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伊原春樹とは?

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伊原 春樹
茨城トヨペット硬式野球部 ヘッドコーチ #73

第2次埼玉西武ライオンズ監督時代
(2014年4月24日、東京ドームにて)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
広島県府中市
【生年月日】
(1949-01-18) 1949年1月18日(70歳)
【身長
体重】
184 cm
82 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
三塁手
【プロ入り】
1970年 ドラフト2位
【初出場】
1971年7月4日
【最終出場】
1980年6月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴


この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


伊原 春樹(いはら はるき、1949年1月18日 - )は、広島県府中市出身の元プロ野球選手(内野手)。1971年から1973年の登録名は「伊原 春植」(いはら しゅんしょく)。ニックネームは「ハル」。

選手としては西鉄・太平洋・クラウン・西武巨人でプレーした。現役引退後は指導者に転身して西武(コーチ・監督)、オリックス(監督)、阪神、巨人(コーチ)の各球団に所属した。

目次

  • 1 来歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 選手時代
    • 1.3 西武コーチ・西武監督時代
    • 1.4 解説者時代
    • 1.5 巨人復帰後
    • 1.6 第2次解説者時代
    • 1.7 第2次西武監督時代
    • 1.8 第3次解説者時代
    • 1.9 社会人野球コーチ時代
  • 2 指導者として
    • 2.1 西武コーチ時代
    • 2.2 第2次西武監督時代
    • 2.3 野村克也との確執
  • 3 人物
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別打撃成績
    • 4.2 年度別監督成績
    • 4.3 表彰
    • 4.4 記録
    • 4.5 背番号
    • 4.6 登録名
  • 5 関連情報
    • 5.1 出演番組
    • 5.2 著書
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典
  • 7 参考資料
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク


来歴

プロ入り前

広島県甲奴郡上下町(現:府中市)生まれ。6人兄弟の次男で女4人、男2人の4番目だった。

上下中学校から広島県立北川工業高等学校(現:広島県立府中東高等学校、監督は古葉毅の実弟古葉福生)に進む。1966年夏の甲子園県予選では、三塁手、四番打者として活躍。福山工との準決勝で本塁打を放ち決勝に進出するが、広島商山本和行に完封を喫し、甲子園出場を逸する。

卒業後は芝浦工業大学へ進学。東都大学野球リーグでは在学中2度の優勝を経験。1970年春季リーグでは、同期のエース・前野和博(東芝)とともに芝工大の3季ぶり3度目の優勝に貢献、三塁手としてベストナインにも選ばれた。大学の1年下に捕手道原裕幸がおり、三番道原、四番伊原が打の中心であった。同年の秋季リーグでは、大学紛争の影響もあり部員が急減する中、監督兼主将をつとめ、リーグ5位ながら一部残留を決める。一部リーグ通算49試合出場、128打数29安打、打率.227、3本塁打、14打点の成績を残した。

選手時代

1970年度新人選手選択会議西鉄ライオンズから2位で指名され、入団・プロ入りする。当時、学生運動で大学がロックアウトされ授業が受けられなくなったことと、入団先が福岡県であったことから卒業に要する単位が足りず、中途退学扱いでの入団だった。

初年度の1971年から控え三塁手として一軍に定着、一方で二軍のジュニアオールスターゲームにも選出される。翌1972年には竹之内雅史の外野コンバート、船田和英ヤクルト移籍が重なり、レギュラー三塁手として118試合に出場、主に七番打者として起用された。しかし太平洋クラブライオンズとなった1973年には内野の再編もあって定位置を菊川昭二郎に譲る。同年はアメリカマイナーリーグ1A級に属するローダイ・ライオンズに野球留学。その後は徐々に出場機会が減る。

1975年11月26日、関本四十四玉井信博との交換トレードで加藤初と共に読売ジャイアンツ(巨人)へ移籍。1976年から2年間在籍したがあまり出番はなく自由契約となる。1978年にクラウンライターライオンズ(1976年に太平洋クラブから球団名変更)へ復帰。同年は主に三塁手の山村善則の控えとして起用されるが、一塁手二塁手も兼ね20試合に先発出場。チームは1979年に西武ライオンズとなるが、遊撃手としても13試合に先発するなど準レギュラーとして活躍。しかし翌1980年には出場機会が減り、同年限りで現役を引退する。

