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伊福部昭とは?

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伊福部 昭


【基本情報】

【出生名】
伊福部 昭
(いふくべ あきら)
【生誕】
(1914-05-31) 1914年5月31日
【出身地】
日本北海道釧路町
(現:釧路市)
【死没】
(2006-02-08) 2006年2月8日(91歳没)
日本東京都目黒区
【学歴】
日本
北海道帝国大学(現:北海道大学)農学部林学実科卒業
【ジャンル】
クラシック音楽
映画音楽
【職業】
作曲家
東京音楽大学名誉教授
【活動期間】
1935年 - 2006年
【公式サイト】
伊福部昭 公式サイト

伊福部 昭(いふくべ あきら、1914年〈大正3年〉5月31日 - 2006年〈平成18年〉2月8日)は、日本を代表する作曲家の一人。ほぼ独学で作曲家となった。日本の音楽らしさを追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くのオーケストラ曲のほか、『ゴジラ』を初めとする映画音楽の作曲家として、また音楽教育者としても知られる。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 デビュー以前
    • 1.2 デビュー作・日本狂詩曲
    • 1.3 戦前・戦中
    • 1.4 戦後
    • 1.5 晩年
    • 1.6 没後
    • 1.7 栄典
  • 2 人物
    • 2.1 語録
    • 2.2 家族・親族
  • 3 映画音楽でのエピソード
    • 3.1 誕生日とラヴェルの逸話
  • 4 作品の特徴
  • 5 作品一覧
    • 5.1 管弦楽曲
    • 5.2 吹奏楽曲
    • 5.3 器楽曲
    • 5.4 歌曲
    • 5.5 舞台芸術のための音楽
    • 5.6 映画音楽
      • 5.6.1 特撮映画
    • 5.7 放送のための音楽
    • 5.8 過去作品の音楽を流用した映画・テレビ作品
    • 5.9 映画、放送以外の音楽
    • 5.10 その他
  • 6 関連書籍
    • 6.1 著作物・寄稿文
    • 6.2 伊福部昭インタビュー
    • 6.3 伊福部昭についての書籍・寄稿文
  • 7 テレビ番組
  • 8 テレビ出演
  • 9 門下生
    • 9.1 古弟子会
    • 9.2 新弟子会
  • 10 関連項目
  • 11 脚注
    • 11.1 注釈
    • 11.2 出典
  • 12 出典・参考文献
  • 13 外部リンク

経歴

デビュー以前

1914年(大正3年)、北海道釧路町(釧路市の前身)幣舞警察官僚の伊福部利三、キワの三男としてうまれる。小学生の時、父が河東郡音更村の村長となったため、音更村に移る。同地でアイヌの人々と接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた。代表作の一つ、『シンフォニア・タプカーラ』(1954年)は、この時のアイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという。また、この頃から父親に『老子』の素読をさせられる。

1926年(大正15年)、12歳。札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)入学。中学時代に後の音楽評論家で、生涯の親友となる三浦淳史と出会う。初めは絵画に熱中し、1年上の佐藤忠良(彫刻家)らと美術サークル「めばえ会」を結成。地元で展覧会も開いたという。その後音楽に関心を持ち、バイオリンを独学で始める。さらに三浦の「音楽やるには作曲やらないと意味がない」とそそのかされ、本格的に作曲も始めた。

1932年(昭和7年)、18歳。北海道帝国大学(北海道大学の前身)農学部林学実科に入学。文武会管絃学部のコンサートマスターとなる。さらに、同オーケストラ内で最新の音楽への関心が強い同志3名(有田学、小岩武、工藤元)とともに、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」を結成する。工藤は当時札幌師範学校教諭で、大正期に函館で「アポロ音楽会」を主宰した工藤富次郎の長男であった。ギター曲『JIN』作曲(現在楽譜の所在は不明)。独唱曲『平安朝の秋に寄せる三つの歌』作曲(現在楽譜の所在不明)。この頃後の作曲家早坂文雄と出会う。

1933年(昭和8年)、19歳。アマチュアギター奏者であった次兄・勲のために、ギター曲『ノクチュルヌ』作曲(現在楽譜の所在不明)。さらに、三浦が文通していたスペイン在住の米国人ピアニスト、ジョージ・コープランドのために『ピアノ組曲』を書き上げる。これは、コープランドの「地球の反対側にいながら私の音楽を聴くのだから、作曲もやるのだろう。曲を送れ」という旨の手紙に対して、三浦が「良い作曲家がいるので曲を送る」と返事を書いたことを受けて作曲したものであるが、後年、管弦楽版、箏曲版、弦楽オーケストラ版などを編曲するなど、ライフワーク的な作品となる。なお、コープランドからは「面白いのでぜひ演奏したい」という返信があったが、スペイン内戦のため手紙が途絶えたという。

