン中に左肩を負傷し、手術を行い、長く戦列を離れる。日本シリーズで戦列に復帰した。リーグ優勝記念旅行にも参加せず、年末には登録名を本名の「井口忠仁」から「井口資仁」に変更して飛躍を誓った。
2001年
守備面では鳥越裕介遊撃手を譲って二塁手コンバートされ、走塁面ではコーチの島田誠の助言から目標を盗塁王に定めて臨んだ年だった。プロ入り以降、打率が.250を超えたことがなかったことから、確実性を高めるためにフォームを足を上げる打法からすり足打法に変えてレギュラーシーズンに臨んだ。同年は3番としてほぼ定着し、打率は.261(リーグ27位)に終わったが、史上3人目の30本塁打、40盗塁を達成し、44盗塁で盗塁王のタイトルを獲得し、ベストナインゴールデングラブ賞を受賞した。この年、井口が30本塁打(リーグ12位)を記録したのに加え、松中が36本塁打、小久保裕紀が44本塁打、城島健司が31本塁打を記録し、パシフィック・リーグ初の30本カルテットを形成。日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初の快挙だった。11月には台湾で開催された第34回IBAF(国際野球連盟)ワールドカップの日本代表に高橋由伸井端弘和や高校生で唯一メンバー入りした寺原隼人らと一緒に選ばれ、3番・二塁手として出場した。
2002年
ストライクゾーン改正もあり(翌年は再び従来通りに変更)、前年に比べて投高打低化し、リーグ平均打率は.255だったが、井口自身は打率.259(リーグ24位)とリーグ平均打率を上回った。しかし、本塁打は18本と多くの打者の例に届かずに数字を落とした。年末には城島と一緒にスコアラーの金森栄治に指導され、「より引き付けて打つ打法」に変更。フォームをすり足打法から再び足を上げる方法に戻した。
2003年
5試合連続の猛打賞、1試合4二塁打の日本タイ記録を達成した。開幕戦は7番で迎えたが、レギュラーシーズン途中から3番としてほぼ定着し、ダイハード打線の中心を担った。打率.340(リーグ4位)、27本塁打(リーグ12位)、109打点(リーグ5位)を記録し、OPS1.011(リーグ4位)はチームトップだった。2度目のベストナインとゴールデングラブ賞にも選ばれた。また終盤に村松有人骨折で離脱したこともあり、2年ぶりの盗塁王(42盗塁)に輝き、松中、城島、ペドロ・バルデスと共に史上初の100打点カルテットを形成した。日本シリーズでは打率は.231に終わったものの、本塁打を2本放ち、優秀選手に選ばれた。年末には一時ポスティングシステムでのメジャー移籍を球団事務所から承認されていたが、小久保の読売ジャイアンツへの移籍により否認。契約更改では「オーナーの中内正の経営体制が刷新した場合、または高塚猛がオーナー代行を辞任した場合、自由契約の選択権は井口にある」との覚え書きを交わした。
2004年
開幕から3番に座ったが、1番として起用されることも多く、城島がアテネオリンピック出場により離脱した期間には代役として5番も務めた。公式戦最終戦の9月23日の対北海道日本ハムファイターズ戦ではサヨナラ本塁打を放った。レギュラーシーズンでは打率.333(リーグ4位)、24本塁打(リーグ12位)、89打点(リーグ8位)を記録した。年末には高塚が部下への強制猥褻罪の容疑で逮捕されたために辞任したことを受け、前年に交わした覚え書きによって自由契約を選択し、MLBに挑戦することを表明。