西武コーチ・西武監督時代

引退後は、1981年二軍守備走塁コーチ補佐を皮切りに、1982年から1984年二軍打撃コーチ。1985年、一軍守備走塁コーチ補佐となるが1年でチームスタッフに降格し、1987年、一軍守備走塁コーチに復帰。1999年10月1日、監督・東尾修との野球観の違いやフロントの首脳陣若返り策により解任された。同年10月19日に阪神タイガースの守備走塁総合コーチへ就任するが家庭の事情を理由に翌2000年10月6日に退団が発表される。同年10月16日に翌2001年から西武の作戦兼守備走塁コーチとして復帰することが発表される。同シーズン限りで監督の東尾が勇退し、次期監督と目された伊東勤が現役続行を望んだため、同年10月11日監督へ就任した。

就任1年目の2002年、90勝を挙げて4年ぶりのリーグ優勝に導いた。日本シリーズでは巨人に4連敗で敗退した。翌2003年は、後身の育成のため清水雅治に監督就任後も続けていた三塁コーチを任せ、好成績の2位で終わるものの、当初から予定されていた伊東の監督就任を受け同年9月17日に辞任が発表される。

西武監督退任後の2003年10月14日にオリックス・ブルーウェーブの監督に就任(変則3年契約=2年契約 + オプション1年)。2年連続最下位に沈んだチームの再建を期待された。2004年は負けが込むに従って選手・コーチとの間に軋轢が生じ、最下位に終わる。また再編問題大阪近鉄バファローズとの合併のあおりを受け、契約年数を残して同年9月28日にわずか1年で退任した。

解説者時代

2005年よりニッポン放送J SPORTS(CS衛星テレビ)のプロ野球解説者、日刊スポーツ評論家、ベースボール・マガジン社顧問。また、2005年・2006年には、横浜対西武交流戦でテレビ神奈川(tvk)の中継解説者も務めた(2005年は5月20日、2006年は5月19日 を担当)。

巨人復帰後

巨人コーチ時代(2010年)

2006年10月10日、巨人の一軍野手総合コーチに就任(監督の原辰徳に電話をかけて「OBとして立て直したい、私にやらせて欲しい」とコーチ就任を申し出た結果実現した)。2007年開幕前に一軍ヘッドコーチに肩書が変更された。攻撃時は三塁ベースコーチを担当した。2008年、兼任していた三塁ベースコーチを緒方耕一一軍外野守備走塁コーチに任せ、ヘッドコーチに専念する。

2009年、原がWBC日本代表監督に就任した関係で、3月のオープン戦において監督代行を務めた。シーズンでは再びヘッドコーチに専念し、最終的にリーグ優勝・日本一に貢献した。

2010年、リーグ4連覇と日本一連覇を逃した責任を取ってヘッドコーチを辞任するが、球団の慰留を受け同年10月25日に球団編成本部シニアアドバイザーに異動した。

2012年1月、2011年12月31日付けで球団編成本部シニアアドバイザーを辞職したことが発表された。

第2次解説者時代

2012年からは東京スポーツ評論家(専属) のほか、J SPORTS、この年から西武主催公式試合の中継放送を始める朝日ニュースター(2013年からはテレ朝チャンネル2。いずれもテレビ朝日直営CS放送)、BS朝日(テレビ朝日系BS放送)各衛星テレビ局の野球解説者を務めた。

第2次西武監督時代

2013年シーズンオフ、11月3日に辞任した渡辺久信の後を受けて再び埼玉西武ライオンズの監督として指揮を執ることになった。背番号は73。西武、オリックス監督時代は、攻撃時に三塁ベースコーチを担当していたが、監督業に専念する。(三塁ベースコーチは河田雄祐外野守備走塁コーチが担当。)

2014年、開幕から3連敗スタートで、両リーグ最速の30敗となるなど序盤から最下位に低迷。6月3日に伊原は球団の休養を申し入れ、翌4日に了承され、開幕から53試合目となる同日の対横浜DeNAベイスターズ戦(西武ドーム)の試合後に伊原の休養と、監督代行に打撃コーチの田辺徳雄が就任することが発表された。6月27日、球団に監督の辞任を申し入れ、了承され、7月1日付で球団本部付アドバイザーに就任したが、同年末で退団した。

第3次解説者時代

2015年2月からは野球解説者・評論家に復帰。東京スポーツ専属評論家 をはじめ、各放送局で解説者を務める。同年7月3日文化放送で放送された西武対ロッテ戦中継へのゲスト解説が復帰後初解説となった。

社会人野球コーチ時代

2018年3月、活動を再開した社会人野球の茨城トヨペットのヘッドコーチに就任した。

指導者として

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この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。(2015年10月)

