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井川慶とは?

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井川 慶
オリックス時代
(2015年5月5日 神戸第二サブ球場にて)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
茨城県東茨城郡大洗町
【生年月日】
(1979-07-13) 1979年7月13日(38歳)
身長
体重 186 cm
93 kg
【選手情報】

【投球・打席】
左投左打
【ポジション】
投手
【プロ入り】
1997年 ドラフト2位
【初出場】
NPB / 1999年5月2日
MLB / 2007年4月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


井川 慶(いがわ けい、1979年7月13日 - )は、茨城県東茨城郡大洗町出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。

メジャーリーガーで、NPBでは阪神タイガースオリックスバファローズでプレー。阪神時代の2003年2005年には、エースとしてチームをセントラル・リーグ優勝に導いた。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 阪神時代
    • 1.3 ヤンキース時代
    • 1.4 オリックス時代
    • 1.5 オリックス退団後
    • 1.6 独立リーグ・兵庫時代
  • 2 選手としての特徴
  • 3 人物
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別投手成績
    • 4.2 タイトル
    • 4.3 表彰
    • 4.4 記録
    • 4.5 独立リーグでの投手成績
    • 4.6 独立リーグでのタイトル・表彰
    • 4.7 背番号
    • 4.8 登場曲
  • 5 脚注
  • 6 関連項目
  • 7 外部リンク

経歴

プロ入り前

茨城県東茨城郡大洗町出身。大洗野球スポーツ少年団で野球をはじめ、小学生までは右投げだった。高校時代も体のバランスをとるために右投げの練習は続けていた。プロ入り後も、オフに帰郷するたび、自らの後輩である大洗の小中学生相手に野球教室を開いている。

水戸商高3年春の県大会、対竜ヶ崎一高戦で、7回参考記録ながら18奪三振完全試合を達成。しかし夏は腰痛のためほとんど登板機会がなかった。県大会決勝の対茨城東高戦(水戸市民球場)に痛み止め注射をして登板したが、自らのミスなどで4点を失い敗退。

全国大会出場はなかったが、「東のドクターK」として一部では名前が知られており、当時川口知哉能見篤史と並んで「高校生左腕三羽ガラス」と呼ばれた。1997年のドラフト2位で阪神タイガースに入団。この時は日本ハムファイターズも指名を一時検討していたが、先述の腰痛を理由に見送った。高校では日商簿記2級・英検3級の資格を取得している。

阪神時代

1999年5月2日の対広島東洋カープ戦(阪神甲子園球場)に中継ぎで一軍プロ初登板を果たした。5月7日の対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で4回に波留敏夫から初奪三振、5月19日の対広島戦(米子市民球場)でプロ初先発登板し初勝利を挙げた。

2000年は9試合に登板し、5試合で先発登板したものの、勝ち星はわずか1つしか挙げられずにシーズンを終えた。

2001年野村克也監督から先発ローテーションに抜擢され、4月24日の対巨人戦(甲子園)でプロ入り後初完投勝利。監督推薦によりオールスターゲームの出場を果たした。最終的に防御率はリーグ2位の2.67という成績を残したが、打線の援護がなく、チームも4年連続最下位で、9勝13敗と負け越した。防御率2位での負け越しは1991年の今中慎二以来であった。

2002年は監督が星野仙一に代わり、3月30日の対巨人戦(東京ドーム)で開幕投手を務め、3対1で完投、チーム12年ぶりの開幕戦勝利に貢献した。夏場に調子を落としたが、206奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得。

2003年も開幕投手を任され、黒星を喫したものの、6月・7月に4戦連続完投勝利を挙げ、8月2日の勝利で12連勝を記録。連勝中はゲンかつぎとして髪を切らなかったため、約3か月間も髪を伸ばしっぱなしになりアフロヘアーのような髪型になっていた。最終的にセ・リーグでは1999年の上原浩治以来の20勝投手となり、阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導いた。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは第1戦と第4戦に先発登板。第1戦はダイエーの先発が井川と同じく同年20勝を挙げた斉藤和巳が登板したことで、20勝投手同士の投げ合いとなった。しかし、自身は5回3失点で降り、勝敗は付かなかった。第4戦は6回まで1失点と好投するも、7回に追いつかれてしまい、6回2/3を4失点で降板。なおチームはサヨナラ勝ちしたが、最終的に日本一にはなれなかった。同年オフまで快適という理由で長らく寮生活を続けていたが、退寮指令を受け、梅本正之寮長の定年を節目に退寮。寮では模範生で、途中からは若手の講師役にも指名されていた。

