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今江敏晃とは?

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
京都府向日市
【生年月日】
(1983-08-26) 1983年8月26日(36歳)
【身長
体重】
180 cm
89 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
三塁手一塁手
【プロ入り】
2001年 ドラフト3巡目
【初出場】
2002年4月28日
【最終出場】
2019年6月28日
【年俸】
5,000万円(2019年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


コーチ歴

  • 東北楽天ゴールデンイーグルス (2020 -)

【国際大会】

【代表チーム】
日本
WBC
2006年
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


獲得メダル
日本
ワールド・ベースボール・クラシック
 | 2006 | 野球

今江 敏晃(いまえ としあき、1983年8月26日 - )は、京都府向日市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。

現役選手時代には、2002年から2015年まで千葉ロッテマリーンズ2016年から2019年まで東北楽天ゴールデンイーグルスに在籍。楽天移籍後の2017年から、現役を引退する2019年までは、「今江 年晶」(読みは本名と同じ)という登録名を用いていた。2020年シーズンから楽天の育成コーチへ就任することに伴って、登録名を再び「今江 敏晃」に変更。

経歴

プロ入り前

少年野球チームは向陽オックスに所属。中学3年生の時には、全日本中学野球選手権大会 ジャイアンツカップで全国優勝を果たすと、ボーイズリーグの世界選抜として世界大会でも優勝。PL学園高で1年生時から4番に座り、2000年夏の甲子園に出場、3回戦で敗退。当時の同級生には朝井秀樹桜井広大小斉祐輔らがいる。また1学年上に中尾敏浩がおり、二遊間を組んだ。高校通算本塁打は30本。

2001年のNPBドラフト会議で、千葉ロッテマリーンズから3巡目で指名。契約金7,500万円、年俸720万円(金額は推定)という条件で入団した。入団当初の背番号は、PL学園高校の先輩に当たる得津高宏が、ロッテの外野手時代に着用していた25

ロッテ時代

2002年には、4月28日に、地元・関西の大阪ドームで開かれた対大阪近鉄バファローズ戦9回表に代打で一軍デビュー。4月30日の対福岡ダイエーホークス戦(千葉マリンスタジアム)では、遊撃手として一軍初のスタメン出場を果たした。その後に一時出場選手登録を抹消されるが、抹消後は二軍のレギュラーを獲得。後半戦に再び一軍へ登録されると、9月30日の対西武ライオンズ戦(西武ドーム)で一軍初安打。一軍公式戦全体には、15試合に出場。通算25打席で打率.200という成績ながら、2打点を記録したほか、5安打のうち3本が二塁打であった。

2003年には、イースタン・リーグの選抜選手としてフレッシュオールスターに出場。1-3で迎えた8回裏1死満塁の打席で走者一掃の逆転三塁打を放ったことから、MVPに選出された。しかし、一軍公式戦には5試合の出場で、6打数2安打(打率.333、1二塁打)という成績にとどまった。

2004年遊撃手のレギュラーに小坂誠がいたため、強肩を生かして外野手へのコンバートを打診されたが、内野手をやりたいという自身の希望で三塁手にコンバート。6月から初芝清マット・フランコらと三塁手のレギュラーを争う活躍を見せ、6月にはプロ初本塁打を記録。しかし、投球を手に受けたこと(スイングしていたため、判定はストライク)による故障により41試合の出場に留まる。

ロッテ時代(2011年8月6日)

2005年は背番号を、かつて「ミスターロッテ」と呼ばれて三塁手でもあった有藤道世が背負っていた8に変更。9番三塁手として初の開幕スタメンを果たす。三塁手としてレギュラーに定着すると、一気にチームトップとなる132試合に出場、球団史上歴代5位となるシーズン22試合連続安打を記録、8月の月間打率は4割を超え、一時は打率がリーグ1位に。その後も調子を維持し初の規定打席と3割に到達。またこの年のパリーグ最多二塁打となる35二塁打を記録。リーグ優勝時は、チームが内野手を全て使い切ったため三塁を初芝清に譲り、二塁で優勝の瞬間を迎えた。日本シリーズでは、第1戦・第2戦で8打席連続安打、シリーズ打率.667と新記録を達成し、日本シリーズMVPにも選出される。こうした活躍を高く評価され、三塁手部門のベストナインと初のゴールデングラブ賞を受賞。