1934年(昭和9年)、20歳。次兄の勲、三浦、早坂、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーらとともに、「新音楽連盟」を結成。代表は伊福部の長兄の宗夫がつとめた。同年9月、「国際現代音楽祭」を開催。イーゴリ・ストラヴィンスキーダリウス・ミヨーマヌエル・デ・ファリャエルヴィン・シュルホフエリック・サティなど、時代の最先端をいく作品を演奏・紹介した。また、この演奏会で伊福部はソリストとして、シュルホフの『無伴奏ヴァイオリンソナタ』を日本初演している。楽譜の入手は伊福部と、当時アメリカの音楽家と文通するなど、最新の音楽事情に精通していた三浦が中心に行っており、主に丸善を通してフランスデュラン社イギリスのチェスター社から購入していた。なお、伊福部は上記の他にもヤナーチェクの『六重奏曲』の楽譜を入手していたが、当時はその価値がわからず演奏会で発表することはなかった。伊福部はこのことを後年まで悔やんでいたという。また、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーとしても、札幌・旭川など道内各地で演奏旅行も行った。

「新音楽連盟」の演奏会は上記の一度きりであったが、20年後の1954年に当時北大生であった谷本一之(のち北海道教育大学学長)らのグループ「ノイエ・ムジーク」が、同大学の中央講堂で「新音楽連盟」の演奏会を継承するとして「現代音楽の夕」を開催している。谷本は事前に先輩の伊福部らに許可を求める手紙を送ったが、伊福部からは「御役に立つなら第二回でも第三回でもご使用ください。 〜(中略)〜 選曲や、演奏の上で多少、不適当なものがあったとしても、その支障を超える気力が重要です」と激励の返信があったという。

デビュー作・日本狂詩曲

1935年(昭和10年)、21歳。大学を卒業後、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務。アメリカの指揮者フェビアン・セヴィツキー(クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る。

同年、パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催されると、審査員の中にモーリス・ラヴェルの名を見つけ、ラヴェルに見てもらいたいという一心で、『日本狂詩曲』を賞の規定に合わせ第1楽章「じょんがら舞曲」をカットして応募する。結局ラヴェルは病気のため審査員を降りたが、チェレプニンを初めジャック・イベールアルベール・ルーセルといったフランス近代音楽を代表する作曲家たちが審査にあたった。このコンクールは日本人に対して開かれたコンクールだが、審査会場はパリであった。

パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、

  1. 平行五度などの西洋音楽の和声の禁則を無視し、その場の日本人にとって下衆に見えた日本の伝統音楽のような節回しが多いこと
  2. 当時としては極端な大編成である編入楽器多数の(打楽器奏者だけで9人を要する)三管編成オーケストラが要求されていたこと
  3. 北海道の厚岸町から応募してきたこと

との理由から、相当の驚きと困惑があったと言う。とくに1.の理由により「正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部の曲を応募からはずしてしまおう」という意見も出たが、大木正夫の「審査をするのは東京の我々(その場にいた日本人)ではなくパリの面々だし、応募規程を満たしているのに審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだから」という意見が通り、伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届けられた。

結果は伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった。この時の第2位は、伊福部と同じくほぼ独学で作曲を学んだ松平頼則であった。後に松平とは新作曲派協会を結成することになる。同曲は翌1936年(昭和11年)、セヴィツキー指揮、ボストン・ピープルス交響楽団によりアメリカで初演された。なお初演の際、チェレプニン賞への応募に合わせて第1楽章はカットして演奏され、永遠に幻となった。なお、この幻の日本狂詩曲第一楽章「じょんがら舞曲」は、日本狂詩曲のスコア浄書を手伝った、次兄・勲の追悼のために書かれた『交響譚詩』の第二譚詩(第二楽章)にその一部が組み込まれている。

これを機に初演の年来日したチェレプニンに短期間師事する。日本狂詩曲は大編成の大作だが、何度も演奏されやすいよう編成を考えて書くべきというチェレプニンの意見に従い、次作として14人編成で全員ソロの小管弦楽曲『土俗的三連画』を書いた。

