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仰木彬とは?

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仰木 彬
ベースボール・マガジン社『ベースボール・マガジン』第10巻1号(1955)より

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
福岡県中間市
【生年月日】
(1935-04-29) 1935年4月29日
【没年月日】
(2005-12-15) 2005年12月15日(70歳没)
身長
体重 170 cm
67 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
二塁手
【プロ入り】
1954年
【初出場】
1954年3月27日
【最終出場】
1967年7月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴


野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
2004年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


仰木 彬(おおぎ あきら、1935年4月29日 - 2005年12月15日)は、福岡県出身のプロ野球選手プロ野球監督野球解説者。血液型はA型

昭和30年代の西鉄ライオンズ黄金時代に正二塁手として活躍し、引退後は西鉄、近鉄オリックスのコーチ・監督を歴任した。特に1980年代から90年代にかけて、10.19と呼ばれた名勝負や、阪神大震災後に『がんばろうKOBE』を合言葉に快進撃を果たし、率いたチームを11年連続でAクラス入りさせた。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 現役時代
    • 1.3 近鉄コーチ・監督時代
    • 1.4 オリックス・ブルーウェーブ監督時代
    • 1.5 オリックス・バファローズ監督時代
    • 1.6 オリックス・バファローズ監督辞任、そして逝去
    • 1.7 没後
  • 2 イチローとの関係
  • 3 エピソード
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別打撃成績
    • 4.2 年度別監督成績
    • 4.3 表彰
    • 4.4 記録
    • 4.5 背番号
  • 5 関連情報
    • 5.1 著書
      • 5.1.1 関連書籍
    • 5.2 解説者としての出演番組
    • 5.3 参考テレビ番組
  • 6 脚注
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

経歴

プロ入り前

教員をしていた両親の間に生を受ける。父親は太平洋戦争にて1944年2月に戦死し、母の手一つで育てられた。2人いた妹も病気で亡くしたため、「八幡製鉄に就職して母を安心させたい」と、工業高校への進学を希望していたが、中学野球部での活躍に目をつけた東筑高校OBの説得により、同校全日制商業科に進学。1953年、3年の時に夏の甲子園投手兼4番バッターとして出場するも、2回戦(初戦)で片岡宏雄捕手のいた浪商に0-3で完封負け。

現役時代

高校卒業前に、南海ホークス中日ドラゴンズ西鉄ライオンズの3球団から誘われ、甲子園出場時に練習した大阪スタヂアムで南海の選手を見て憧れていたこともあって南海入団希望だった上に、南海と中日の契約金は100万円だったのに対し西鉄は60万円だったにもかかわらず、監督の三原脩が自ら自宅を訪れ「私に任せなさい」と肩をたたかれたことで「運命を感じた」と、1954年、西鉄に年俸36万円で入団。投手として入団したが、1年目の春季キャンプにフリーバッティングでの投球を見た三原監督から二塁手へコンバートを命じられる。以後キャンプでは首脳陣は仰木を二塁手として鍛えるため仰木に激しいノックを浴びせた。

1年目から宮崎要に代りレギュラーに定着、同年のリーグ優勝に貢献する。1955年には規定打席に到達(40位、打率.235)、1955年5月22日松江でのトンボユニオンズ戦で、1試合6安打のパ・リーグ記録。以降長きに渡り中西太豊田泰光らと共に西鉄黄金時代の内野陣を支えた。打率は低かったが、チャンスメーカーやつなぎ役としての役割を果たし、堅実な守備でもチームの柱となる。1956年からの3年連続日本一に貢献。しかし巨人との3度の日本シリーズでは不振に喘ぎ、ほとんど活躍の場がなかった。

入団以来、遊びの合間に野球をやっていたというほどの遊び好きが高じ、3年目には三原から西鉄の合宿所に近い大円寺に毎朝10時に来るよう命じられる。ここで毎朝三原から野球のことや「ただ酒は飲むな」という一般常識の話などを説かれた。