2006年は開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表に選出された。同大会では、5試合に出場し4打点を挙げ、日本の優勝に貢献した。

シーズンでは前半は2番に起用されることが多かったが、調子の波が激しく打撃が安定しなかった。三塁のレギュラーは守ったものの結局最後まで不調に終わり、打率を大きく下げた。最後のパリーグ東西対抗にて3ランを含む3安打でMVPとなる。この年も連続でゴールデングラブ賞を受賞(2回目)。

2007年は5月に左手有鈎骨を骨折したのもあり、前年同様の打撃不振に陥り打率.249とさらに下げた。打順はほとんど8番か9番。また、故障により守備面でも不安があり堀幸一青野毅にポジションを譲ることもあったが、ゴールデングラブ賞を3年連続で受賞。

2008年は前2シーズンと打って変わって打撃好調を維持し、9月7日までに打率.309、12本塁打、55打点を挙げるものの、同日の対ソフトバンク戦で水田章雄より右上腕へ死球を受け右尺骨骨折し、登録抹消。結局一軍復帰を果たせぬままシーズン終了となった。また、この年は本塁打も2ケタを記録するなど打撃は好調だったものの守備では若干成績を落とし、特に補殺と併殺参加数は前シーズンまでと比べて少なかった(併殺参加数は2006年はリーグトップの24個だったがこの年はリーグ最少の4個しか記録できず。ワースト2位の草野大輔も13個記録していることからも少なさが分かる)。ゴールデングラブ賞を4年連続で受賞。

2009年7月5日西村徳文一軍ヘッド兼外野守備走塁コーチがボビー・バレンタイン監督よりスタメンを告げられる際に、本来三塁で先発出場する予定だった今江の愛称である「ゴリ」と「」を聞きまちがえてしまい、堀幸一が2年ぶりにスタメン三塁で出場する珍事があった。結局堀は第1打席で犠牲フライを放ったのち、3回表の守備より今江と交代した。チーム4位の60打点を記録したものの、打率は.247と低調に終わり、2005年から受賞していたゴールデングラブ賞は小谷野栄一に譲ってしまった。

2010年はシーズン序盤は9番打者であったが、荻野貴司の故障後は2番に抜擢され、自己最多(リーグ3位)の犠打数を残した。シーズン終盤は清田育宏が2番に定着すると、5番や6番を任された。打率はリーグでも3位の.331と好調、本塁打を除いて自己最高のシーズンを送り、チームのクライマックスシリーズ進出にも貢献した。日本シリーズでも打率.444を記録し、2度目の日本シリーズMVPを獲得した。

2012年は、チームの主将に就任。一軍公式戦では、通算136試合の出場で、6本塁打、打率.253、47打点を記録した。

2013年は主将の座を岡田幸文に譲った。5月15日の読売ジャイアンツ戦ではプロ入り後初の4番打者に入ると、そこからは4番に定着。本塁打こそ年間10本とクリーンアップとしては少なかったが、打率は.325パ・リーグ2位、守備率も三塁手リーグ1位の.969を記録し、攻守にわたりチームのクライマックスシリーズ進出に大きく貢献した。この年には海外FA権を取得したが、シーズン終了後の球団との契約交渉では、権利を行使しないまま新たに2年契約を結んだ。

2014年はふくらはぎの筋膜炎で開幕に間に合わず、4月1日の本拠地開幕戦から1軍に復帰した。しかしわずか2週間後に腰痛で登録抹消となるなどシーズンを通して体のコンディションに苦しみ、打撃も前年に比べて安定せず、2番から9番まであらゆる打順で起用された。