2004年10月4日の対広島戦(広島市民球場)でプロ野球史上71人目となるノーヒットノーランを達成。同年は前年より調子を落とし11敗を喫し、防御率も3.73と悪化したが、14勝を挙げ、チームのエースとしての役割を果たした。オフにポスティングシステムでのメジャー移籍を希望したが、球団との交渉が決裂。自費でのキャンプ参加となり、否定的な報道や一部世論の反発に遭った。以降毎年オフに球団に対しポスティングによるメジャー移籍を希望することになった。

2005年8月23日の対広島戦(広島市民球場)で1,000投球回を達成。このとき井川が連続三振を奪った勢いで捕手の矢野輝弘が記念ボールをスタンドに投げ込んでしまい、ベンチ前にほとんどの選手とコーチが出て受け取ったファンに頭を下げ、記念ボールを返してもらった。同年は2軍落ちもあったが、13勝9敗防御率3.86の成績だった。2年ぶりのリーグ優勝に貢献した。日本シリーズではロッテと対戦。第1戦の先発を任されたが、6回5失点と打ち込まれ敗戦投手となった。阪神投手陣は大きく打ち込まれ、ストレートの4連敗で日本一を逃した。

2006年には5年連続2桁勝利を達成。球団はそれまでの貢献を考慮して3年越しの希望であったメジャー移籍を容認したため、11月10日にポスティングによるメジャー挑戦を表明。アーン・テレムを代理人とした。11月29日にニューヨーク・ヤンキースが2,600万194ドル(当時のレートで約30億円)で独占交渉権を得て落札した。

ヤンキース時代

2006年12月27日に5年2,000万ドル(2011年まで毎年400万ドル)+出来高で契約。

ヤンキース時代

2007年2月に結婚を発表。4月7日の対ボルチモア・オリオールズ戦(ヤンキー・スタジアム)でメジャー初登板。5回8安打4四死球2本塁打7失点で降板したが、その後ヤンキースが逆転したため勝ち負けはつかなかった。4月18日の対クリーブランド・インディアンス戦(ヤンキー・スタジアム)で、6回5安打5奪三振2失点でメジャー初勝利を挙げるが、その後も投球フォームや制球が安定せず中継ぎへ降格。4月28日の対ボストン・レッドソックス戦では、先発投手が負傷降板した後リリーフとして緊急登板、6回を無失点に抑えてメジャー2勝目を挙げた。この好投が認められて先発に復帰したものの、5月7日にマイナーに降格。6月22日の試合でメジャー復帰したが、7月28日に2度目のマイナー降格。9月22日の試合でメジャー再復帰し中継ぎとして登板。25日には昇格後初めて先発し5回を0点に抑えたが、勝ち星はつかなかった。結局この年は2勝3敗、防御率6.25, WHIP1.67と不振に終わったが、実力を評価する声は多く、「ヤンキース以外なら活躍できる投手」、「ナ・リーグに行けば大化けする」との声も上がり、サンディエゴ・パドレスが「年俸を全て引き継ぐ形で獲得したい」と積極的な姿勢を示したが、ヤンキースがポスティングの入札金の分担まで要求したため破談となった。

2008年は前年の不振により開幕前から先発としての構想には入っておらず、スプリングトレーニングでは中継ぎとしての起用が続いた。また、開幕前の大学生との練習試合では満塁本塁打を打たれるなど、出だしからつまずいて結果を残せなかった。若手起用のため、開幕はAAA級スクラントン・ウィルクスバリ・ヤンキースで迎えた。5月9日にメジャー昇格し、その日の対デトロイト・タイガース戦に先発したが、3回を11安打6失点で敗戦投手となり、15日にマイナー降格。6月28日に再昇格し、対ニューヨーク・メッツ戦の9回に登板し、1回を無失点に抑えた。しかしその翌日に再びのマイナー降格を通告された上、7月26日にはメジャー契約を解除され、40人枠から外れた。本人は「メジャーリーグでローテーションを守れるピッチャーを目指して頑張りたい」と語ったが、結局この年はスクラントンで14勝6敗、防御率3.45, WHIP1.19の好成績を残し、3Aのベストナインに当たる「オールスターチーム」の左腕投手部門に選出されたものの、メジャーリーグでの勝ち星を挙げることはできなかった。オフには過去の反省と今後のチーム編成について会見したGMのブライアン・キャッシュマンから「井川の獲得は失敗だった」とコメントされるなど厳しい評価が続いた。キャッシュマンからは(メジャーに残る方策として)横手投げへの転向も示されたが、断ったという。