西武コーチ時代、三塁ベースコーチとして的確な走塁判断を行い、「西武の頭脳」と呼ばれた。緻密な西武野球は伊原の手腕によるものと評価は高い。 対戦チームの選手の癖を見抜き、見抜いた癖をベンチ等でメモする姿は対戦相手に脅威を与えた。

1987年の日本シリーズ第6戦では、8回裏2対1と西武1点リードで迎えた二死一塁、秋山幸二がセンター前ヒット。通常は一、二塁、あるいは一、三塁の場面であるが、一塁ランナー辻発彦は一気にホームイン。後に「伝説の走塁」と呼ばれる走塁であり、このとき辻に突入を指示したのが、当時コーチだった伊原であった。

対戦チームである巨人の中堅手ウォーレン・クロマティは返球が緩慢であり、中継プレーに入る遊撃手川相昌弘には「二塁進塁を警戒して打者走者を見るために右回転し、結果先の走者を見ない」という癖があった。伊原は2人の癖を看破し、かつ巨人ベンチがこの癖に気付いていないと見抜き、辻に突入を指示した。この走塁指示により、伊原の洞察力と走塁判断の確かさは全国に知れ渡ることになる

伊原は著書の中で1987年はセ・リーグでは巨人が独走しており「間違いなく巨人が来るな」と家でも遠征先でも巨人の試合をマメに見ていたという。「中継を見ているとクロマティのところにフライが上がった時、ランナーがいなければクロマティは必ずホワーンとした投げ方で内野に返す。ランナーがいたらどうかというと、普通に投げる事は投げるんです。ただ、弱肩なのかクセなのか、ランナーなしの場面より素早く投げるものの、それでも私から見ればホワーンとしたボールを返してます」「これは生かせるな」とあの走塁が生まれたという。

オリックス監督時代や巨人コーチ時代などに何度かシングルヒットでの一塁走者の本塁生還をサードコーチャーとして成功させている

伊原は「コーチは嫌われ者でなければならない。選手に好かれようと思ったら、お互い成長が止まる」と発言しており、どのチームでも鬼軍曹として非常に厳しい指導を行った。また味方を擁護するため、対戦相手となる他チームの選手や監督、コーチらに対しても容赦ない振る舞いを見せた。2013年11月の西武監督復帰時には、鬼が帰ってきたと一部では揶揄された(後述)。

西武コーチ時代

佐々木誠は「尊敬していたのは伊原さん。誰にでもはっきりとモノを言うし、ゴマをすったりしませんから」と語っている。

オレステス・デストラーデは「伊原さんは厳しくて、いつも怒っていたよ」と述べている。

第2次西武監督時代

シーズン開幕後は成績が上がらず、敗戦後に選手を名指しで痛烈に批判する場面も増えていたため、それが原因で一部選手との確執が報じられた。

秋田への遠征中、5月16日に同市内で行われた全体練習で暴風雨だったにも関わらず、屋外での全体ランニングを強行。長期の遠征中だったこともあり、一部の選手から反発の声が上がった。伊原は報道陣に「これで負のオーラを流すことが出来る」と語り、低迷するチームへの発奮を促すためであると強調したが、選手たちからは不満の声が続出したという見方もある。

野村克也との確執

1年限りで阪神から西武に復帰したことから、野村克也とは不仲とされている。阪神退団の理由は家庭の事情によるものとしているが、当時阪神のチーフスコアラーだった三宅博は確執が原因で辞任したと記している。

野村率いる楽天との交流戦(2008年5月29日)で、楽天2点リードの9回二死一塁で矢野謙次が盗塁を失敗しゲームセットになる。試合後、野村はバッカじゃなかろかルンバ、巨人は面白い野球をするね、野球は意外性のスポーツ」とコメントし、これをマスコミは総じて「巨人ベンチの凡ミスを野村が指摘」という論調で取り上げた

翌2009年の交流戦で巨人が楽天に4戦全勝すると、伊原は報道陣の前で「野村監督さま、今年の交流戦は4連勝させていただき、ありがとうございます。これもひとえに『ノムラの考え』のおかげでございます。昨年いただいたお言葉は非常に参考になりました。今日は1年間お預かりしていた、あのお言葉をそっくりそのままお返しさせていただきます。バッカじゃなかろうか〜、ルンバ!」と野村をこき下ろした。

なお、伊原と野村は選手時代の1979年から1980年までともに西武に在籍した同僚同士でもあり、1980年シーズンいっぱいで揃って引退している。

人物

 | 
この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2011年7月)

2003年、中退扱いになっていた芝浦工業大学へ再入学し、残っていた単位を取得して2004年に卒業。卒業式は当時学長の江崎玲於奈らを交えてマスコミにも紹介され話題となった。