2015年には、オープン戦で打率.313を記録。また、前年のシーズン中盤から4番を打っていたアルフレド・デスパイネが4月中旬まで母国・キューバの国内リーグに参加していた関係で、公式戦の開幕から4番打者を任された。その一方で、5月22日の対オリックス戦(ほっともっとフィールド神戸)では、8回表の打席で佐藤達也から頭部に死球を受けて交代(佐藤は吉本文弘球審からの危険球宣告で退場)。翌23日の同カード(京セラドーム大阪)では本塁打、6月3日の対阪神戦(甲子園)では単打を放てばサイクルヒットを記録できる状況(詳細後述)で最終打席を迎えたが、いずれも達成に至らなかった。さらに、7月14日の対ロッテ戦(京セラドーム大阪)8回表の打席で、岸田護から死球を受けて左手を骨折。9月11日の同カード(QVCマリンフィールド)で一軍に復帰するまで、約2ヶ月間の戦線離脱を余儀なくされた。同年限りでロッテとの2年契約が満了したことを受け、会見では「寂しい」などと語りながらも同年シーズン終了後の11月10日に、前述の海外FA権を行使することを表明。翌11月11日には、NPBから海外フリーエージェント宣言選手として公示された。ロッテでは基本としてFA権行使表明選手の残留を認めない方針を立てているため、同じパシフィック・リーグ東北楽天ゴールデンイーグルスが、公示を機に今江の獲得交渉を開始。なお、シーズン途中の7月16日にはオフの11月に開催された第1回WBSCプレミア12日本代表第1次候補に選出されたが、最終ロースターには選出されなかった。

楽天時代

2015年11月27日には楽天との契約で合意に達したこと、12月9日に開かれた入団会見では、ロッテ時代に続いて背番号8を着用することが発表された。楽天がFA権の行使を宣言した選手を他球団から獲得した事例は、中日ドラゴンズに在籍していた中村紀洋と2009年から2年契約を結んで以来2例目である。なお、ロッテ球団は2016年1月13日に、今江の移籍に関する補償措置として楽天球団に金銭(推定1億6,000万円)の支払いを求めた。

2016年には、ロッテ時代の2014年に発症した左ふくらはぎ痛が、春季キャンプ直前の自主トレーニング中に再発。その後の検査で左ふくらはぎ筋炎と診断されたため、キャンプのスタートを二軍で迎えた。オープン戦の中盤から一軍に合流すると、公式戦では、5月11日の埼玉西武ライオンズ戦(楽天Koboスタジアム宮城)でNPB一軍公式戦通算300二塁打を達成。その一方で、前半戦には死球による左尺骨の骨挫傷や、打撃不振などで2度にわたって一軍の戦線を離れた。後半戦では、7月20日の対日本ハム戦(帯広の森野球場)で一軍公式戦の移籍後初本塁打を記録すると、次の試合であった7月22日の対ロッテ戦で古巣からの初本塁打を放っている。さらに、8月26日の対オリックス戦(いずれもKoboスタ宮城)では、NPB史上122人目の一軍公式戦通算1500安打を記録。一軍公式戦全体では、3本塁打、打率.281という成績を残したものの、戦線離脱が相次いだ影響で89試合の出場にとどまった。なお、シーズン終了後の11月17日には、翌2017年から登録名を「今江年晶」に変更することを発表している。

2017年には、オリックスとの開幕カード(京セラドーム大阪)に「6番・一塁手」としてスタメンに起用されると、3試合通算で7安打を放つなど打撃が好調。4月6日の対ソフトバンク戦で右太腿半腱様筋の筋膜炎を発症したため、一時戦線を離脱したものの、前半戦では主に「6番・一塁手」としてチームの首位ターンに貢献した。7月27日の対ソフトバンク戦(いずれもKoboパーク宮城)6回表の一塁守備で、松田宣浩が放ったゴロを処理した三塁手ゼラス・ウィーラーからの悪送球を跳び上がりながら捕って着地したところ、右打席から一塁へ走り込んできた松田と交錯。その影響で左手首を痛めたため、途中交代を余儀なくされた。後の診断で、左尺骨骨幹部の骨折によって全治2ヶ月半を要することが判明し、7月28日には、出場選手登録を抹消されるとともに、左尺骨プレート固定術による手術を受けた。この手術によってレギュラーシーズンの残り試合を棒に振ったが、チームのレギュラーシーズン3位で迎えたポストシーズンでは、クライマックスシリーズから代打要員として実戦に復帰した。