ホワイトソックス時代

2006年、ホワイトソックス時代
(当時31歳)
2005年
シカゴ・ホワイトソックスと2年470万ドルで契約(3年目は年俸330万ドルのチームのオプション)。開幕戦となった4月4日の対クリーブランド・インディアンス戦に2番・二塁手として初出場。開幕2戦目となる4月6日のインディアンス戦ではケビン・ミルウッドからメジャー移籍後初安打を二塁打で記録(同試合で初盗塁も記録)。5月3日の対カンザスシティ・ロイヤルズ戦ではブライアン・アンダーソンから左翼席へメジャー初本塁打を放った。その後もスコット・ポドセドニックと一緒にホワイトソックスの「スモール・ボール(監督のオジー・ギーエンが命名した名前は「スマート・ボール」)」を牽引。この年は打率.278、OPS.780を記録。特にホームでは好調で、打率.304、OPS.830の好記録を叩き出した一方、ビジターでは打率.248、OPS.724とホームでの時に比べると苦戦を強いられ、本拠地(USセルラー・フィールド)に恵まれた数値が示された。
ポストシーズンでは10月5日の前年度ワールドチャンピオン、ボストン・レッドソックスとのアメリカンリーグ・ディビジョンシリーズ第2戦で決勝の逆転3点本塁打を放つ活躍などを見せ、移籍1年目でリーグ優勝に貢献した。その後、ワールドシリーズに出場。日本人選手としては新庄剛志松井秀喜田口壮に次ぐ4人目のワールドシリーズ出場選手となった。ワールドシリーズ優勝にも貢献し、日本人では伊良部秀輝に次いで2人目のチャンピオンリングを獲得した。伊良部はワールドシリーズに出場しておらず、実際に出場してリングを獲得したのは井口が初めてである。しかし、最後の打席後に交代し、優勝決定の瞬間はベンチにいたため、「優勝した瞬間グラウンドにいた最初の日本人選手」の座は翌年の田口に譲ることになった。また、日本人で初めて日本シリーズとワールドシリーズの両方を制覇した選手となった。レギュラーシーズン終了後には、両リーグから選ばれる新人ベストナインに二塁手部門で選ばれる。後にこのシーズンについて自己犠牲を強いられる役割には不満があったと語るが、ギーエンの「今年のMVPは井口。井口みたいな野球を深く理解している選手はいない。彼がいたからホワイトソックスはワールドシリーズを制覇出来た」という言葉で救われたという。
2006年
ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれる。当初井口は「すべてのプロ野球選手が出場を望んでいる大会。1年ぶりに王貞治監督の下で野球ができることを楽しみにしている」と発言していたが、その後辞退。井口は「2年目は、1年目以上のものを求められる。そのためにはチームのキャンプでアピールしないといけない。」などと語り、1月6日に大リーグの東京事務所を通じ監督の王にファックスを出したことを明かした。王は「井口の欠場は個人的な理由だからしょうがない。出ますというベストの選手の中でやっていくしかない。」と語った。
5月20日の対シカゴ・カブス戦で1試合6打点を、6月25日の対ヒューストン・アストロズ戦で1試合7打点を記録。レギュラーシーズン通算では打率.281、18本塁打、OPS.774の記録を残したが、ホームでは打率.313、OPS.853、ビジターでは打率.249、OPS.695と前年と同様にビジターで苦戦したことに加え、本拠地が考慮されるOPS+では平均を下回るなど、本拠地に恵まれた数値が示された。ギーエンは「打点の稼げるスラッガーになろうとしてメジャーの世界にやって来たのに、2年間、今までやったことがないことを良くやってくれた」とコメントした他、レギュラーシーズン終了直後には直々に「お前にはかなり我慢させてしまった。今年だって本当なら20本以上の本塁打を打っていたはずだし、打率も3割を越えていたはずだ。来年はもっと自由に打たせる」と言われたという。12月29日の東京証券取引所の大納会にゲストとして招かれた。
2007年
開幕直後に怪我をしていながらも強行出場していたこともあったために低調なスタートを切った。

フィリーズ時代

2007年7月27日には右手を骨折したチェイス・アトリーの代役として、マイケル・ダビーとのトレードでフィラデルフィア・フィリーズへ移籍した。

フィリーズではアトリーの復帰までは先発で二塁手を務めたが、アトリーの復帰後は監督のチャーリー・マニエルから三塁手への転向を勧められたが、これを固辞。そのため、主に代打での出場となり、フィリーズ移籍後は打率.304を残した。ポストシーズン終了後には「現在は永住権を申請中であり、来季は二塁手のレギュラーとして起用してもらえるチームを中心に移籍先を探す。」と言う発言をした。