1959年に三原が西鉄の監督を退任し、このまま遊び好きのままでいいのかと自問し、以後練習に打ち込むようになる。打撃コーチの坪内道則と共に打撃の強化に務めた。1960年にベストナインに選出され、1961年にはオールスターに初出場。しかし1963年トニー・ロイジム・バーマジョージ・ウィルソンの加入で出場機会が減る。

1967年限りで現役を引退。1968年から1969年まで西鉄のコーチを務めた。

近鉄コーチ・監督時代

1970年三原脩が監督を務めていた近鉄の守備走塁コーチに就任、主に攻撃時は三塁コーチを担当、1979年の日本シリーズ第7戦における「江夏の21球」が伝説になった広島との日本シリーズでも三塁コーチを担当していた。1974年から1981年まで近鉄の監督だった西本幸雄は「仰木はベンチのサインを1度も間違えなかった」と語っている。1983年オフ、ヘッドコーチ昇格。

1987年オフ、岡本伊三美監督の後任として近鉄監督に就任。1年目は西武との激しい優勝争いの末「10.19」でリーグ優勝を逃した。この年の激烈な優勝争いは球史に残るドラマティックなものであった。前年度最下位のチームを率いて当時黄金期の西武をあと一歩のところまで追い詰めた。様々な奇策による好采配は、恩師三原脩の「三原マジック」に倣って「仰木マジック」と称された。

1989年にはオリックス、西武との三つ巴の優勝争いを演ずる。この年の優勝争いもまた激しいものであったがついに2位オリックスにわずか1厘差(3位西武とは2厘差)でチームを9年ぶりのリーグ優勝に導いた。その年読売ジャイアンツを相手に行われた日本シリーズでは、3連勝の後の4連敗を喫し、チーム初の日本一を逃す。

その後は毎年Aクラスという成績を残すものの1991年 - 1992年と2年連続西武との優勝争いに敗れ、1992年をもって監督を勇退。近鉄監督時代には、野茂英雄赤堀元之など、後のチームを支えることになる若手を数多く育成した。

オリックス・ブルーウェーブ監督時代

1993年の1年間朝日放送(ABC)・九州朝日放送(KBC)・スポーツニッポンの解説者を務めた後、1994年よりオリックス・ブルーウェーブの監督に就任。就任後、これまで二軍生活を続けていたイチローをすぐに一軍で抜擢し大活躍させ、その他にも前任の土井正三監督時代から期待されながらイップスに陥っていた田口壮を外野手として起用し成功させるなど、土井の時代に停滞していた才能を次々に開花させた。就任1年目の1994年のシーズンに早速チームを2位に浮上させると、翌年の1995年には阪神・淡路大震災に遭い、一時は試合開催さえ危ぶまれた状態から、『がんばろうKOBE』を合言葉に、オリックスとして初のリーグ優勝に導く。日本シリーズでは野村克也監督率いるヤクルトスワローズと対戦するが、1勝4敗で日本一ならず。

1996年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは長嶋茂雄監督率いる読売ジャイアンツと対戦。4勝1敗で巨人を下し、監督として初の日本一に輝いた。この年の大晦日に行われた第47回NHK紅白歌合戦では審査員を務めた。その後リーグ優勝を果たすことはなかったが、1999年まで6年連続でAクラスを維持(近鉄監督時代を含めると11年連続)し続けた。

イチローや田口がメジャーリーグに渡り、2年連続でBクラスとなった2001年限りで監督を退任した。なお、近鉄のコーチ時代はヘッドコーチ昇格まで、上記のように三塁コーチを担当していたが、ブルーウェーブでの最後の1年間は140試合を通して、三塁コーチに立っていた。

ブルーウェーブ退任後は阪神タイガースの次期監督として有力視されていたが、結局久万俊二郎オーナーの意向により有耶無耶となった。

オリックス・バファローズ監督時代

オリックスの監督を退任した後、2002年から2004年までABC、スポーツニッポン解説者を務める。また、2004年には野球殿堂入りを果たす。同年末に行われた記念パーティーでのスピーチで「今日のパーティーでございますが、これは私の生前葬だと思っております」と語っていた。実はこの時、既に肺癌が発覚しており、闘病を続けていたというが、仰木は生前、癌に侵されて闘病している事実を公にすることはなかった。西鉄ライオンズ以来の盟友である中西太や金村義明ら一部の球界関係者のみがその事実を知っていたが、仰木に懇願されて内密にしていたという。