現役時代、宅地建物取引士の資格試験を一発で合格。これは当時の伊原の居住先の大家が、大学卒業を果たせず、特に資格も持たなかった伊原に「ユニフォームを脱いでも職に困らぬよう」受験を薦めたためである。伊原は後年この大家の娘と結婚した。

1985年から1994年までは背番号78であったが、東尾修が監督就任時に78を希望した為、1995年より背番号73を着けた。これは夫人からのアドバイスにより、夫人の名前との語呂合わせから採用したため であり、西武、オリックスの監督就任時にもこれを貫いたが、2007年より巨人の野手総合コーチに就任すると78を着けた。これは緒方耕一が恩師藤田元司の背番号の73を既に着けていたことと、自身が8回日本一になったゲンのいい番号であるからという理由である。西武監督再任時には再び73番を着けた。

1978年の所沢への球団移転に対しては、東尾、竹之内雅史らと共に最後まで反対していたが、西武監督時代にはトミー・ラソーダの「俺にはドジャーブルーの血が流れている」に倣って「俺にはライオンズブルーの血が流れている」とまで発言している。巨人ヘッドコーチ就任後も、当時守備が上達しなかった西武の中島裕之を「ナカジはどうしてる? あいつはサードが一番向いているんだが…」と案じていた。

西武監督時代、2002年オフに放出した鈴木健ヤクルトスワローズに移籍した翌2003年のシーズンに大活躍。オールスターに選出され、前年リーグ優勝チーム監督としてパ・リーグを率いる伊原のもとに挨拶に行ったが理不尽に怒鳴られ退散せざるをえなかったという。

強面の反面リップサービスも嫌いではない。ニッポン放送の解説者時代、中継開始前に野村克也の物まねをしたこともある。

好きな食べ物はカレーライスで、それも普通の人ならとても食べられないレベルの激辛が好み。2010年の巨人春季キャンプでは、宿舎となったホテルで提供されるカレーライスが伊原のリクエストで日を追うごとに辛さを増し、他の選手・スタッフがとても食べられないほどになってしまったため、キャンプ後半には普通の選手用の「中辛」と伊原用の「激辛」の2種類が用意されたという。

携帯電話が大嫌い。西武時代に首脳陣が持たせようとしたが「携帯電話で、自身の行動範囲を縛られる感覚が理解できない」と拒否、以後も持っていない。伊原への伝言は全て夫人が管理していると言う。

2008年、萩本欽一が巨人のキャンプを訪れ、ファンの前で“欽ちゃん走り”をするよう伊原に振った。伊原は「イメージ壊すからね~…」と初めは拒んだものの、「イメージを壊して違うところへ行く巨人が見たい」という一歩も引かない萩本の態度に屈し、欽ちゃん走りを披露した。

自伝によると二軍のコーチ時代から監督時代も含め、20年間、攻撃時には三塁コーチを担当する事が多かったが、最初に一軍のコーチに配置転換した際には、一塁コーチを務めていた時期もわずかにあったと言う。

詳細情報

年度別打撃成績









































































O
P
S

1971 | 西鉄
太平洋
 | 39 | 123 | 115 | 13 | 31 | 6 | 0 | 2 | 43 | 8 | 3 | 0 | 2 | 1 | 3 | 0 | 2 | 24 | 2 | .270 | .298 | .374 | .671
1972 | 118 | 366 | 332 | 23 | 80 | 15 | 1 | 7 | 118 | 32 | 2 | 2 | 1 | 0 | 20 | 0 | 13 | 41 | 11 | .241 | .310 | .355 | .665
1973 | 32 | 55 | 48 | 4 | 13 | 0 | 1 | 0 | 15 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 2 | 2 | 1 | .271 | .364 | .313 | .676
1974 | 44 | 80 | 78 | 5 | 19 | 3 | 0 | 1 | 25 | 8 | 0 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 12 | 2 | .244 | .250 | .321 | .571
1975 | 22 | 25 | 24 | 4 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | .125 | .160 | .125 | .285
1976 | 巨人 | 9 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000
1978 | クラウン
西武 | 80 | 90 | 83 | 10 | 21 | 1 | 0 | 2 | 28 | 5 | 2 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 2 | 13 | 1 | .253 | .311 | .337 | .648
1979 | 85 | 102 | 93 | 7 | 22 | 2 | 0 | 0 | 24 | 3 | 0 | 1 | 2 | 1 | 5 | 0 | 1 | 13 | 2 | .237 | .280 | .258 | .538
1980 | 21 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000
通算:9年 450 | 852 | 784 | 66 | 189 | 27 | 2 | 12 | 256 | 58 | 7 | 6 | 5 | 3 | 39 | 0 | 21 | 107 | 21 | .241 | .294 | .327 | .621