なお、『日本狂詩曲』は、1936年に龍吟社から楽譜が出版されている。表紙のデザインは、美術にも関心が深かった伊福部自身が手がけた。この楽譜は、日本国内では僅か9冊しか売れなかったが、海外での購入者の中には、モーリス・ラヴェルやジャン・フランチェスコ・マリピエロらの名前もあったという。

戦前・戦中

1937年(昭和12年)、23歳、室内管弦楽曲『土俗的三連画』作曲し、チェレプニンに献呈する。

1938年(昭和13年)、24歳。以前書いた『ピアノ組曲』がヴェネツィア国際現代音楽祭入選。

この時期は日本の民族音楽の他、アイヌやギリヤーク(ニヴフ)といった、北海道や樺太の少数民族の文化に発想を求めた作品が多い。

1940年(昭和15年)、26歳。林務官を辞め、北海道帝国大学の演習林事務所に嘱託として勤務。紀元二千六百年記念祭にて『交響舞曲 越天楽』初演。

1941年(昭和16年)、27歳。勇崎アイと結婚。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』作曲。

1942年(昭和17年)、28歳。兄・勲が、東京・羽田で戦時科学研究の放射線障害により死去。

1943年(昭和18年)、29歳。勲に捧げる曲として『交響譚詩』を作曲。同曲はビクターの作曲コンクールに入賞し、伊福部の作品として初めてレコード化されることとなった。吹奏楽曲『古典風軍楽「吉志舞」』作曲。

1944年(昭和19年)、30歳。管弦楽曲『兵士の序楽』作曲。『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』(後に『フィリピンに贈る祝典序曲』に改題)作曲。『管絃楽のための音詩「寒帯林」』作曲。

1945年(昭和20年)、31歳。宮内省帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務。放射線による航空機用木材強化の研究に携わるが、当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続けた。研究成果を得ないまま終戦となったある日、突然血を吐いて倒れたが、医者には結核や過度の電波実験による毛細管の異状などと言われ、「何せ生命が最も軽んぜられた時代なので、医師も無責任なものであった」と述懐している(この「謎の病」を放射線障害と記述している成書もあるが、木材振動実験に伴う振動障害と過度の喫煙が原因と考えられる)。また、この時病臥した経験が、後に音楽に専念するきっかけとなったという。航空機に伴う一切の仕事はマッカーサー上陸後、数日後に禁止となった。

戦後

1946年(昭和21年)、32歳。自宅で静養中、知人から映画音楽の仕事の誘いがあり、栃木県の日光・久次良に転居。その後間もなく、東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆が伊福部を作曲科講師として招聘し、これを受けて就任。独唱曲『ギリヤーク族の古き吟誦歌』作曲。

この作曲科では、初めて担当した芥川也寸志黛敏郎などから大変慕われた。特に芥川は2回目の授業の後で奥日光の伊福部家を探し当て、数日逗留したという逸話を持つ。そのほかにも教育者として松村禎三矢代秋雄池野成小杉太一郎山内正石井眞木三木稔今井重幸永瀬博彦和田薫石丸基司今井聡、など多くの作曲家を育て、その傍ら、東宝の映画音楽の作曲にも携わった。

またこの頃、『管弦楽法』の執筆に取り掛かっていたが、トランクに入れていた原稿やメモを、乗っていた電車からトランクごと落としてしまった。翌日探しに行ったが、原稿はほとんど散逸してしまっており、このために『管弦楽法』をまとめるのに5年はロスしたという。

1947年(昭和22年)、33歳。東京都世田谷区玉川等々力町に転居。東宝プロデューサーの田中友幸から依頼を受け、『山小屋の三悪人』(公開題名は『銀嶺の果て』)で初めて映画音楽を担当。伊福部はこの作曲依頼について、「おそらく私が山林官で、山奥の生活を知っているだろうということであったのだろうと思っています」と語っている。

この初仕事で、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立した。その日の録音を取りやめ、演奏者に帰ってもらった後、数時間議論を続けたという。このとき仲裁をしたのが脚本の黒澤明であった。黒澤の仲裁もあって曲はそのまま採用されたが、断片的な場面ごとではなく作品全体を見渡した結果としての主人公の心情を表した音楽を意図したことが認められ、最終的には音楽への真摯な態度が製作側からも評価された。