2009年はスプリングトレーニングに招待選手として参加し、15回3分の1を投げて1失点だったが与四球率5.35と四球が多く、3月23日にマイナー行きを通告され、2年連続で開幕をスクラントンで迎えた。スクラントンでは前半戦は9勝4敗、防御率4.04, WHIP1.24の成績を残していたが、後半戦は1勝4敗、防御率5.66, WHIP 1.70と不調に陥った。最終的にはチーム最多の10勝8敗、防御率4.15、WHIP1.41の成績を残したが、メジャーでの登板はなかった。12月にはグリーンカードを申請中であることを明らかにした。29日には地元紙の『ニューヨーク・ポスト』が掲載した「過去10年のニューヨークのプロスポーツ選手ワースト10」において1位に選ばれた。

2010年もスプリングトレーニングに招待選手として参加したが、中継ぎとして2回3分の2を投げて失点5, 防御率16.87, WHIP1.88と振るわず、3月13日にマイナーに降格。スクラントンでは先発として10試合に先発し防御率3.96, WHIP1.24の成績を残したが、リリーフでは12試合の登板で防御率5.00、WHIP1.65と結果を残せなかった。このシーズンもメジャーでの登板はなく、2年連続でメジャーの試合に出場することはなかった。オフには前年に申請していたグリーンカードを取得し、ヤンキースとの契約終了後もMLBでのプレーを希望していることを明らかにした。

2011年はキャンプからマイナーでスタート。故郷の大洗町が東日本大震災で被災したことで3月14日に一時帰国したが20日に再渡米し、開幕はAA級トレントン・サンダーで迎えた。4月21日にはスクラントンでAAA級の対リーハイバレー・アイアンピッグス戦に先発するも、その試合以外はトレントンで5先発を含む11試合に登板し、6月12日にスクラントンに昇格。当日AAA級の対シラキュース・チーフス戦に先発し、球団史上最多タイ記録となる73先発を記録したが、トレントンで故障者が続出したことに伴い17日にトレントンに再降格した。26日にはスクラントンに再昇格したが、2試合に先発した後に再降格し、左ひじの張りで故障者リスト入りした。8月中旬に復帰し、最終的にリリーフではマイナー通算10試合の登板で1勝0敗1セーブ、防御率1.90, WHIP1.01の成績を残したが、先発では同10試合の登板で2勝2敗、防御率4.72, WHIP1.57の成績に終わった。

MLBで成績を残せなかった要因として、球団側からの信頼度の低さと獲得の際の調査不足により、数度の失敗でチャンスを失ったことを挙げている。井川の獲得は当時のヤンキースGM補佐のビリー・エプラーの強い推薦により実現したが、1年目のスプリングトレーニングでブルペンに入った際、エプラーはブルペン捕手に「どうだい? すごい球を投げるだろう」と聞いたところ、「故障をしているならわかるがとてもメジャーのレベルじゃない。制球は最悪だ」と返される場面があった。しかし井川本人はアメリカでの5年間について「(失ったものは)ないですね。すべてが自分の血となり肉となってます」と語り、マイナー生活も悪いことばかりではなかったと語っている。一方、メジャーで通用しなかったことについては「井の中のかわずでしたね。世界に出て、能力が高い選手もたくさんいて努力で埋まらない差が身に染みて分かりました。メジャーで投げたかったですけど、すごく勉強になりました」と2017年のインタビューで述べている。

上述の通り、2007年にはパドレスがトレードでの獲得に積極的な姿勢を示したことがあった。また、2008年と2009年には日本の球団が獲得を打診したことがあり、その際にキャッシュマンは井川に「君の能力はメジャーリーグには適応しないというのが我々の評価だ。日本の球団との取引はヤンキースの財政的な負担も軽くする」と井川に直接話したが、同時に「しかし君がヤンキースにいたいのならこのトレードを断ることもできる」とも伝え、結果的に井川は2度ともトレードを拒否した。