パドレス時代

2007年12月18日にサンディエゴ・パドレスと1年385万ドルで契約を結んだ。

2008年、パドレス時代
(当時33歳)
2008年
4月中は32打席連続無安打になるなど、絶不調に陥ったが、4月26日の対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で日本人選手史上2人目となるサヨナラ本塁打を記録。5月16日の対シアトル・マリナーズ戦ではダイエー時代のチームメイトだった城島と2004年10月1日のパ・リーグのプレーオフ第2ステージ対西武戦の第5戦以来、1313日ぶりに本塁打を競演。その後も二塁手として出場していたが、3安打を放った6月5日の対ニューヨーク・メッツ戦では走塁中に転倒して右肩を脱臼。6月6日にメジャー4年目で初の故障者リスト入りとなった。8月2日に復帰したが、脱臼した右肩の影響などで調子が上がらず、9月1日に解雇される。

フィリーズ復帰

2008年9月5日に前年に所属したフィリーズと契約。その後フィリーズはポストシーズンに進出。井口の入団はポストシーズン出場選手登録期限後のため出場資格はなかったが、同年にフィリーズに所属していた田口壮と一緒に2個目のチャンピオンリングを手にすることになった。

ロッテ時代

2009年
1月20日に千葉ロッテマリーンズと年俸1億8000万円の3年契約を結んで入団。複数年契約を提示したフィリーズを始め、当時複数のメジャーチームから三塁手としてのオファーがあったが、家族の生活環境と二塁手としてのオファーを優先しロッテへの入団を決めたという。背番号は初芝清が2005年に現役を引退して以降準永久欠番扱いとなっていた「6」に決まった。石垣島での開幕前のキャンプではダイエー時代に行っていた朝練習を竹原直隆と一緒に敢行。開幕から4番を務め、4月7日には史上7人目となる全打順本塁打を日本プロ野球通算150本塁打で放った。不振で途中から4番を外されたが最終的に123試合に出場し、打率.281、19本塁打を記録した。
2010年
自らトリプルスリーを目標に掲げた年だった。打率.294、17本塁打、2盗塁と目標には届かなかったが、3番・二塁手に定着し、得点圏打率は.340と高い数値を記録。また、リーグ2位の103打点を記録した。また、四死球112と二塁打44はいずれもリーグトップだった。NPB/MLB通算1500本安打も達成し、チームはレギュラーシーズンでは3位に終わったが、クライマックスシリーズではリーグ優勝したソフトバンクを下して日本シリーズに進出し、日本一を達成した。
2011年、ロッテ時代
二塁守備につく井口(当時36歳)
2011年
この年から導入された統一球の影響もあり、前年に比べて大きく成績を落としたものの、チームトップとなる9本塁打、73打点を記録する。しかし、チームはリーグ最下位に終わった。
2012年
5月28日の対広島東洋カープ戦では5回表にブライアン・バリントンから左中間へ3ラン本塁打を放ち、史上98人目となる日本プロ野球通算200本塁打を達成した。同年の打率、打点の成績は前年より成績を落とすが、チーム最多の140試合に出場し、本塁打は2年振りの2桁本塁打となる11本(チームトップ)を記録し、自身初のリーグベストテン入り(7位)を果たした。
2013年
開幕当初は二塁手として起用されたが、この年からは一塁手にも挑戦することになった。4月16日の対日本ハム戦では一塁手として先発出場し、NPB/MLB通算250本塁打を含む4打数4安打で3打点を挙げた。指名打者として出場する時もある。5月は9本塁打、20打点、長打率.663の成績で自身3度目の月間MVPを獲得。7月26日の対楽天戦で田中将大からこの日2本目の安打を本塁打として、NPB/MLB通算では史上5人目となる2000本安打を達成。なおこの試合はサヨナラ負けを喫し、田中の連勝が続くこととなった。7月終了時点で打率.328、19本塁打と好調だったが、8月、9月には月間打率2割台前半を記録するなど不振に陥った。最終的に打率.297(リーグ11位)、23本塁打(リーグ7位)、83打点(リーグ9位)を記録し、長打率、OPSの数値はロッテ移籍後最高だった。
