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伊東四朗とは?

 | 画像提供依頼:顔写真の画像提供をお願いします。(2018年7月)
いとう しろう
伊東 四朗
【本名】
伊藤 輝男
(いとう てるお)
【別名義】
ベンジャミン伊東
【生年月日】
(1937-06-15) 1937年6月15日(82歳)
【出生地】
日本東京府東京市下谷区竹町(現:東京都台東区台東)
【身長】
166 cm
【血液型】
O型
【職業】
俳優
タレント
司会者
【活動期間】
1958年 -
【配偶者】
既婚
【著名な家族】
伊東孝明(次男)
【公式サイト】
伊東四朗オフィシャルサイト
【主な作品】


受賞
第16回菊田一夫演劇賞(『雪之丞変化』、1990年)
第52回NHK放送文化賞(2000年)
第32回報知映画賞助演男優賞(『しゃべれどもしゃべれども』・『舞妓Haaaan!!!』、2007年)


伊東 四朗

【本名】
伊藤 輝男
【生年月日】
(1937-06-15) 1937年6月15日(82歳)
【出身地】
東京府東京市下谷区
(現在の東京都台東区台東)
【血液型】
O型
【身長】
166 cm
【言語】
日本語
【方言】
標準語
【最終学歴】
東京都立市ヶ谷商業高等学校
(現・東京都立大田桜台高等学校)
【師匠】
石井均一座
【出身】
浅草軽演劇
【トリオ名】
てんぷくトリオ
【相方】
三波伸介
戸塚睦夫
【芸風】
漫談コント
【立ち位置】

【事務所】
オルテ企画
【活動時期】
1958年 -
【過去の代表番組】
『笑って!笑って!!60分』
『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』
『ザ・チャンス!』
『伊東家の食卓』
『脳内エステ IQサプリ』 他
【他の活動】
俳優
【配偶者】
あり
【親族】
次男(伊東孝明)

伊東 四朗(いとう しろう、1937年6月15日 - )は、日本コメディアン俳優タレント司会者日本喜劇人協会相談役。本名は伊藤 輝男(いとう てるお)。オルテ企画所属(「オルテ」は、本名「てるお」の逆読み)。※(演出家タレントテリー伊藤の本名と読みが同じ。(テリー伊藤は「輝夫」))現在の東京都台東区台東出身。5人兄弟(兄2人、姉1人、妹1人)の三男。兄は教育評論家の伊藤竹三。次男は俳優・タレントの伊東孝明

来歴

生い立ち

1937年6月15日、東京府下谷区竹町(現在の台東区台東)にて、服地商の子として生まれる。父親は静岡県榛原郡相良町(現在の牧之原市)、母親は同県掛川市の出身。男、女、男、男、女の5人きょうだいの上から4番目の三男が伊東。戦時中は母親の実家のある掛川市に疎開した。

子供の頃に工場跡地のトロッコで遊んでいたところ、トロッコが暴走し転倒。車輪の一部が伊東の左頬を貫通した。今でも伊東の左頬には傷跡が残っている。

石井均一座

東京都立市ヶ谷商業高等学校卒業後は就職を希望し数多くの面接を受けるも、目付きが悪い人相が悪いことを理由に不採用が続き、伝手を頼って紹介された企業も入社試験を受けたが採用には至らなかった。1958年伊東は早稲田大学生協職員に採用され、時間が出来ると観劇に様々な場所へ赴いた。その中で新宿フランス座の座付き俳優であった石井均は同じくこの年に劇団「笑う仲間」を旗揚げ、この舞台を見に足繁く通っていたため一座の役者が伊東の顔を憶えるほどになっていた。それらの経緯もあり、石井一座の役者から「君も(舞台で)やってみないか?」と誘われ、石井一座に参加。「笑う仲間」はもう一人の共同主宰者と石井の仲違いから数か月で瓦解「石井均一座」として再出発し新たに財津一郎(当時は財津肇メ)らが加わった。

最初の芸名は、師匠の石井均に「いとうにしよう」と言われたことから「伊藤証(いとうしょう)」であったが(「一等賞」をもじって名付けられたとの説もある)、ポスターなどに名前が連なる時に「名前が一文字なため、先輩より目立つ。お前も2文字にしろ(→四朗)」ということで「伊東四朗」と改名した。