なお、5年間のマイナー通算成績は、107試合登板(うち先発83試合)で36勝25敗1セーブ、防御率3.83、奪三振419だった。

オリックス時代

2012年3月28日にオリックス・バファローズへの入団を自身の公式サイトにて発表し、6年ぶりにNPB復帰が決まった。背番号は阪神・メジャー時代と同じく「29」となった。5月9日に一軍登録されると、同日の対福岡ソフトバンクホークス戦(ほっともっとフィールド神戸)に、先発投手としてNPBの一軍公式戦へ2,032日ぶりに登板した。しかし、4回表に江川智晃へ2球目を投じたところ、右太股の痙攣を訴えて62球で降板。3回2/3を1失点の内容で敗戦投手になった。7月11日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で8回3安打1失点に抑え、2006年10月16日以来2,095日ぶりに日本で白星を挙げた。7月26日の対楽天戦でも7回1失点で勝利投手となり、続く8月2日の対西武戦でも7回を無失点に抑えたが、この時に左脇腹を痛めてしまった。阪神時代には球速140 km/h後半を記録していたが、この年は平均球速137 km/hと球速が出ず、苦しいピッチングを強いられた。その後は2試合連続で8失点し、8月16日に登録抹消。8月31日に一軍復帰すると、2試合連続でクオリティ・スタートを達成したものの敗戦投手となり、9月14日の対楽天戦で先発した際に左脇腹痛が再発して1回限りで降板し、そのままシーズン終了となった。結局、日本球界復帰初年度は12試合の先発で2勝7敗、防御率4.65に終わった。10月30日にはオリックス移籍前から違和感を持っていた左肘の遊離軟骨と骨棘の除去手術を受けた。

2013年は術後リハビリ中も腰に違和感を抱えるなどもあり復帰は5月末であったが、そこから8月頭までの9試合に先発し、勝敗こそ3勝3敗の五割だったが防御率2.59の成績だった。8月に二軍落ちをして以降はチーム事情も重なり一軍復帰はなくシーズンを終えた。

2014年はオープン戦で結果を残し、開幕ローテーション入りを勝ち取った。しかし3月29日の対北海道日本ハムファイターズ戦で、陽岱鋼に先頭打者本塁打を浴びるなど初回から打ち込まれ、自己最短となる2/3イニングで降板した。その後異例の中3日で4月3日の対楽天戦に先発し、5回無失点で勝利投手となったものの、セ・パ交流戦を機に先発投手の頭数の関係で5月に登録抹消されると、ルーキーの東明大貴や井川と同じ先発左腕の松葉貴大のローテ定着もあり、以後一軍での登板はなかった。オフには、同じくマイナーリーグから復帰しオリックスと契約した中島裕之へ「経験を伝えられることもあると思う」と橋渡し役を買って出た。

2015年には、一軍公式戦での登板機会がなく、ウエスタン・リーグの公式戦でも0勝4敗、防御率14.40と不振を極めた。シーズン中の6月頃から食事療法に取り組んだ結果、2ヶ月間で体重を約12kg減らしたが、10月2日に球団から戦力外通告を受けた。

オリックス退団後

「アメリカからの帰国後では一番いい状態」として、現役続行を模索。2015年11月10日に草薙球場で開かれたNPBの12球団合同トライアウトには参加しなかったが、NPB他球団以外のプレーも視野に、代理人に交渉を任せながら自主トレーニングへ専念していた。

2016年2月からは、独立リーグのBASEBALL FIRST LEAGUE(BFL)に加盟する兵庫ブルーサンダーズの練習に参加。井川自身は9月に、公式ブログを通じて「ブルーサンダーズの試合で登板できる機会を頂戴できれば」という意向を示した。参加は、阪神時代にトレーニングコーチだった続木敏之(当時コーチ、2017年より監督)からの誘いによるものだった。しかし、正式な契約に至らなかったため、シーズン終了まで実戦登板の機会はなかった。