バレエ曲『エゴザイダー』作曲。

同年、『交響譚詩』等の業績により、第1回北海道新聞文化賞を受賞。

1948年(昭和23年)、34歳。世田谷区玉川奥沢町に転居。『ヴァイオリン協奏曲』(後に『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』と改題。また1951年〈昭和26年〉の改訂により当初の三楽章編成のうち第二楽章を省かれる。改訂は1951年、1959年〈昭和34年〉、1971年〈昭和46年〉)。バレエ音楽『さ迷える群像』作曲。バレエ音楽『サロメ』作曲(1987年に演奏会用の管弦楽曲に、2002年〈平成14年〉に二十五絃箏甲乙奏合『七ツのヴェールの踊り』、2004年〈平成16年〉に二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ』へと編曲される)。

1949年(昭和24年)、35歳。父・利三死去。独唱曲『サハリン島土蛮の三つの揺籃歌』(現在は土蛮は先住民と表記)作曲。バレエ音楽『子供のための舞踏曲 リズム遊びのための10の小品』作曲。バレエ音楽『憑かれたる城(バスカーナ)』作曲。

1950年(昭和25年)、36歳。バレエ音楽『プロメテの火』作曲。

1951年(昭和26年)、37歳。世田谷区玉川尾山町(現尾山台)に転居。『音楽入門』(要書房)刊行。バレエ音楽『日本の太鼓「鹿踊り」』作曲(1984年〈昭和59年〉に演奏会用に『日本の太鼓 ジャコモコ・ジャンコ』に編曲される)。

1952年(昭和27年)、38歳。『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』ジェノヴァ国際作曲コンクール入選。

1953年(昭和28年)、39歳。東京音楽学校の音楽科講師を退任。バレエ音楽『人間釈迦』作曲(1989年に演奏会用に編曲)。『管絃楽法』(音楽之友社)刊行(後の『管絃楽法』上下巻の上巻の増補部分を除く部分)。ラジオ放送による音楽劇『ヌタックカムシュペ』が文部省芸術祭賞受賞。

1954年(昭和29年)、40歳。『ゴジラ』の音楽を担当。以後、『ビルマの竪琴』や『座頭市』シリーズなど多くの映画音楽を手掛けた。

管弦楽曲『シンフォニア・タプカーラ』作曲(1979年〈昭和54年〉に改訂)、三浦淳史に献呈。

1950年代の一時期には、東宝に所属している俳優陣に対し、音楽の講義も行っている。この時の教え子に宝田明岡田真澄などがおり、宝田はその後も伊福部を慕っていることを、映画の打ち上げ会や書籍などで語っている。

1956年(昭和31年)、42歳。『ヴァイオリンとピアノのための二つの性格舞曲』作曲。毎日映画コンクール音楽賞受賞。仮面舞踏劇『ファーシャン・ジャルボー』作曲。独奏曲『アイヌの叙事詩による対話体牧歌』作曲。

1958年(昭和33年)、44歳。合唱頌詩『オホーツクの海』作曲(1988年〈昭和63年〉に独唱用に編曲)。

1960年(昭和35年)、46歳。独唱曲『シレトコ半島漁夫の歌』作曲。バレエ音楽『日本の太鼓「狐剱舞」』作曲。

1961年(昭和36年)、47歳。合唱曲『北海道賛歌』作曲。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための「リトミカ・オスティナータ」』作曲。

1965年(昭和40年)、51歳。母・キワ死去。

1967年(昭和42年)、53歳。ギター独奏曲『古代日本旋法による蹈歌』作曲(1990年に二十絃箏用に編曲)

1968年(昭和43年)、54歳。『管絃楽法』(音楽之友社)上巻増補改訂版と下巻刊行。

1969年(昭和44年)、55歳。ギター独奏曲『箜篌歌』作曲(1989年にハープ独奏曲、1997年〈平成9年〉に二十五絃箏曲に編曲)

1970年(昭和45年)、56歳。大阪万博のパビリオン「三菱未来館・日本の自然と日本人の夢」の音楽を手がける。ギター独奏曲『ギターのためのトッカータ』作曲(1991年〈平成3年〉に二十五絃箏曲に編曲)

1972年(昭和47年)、58歳。吹奏楽曲『ブーレスク風ロンド』作曲(1983年〈昭和58年〉に管弦楽曲『倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク』に編曲)。バレエ音楽『日本二十六聖人』作曲。

1973年(昭和48年)、59歳。邦楽器合奏曲『郢曲「鬢多々良」』作曲。

1974年(昭和49年)、60歳。東京音楽大学作曲科教授就任。

1976年(昭和51年)、62歳。同大学長就任。マリンバ協奏曲『オーケストラとマリンバのための「ラウダ・コンチェルタータ」』作曲。

1979年(昭和54年)、65歳。『ヴァイオリン協奏曲第二番』作曲。二十絃箏曲『物伝舞』作曲。

1980年(昭和55年)、66歳。リュート独奏曲『バロック・リュートのためのファンタジア』作曲(1993年に二十五絃箏曲『幻哥」へ編曲)。紫綬褒章受章。

1982年(昭和57年)、68歳。二十絃箏協奏曲『二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ』作曲。