年度別監督成績

年度
球団
【順位】
試合
勝利
敗戦
引分
勝率
【チーム
本塁打】
【チーム
打率】
【チーム
防御率】
年齢
2002年 | 西武 | 1位 | 140 | 90 | 49 | 1 | .647 | 183 | .278 | 3.20 | 53歳
2003年 | 2位 | 140 | 77 | 61 | 2 | .558 | 191 | .271 | 4.43 | 54歳
2004年 | オリックス | 6位 | 133 | 49 | 82 | 2 | .374 | 112 | .283 | 5.66 | 55歳
2014年 | 西武 | 6位 | 53 | 20 | 33 | 0 | .377 | 28 | .244 | 3.82 | 65歳
通算:4年 466 | 236 | 225 | 5 | .512 | Aクラス2回、Bクラス1回
  1. 2001年から2003年までは140試合制
  2. 2004年に限り135試合制(ただし、2試合ストライキのため中止のため133試合で打ち切り)
  3. 2014年は6月4日限りで休養、6月24日に正式に退任。監督代行は田辺徳雄。成績は2014年6月4日終了時点

表彰

記録

背番号

登録名

関連情報

出演番組

※いずれも、解説者として出演したプロ野球中継

著書

脚注

注釈

  1. ^ 西武コーチ時代のプロ野球名鑑
  2. ^ 後年のプロ野球名鑑内プロフィールでも、大学の選手兼任監督時代を思い出に挙げている。
  3. ^ 学生運動の影響で授業が受けられず3単位を残したまま、西鉄入り旨の情報は、次の資料より確認できる。
  4. ^ 併せて、本拠地も埼玉県に移転。
  5. ^ これは球団史上最多勝利記録であり、かつ新人監督勝利数の日本プロ野球新記録であった。
  6. ^ 最初の解説者時代のプロ野球名鑑より、
    • 『週刊ベースボール』プロ野球名鑑号では2005年にニッポン放送、2006年にニッポン放送・J SPORTS(Jスポーツ表記) の解説者として紹介。
    • 『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズでは2005年・2006年 ともにニッポン放送解説者として紹介。
  7. ^ 最初の解説者時代も、ベースボール・マガジン社顧問の肩書入りで『週刊ベースボール』にてコラムを担当していた。
  8. ^ 『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑』より、2013年現在のJ SPORTS、テレ朝チャンネル2各局プロ野球解説者リストにそれぞれ明記。
  9. ^ 2015年2月14日付東京スポーツウェブ記事より、仕事始めと明示の上、原辰徳との対談が掲載。また、同年3月11日付サンケイスポーツウェブ記事より、同年2月から評論家へ復帰したことが明記。
  10. ^ 2015年3月11日付サンケイスポーツウェブ記事より、同年シーズンから文化放送の解説者へ復帰予定としている
  11. ^ 参考:
    • 初解説の告知記事…
      • 文化放送公式サイト内週間番組表…
    • 初解説の後記…
  12. ^ この試合の2回裏、俊足とは言えない二塁ランナー清原和博がセンターフライ(クロマティの捕球)によるタッチアップでホームインした。伊原は巨人ベンチで誰ひとりクロマティに注意しないのを見て、巨人ベンチが癖に気付いていないと確信した。
  13. ^ 盗塁については、楽天のキャッチャー藤井彰人がすでに腰を浮かせていたという意見があり、野村が「伊原ならここで走らせてくる」と見抜いていたという説、もしくはバッターボックスにいたキャリアの浅い短距離打者隠善智也にサポートの意図でエンドランのサインを出したのを隠善が見逃したという説がある。
  14. ^ 参考:2005年…9月24日の西武対ソフトバンク戦(西武のプレイオフ進出決定試合)を担当(11月9日も、『J SPORTS STADIUM2005 ベストゲーム』として再放送)。

出典

  1. ^ 『週刊ベースボール』1985年2月25日号「'85プロ野球全選手写真名鑑」掲載のプロフィール(西武ライオンズの名鑑ゾーンより、守備走塁コーチ補佐と紹介)を参照。「大学(芝浦工大)時代選手兼任監督でプレーしたこと」と記載。
  2. ^ 伊原春樹著、二流選手から一流指導者へ―三塁コーチの視点-誰も書かなかった「勝利の方程式」、ベースボール・マガジン社、2011年、P134
  3. ^ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2019/09/18 13:08

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