独立リーグ・兵庫時代

2016年12月15日付で、兵庫との選手契約を正式に締結した。阪神、ヤンキースそしてオリックス時代と同じ背番号29となった。この時点ではオープン戦や練習試合のみ出場できる練習生契約で、体調などが整った場合にリーグ戦に出場できる本契約へ移行することが想定されていた。同月22日に臨んだ記者会見では、「1年間ずっと練習してきたので、野球に対する思いはまだまだ残っているが、(NPBへの復帰など)先のことはまだ考えていない。まずは、(兵庫の選手としてリーグ戦で)1シーズンしっかり投げられるように身体を仕上げたい」との抱負を述べた。

2017年には、3月31日付で、兵庫と支配下選手契約を結んだことを発表。4月には、2日のリーグ開幕戦で救援投手として2年振りの公式戦登板を果たすと、先発投手として臨んだ20日の試合では6回無失点の好投でBFL初勝利を記録した。その一方で、6月には「何とか、もう一段階(レベルを)上げて、自分の球を投げて、気分よく終わりたい。1年間しっかり投げて納得いく形になれば、潮時かなと思っています」という表現で、この年限りで現役生活を終える可能性を示唆している。結局、BFLの公式戦全体では、11勝0敗、防御率1.09、94奪三振という好成績をマーク。2年間のブランクを感じさせない投球で、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振のタイトルを獲得した。10月5日には、兵庫の一員として、阪神鳴尾浜球場で阪神二軍との練習試合に先発。3回を投げて1被安打1失点という内容で、古巣のマウンドを後にした。なお、試合後には「やりきった感はあります」とのコメントを残す一方で、自身の去就については「すべて終わってから考えようと思います」として明言しなかった。

シーズン終了後の11月27日、契約満了となる11月30日をもって兵庫を退団することが発表された。発表に付されたコメントで、「このまま引退という事は考えておらず、現役は続行するつもりで一旦休養に入りたい」と述べるとともに、今後も「何らかの形」で兵庫に関係する意向を示している。

選手としての特徴

オーバースローから投げるストレートはかつて最速151km/hを記録していた。メジャー1年目の平均球速は144km/h、日本復帰1年目は平均球速137km/hに落ちている。フォークボールのように落ちるチェンジアップスライダーが武器。ヤンキース移籍後はカットボールツーシームも投げるようになった。ボールの威力自体はメジャーでもトップクラスとの評価を受けており、2007年には「芯でとらえられる率(ハードヒット・アベレージ)」の低さがマリアノ・リベラに次ぐチーム2位の.196をマークした。

スクラントンでのチームメイトらは井川について「ビッグリーグで投げるべきピッチャー」「上でやれる力はあっても、そういう機会に恵まれないことだってある」と語っていたが、フランク・トーマスから「四球が多いといった制球力の問題よりも、コースが甘くなることが最大の問題」と言われ、またジョー・トーリから「球は悪くない。問題は制球力」と言われるように、コマンド(狙ったスポットに投げる能力)の不足や日本時代から高かった被本塁打率の高さなどによりメジャー昇格を果たせなかった。佐野慈紀は、井川がメジャーリーグで苦しんだ原因としてインコースの制球力を挙げている。

デーゲームを苦手としており、登板時はサングラスを着用する。

人物

コントロールが悪かった新人時代、当時の監督である野村より「ダーツの的に当てるイメージで投げろ」とアドバイスを受けた。自らもダーツボードを購入している。オフシーズンは自主トレの一環として茨城県内のオリエンテーリング大会に参加している。

ゲーマーの一面もあり、2012年にはセガWORLD CLUB Champion Football』の第16回 JAPAN WINNER'S CHAMPIONSHIPで関東ブロックのエリア大会を勝ち抜き全国大会に進出した。

2007年1月、日本将棋連盟より将棋親善大使を委嘱される。

阪神時代には新幹線での移動の際に球団が用意する「のぞみグリーン車のチケットを自ら「ひかり」の自由席に変更し、差額を貯金していた。この点について金本知憲が井川に直接確認したところ「当然じゃないですか」と答えた。『週刊トラトラタイガース』で、藪恵壹と一緒にゲスト出演したとき、藪に「月に1万円しか使わないケチ」といわれたことがある。

ヤンキース時代には、「K's Voice」と称して、阪神時代の先輩野手が毎日放送野球解説者としてパーソナリティを務めるMBSラジオのスポーツ情報番組(『いざゆけ八木裕!』→ 『亀山つとむのかめ友 Sports Man Day』)向けにインタビュー形式で定期的に近況を報告していた。