クライマックスシリーズの第1ステージでは打率.333、2本塁打の活躍でファイナルステージ進出に貢献したが、ファイナルステージでは打率.154、0本塁打と不振に陥った。チームもファイナルステージで敗退し、日本シリーズ出場を逃した。第1ステージ、ファイナルステージの通算では打率.227、2本塁打を記録した。
2014年
開幕から一塁手として起用され、4月16日の対西武戦で3年ぶりとなる2打席連続本塁打を放つなど春先は好調を維持する。しかし以後は右手中指の腫れもあって成績を落として移籍後最低の打率に終わり、日本球界復帰後初めて規定打席にも到達しなかった。シーズン後に右手中指の手術を予定していたが、検査結果を受けて回避することを決めた。契約更改では前年に3年契約を結んでいたことを明かした。
2015年
8月28日のオリックス戦で350二塁打を達成した。 代打での起用が多く、87試合で打率.247、本塁打6、打点28に終わった。
2016年
この年から前述の通り、日本球界最年長野手となった。7月29日、パ・リーグ最年長選手であったケニー・レイ(楽天)の退団に伴い、新たにパ・リーグ最年長選手となった。今シーズンもスタメンと代打の交互での起用が多く、最終的には79試合 打率.257、本塁打5本、打点34で終えた。
2017年
パ・リーグ最年長選手となった。6月20日に球団公式サイトにて今期限りで引退することを発表し、「まだシーズンの途中ですが、今シーズン限りで引退する事を決めました。ここまで長くプレーしてきて、色々な思い出はありますが、まだ振り返りません。今は一つでも多くの勝利と一つでも上の順位を目指し、チームの力となって全力を尽くしていきたい。そして、残りのシーズンで今まで以上の思い出を作っていけたらいいと思います。打席に入る時のマリーンズファンの声援は力になります。残りの試合でも今まで以上の熱い声援を宜しくお願いします」とコメントした。引退試合となった9月24日の本拠地ZOZOマリンスタジアムでの日本ハム戦では、始球式を長女・琳王が務め、試合では6番・指名打者で出場し、2点ビハインドで迎えた9回裏の第4打席、無死一塁で増井浩俊からバックスクリーン右へ同点本塁打を放った。その後延長11回裏の第5打席は右飛に倒れたため、結果としてこれが現役生活最後の安打となった。試合後には引退セレモニーが実施され、ゆかりのある人物からのビデオメッセージが流された。また、この日の本塁打の着弾点となった『右翼席2列624番』は、「井口資仁選手 2017年9月24日 引退試合本塁打着地点」を示すプレートが設置されることが発表され、2018年公式戦よりマリンスタジアムにおいての記念碑的なホームランの着弾点を示す「レガシート」の一つとして制定、設置された。また、NPBのみならずMLBにおいても、9月28日の古巣ホワイトソックスのホーム最終戦で、引退セレモニーとして本人による始球式が行われた(日付は現地時間)。背番号は当時と同じ「15」だった。

現役引退後

ロッテ監督時代

2017年10月12日、2018年シーズンからロッテの一軍監督を務めることが球団から発表された。メジャーリーグ経験の日本人選手はコーチや二軍監督もあるが一軍監督になるのは初めてとなる。井口は球団のオフィシャルサイトで「これから始まる新たな挑戦に今はとてもワクワクしています。マリーンズというチームの良さをどのように出せばいいか。どう変えていくべきか。もうすでに色々な事が頭の中を駆け巡っています。強く、そしてファンの皆様に愛される魅力的なチームを作り上げたいと考えていますので応援の程、宜しくお願いします。」とコメントした。同14日に就任会見が行われ、監督としての背番号は現役時代と同じ「6」を使用することとなった。ヘッド兼内野守備走塁コーチに鳥越裕介、戦略兼バッテリーコーチに的場直樹、バッテリーコーチに清水将海、2軍監督に今岡真訪を招聘した。