てんぷくトリオ

詳細は「てんぷくトリオ」を参照

石井一座は、浅草松竹演芸場新宿新宿松竹文化演芸場を拠点に人気となる。石井に追随した戸塚睦夫も新宿フランス座々付でその剣劇や軽演劇仲間であった三波伸介とは夜間キャバレーの営業に出ていた(三波戸塚コンビ)。このステージ営業はある芸能事務所が石井をスカウトし、石井は戸塚を誘い二人で開始(石井戸塚コンビ)、その後石井は劇団旗揚から多忙を極め時間上の都合から三波にこのコンビ営業を移譲した経緯があった。引き継いだ三波はフランス劇場の座付で残り、石井の劇団に移った戸塚とはこの夜スケジュールに間に合わない事態が発生すると、戸塚はその都度に同じ座員であった伊東に声を掛けてこのキャバレー営業の相手代役に仕立て「(にせ)三波伸介」として急場を凌いでいたが、三波は1960年初頭に失踪(その後大阪に行ったことが判明する。)、伊東は「三波」の名でそのまま夜の代役営業を余儀なくされ、約一年余に渡り三波の帰京まで続けた。伊東はその代役期間にキャバレー従業員達とは顔馴染みになりステージも好評で、三波はコンビの復帰に際して伊東との交代を避け事務所には三人になったことを報告した。営業先のキャバレーショー司会者にコンビからトリオ再編になったことを告げる挨拶では、芸名「三波伸介」の扱いから「本当は伊東四朗、本当の三波伸介、本当に戸塚睦夫」と幾分非常識な伊東の改名紹介も兼ねた(三波戸塚伊東トリオ)。やがて石井一座は1961年に解散し、伊東と戸塚はこちらを主点に置くようになったが(途中「三波戸塚伊東トリオ」から「ぐうたらトリオ」に改名)、三波はこの夜の仕事とは別に個人単独の仕事を求め活動しテレビ出演の機会を掴み、その繋がりからトリオも1962年、正式にてんぷくトリオ(当初の「ぐうたらトリオ」から改名)としてテレビや一般の舞台へと進出した。トリオブームの中堅として素地の軽演劇経験を生かし、コントなどで舞台やテレビで徐々に人気となり、三波のギャグ「びっくりしたなぁ、もぅ」が大当たりして、茶の間の人気お笑いグループとしての地位を確立した。てんぷくトリオが世に出るきっかけの素は三波個人(ソロ)活動にあり、三波はトリオの活動に重点を置いてはいたが、平行する個人活動の都合上、トリオの知名度や人気を利用して戸塚と伊東に二人か個別の活動を促していた。これを受けて努力家の伊東はダンスや楽器の練習などで芸を磨き、映画監督の市川崑は伊東を「てんぷくトリオの中の一番若くて一番やせている人。演技開眼したらしく、からだとセリフのタイミングが見事。おもしろい。」と1968年に期待する新進として挙げていた。

1970年頃、『笑点』の札幌での収録において、当時司会の前田武彦が荒天のため収録場所に到着できず、急遽代理として三波伸介が司会をしたことがあった(三波は後に正式な司会に抜擢)。その際、座布団運びの代理を伊東が務めたことに起因して、伊東が正式な座布団運びに起用される可能性もあったというエピソードがある。

1972年から毎週日曜日に、三波らと共に出演していたNHKの『お笑いオンステージ』の1コーナー「てんぷく笑劇場」での活躍が代表的である。1973年戸塚睦夫が42歳で死去し、てんぷくトリオの活動に困難が生じるも、三波と2人で「てんぷく集団」として活動し、引き続き“てんぷく”の名を名乗ったが、次第にそれぞれの個人活動へシフトしている。

電線マン

1975年以降、三波の意向で「てんぷく」名での活動を抑制した頃、小松政夫との共演が話題になり、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』での親子コントや「電線音頭」でのベンジャミン伊東、『笑って!笑って!!60分』での「小松の親分さん」などのネタで人気に火がついた。小松と2人で生み出したギャグがいくつもあるが、正月によく流れる琴による演奏の『春の海』を口で表現する「つん、つくつくつくつん。つん、つくつくつくつん。ひやーひんひらひらりー、べんべらべんべらべんべらべんべらべん」は伊東の発案である。