2005年、かつて自身が率いた近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併によって誕生した新生「オリックス・バファローズ」から監督就任要請を受け、4シーズンぶりの現場復帰を果たす。この時70歳。これは当時の歴代最高齢での監督就任だった(翌年に野村克也が更新)。闘病を続けていた肺癌は完治していなかったが、「グラウンドで倒れたら本望」と、病をおして監督に就任したという。

就任後、グラウンドでは病状を隠し気丈に振舞っていたものの、たびたび過労によると思われる居眠りやベンチに腰掛けたまま動かない場面も目立った。特に後半戦の西武ドームでの試合の際には、球場の階段を自力で上ることすらできず、外野の大道具搬入口からグラウンドに出入りしていた程、明らかに体調を崩している様子が周囲から確認されていたという。この2005年は終盤まで粘りながら、最終的には4位。プレーオフ進出を逃したものの、3年連続最下位に沈んでいたチームを躍進させた。

西武ドームでの最終戦後、レフトのオリックスファンに2、3度頭を下げ「ありがとう」と口にし、そのままセンターバックスクリーン(大道具搬入口)から外付けのハイヤーに乗り込んだ。

その後球団から監督続投要請を受けるも、高齢と前述の健康状態を理由としてその年限りでの退任を決め、最終戦の翌日に記者会見を開いて監督引退と球団のシニア・アドバイザー(SA)への就任を発表した。

オリックス・バファローズ監督辞任、そして逝去

監督引退後、体調が急激に悪化して入院。SA就任の2ヶ月後の12月15日午後4時10分、肺癌による呼吸不全のため、福岡県福岡市内の病院で死去。70歳没。法名は「仰崇院釋耀彬」。

仰木の死去の報に接し、同い年でプロ入りした東北楽天ゴールデンイーグルス監督就任間もない野村克也は「もう一度監督としてアイツと戦いたかった…」とコメントするなど、死を悼む声は球界だけでなく各方面からも数多く寄せられた。

葬儀は仰木の意向により密葬にて営まれ、「天国に送る会」は2006年1月21日午前11時からスカイマークスタジアムで行われた。オリックスは、仰木の遺志を尊重して球団葬としなかった。また故郷の福岡県中間市でも、神戸での会に日時を合わせ、友人らが「天国に送る会」を開いている。会の世話人には、西鉄時代の同僚だった稲尾和久らが名を連ねた。