選手としての特徴

井口の走塁(2008年)

打撃

ダイエー時代の監督である王貞治によると右方向への長打が特長である。メジャーリーグではクリーンアップへの繋ぎを求められる2番での出場が多かった。ホワイトソックス時代はチームの方針からほぼ毎打席1ストライクを捨てながらも20本近い本塁打を放ち、A.J.ピアジンスキーから「打順が変われば、25本塁打まで打てる力がある。」と言われ、他チームのスカウトマンたちからも「2番ではなく、6番を打たせれば、30本塁打まで打てる力がある。」と長打力が高く評価されていた。ロッテ移籍当初は4番や2番で出場したが、後に3番に定着した。2010年には12チームトップのIsoD.118を記録するなど、ロッテ移籍後は選球眼に磨きがかかり、また、同年は外角打率.313で12本塁打を放つなど、外角に強さを発揮した。

走塁・守備

一塁到達4.3秒だが、ダイエー時代は通算盗塁成功率約78%を記録し、2度の盗塁王を獲得している。メジャーリーグ移籍以降は盗塁数が減少した。

ダイエー時代は2000年までは遊撃手を務めていたが、2000年秋のキャンプから二塁手のコンバートに取り組んだ。一塁への送球距離が短くなったことで、無理に前進せずにボールを引き付けて捕球するケースが増え、打席でも「前に突っ込まなくなった」という。二塁手としては3度ゴールデングラブ賞に輝いた。守備では深めの位置で守ることが多く、肩の強さは二塁手としてはメジャーでも強肩の部類に入ると評された。ジミー・ロリンズは井口と初めて二遊間を組んだ時について、「あの日は練習時間を間違えて球場入りしてしまったんだ。練習や打ち合わせなしで本番に臨んだ。でも、初回から彼のプレーを見て、『本物だ。それに僕と感覚が似ている。僕と同じで基本の枠を越えてプレー出来る選手だな。』と実感した。素晴らしいね。」と語った。2006年には『ベースボール・アメリカ』誌で監督投票による「最も守備に定評がある内野手」の2位に選ばれるなど、グラブ捌きにも定評があったが、守備範囲は広くなく、MLB通算UZRは-4.3、DRSは-5を記録するなど、各種守備指標で平均を下回り、ロッテ移籍後も得点換算などで平均を大きく下回った。2013年は一塁手として99試合に出場し、規定試合数に到達したが、UZRでは400イニング以上出場した一塁手としてはリーグワースト2位となる-5.2と平均を下回っている。2015年にも一塁手としてリーグワーストのUZRを記録した。

人物

現役時代に使用していたバッティンググローブはアシックス社製の「隈取」が甲に描かれたWAJIKARAシリーズ。

西武時代の松坂大輔との対戦では通算で打率.365(85打数、31安打、3本塁打、9打点)を残して得意としていたことから、「松坂キラー」と呼ばれた。

ホワイトソックス時代には本拠地のUSセルラー・フィールドで井口が打席に入る時や好プレーをした時になると、ブーイングに似た「GUU-! GUU-!」という唸り声をホームの観客が発した。これは「グーイング(guing)」と呼ばれる井口への応援である。現地では「イグチ(井口)」の「グ」にアクセントが置かれた特徴的な発音で呼ばれることが多く、これに由来する。

ロッテでは、“背中でアドバイスをする”その姿勢から“お父さん”と評されていた(角中勝也談)。

詳細情報

年度別打撃成績




【球

団】


































































O
P
S

1997 | ダイエー | 76 | 252 | 217 | 31 | 44 | 6 | 3 | 8 | 80 | 23 | 3 | 3 | 2 | 1 | 24 | 0 | 8 | 67 | 4 | .203 | .304 | .369 | .673
1998 | 135 | 476 | 421 | 58 | 93 | 18 | 4 | 21 | 182 | 66 | 12 | 6 | 15 | 4 | 28 | 1 | 8 | 121 | 6 | .221 | .280 | .432 | .712
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/07/09 13:48

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