1983年(昭和58年)、69歳。管弦楽曲『SF交響ファンタジー』作曲。ゴジラ30周年記念「伊福部昭SF特撮映画音楽の夕べ」が開催される。また、音楽グループ「ヒカシュー」のメンバー(当時)の井上誠によって、トリビュートアルバム『ゴジラ伝説』全3作がリリースされ、若い世代にも伊福部の名前が知られるきっかけとなった。

1985年(昭和60年)、71歳。『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』作曲。東京音楽大学民俗音楽研究所所長就任。

1987年(昭和62年)、73歳。勲三等瑞宝章受章。

1989年(平成元年)、75歳。バレエ音楽『人間釈迦』を『交響頌偈「釈迦」』に編曲。

1990年(平成2年)、76歳。管絃司判『鞆の音』作曲。

1992年(平成4年)、78歳。独唱曲『摩周湖』作曲。

1993年(平成5年)、79歳。交響的音画『釧路湿原』作曲。

1994年(平成6年)、80歳。独唱曲『因幡万葉の歌五首』作曲。

1996年(平成8年)、82歳。日本文化デザイン賞大賞受賞。

1997年(平成9年)、83歳。二十五絃箏曲『胡哦』作曲。「伊福部昭音楽祭」(札幌交響楽団札幌コンサートホールKitara北海道文化放送北海道新聞社主催)開催。『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』が55年ぶりに再演される。

1999年(平成11年)、85歳。二十五絃箏曲『琵琶行』作曲。

2000年(平成12年)、86歳。独唱曲『蒼鷺』作曲。独唱曲『聖なる泉』作曲。妻・アイ死去。

2002年(平成14年)、88歳。「伊福部昭米寿記念演奏会」(新交響楽団紀尾井ホール)。

2003年(平成15年)、89歳。チェンバロ独奏曲『小ロマンス』作曲。文化功労者顕彰。

2004年(平成16年)、90歳。「伊福部昭 『卆寿』を祝うバースディ・コンサート」開催(日本フィルハーモニー交響楽団サントリーホール)。

2005年(平成17年)、91歳。11月、幼少期を過ごした北海道音更町で、「伊福部昭音楽祭 in 音更」(札幌交響楽団、高関健指揮)開催。『管弦楽のための日本組曲』、『リトミカ・オスティナータ』(ピアノ:川上敦子)、『シンフォニア・タプカーラ』などが演奏される。

2006年(平成18年)、2月8日死去(享年91歳)。

晩年

晩年は旧作の改版も多く手がけ、デビュー作の『ピアノ組曲』に77歳になってオーケストレーションを施した『日本組曲』をはじめ、年を重ねてからも大作を書く筆は衰えなかった。この時期の改作としては、野坂惠子が開発した二十絃箏や二十五絃箏などの改良楽器およびその合奏のための作品が多い。1997年(平成9年)にそれまで戦時中失われたとされていた『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』の楽譜がNHKの資料倉庫から発見されるなど、晩年になってから多数の初期作品が蘇演される幸運にも恵まれた。

2006年(平成18年)、前年頃から体調を崩し始め、1月19日に腸閉塞のため東京都目黒区の病院に入院するも2月8日夜に、多臓器不全のため死去。91歳没。葬儀委員長は松村禎三(東京芸術大名誉教授)。

遺作は結果として、2004年(平成16年)初演の二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ — バレエ・サロメに依る』である。しかし、川上敦子に献呈する予定だった『土俗的三連画』のピアノリダクション版、並びに野坂恵子に献呈する予定だった二十五絃箏曲『ラプソディア・シャアンルルー』(「シャアンルルー」はアイヌ語十勝平野の意)は、病床において構想の段階を過ぎて、書き始める直前であったと言う。

伊福部の死去に対して、「日本の作曲界を牽引した功績はとても大きい」(作曲家・池辺晋一郎)、「映画音楽の大山脈をなした方でした」(映画監督・熊井啓)など、各界から追悼のコメントが寄せられた。