兵庫時代には、和歌山ファイティングバーズの本拠地のある和歌山県田辺市でBFLの試合が催される際に、神戸市の自宅から自家用車で片道2時間以上かけて球場へ通っていることを明かしていた。

年代は違うが大久保博元とは実家が近く、小学校・中学校・高校すべて同じである。

詳細情報

年度別投手成績





















ブ



ド





















ボ







W
H
I
P

1999 | 阪神 | 7 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 80 | 15.1 | 23 | 1 | 13 | 0 | 1 | 14 | 0 | 0 | 11 | 11 | 6.46 | 2.35
2000 | 9 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 172 | 39.1 | 36 | 5 | 19 | 1 | 0 | 37 | 7 | 0 | 19 | 19 | 4.35 | 1.40
2001 | 29 | 28 | 3 | 2 | 0 | 9 | 13 | 0 | -- | .409 | 829 | 192.0 | 174 | 11 | 89 | 6 | 3 | 171 | 6 | 0 | 76 | 57 | 2.67 | 1.37
2002 | 31 | 29 | 8 | 4 | 2 | 14 | 9 | 1 | -- | .609 | 830 | 209.2 | 163 | 15 | 53 | 1 | 7 | 206 | 8 | 0 | 63 | 58 | 2.49 | 1.03
2003 | 29 | 29 | 8 | 2 | 3 | 20 | 5 | 0 | -- | .800 | 839 | 206.0 | 184 | 15 | 58 | 3 | 3 | 179 | 5 | 0 | 72 | 64 | 2.80 | 1.17
2004 | 29 | 29 | 6 | 3 | 1 | 14 | 11 | 0 | -- | .560 | 840 | 200.1 | 190 | 29 | 54 | 0 | 6 | 228 | 5 | 0 | 95 | 83 | 3.73 | 1.22
2005 | 27 | 27 | 2 | 1 | 1 | 13 | 9 | 0 | 0 | .591 | 749 | 172.1 | 199 | 23 | 60 | 0 | 1 | 145 | 4 | 0 | 91 | 74 | 3.86 | 1.50
2006 | 29 | 29 | 8 | 3 | 2 | 14 | 9 | 0 | 0 | .609 | 844 | 209.0 | 180 | 17 | 49 | 3 | 6 | 194 | 4 | 0 | 77 | 69 | 2.97 | 1.10
2007 | NYY | 14 | 12 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 0 | .400 | 313 | 67.2 | 76 | 15 | 37 | 1 | 4 | 53 | 5 | 1 | 48 | 47 | 6.25 | 1.67
2008 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | 24 | 4.0 | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 6 | 13.50 | 3.25
2012 | オリックス | 12 | 12 | 0 | 0 | 0 | 2 | 7 | 0 | 0 | .222 | 278 | 62.0 | 64 | 5 | 31 | 0 | 2 | 36 | 3 | 1 | 35 | 32 | 4.65 | 1.53
2013 | 9 | 9 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 0 | 0 | .500 | 205 | 48.2 | 48 | 2 | 15 | 0 | 2 | 41 | 2 | 0 | 15 | 14 | 2.59 | 1.34
2014 | 8 | 8 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | .500 | 149 | 33.0 | 37 | 4 | 12 | 0 | 0 | 28 | 0 | 0 | 17 | 14 | 3.82 | 1.48
NPB:11年 219 | 208 | 35 | 15 | 9 | 93 | 72 | 1 | 0 | .564 | 5815 | 1387.2 | 1298 | 127 | 453 | 14 | 31 | 1279 | 44 | 1 | 571 | 495 | 3.21 | 1.26
MLB:2年 16 | 13 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 0 | 0 | .333 | 337 | 71.2 | 89 | 15 | 37 | 1 | 4 | 53 | 5 | 1 | 54 | 53 | 6.66 | 1.76
  • 2015年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

NPB

表彰

NPB

記録

NPB投手記録
NPB打撃記録
  • 初安打:1999年6月1日、対横浜ベイスターズ9回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に福盛和男から左翼へ二塁打
  • 初打点:2001年5月10日、対横浜ベイスターズ7回戦(横浜スタジアム)、7回表に米正秀から投手前スクイズ
NPBその他の記録
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