没後

仰木の故郷である中間市は、2016年から中間市営野球場にて中間市内の4中学校と福岡県内から招待した中学校12校による『仰木彬記念野球大会』を開催している。

また中間市では仰木への顕彰事業の一環として、2017年4月1日より中間市営野球場の名称を『中間仰木彬記念球場』と変更した。

イチローとの関係

  • 野茂英雄長谷川滋利イチロー田口壮など、仰木が育てた選手にはメジャーリーグに挑戦した者が多い。しかもその全員が仰木のことを「師匠」「尊敬する人」と公言している。イチローに至っては、キャンプ中の仰木に会うためだけにわざわざ宮古島まで出向いたほどで、その尊敬ぶりは崇拝に近いものであり、記者の質問に「僕の唯一人の師匠ですから」とまで答えている。仰木のオリックス監督就任直後、登録名を「イチロー」と改名するという仰木の提案に、「今はいいですが、この先、子供ができて父親がイチローではおかしいでしょう」と譲らなかったイチローに対し、仰木が佐藤和弘を呼び寄せ、「おまえは来年から登録名を佐藤から別のものにしよう。おまえの頭はパンチパーマだからパンチでいこう」と口説くと、佐藤は快諾、矢継ぎ早に「先輩の佐藤が変えるんだから、おまえも来年からイチローで登録だ」と強引に納得させ、その後イチローが「オリックスの顔」、さらにMLBで大記録を打ち立てるまでになったきっかけを作った大恩人である。また、近鉄時代は確執があると噂された吉井だが、近年は「あの時代は自分が若かったせいで、仰木さんの考えが分かっていなかっただけ。仰木さんに要らないと言われた時が、自分の引退の時」と語っていた。
  • 1995年のインタビューにて、野茂とイチローの共通点を問われた際、「頑固さ」をあげている。
  • 2005年に仰木がオリックスの監督として復帰した時に、イチローが自らの背番号51番を「監督につけてほしい」と勧めたが、「そんな番号は恐れ多くて絶対つけられへん。」と断った(イチローが生まれる前の話だが、仰木自身は1970年に近鉄の守備走塁コーチに就任した際に51番をつけたことがある)。
  • 死期が迫った2005年12月に担当の医師に「20日にイチローと食事の約束をしている。それまでは生きさせてくれ」と訴えたという。またこの年のオフに入団した清原和博とも「この間食事したところでまた食事しましょう」と清原が誘ったところ、「あの店は食べきれないから今度は店を変えよう」と約束していたという。清原は自分の最後のチームになったオリックスに誘ってくれた仰木のことを深く感謝しており、自分の引退試合セレモニーで「天国にいる仰木さん、自分に最後の活躍の場を与えてくれてありがとう!」と感謝の言葉を言っている。
  • イチローが大リーグで3000本を打ったインタビューで「仰木さん思い出した」「神戸で2000年の秋、お酒の力を使って大リーグ移籍を口説いた。仰木さんの決断がなければ、何も始まらなかった。」と仰木監督への感謝の言葉を述べている。

エピソード

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この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2017年6月)