ずん」や「ニン」、「どーかひとつ」といったギャグも有名になった。特にベンジャミンとしてのスタイルは、藤田まことら古くからのコメディアン仲間から「あいつはバカになったのか!?」と驚嘆されるほどのインパクトがあり、小林信彦からは大いに絶賛された。それまで「てんぷくトリオ」のサブ的役割であった伊東が、にわかに芸能界で存在感を示し始め、1979年にはTBSザ・チャンス!』の二代目司会者に起用された。

「ベンジャミン伊東」のキャラクター案は、伊東が自身の威圧的な顔にコンプレックスを持っていたため、「怖い顔でも面白い人はいないのか?」と考えた時に「サーカスの団長」が思い浮かんだことが発端となっている。スタッフから「衣装はどうしましょう?」と問われ、伊東は「サーカスの団長っていったら、こんな感じじゃないの?」と、台本の隅にサラサラと落書きのようなイラストを書いた。すると電線マン収録の際にイラストそのままの衣装が用意されていたという。

喜劇役者として

1982年12月8日、三波が52歳で急死。訃報を聞いた際、伊東は三波が安置されている病院に向かい、報道陣の問いかけに「(三波の遺体を触った際に)まだ温かいんですよ。温かいものだから死んだ気がしなくて…」と語り、葬儀で号泣した。こうして「てんぷくトリオ」は伊東だけとなってしまう。

1977年TBS系ドラマ『ムー』で、渡辺美佐子の夫役を演じて人気を博し、1983年NHK連続テレビ小説おしん』の父親役に抜擢され、ドラマは大ヒット。以後、活動の中心は俳優業に据え、活躍の場を大きく広げた。1992年から2015年まではTBS系『十津川警部シリーズ』で亀井定雄役を一貫して演じたほか、2時間ドラマの主演も多い。俳優業以外にはバラエティ番組の司会も数多く担当し、日本テレビ系バラエティ番組『伊東家の食卓』には「お父さん」役で約10年出演した。

テレビドラマでの父親役のイメージが強く、他の芸能人からは「(伊東家の)お父さん」と呼ばれることも多い。

CMでは『白子のり』のイメージキャラクターを長年務めていることで有名。

『おしん』以降、コメディアンと並行してシリアスな俳優としての存在感も高めた伊東であったが、自らを「喜劇役者」と位置づけており、「いつまでもそうあり続けたい」と語っている。「三波も戸塚も死んだが、てんぷくトリオは解散したものではない、解散を口にしたことはない」とも述べ、コメディへのこだわりも見せる。かつての喜劇役者仲間であり、親しい友人でもあった東八郎関敬六、また渥美清由利徹などといった浅草喜劇出身の役者たちが次々に冥界の人になって以後は、「浅草喜劇の伝統を後代へ引き継ぎたい」という想いと、「彼らの分まで、体が動く限り現役で頑張りたい」との想いが年々強くなっているという。

1997年三宅裕司小倉久寛らと共にオムニバスコントの舞台『いい加減にしてみました』を上演する(2002年・2010年にも上演)。この流れで、今ではあまり見られない典型的な喜劇軽演劇舞台を再現しようと、2004年、『伊東四朗一座 〜旗揚げ解散公演』を上演した(タイトルからも分かるように最初で最後の予定であった)。この公演は当日券を求める客があふれるほどで、多くのリクエストを受けて、翌2005年には『伊東四朗一座 〜急遽再結成公演〜』を上演する。その後、2006年・2007年には伊東が参加しなかったため、三宅らは「熱海五郎一座」と銘打って活動する。2008年には再び伊東が加わり「伊東四朗一座」として公演を行う。2009年には「伊東四朗一座・熱海五郎一座合同公演」が上演された。現在は年1回のペースで活動。伊東四朗一座の舞台公演作品はDVD化もされている。

この他にも舞台公演は精力的に行っている。角野卓造松金よね子佐藤B作あめくみちこらとともに「西荻窪エリアでお酒を飲みながら語らう会」(西荻の会)を結成し、実際に西荻窪エリアで酒を飲みながら語らっていたが、ある時会の外から「このメンバーで芝居を」との提案を受けたことから、2011年、本多劇場にて西荻の会による介護コメディー『ロング・ロスト・フレンド』を上演した。

人物・エピソード

出演

バラエティ

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音楽番組

情報番組

テレビドラマ

NHK

日本テレビ系

TBS系

2010Happy Mail