没後

2007年(平成19年)、サントリーホールにて、「第1回伊福部昭音楽祭」が開かれた。

2008年(平成20年)、『完本 管絃楽法』(音楽之友社)刊行。杉並公会堂にて、「第2回伊福部昭音楽祭」開催。コンサートの他、シンポジウム「伊福部昭が残したもの - 未公開映像に見る伊福部昭の素顔」が開かれた。

2013年(平成25年)、5月2日、杉並公会堂にて「伊福部昭生誕99年 白寿コンサート」(伊福部昭生誕99・100年音楽祭実行委員会〈現・伊福部昭百年紀実行委員会〉主催)が開かれた。6月1日、ミューザ川崎シンフォニーホールにて「伊福部昭 生誕100年記念プレコンサート」が開催。舞踊音楽『プロメテの火』が50年ぶりに再演された。

2014年(平成26年)。生誕100周年を迎えるこの年は、数多くの記念コンサート・イベントが行われた。さらに、メモリアルイヤーを記念し、数多くのCDがリリースされた。

栄典

人物

語録

家族・親族

伊福部家は因幡国の古代豪族伊福部氏を先祖とする。本籍地鳥取県岩美郡国府町(現在は鳥取市に編入)。明治前期まで代々宇倍神社の神職を務めたとされ、昭の代で67代目。父・利三は警察署長や音更村(音更町の前身)村長を務めた。工学博士で北海道大学電子研究所教授や東京大学先端科学技術研究センター教授を歴任した伊福部達は甥(長兄・宗夫の次男)、放送作家伊福部崇大甥である。なお、伊福部家の人物としては宗教家・文芸評論家・詩人の伊福部隆彦も知られている。

映画音楽でのエピソード

伊福部の映画音楽デビュー作『銀嶺の果て』は、監督の谷口千吉にとっても、また主演の三船敏郎にとってもデビュー作であった。その『銀嶺の果て』の打ち上げの席で、伊福部は小杉義男に、「あんた、監督さんにあんなふうに口答えするなんてどういうつもりなんだ」と、論争したことをとがめられた。しかし小杉が伊福部から離れたあと、志村喬がやってきて、「音楽の入れ方で監督と論争する人は初めてだ。これからも大いに頑張りなさい」と励まされた。

1948年(昭和23年)、映画の仕事で京都に滞在していた際に、撮影所そばの小料理屋の二階で月形龍之介(東映映画『俺は用心棒』で知り合いになったという)とこたつで酒を飲んでいると、途中から入ってきた男がいた。「またもらい酒か」などと言われながらもニコニコしながら酒をおごってもらい、名前も名乗らぬままおごり酒に酔いつつ飄逸、洒脱な話題で延々大飲した。その際の俳優や映画会社への愚痴から、伊福部は「不遇な映画人」という印象を受けたという。伊福部はその男と気が合い、その後も数年間、お互いの名前も分からないままたびたび会っては酒をおごらされていた。この男こそ特技監督円谷英二で、当時、円谷は公職追放中の身であった。のちに映画『ゴジラ』の製作発表の現場でバッタリ再会し、2人とも大変驚き、またお互いに初めて相手の名前を知ったという。

円谷英二は特撮のラッシュ・フィルム(編集前の現像されたばかりのフィルム)を、他人に決して見せなかったが、伊福部は特別にラッシュを見せてもらい、作曲に活かしていた。これも数年間にわたる円谷へのおごり酒が背景にあり、伊福部は冗談めかして「なにしろ円谷さんにはそういう“神の施し”があったもんですから」と語っている。また、『サンダカン八番娼館 望郷』などでコンビを組んだ熊井啓も、「作曲家はふつう、編集ずみのフィルムを見て音楽をつけるが、伊福部さんは撮影されたフィルムを全部見ていた」と証言している。

座頭市』シリーズなどで仕事を共にした勝新太郎とは、「勝っちゃん」「先生」と呼び合う仲で、後に勝が舞台で座頭市を行う際、オープニングは伊福部のボレロ(座頭市のテーマ曲で伊福部はボレロのリズムを一貫して使用している)でなければならない、と言うことで伊福部に音楽を依頼したと言う。

伊福部は、映画音楽では録音テストの際、必ず自ら指揮棒を振った。伊福部と映画作品でのコンビの長かった指揮者の森田吾一によると、その際、普通の倍の長さの指揮棒を使うのが常だった。また、このテストの際の指揮のテンポが次第に遅くなって、スクリーンに映写した画面といつも合わなくなるのだが、それは伊福部が音楽の響きをチェックしていたためだという。

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出典:wikipedia
2018/11/05 16:10

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