  • 東筑高校時代は筑豊本線中間駅から折尾駅までを通学に利用していたが、筑豊本線を利用していたのは年間の半分くらいに過ぎず、あとの半分は友人にカバンを学校まで運ばせ、自分は学校まで線路沿いの4キロメートルほどの道を走って通学していたという(出典:弓削信夫著『明治・大正・昭和 九州の鉄道おもしろ史』371頁)。
  • 1958年オフにセントルイス・カージナルスが来日した際、全日本チームのメンバーとして出場した豊田泰光が、当時カージナルスの二塁手であるドン・ブレイザーからグラブを貰った。豊田が福岡に帰ってチームメイトにグラブを見せびらかすのを見て、仰木もしばらく手にとって眺めていたが、豊田が「もういいだろう。返せ」と言ってグラブを奪うと、グラブには墨で「5番 仰木」と書かれていた。そして「トヨさん、こりゃ二塁手のグラブばい」と仰木に言われた豊田は、泣く泣くそのグラブを仰木に譲ったという。
  • 現役時代から、かなりの遊び人だった。選手時代は「グラウンドの外ではいくらでもムチャやってくれたらいい」と選手に言っていた三原監督からも「仰木と豊田だけは遊びに制限をかけんといかん」とこぼされるほどだった。西鉄の島原キャンプの休日に船で天草まで遊びに行ったものの、海が荒れてその日のうちに帰れず、翌日の昼過ぎにコッソリと帰ってきたら、三原監督からバントの練習だけをするように命令されたという。後にスカウトされた清原和博も、「朝飯のお茶代わりにビールを飲むような人」と自身の著書で語っていた。
  • 監督になってからも、『ニュースステーション』出演時に番組のサブキャスターであった小宮悦子(当時テレビ朝日アナウンサー)を本気で口説いていたというエピソードもあるなど、現役時代と全く変わらない遊び人ぶりであった。また監督時代には、スタッフミーティングで「門限を設定して、破った者から罰金を徴収してはどうか」と議論に上がった際、「そうなったら俺が一番困る」と真っ先に反対したとも言われている。
  • 球界でもかなりの酒豪として知られ、西本監督時代の投手コーチだった杉浦忠とキャンプで相部屋になった時には、連日酒を酌み交わしながら野球談義を続け、最終日に2人で空き瓶の本数を数えたところキャンプの日数と同じだったという逸話が残っている。
  • 酒豪が昂じてか、近鉄監督時代には札幌遠征の試合後チーム全員でサッポロビール園に食事に出かけた際、ポジション毎に選手をビールの一気飲みで競わせ、一番早く飲みきった人間を(大阪に戻った後の)次の試合のスタメンとしたこともある。これは周囲に一般客が多数いる中で行われたため(一気飲み競争の)目撃者も多く、中には試合後同様に食事に来ていた当時パ・リーグ審判の前川芳男らもいたため、前川は近くにいた金村義明を呼び止め「お前らのチームは何てアホなことをしてるのか」と語ったという。
  • 本人がそういう人物であった為、グラウンドの外で何をしようが、試合で結果を出せば何も言わなかった。しかし練習そのものはかなり厳しく、とりわけ走りこみの量は12球団一とされるほどだった。ただし、1992年にコンディショニングコーチに就任した立花龍司の量よりも質を重視した最新のトレーニング理論にも理解を示すなど、柔軟な姿勢は見せていた。
  • 温厚そうな外見とは裏腹にかなり気性が激しかった。
  • 光山英和は「阿波野や野茂などの一流の選手には何も言わなかった。そうでない選手にはむちゃくちゃ厳しかった」と語っている。その光山は、1991年9月26日の福岡ダイエー戦でベンチに捕手登録の選手が残っていないにもかかわらず、8回裏1点ビハインドの場面で1アウト満塁のチャンスだったため、代打中根仁を出されたことがある。その試合ではその後、その日三塁を守っていた金村義明を捕手で起用した。光山は現役時代に仰木が嫌いだったが、指導者になった現在は「仰木さんならどうするか」と考えることがあるという。
  • オリックス監督時代のある日の試合、相手チームに大量リードを許している試合の終盤で、守備要員としてベンチに入ることが多かった野手に「おい、次の回守るぞ」と守備固めに入るよう伝えたところ、「えっ」という驚きの反応を見せられたことから(一般的に守備固めによる野手交代は自軍がリードしている場面で行われることが多く、大量ビハインドの場面でのこうした交代は非常に珍しい)、不機嫌そうに「もういい」と言い、翌日その野手に2軍降格を命じた。この出来事が遠因なのか不幸な偶然の一致なのか、その選手はその年限りで自由契約となってしまった。
  • オリックス監督時代の96年のオールスターゲームで監督を務めた際に、当時オリックスのイチローを投手として起用する采配をおこない話題となった。この時の打者は松井秀喜(当時:巨人)であったが、セ・リーグ監督の野村克也はこのことに抗議する意味で、代打に投手の高津臣吾(当時:ヤクルト)を送った(結果は内野ゴロ)。なお、その前年に仰木率いるオリックスは西武戦で東尾修監督が起用したピッチャーオレステス・デストラーデと対戦している。デストラーデは1死も取れずに降板した。