2018年には、主に4番打者として、前半戦で打率3割をマーク。オールスターゲームにもパ・リーグの監督推薦選手として5年振り3度目の出場を果たすと、7月14日の第2戦(リブワーク藤崎台野球場)では、8回裏に代打で適時打を放った。一軍公式戦全体では、ロッテ時代の2014年以来、4年振りにパ・リーグの最終規定打席へ到達。リーグ15位の打率.276、自身5年振りの10本塁打、49打点を記録した。シーズン終了後に3年契約の満了を受けて臨んだ契約交渉では、2016年・2017年シーズンの低迷を背景に、NPBの年俸減額制限(1億円以上の選手の場合には最大で40%)を超える減俸を球団から提示。この年に楽天への移籍後最高の成績を残したにもかかわらず、推定年俸5,000万円(2億円の前年から75%減)という条件で契約を更改した。

2019年には、自主トレーニングの期間中から、右目が原因不明の不調に見舞われた。春季キャンプ直前の検査で右眼球中心性漿液性脈絡網膜症と診断されたため、キャンプでは他の選手より遅く二軍で始動した。5月4日から一軍へ合流すると、公式戦26試合に出場。打率.276、1本塁打、7打点という成績を残した。しかし、右目への違和感が払拭されないまま、7月4日以降は今江自身の希望で二軍での再調整に専念。二軍のイースタン・リーグ初優勝で臨んだソフトバンクとのファーム日本選手権(10月5日)にも、「6番・指名打者」としてフル出場を果たしたものの、後に球団からコーチへの就任を打診された。今江自身は他球団での現役続行も視野に入れていたが、10月15日に、現役からの引退と指導者への転身を表明。同月18日には、引退記者会見へ臨むとともに、NPBから任意引退選手として公示された。

引退後

2019年10月22日に、楽天の育成コーチへ就任することが発表された。就任後の登録名は「今江敏晃」。

2020年1月22日に、芸能事務所・グレープカンパニーへの所属が発表された。

選手としての特徴

打席に立つ今江
(ロッテ時代の2010年11月13日、東京ドーム)

打撃

広角にライナー性の強い打球を放つ打撃を持ち味とした。2008年にはボール球スイング率36.6パーセント、翌2009年には同43.2パーセントを記録するなど、ボール球でも強引に振りにいく積極的な打撃を見せ、それ故に四球は少なかった。

守備・走塁

守備では三塁手として起用され、2005年シーズン中盤まで、半身に構える独特のスタンスで守備に就いていた。三塁守備は打球反応や出足の速さ、グラブ捌き、スローイングのいずれも高いレベルにあり、ライナー性の打球やフライに強く、2005年から4年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。楽天移籍後は一塁手として起用される機会が増えていた。

走塁面では盗塁の試行数は多くないものの、右打者ながら一塁到達まで3.85秒を記録するなど全力疾走を怠らなかった。

人物

社会貢献活動

ロッテ時代の2006年に『24時間テレビ 「愛は地球を救う」29』(日本テレビ)で「群馬アトム」(群馬県障がい者野球チーム)に所属する投手の練習映像を偶然見たことをきっかけに、同年11月から「群馬アトム」との交流を開始。自身が出場する試合に関係者を定期的に招待したり、シーズン終了後に練習へ参加したりするなど、現在まで交流を続けている。

また、東日本大震災(2011年)では、当時住んでいた千葉県浦安市内の自宅が液状化現象の被害を受けた。この経験に加えて、ロッテ球団の職員に被災地・福島県いわき市の出身者がいることから、現地の小・中学校を定期的に訪問するなど、いわき訪問の活動を2011年以後毎年続けている(なお、いわきは、東北楽天のチームメイトである内田靖人の出身地でもある)。現在では、「今江スマイルプロジェクト」と称して、以下の活動も長期にわたって続けている。このような活動が評価されたことから、2015年のシーズン終了後には、第17回ゴールデンスピリット賞を受賞した。

2015年11月26日のゴールデンスピリット賞授賞式では、副賞の200万円を寄付することを表明するとともに、(当時未発表だった)楽天への入団が決まった場合にも活動を継続することを示唆。楽天への入団発表直後(同年12月15日)には、ロッテ時代に続いていわき市を訪れるとともに、現役を引退してからも同市との交流を続ける意向を示した。なお、楽天への移籍後も、以上の活動を継続している。

その他

 | 
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年3月)

詳細情報

年度別打撃成績









































































O
P
S

2002 |  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2020/02/20 01:10

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