  • 采配の特徴として、投手の起用、投手の交代を小刻みにおこなうことが非常に多く、勝利のためには無茶な投手起用を厭わない場面もしばしば見られた。ワンポイントリリーフは勿論、1人の打者に対して打席が完了する前に継投したこともしばしばあった。そのため近鉄監督時代には権藤博投手コーチや吉井理人と、オリックス監督時代には山田久志投手コーチと対立することがあった。権藤は著書の中で「仰木さんに呼ばれてバファローズに入ったのだがキャンプの段階からこの人話を聞かない人だな。」、「仰木さんとの衝突を挙げれば本当にキリがない。」、「仰木さんは私にとって最高の反面教師。べからず集を一番提供してくれた」と書く一方で「勝つことに対してとても貪欲でなおかつ自分の直感を何よりも信じている人だった。彼が名指導者として人々の記憶に残っているのはそんな彼の資質に由来しているような気がする。」と記している。
  • 攻撃面に関してはスタメンを固定することが少なく、ほとんど無数といっていい打順の形をつくり、オリックス時代の打線は「猫の目打線」と呼ばれていた。しかしこれは緻密なデータによるものであり、結果的には成功をおさめ、仰木マジックの面目躍如とされることになった。また、メンバー起用の幅を広げるために選手に複数ポジションを守ることを求め、内野手が複数ポジションを兼任したり、外野守備に定評のあった谷佳知本西厚博田口壮を内野で起用することもあった。
  • 監督としては「打倒西武」を唱え続けていた。当時の西武ライオンズは黄金期にあり、1982-98年の17シーズンでパ・リーグ優勝13回と他チームを圧倒していたが、残る4シーズンのうち1984年を除く3シーズンでは仰木が監督をしたチームが優勝している。
  • パンチ佐藤に芸能界転向を薦めたのも仰木である。仰木は既にパンチが芸能界に向いていると見抜いており「お前は野球をやっても大成出来ないが、芸能人なら大成できるから野球をやめろ」とストレートに戦力外通告したが、言われたパンチは怒るどころか「ハイ、辞めます」と二つ返事で答えて引退を決意した。パンチもまた仰木を非常に尊敬しており、その仰木の意見を無条件で受け入れたのである。「土曜スペシャル」(テレビ東京系)で共演した時にパンチは「自分はあの時まだ現役続行出来ると思ったんですが」と語ったが、仰木は「お前を現役続行で使っても無理だった」と語った。
  • 自動車を運転しないため、球場へのアクセスは電車タクシーを利用していた。近鉄時代には、新大阪駅近くの自宅マンションから地下鉄御堂筋線近鉄南大阪線を乗り継いで藤井寺駅まで通っており、電車内でファンに声を掛けられることも多かった。近鉄時代最後の年となった1992年には、親会社である近鉄電車ダイヤ変更告知や、近鉄特急アーバンライナー」のイメージキャラクターに起用された。
  • 2001年10月5日、オリックス監督としての最後の試合(近鉄戦:グリーンスタジアム神戸)では、試合後オリックスの選手による胴上げに次いで、対戦相手である近鉄の選手たちからも胴上げをされた。
  • 2005年6月4日の対広島戦で投手交代の是非をめぐって、44分の遅延行為により退場処分を受ける。仰木は「審判にはコースについて少し抗議したというものであって投手交代ではない。審判が聞き違えた」と主張したが、認められなかった。この試合の球審だった土山剛弘は「確かに『投手交代、菊地原』と聞き、仰木監督が復唱した」と主張し、両者の言い分は真っ向から対立した。その後、この2人のやりとりの口の動きを毎日放送のニュース番組「VOICE」が詳細に分析し、仰木が土山に、投球の判定について「コース、低いかな?」と尋ねた言葉を、土山が「投手、菊地原」と聞き違え、そこから「言ってもいない投手交代がコールされたとみられる」と報じた。ビデオには、仰木が身振りを交えてコースについて尋ねている様子が映っている。だが仰木自身は後にテレビ番組にて「(『投手・菊地原』と)言ったかもしれないなぁ」と土山を擁護するようなコメントをしている(前述の分析により土山が世間からの批判をかわせなくなることを気遣ったものと受け取る向きが多いが、詳細は不明)。
  • 2005年7月16日の対ロッテ戦で、ランドール・サイモンのショートゴロの間に、谷佳知が本塁に突っ込み、アウトを宣告され、激昂した谷は球審の胸を突き飛ばし、そのまま掴みかからんばかりの勢いでつめより、仰木も自らベンチから飛び出し、猛抗議で暴言を吐いたとして、2005年シーズンで2度目の退場処分を受ける。仰木にとってはこれが最後の抗議・退場となった。70歳3ヶ月は現在も退場処分の最高齢記録である。
  • 清川栄治がオリックスの投手コーチに就任した際に仰木がオリックス・バファローズ初代監督のときに着けた背番号「70」を背負っている。清川は背番号「70」を選んだ理由として「同じ背番号を背負い、指導者として一歩でも仰木さんに近づきたい。」と語っている。清川は仰木の下で1991年 - 1992年の2年間プレーした。
  • オリックスのオーナーの宮内義彦は「仰木さんは、若い選手を使うのが非常にうまく、プロ野球史上に残る名監督だったと思います。もちろん野球をよく知っているだけでなく、若い選手をその気にさせ、競わせる。人柄も好きでした。あっさりしていながら、礼儀正しい。情というのが分かる人でした。選手のプレーだけでなく、精神状態がよく分かって、人に対して非常に優しい人間でした。いろんな落ち込んでいる選手、調子に乗っている選手を一人ひとり呼んで話していたらしいのです。選手にも仰木時代を懐かしむ人は多いですね。オリックスの監督がたくさんいた中で、私はやっぱり一番センチメント(感傷)を感じるのは仰木監督です。」と述べている。
  • 2005年は葬儀・告別式参列に中村紀洋らが参列。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S

1954 | 西鉄 | 101 | 280 | 250 | 27 | 54 | 11 | 6 | 5 | 92 | 26 | 15 | 5 | 6 | 0 | 22 | -- | 2 | 51 | 6 | .216 | .285 | .368 | .653
1955 | 126 | 406 | 370 | 48 | 87 | 15 | 1 | 15 | 149 | 39 | 22 | 7 | 8 | 2 | 22 | 0 | 4 | 70 | 5 | .235 | .285 | .403 | .688
1956 | 124 | 438 | 388 | 52 | 94 | 19 | 1 | 10 | 145 | 33 | 23 | 10 | 17 | 1 | 30 | 0 | 2 | 75 | 3 | .242 | .300 | .374 | .674
1957 | 96 | 246 | 211 | 28 | 54 | 6 | 2 | 6 | 82 | 23 | 4 | 4 | 5 | 1 | 26 | 0 | 3 | 49 | 4 | .256 | .346 | .389 | .734
1958 | 115 | 331 | 296 | 38 | 59 | 10 | 0 | 2 | 75 | 27 | 10 | 3 | 10 | 0 | 22 | 0 | 3 | 65 | 4 | .199 | .262 | .253 | .515
1959 | 128 | 316 | 281 | 38 | 62 | 11 | 2 | 7 | 98 | 31 | 8 | 6 | 14 | 2 | 16 | 0 | 3 | 52 | 8 | .221 | .270 | .349 | .619
1960 | 114 | 426 | 374 | 46 | 100 | 19 | 3 | 4 | 137 | 30 | 8 | 8 | 15 | 0 | 33 | 1 | 4 | 57 | 4 | .267 | .333 | .366 | .700
1961 | 123 | 453 | 408 | 45 | 99 | 19 | 1 | 9 | 147 | 52 | 11 | 7 | 5 | 3 | 33 | 3 | 4 | 69 | 13 | .243 | .306 | .360 | .666
1962 | 111 | 406 | 357 | 48 | 76 | 13 | 5 | 5 | 114 | 21 | 5 | 10 | 18 | 1 | 25 | 1 | 5 | 75 | 7 | .213 | .274 | .319 | .593
1963 | 83 | 245 | 193 | 16 | 37 | 8 | 0 | 1 | 48 | 17 | 5 | 5 | 20 | 2 | 29 | 1 | 1 | 39 | 5 | .192 | .300 | .249 | .549
1964 | 105 | 275 | 234 | 23 | 55 | 11 | 1 | 5 | 83 | 23 | 3 | 3 | 12 | 2 | 23 | 2 | 4 | 40 | 1 | .235 | .314 | .355 | .669
1965 | 62 | 116 | 105 | 17 | 16 | 1 | 0 | 0 | 17 | 2 | 1 | 1 | 3 | 0 | 8 | 0 | 0 | 21 | 2 | .152 | .212 | .162 | .374
1966 | 36 | 30 | 28 | 2 | 6 | 0 | 0 | 1 | 9 | 2 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 7 | 0 | .214 | .241 | .321 | .563
1967 | 4 | 6 | 6 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .167 | .167 | .167 | .333
【通算:14年】
1328 | 3974 | 3501 | 428 | 800 | 143 | 22 | 70 | 1197 | 326 | 116 | 69 | 134 | 14 | 290 | 8 | 35 | 670 | 62 | .229 | .294 | .342 | .636
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度
チーム
【順位】
試合
勝利
敗戦
引分
勝率
ゲーム差
チーム
本塁打 チーム
打率 チーム
防御率 【年齢

1988年 | 昭和63年 | 近鉄 | 2位 | 130 | 74 | 52 | 4 | .587 | 0 | 154 | .253 | 3.23 | 53歳
1989年 | 平成元年 | 1位 | 130 | 71 | 54
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/05/24 07:12

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